「あら、李后様!」
回廊を歩いていると、声をかけられた。
桂麗がそちらを向くと、頭を深々と下げている妙齢の女性がいた。
妃の一人である、呉花花だった。
父は豪商で知られている。彼女が後宮にあがる際に貴族の地位も得ていた。
金細工の髪飾りを刺し、豪奢な長裾をまとった彼女は、桂麗が返事をする前に顔をあげた。勝ち気に上がる眉が特徴的だ。
桂麗より年上であるが、衣装も化粧も若く華やかだ。まさに寵妃の装いだった。
「李后様もお散歩ですか」
「ええ。呉妃殿も、これから庭へ行くのですか?」
「そのつもりでしたが……陛下がお戻りですので、急いで部屋に帰りませんと」
花花が、思わせぶりに口角をあげる。
「そう。呉妃殿のところにいらっしゃるのですね」
未だ夫の冷淡な態度には胸が痛むが、妃達の言動に狼狽えることはなくなった。
「陛下も外におられましたので、温かな飲み物を用意してさしあげてください」
皇后の務めは、夫である皇帝を支え、後宮の女達を束ねること。
桂麗を支えているのは、その誇りだ。
「陛下も李后様のところへ通われましたら、私どもも楽ですのに」
「そうですね。誰か一人でも皇子を授かれば、皆、肩の荷がおりましょう」
化粧であげていた眉尻を、花花がさらにつり上げた。
「……今に見ていなさいよ」
ぽつりと、彼女が悪意を込めて小さく声をこぼす。おそらく、聞こえていないと思ったのだろう。
だが、桂麗の耳はしっかりと拾っていた。
「失礼します」
花花は忌々しげに一礼して、その場を去った。
「悔しゅうございます。あのような方が寵妃など」
その姿が完全に見えなくなった後、後ろに控えていた女官の丹が言葉をこぼした。
「こんなところで、だめよ。丹」
桂麗はすぐさまたしなめた。
「悔しくはないのですか、李后様。あんな嫌味を言われて……っ!」
「大丈夫。私も、かなり手痛いことを言ったと思うから」
後宮の美女千人──というのは、大袈裟な喧伝だったと、ここに来て初めて知った。
確かに昔はそうだったらしい。だが、今の后妃の数は、桂麗と花花を含めて片手で事足りる。
あとは女官として仕えているが、彼女達を入れても千人には到底及ばない。
そのいずれも、武徳帝の子を成していないのだ。
(誰かが早く身籠もってくれれば、というのは本心だけども、花花には酷いことを言ってしまった)
彼女とて、家の期待を背負って後宮に来ただけだろうに。
「……部屋に戻ったら、筆と紙を用意してちょうだい」
心のささくれは、早く癒やすに限る。
「今すぐ、詩を書きたい気分なの」
詩作をしているときは、幾分か気分が紛れる。
「畏まりました。夜までは、李后様のお部屋には誰も近づけません」
「ありがとう、丹」
詩は男女問わず、大事な教養だ。
だが、桂麗にとっては唯一の趣味でもあった。
自分が李宰相の娘でなく、もう一人の李桂麗──春暁麗人の名を持つ詩人になれる、安らぎの時間こそ、桂麗の癒やしだ。
実家にいた時から協力してくれる丹以外は、誰も知らない秘密だった。
回廊を歩いていると、声をかけられた。
桂麗がそちらを向くと、頭を深々と下げている妙齢の女性がいた。
妃の一人である、呉花花だった。
父は豪商で知られている。彼女が後宮にあがる際に貴族の地位も得ていた。
金細工の髪飾りを刺し、豪奢な長裾をまとった彼女は、桂麗が返事をする前に顔をあげた。勝ち気に上がる眉が特徴的だ。
桂麗より年上であるが、衣装も化粧も若く華やかだ。まさに寵妃の装いだった。
「李后様もお散歩ですか」
「ええ。呉妃殿も、これから庭へ行くのですか?」
「そのつもりでしたが……陛下がお戻りですので、急いで部屋に帰りませんと」
花花が、思わせぶりに口角をあげる。
「そう。呉妃殿のところにいらっしゃるのですね」
未だ夫の冷淡な態度には胸が痛むが、妃達の言動に狼狽えることはなくなった。
「陛下も外におられましたので、温かな飲み物を用意してさしあげてください」
皇后の務めは、夫である皇帝を支え、後宮の女達を束ねること。
桂麗を支えているのは、その誇りだ。
「陛下も李后様のところへ通われましたら、私どもも楽ですのに」
「そうですね。誰か一人でも皇子を授かれば、皆、肩の荷がおりましょう」
化粧であげていた眉尻を、花花がさらにつり上げた。
「……今に見ていなさいよ」
ぽつりと、彼女が悪意を込めて小さく声をこぼす。おそらく、聞こえていないと思ったのだろう。
だが、桂麗の耳はしっかりと拾っていた。
「失礼します」
花花は忌々しげに一礼して、その場を去った。
「悔しゅうございます。あのような方が寵妃など」
その姿が完全に見えなくなった後、後ろに控えていた女官の丹が言葉をこぼした。
「こんなところで、だめよ。丹」
桂麗はすぐさまたしなめた。
「悔しくはないのですか、李后様。あんな嫌味を言われて……っ!」
「大丈夫。私も、かなり手痛いことを言ったと思うから」
後宮の美女千人──というのは、大袈裟な喧伝だったと、ここに来て初めて知った。
確かに昔はそうだったらしい。だが、今の后妃の数は、桂麗と花花を含めて片手で事足りる。
あとは女官として仕えているが、彼女達を入れても千人には到底及ばない。
そのいずれも、武徳帝の子を成していないのだ。
(誰かが早く身籠もってくれれば、というのは本心だけども、花花には酷いことを言ってしまった)
彼女とて、家の期待を背負って後宮に来ただけだろうに。
「……部屋に戻ったら、筆と紙を用意してちょうだい」
心のささくれは、早く癒やすに限る。
「今すぐ、詩を書きたい気分なの」
詩作をしているときは、幾分か気分が紛れる。
「畏まりました。夜までは、李后様のお部屋には誰も近づけません」
「ありがとう、丹」
詩は男女問わず、大事な教養だ。
だが、桂麗にとっては唯一の趣味でもあった。
自分が李宰相の娘でなく、もう一人の李桂麗──春暁麗人の名を持つ詩人になれる、安らぎの時間こそ、桂麗の癒やしだ。
実家にいた時から協力してくれる丹以外は、誰も知らない秘密だった。

