「え、なんで?」
朝から逃げた方がいいかもしれないとは、どういう状況なのか。
いきなり逃亡を提案してきた珠代に俺は驚いていたが、珠代はコスプレ撮影の時しか使わない表情筋は動かさないまま鬼気迫る雰囲気を発していた。
「ずもももってオーラの不良が紡を探してクラスに来た。まだ来てないって言ったら教室前で待ち伏せしてる」
「なんでずもももってオーラの不良が俺を……?」
俺は清く正しく地味な生徒として今まで生きて来たはずだ。
不良に待ち伏せされるようなことをしでかした心当たりはない。
意味がわからず困惑していると、俺達の教室がある方向にある廊下の角からぬっと背の高い人影が現れた。
「きたっ」
珠代が焦った様子で俺の前に両腕を広げて庇い立つ。
珠代が不良と呼んでいたのはこいつのことかと、俺は唖然としてしまった。
「佐倉? どうした?」
珠代を挟んで俺に向き合っている背の高い人影は佐倉だった。
先週会った時と同様に、今日も佐倉はパーカーのフードを被って深く俯いている。
珠代が言ったように確かに佐倉はずもももと表現したくなるような不機嫌オーラが出ていたが、佐倉が不良だというのは珠代の誤解だ。
「佐倉って、あの飼育委員の?」
「そうだよ。後輩の佐倉。確かにでかいし、なんでか先週からこんな感じで態度最悪だけど不良じゃないよ。な? 佐倉」
「……怖がらせてたっすか? すみません」
佐倉は俯いた猫背のまま頭を下げる。
声色はやっぱり不機嫌そうだったが、珠代も謝られて不良ではないとわかったのだろう。
ピンと広げていた両腕を降ろして、心配そうにしつつも俺の隣まで下がってきた。
「この人に粘着されてるならさすがに心配。大丈夫?」
「大丈夫だって」
珠代がコソコソと心配の声をかけてくるのに、軽くうなずいた。
佐倉は不機嫌丸出しで感じは悪いが、はじめて一緒に兎小屋を掃除したときはこんな態度ではなかったし、友達の輪の中にいるところを見かけたときもただの元気で明るい奴にしか見えなかった。
俺が嫌なんだか知らないけど、何か事情があって今は不機嫌なだけで、無闇矢鱈に危害を加えるような奴じゃないとは思う。
「俺を待ってたんだって? なに?」
「あの、まずは謝りたくて」
「謝る?」
「実は最近全然眠れてなくて、ひどい見た目してるんで顔見せたくなかっただけなんっす。別に体調悪いわけでも機嫌悪いわけでもなくて、ただ眠れてないだけで……」
「おまえ、それは立派な体調不良だよ」
いつもより早口な佐倉の口調からは必死さが伝わってくる。
声も低く掠れていて不機嫌そうに聞こえていたが、寝不足だというなら納得がいく。
俺自身は眠りで困ったことはないが、ASMR動画を作るようになってから不眠に悩む人のコメントを数多く読んできた。
そして、ASMR動画がそんな人達の助けになっていることも知っていた。
——すやぴの動画がないと、もう眠れない体になってしまったかもしれません。
ねむぴさんが前に投稿してくれたコメントを思い出す。
ASMR動画の視聴者の中にはお気に入りの動画があって、その動画がないとスムーズに眠れない人もいるらしい。
佐倉がもしそうなんだとして、万が一すやぴの動画を本当に気に入ってくれているんだとしたら、佐倉が寝不足なのは俺が活動休止しているせいなのかもしれないと傲慢にも思ってしまった。
「マジで寝られないなら病院行ってみたらどうだ?」
「いや、眠るまでにすげー時間かかるだけでちょっとは眠れるんで、病院行くのもどうかなって。それより、俺、凪パイに嫌な思いさせたんだと思ったら余計眠れなくなっちゃって……。本当に申し訳なかったっす。また一緒に飼育委員としてがんばらせてほしいっす」
「佐倉……」
さっき珠代に頭を下げていた時より深々頭を下げた佐倉の腰はもう90度に届きそうな程に曲がっていた。
真摯に謝罪してくる佐倉に胸が痛む。
俺だって佐倉が寝不足だって知っていたら、あんな態度はとらなかった。
「俺も悪かったよ。佐倉が寝不足だなんて思わなくて。おまえ、ちゃんと体調不良だって言えよ。眠れてないって言われたら、俺だってもうちょっと優しくできたし……」
「凪パイ、許してくれるんすか?」
「俺も態度悪くしちゃった自覚あるから。俺もごめん。これで終わりにしよう。また木曜日、一緒に兎小屋掃除がんばろうな」
できるだけ優しく聞こえるように答えると、佐倉は頭を下げたまま固まる。
もう仲直りしたんだし、そろそろ頭を上げてほしい。
佐倉だけ時間が止まってしまったんじゃないかと狼狽えて珠代を見ると、珠代も視線で困惑を訴えている。
意味不明な無言の間の後に、佐倉は頭を下げたままサッとスマホを俺に差し出してきた。
朝から逃げた方がいいかもしれないとは、どういう状況なのか。
いきなり逃亡を提案してきた珠代に俺は驚いていたが、珠代はコスプレ撮影の時しか使わない表情筋は動かさないまま鬼気迫る雰囲気を発していた。
「ずもももってオーラの不良が紡を探してクラスに来た。まだ来てないって言ったら教室前で待ち伏せしてる」
「なんでずもももってオーラの不良が俺を……?」
俺は清く正しく地味な生徒として今まで生きて来たはずだ。
不良に待ち伏せされるようなことをしでかした心当たりはない。
意味がわからず困惑していると、俺達の教室がある方向にある廊下の角からぬっと背の高い人影が現れた。
「きたっ」
珠代が焦った様子で俺の前に両腕を広げて庇い立つ。
珠代が不良と呼んでいたのはこいつのことかと、俺は唖然としてしまった。
「佐倉? どうした?」
珠代を挟んで俺に向き合っている背の高い人影は佐倉だった。
先週会った時と同様に、今日も佐倉はパーカーのフードを被って深く俯いている。
珠代が言ったように確かに佐倉はずもももと表現したくなるような不機嫌オーラが出ていたが、佐倉が不良だというのは珠代の誤解だ。
「佐倉って、あの飼育委員の?」
「そうだよ。後輩の佐倉。確かにでかいし、なんでか先週からこんな感じで態度最悪だけど不良じゃないよ。な? 佐倉」
「……怖がらせてたっすか? すみません」
佐倉は俯いた猫背のまま頭を下げる。
声色はやっぱり不機嫌そうだったが、珠代も謝られて不良ではないとわかったのだろう。
ピンと広げていた両腕を降ろして、心配そうにしつつも俺の隣まで下がってきた。
「この人に粘着されてるならさすがに心配。大丈夫?」
「大丈夫だって」
珠代がコソコソと心配の声をかけてくるのに、軽くうなずいた。
佐倉は不機嫌丸出しで感じは悪いが、はじめて一緒に兎小屋を掃除したときはこんな態度ではなかったし、友達の輪の中にいるところを見かけたときもただの元気で明るい奴にしか見えなかった。
俺が嫌なんだか知らないけど、何か事情があって今は不機嫌なだけで、無闇矢鱈に危害を加えるような奴じゃないとは思う。
「俺を待ってたんだって? なに?」
「あの、まずは謝りたくて」
「謝る?」
「実は最近全然眠れてなくて、ひどい見た目してるんで顔見せたくなかっただけなんっす。別に体調悪いわけでも機嫌悪いわけでもなくて、ただ眠れてないだけで……」
「おまえ、それは立派な体調不良だよ」
いつもより早口な佐倉の口調からは必死さが伝わってくる。
声も低く掠れていて不機嫌そうに聞こえていたが、寝不足だというなら納得がいく。
俺自身は眠りで困ったことはないが、ASMR動画を作るようになってから不眠に悩む人のコメントを数多く読んできた。
そして、ASMR動画がそんな人達の助けになっていることも知っていた。
——すやぴの動画がないと、もう眠れない体になってしまったかもしれません。
ねむぴさんが前に投稿してくれたコメントを思い出す。
ASMR動画の視聴者の中にはお気に入りの動画があって、その動画がないとスムーズに眠れない人もいるらしい。
佐倉がもしそうなんだとして、万が一すやぴの動画を本当に気に入ってくれているんだとしたら、佐倉が寝不足なのは俺が活動休止しているせいなのかもしれないと傲慢にも思ってしまった。
「マジで寝られないなら病院行ってみたらどうだ?」
「いや、眠るまでにすげー時間かかるだけでちょっとは眠れるんで、病院行くのもどうかなって。それより、俺、凪パイに嫌な思いさせたんだと思ったら余計眠れなくなっちゃって……。本当に申し訳なかったっす。また一緒に飼育委員としてがんばらせてほしいっす」
「佐倉……」
さっき珠代に頭を下げていた時より深々頭を下げた佐倉の腰はもう90度に届きそうな程に曲がっていた。
真摯に謝罪してくる佐倉に胸が痛む。
俺だって佐倉が寝不足だって知っていたら、あんな態度はとらなかった。
「俺も悪かったよ。佐倉が寝不足だなんて思わなくて。おまえ、ちゃんと体調不良だって言えよ。眠れてないって言われたら、俺だってもうちょっと優しくできたし……」
「凪パイ、許してくれるんすか?」
「俺も態度悪くしちゃった自覚あるから。俺もごめん。これで終わりにしよう。また木曜日、一緒に兎小屋掃除がんばろうな」
できるだけ優しく聞こえるように答えると、佐倉は頭を下げたまま固まる。
もう仲直りしたんだし、そろそろ頭を上げてほしい。
佐倉だけ時間が止まってしまったんじゃないかと狼狽えて珠代を見ると、珠代も視線で困惑を訴えている。
意味不明な無言の間の後に、佐倉は頭を下げたままサッとスマホを俺に差し出してきた。
