俺だけに囁いて

「な、生ASMRってなに?」
「今ここで俺にASMRしてくれませんかってことっす」
「どうやって?」

 ASMRはマイクに向かって至近距離で囁いたり、心地いい音を鳴らすものだ。
 誰かに対してするものだなんて思ったこともなかったから、どうやるのか一瞬想像がつかずに困惑する。
 だけど、すぐに俺は佐倉の意図に気が付いた。

「……おまえの耳に、囁いたりしろってこと?」
「はいっす」

 はいっす、じゃない。

 ASMR動画では、視聴者が癒やされる動画にするために台本を作っている。
 どんな言葉をかけられたら嬉しいか、落ち着いて眠ることができるか。
 それを考えた結果の台本は、日常生活では俺が使わないような優しかったり恥ずかしかったりする言葉であふれている。
 そんなものを即興で考えるなんてできないし、できたとしてもやりたくない。

「俺の動画観てるならわかるだろ? あんなの後輩に囁く先輩なんておかしいじゃん」
「恥ずかしいんすけど、俺……、すやぴの『よしよし』って囁いてくれる動画が大好きなんすよ」
「マジで恥ずかしい奴じゃん……!」
「なんか、今日も俺がんばったな〜って思わせてくれる動画なんすもん! 膝枕してくれる甘々なシチュとかも好きで」
「恥ずかしいからもういいって! ……やるから。膝枕はしないけど」
「ほんとっすか!?」
「おまえがこんなんで喜ぶ意味がわかんないけど、いいよ」

 生ASMRなんてしたことがないし、こんなことで喜ぶ佐倉の気持ちも理解できない。
 だけど、俺の動画を好きだと言ってくれて、初めての配信の時から今までずっと支えてきてくれた人でもある佐倉の頼みなら、叶えてやりたいと思ってしまった。

「じゃあ、耳貸して」
「うわぁ、緊張するっす!」
「俺の方が緊張してる。静かにしてろよ」

 恥ずかしさでいっぱいではあったけど、ここで照れたらマジで恥ずかしいことをしている感じになってしまう。
 俺は咳払いをすると共に照れを心の奥底に封じ込めて、隣にいる佐倉の耳元に唇を寄せた。

「佐倉、今日はありがとう」

 吐息を直接吹き込むように囁くと、佐倉の肩がぴくりと揺れた。

 薄暗い体育倉庫の中には、俺と佐倉と眠っている長寿郎しかいない。

 トタンでできた屋根に雨粒が当たって、パタパタと好き勝手な音楽を奏でている。
 どこかからは雨水を排出しているのか、水がチョロチョロと流れている音もした。
 その中で俺の囁きと二人分の呼吸音、それから少し動いただけの衣擦れの音が、脳味噌の裏をくすぐるようによく聞こえた。

「ねむぴとしてコメントしてくれてたのも、ありがとな。すげー、心の支えになってた。初めてコメントくれた人だっていうのもちゃんと覚えてたし」
「えっ、そうだったんすか?」
「うん。ありがとう」

 佐倉まで囁き声にならなくていいのに、コソコソと佐倉も答えてくる。
 可笑しくて、ちょっと笑いながら感謝を伝えると、佐倉がキュッと首を竦めたのが妙にかわいく見えた。

「配信も動画も休んじゃってごめんな。佐倉に身バレするかもと思ったら、怖くて休んじゃってた」
「……なんで、怖かったんすか? さっきもがっかりしたろって言ってましたよね?」
「自信がないんだよ」

 囁き声で話をしているからか、内緒話みたいでつい不安を吐き出してしまった。

 佐倉は耳元に囁く俺を横目に見て不思議そうにしている。
 純粋に心配そうなまなざしを向けてる佐倉になら、少しだけ本音を言ってもいい気がした。

「俺は地味な陰キャで、佐倉は目立つ陽キャじゃん? 俺みたいなのは劣等感を抱いちゃうんだよ。佐倉みたいな人に」
「考えたこともなかったっす」
「そりゃおまえは上位の存在なんだからそうだろ。下位の存在の俺が勝手に劣等感抱いてるだけなんだから」

 佐倉は「んー」と小さく唸りながら首を捻っている。
 陽キャの佐倉には俺みたいな陰キャの気持ちなんてわからないだろう。
 なんだか言っていて悲しくなってきて、俺がそろそろ生ASMRなんてごっこ遊びはやめてしまおうかと思っていると、佐倉がこっちを振り向いた。

 囁いていたから顔が近い。
 びっくりするくらい整った佐倉の顔に見惚れている間に、佐倉はその大きな眼と筋の通った鼻にぴったり合うように作られたみたいな色のいい唇を開いた。

「俺は自分が上位で、凪パイが下位だなんて思わないっす。みんな一緒の高校生っすよ。スクールカーストとか馬鹿馬鹿しいっす。勝手に自分を下に置いて、俺から逃げないでください。俺は、凪パイと仲よくしたいっす」

 雨音が心臓を叩いてるみたいだ。
 さっきまで意識もしていなかったのに、今は心臓が胸のどこにあるのかはっきりと存在を主張してくる。

「俺も、佐倉と仲よくしたい」

 飼育委員でペアになっただけの先輩後輩。
 俺達の関係は、ただそれだけだ。
 だけど、せっかく出会ったんだから、できることなら仲よくしたいし、佐倉にはいい先輩だと思ってもらいたい。

 俺が思いきって本音を打ち明けると、佐倉がパッと笑顔になって、その顔がキラキラ光っているみたいに見えた。
 美形は輝いて見えるけどマジなのかなんて思ったのは一瞬だ。
 体育倉庫の扉に少しだけ隙間が開いて、そこからライトの光が差し込んで佐倉を照らしているとすぐに気が付いた。