俺だけに囁いて

「紡!」
「珠代?」

 ガラガラと扉を開けて入ってきたのは珠代だった。
 ライトを持っているのは普段は姿を隠して、陰ながら珠代を守っている寡黙な女性ボディーガードの竹内さんだ。

「心配した!」
「おあっ」

 珍しく大きな声を出している珠代が俺の首に縋り付くみたいに抱きついてくる。
 びっくりしつつも体勢を崩さないように抱き留めると、佐倉は俺よりもびっくりした表情で目を丸めていた。

「佐倉。こいつ西園寺珠代。幼馴染みなんだ」
「……そっすか」
「今日、うちに来るって言ってたのに来ないから探しに来た」
「あー、そうだった。でも、ここがよくわかったな」
「竹内が足跡があるの見つけたから」

 ポニーテールがトレードマークの竹内さんは、いつも通りのパンツスーツ姿のまま俺に目礼する。
 優秀な竹内さんが見つけたというなら納得だった。
 あの人は驚くくらいなんでもできる。

 その後、長寿郎は無事に兎小屋の家族の元に返すことができた。
 兎小屋の鍵を返すためには職員室に行かなくてはいけない。
 その時に俺達が遅くなった理由を説明すると、俺達に気付かずに体育倉庫の鍵を閉めてしまった体育の先生が真っ青になって謝ってくれた上に、俺達を家にまで送り届けようとしてくれたが、俺は断って珠代の送迎の車に乗ることにした。

「凪パイは珠代さんと家も近いんすか?」
「近いのもあるけど、俺んち誰もいないから。先生が親御さんに説明するとか言ってたけど、その相手もいないし、珠代が夕飯食べてけって言うから甘えるつもり」
「へえ」

 職員室の前で話をしながら中の様子を窺っていると、体育の先生が片付けを終えたらしい。
 もうすぐ佐倉も帰れるだろう。
 俺は昇降口で待っている珠代の元に行くことにした。

「じゃあな、佐倉。いろいろありがとな」
「こちらこそっす」
「なんかおまえ眠かったりする?」
「なんでっすか?」
「声が低くなってきた気がするから。前に睡眠不足だったときもそんな声だったろ」

 佐倉は寝不足続きの時に低く掠れた声になっていた。
 あの声に近付いていたこともあるし、佐倉が真顔でこちらを見ていたのもある。
 表情を取り繕うこともできないほどに眠いのかと思っていたのだが、指摘すると佐倉はきょとんとした。

「いや、大丈夫っす」
「そうか? まあ、今日はゆっくり寝ろよ」

 手を振って別れてから、佐倉がゆっくり寝るということは、つまり俺の動画を見るということなのでは、と気が付いてしまう。
 途端に恥ずかしいことを言ってしまったような気がしたが、今さら撤回しに行くのもおかしいだろうから珠代の元へと急いだ。

 竹内さんの運転する車で珠代の家に行き、夕飯を食べながら佐倉がねむぴだったことを珠代に話した。
 珠代はびっくりしていたけど、それであの熱量で俺に囁き声の録音をねだっていたのかと納得していた。
 佐倉が珠代の中で変人のままだと、なぜか俺が嫌だと感じていたから誤解が解けたようで安心した。

 夕飯の後の帰り道はいつも通りの静かな夜道で、やっぱり家に帰っても母さんはいなかった。
 だけど、今夜はふわふわと浮き足だったような気持ちを抱えたままでいるのは、佐倉とちょっとした非日常を体験したからだろう。

「佐倉、寝られたかな」

 シャワーを浴びながら、ぽつりと呟く。
 今夜も佐倉はすやぴである俺の声を聞いて寝られただろうか。
 その様子を想像すると、恥ずかしくて、無性に嬉しかった。

   ◇  ◇  ◇

 朝はいつも珠代と一緒に登校する。
 普段の珠代は俺と同じく電車通学だ。

 本当はお金持ちのお嬢様である珠代の安全を考慮すると、竹内さんは珠代には車送迎を受け入れてほしいと思っているようだが、珠代は基本的に一般人と同じ生活をすることを昔から望んでいる。
 だから珠代は小学校の時から登校班が一緒だった俺と通学していて、今も電車通学の俺と共に毎朝電車に揺られている。

「あ、さくぴだ」
「え?」
「佐倉宵のこと」
「なにその呼び方。珠代なんにでも『ぴ』ってつけるよな。すやぴの名前もそうだったし」
「紡の考えてたすや()って名前よりずっといいと思う」

 最寄り駅から高校に向かう途中で、コンビニから友達と出てきたところの佐倉を見かけた。
 朝から元気な連中に囲まれている佐倉は今日もその中で一段と輝いて目立っている。
 朝ということもあって、珠代と省エネを極めたみたいなぼそぼそ声で会話する俺とは大違いだ。

「さくぴ、こっち見た」

 珠代に言われて佐倉を見ると、確かに佐倉はこっちを見ていた。
 だけど、俺と目が合うとふいと視線を逸らして友達と一緒に去って行く。

「なんだよ。やっぱ陰キャとはかかわりたくないんじゃん」

 体育倉庫ではかっこつけたことを言っていたけど、佐倉はきっとあの非日常の空気に飲まれただけだったんだろう。
 俺と仲よくしたいと思っているなんて発言も、俺が50万人の登録者を抱えるミーチューバーだとわかったから、ちょっとのぼせて言ってしまっただけなのかもしれない。

 そう思うと、胸がツキツキ痛んだが、仕方ないことだともわかっていた。
 どう考えたって俺と佐倉が釣り合うわけがないことはわかりきっていたことだ。

 そんな思いで俺はいたのに、週明け月曜日の昼休みに佐倉が俺を訪ねて教室にやって来た。

「どうしたんだよ? なんか用?」

 佐倉は俺といるところを他人にあまり見られたくないかもしれない。
 気を遣った俺は珠代に今日は他の友達と食事をするように伝えて、廊下で待つ佐倉の元に駆け寄って慌てて尋ねた。

「凪パイに相談したいことがあるっす」

 佐倉は眉間にしわを寄せて神妙な面持ちをしている。

 後輩に頼られるなんてはじめての経験だ。
 喧嘩でも売るような雰囲気を漂わせながら、佐倉は低い声で言った。

「凪パイと珠代さんってなんなんすか?」