手鏡の中には毛先だけがしなやかにウェーブを描いた艶やかな金髪のメイドがいる。
白い頬にチークを入れて、くるんと上向いたまつ毛にはマスカラ。
仕上げに珠代が肌馴染みのいいピンクベージュの口紅を塗ると、鏡の中のメイド……いや、俺が渋い表情をした。
「終わった?」
「終わり。お疲れ様」
文化祭当日。
立ち入り禁止の貼り紙を貼った空き教室で、俺が珠代に金髪メイドに仕上げられているのには理由がある。
それは、珠代が佐倉とベストカップルグランプリに出場する話をした後のことだ。
俺はてっきり珠代が佐倉と一緒にベストカップルグランプリに出場するのだと思って混乱した。
二人の間には付き合っているという噂があるが、実際は全く付き合ってなんかいない。
そうだと思っていたのは俺だけで、実は付き合っていたのか。
じゃあ佐倉のあの俺への態度はなんだったのかと大パニックを起こしている俺に珠代が言った。
——さくぴは紡と出たいんだって。出ないなら、ひとりで好きな人への気持ちをスピーチするから、紡に伝えてほしいらしい。何を言われてもやめる気はないから、本番まで紡とは一切話しませんって言ってた。
ついさっきまで一緒に兎の世話をしていた時は、佐倉はそんなことはひと言も言っていなかった。
だが、珠代と付き合っていることを噂されている現状を嫌がって、どうすればいいのか悩んでいる様子だったため、カップルグランプリで片想いを公に叫べば誤解が解けるという最悪の結論に至ったのだろう。
そんなことをすれば、佐倉の好きな相手が俺だとバレる可能性がある。
俺が付き合わない選択をした意味がなくなるだろうと、慌てて俺は佐倉にするべき抗議を珠代にしたのだが、珠代はそれにも淡々と答えた。
——紡が出場しなかったら、適当に片想い相手はぼかすみたい。私もすごいことするなと思ったけど、名案だと思ったからオッケーした。
——なんで勝手に珠代がオッケーするんだよ。
——でも、もうオッケーしたから仕方がない。
俺が行こうが行くまいが、佐倉が片想いをしていることが校内に知れ渡れば、佐倉と珠代が付き合っているという噂は消えてなくなるだろう。
だからってとんでもない作戦だと思った俺は、どうすればいいのかかなり悩んだ。
佐倉を訪ねて教室に行っても逃げられ、メッセージを送っても兎が口にばつ印を付けたスタンプを返されるのみ。
マジでカップルグランプリまでの間、俺と会話する気は一切ないらしい佐倉に頭を抱えた俺は、悩んだ末に迎えた文化祭当日である今日の朝に、珠代にお願いした。
——俺が俺だって絶対わかんない感じに変装させることってできる?
全くの別人に変装してしまったら、佐倉も俺が俺だってわからない可能性はある。
そうなったら、佐倉にだけは俺が凪紡であることを伝えればいいだけの話だ。
とにかく、ベストカップルグランプリというベストカップルを決める場で片想いを叫ぶ痛い男に佐倉をしたくなかった。
誰だかわからないが、ちゃんと佐倉には珠代ではない付き合っている相手がいるのだと学校中に思い込ませればいい。
そのために、俺が誰だかわからないくらいに変装して、佐倉のお相手としてベストカップルグランプリに出場することにした。
珠代は俺の考えをふむふむと聞いて、力強くうなずいてくれた。
——もちろん。紡を絶対かわいくする。
さすがは中学生のときからプロのコスプレイヤーとして活躍している珠代だ。
手鏡の中の俺はまるで別人みたいにかわいい。
金髪のウィッグの髪型を整えながら、珠代も満足げにうなずいた。
「やっぱり紡はかわいい。女装は似合うと思ってた」
「なんか化粧って顔かゆいな」
「絶対触らないで。崩れる」
ぴしゃりと言われて鼻先を掻こうとしていた手を下ろす。
女の子って大変だ。
「でも、私はこんな女装なんてしなくても、紡はそのままステージに立てばよかったと思う」
ウィッグに櫛を通しながら、珠代は穏やかに言う。
俺はじっとしたまま、背後に立つ珠代の表情を手鏡で窺った。
目を伏せている珠代も、今日はクラスの出し物であるメイド喫茶のためのクラシカルなメイド服に身を包んでいる。
今の珠代は、まるで舞踏会に赴くお姫様を一番魅力的に磨き上げているメイドのようだった。
「紡はいつも自信がない。私のことも別の世界の人だって最初はよく言ってた」
「だって、珠代のうちめちゃくちゃでかいし、竹内さんもいつも傍にいるし、しょうがないだろ」
「だけど、私と紡は仲良くなれた。紡がよく言う違う世界の人間だって話をするなら、私達は男の子と女の子で、お金持ちと一般家庭で、地味な陰キャと目立つ人気者なのに」
俺がよく言う区分を並べる珠代と鏡越しに目が合った。
「本当はそんな境界線ないのに、紡はいつも怖がって他人と線を引く。いつか拒否されるかも、捨てられるかも、関係が終わるかもって」
「だって、怖いだろ」
両親が俺のことを不要な子どもだと押しつけあっている怒鳴り声を聞いたときの記憶が忘れられない。
消えてしまいたいと思った、あの時のことを。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てる。
その心臓を慰めるように珠代が俺の背中を撫でた。
「そのいつかが来ても私がいるよ」
「……珠代は俺を拒否もしないし、捨てもしないし、関係も終わらねーの?」
「拒否しないし、捨てないし、終わらない。私は紡のこと、もう家族だと思ってる」
俺だって、珠代のことをもう家族だって思ってる。
だけど、その家族にとって俺は不要な子どもだったんだ。
「私を信じるなら、さくぴのことを信じてほしい。傷ついても、泣いても、私が傍にいる」
「なんでそんなに佐倉の肩持つんだよ」
「紡が好きな人だから。それだけ」
ぽんぽんと、珠代が俺の背を軽く叩いた。
普段は無表情な珠代がその時だけは手鏡の中で微笑んだ。
「好きな人にいつでも『好き』って言ってよくて、好きな人にたくさん『好き』って言われる。そんな幸せをさくぴが紡にくれるなら、私はさくぴを信じたい。紡を大事にしてくれるって。それだけだよ」
「……うん」
本当は変装をしても、ベストカップルグランプリのステージに立つことは怖いと思っていた。
俺が凪紡だと会場の人間が気が付くことはなくたって、衆目に晒されることに代わりはない。
失敗をして悪目立ちしないか、うまくできるのか。
たくさんの不安が俺の中を渦巻いていた。
だけど、俺にはどんなことがあっても珠代という友達が傍にいてくれる。
そう思うだけで、スーッと心から不安の波が引いていった気がした。
「そろそろ時間。行けそう?」
「うん。行ける」
俺の不在が不審に思われないように、変装をするのはベストカップルグランプリがはじまるギリギリの時間にしていた。
もうそろそろ体育館のステージ裏に行かないと間に合わない。
「いってらっしゃい、紡。しっかり見てる」
「がんばってくるよ」
珠代に言われたとおりに、俺が俺のままステージに上がる勇気はまだない。
だけど、珠代の話のおかげで、俺は堂々とステージに上がれる。
顔だけでなく、心にまで珠代が武装をしてくれた気がして、心強い。
廊下では多くの人が俺を振り向いた。
女装をしているとバレたのではないかとヒヤヒヤしたが、珠代のメイクを信じて早足で体育館のステージ裏に向かう。
待機しているカップル達の中、ひとりで隅っこにいた佐倉は俺の姿を見るなり目を見開いた。
白い頬にチークを入れて、くるんと上向いたまつ毛にはマスカラ。
仕上げに珠代が肌馴染みのいいピンクベージュの口紅を塗ると、鏡の中のメイド……いや、俺が渋い表情をした。
「終わった?」
「終わり。お疲れ様」
文化祭当日。
立ち入り禁止の貼り紙を貼った空き教室で、俺が珠代に金髪メイドに仕上げられているのには理由がある。
それは、珠代が佐倉とベストカップルグランプリに出場する話をした後のことだ。
俺はてっきり珠代が佐倉と一緒にベストカップルグランプリに出場するのだと思って混乱した。
二人の間には付き合っているという噂があるが、実際は全く付き合ってなんかいない。
そうだと思っていたのは俺だけで、実は付き合っていたのか。
じゃあ佐倉のあの俺への態度はなんだったのかと大パニックを起こしている俺に珠代が言った。
——さくぴは紡と出たいんだって。出ないなら、ひとりで好きな人への気持ちをスピーチするから、紡に伝えてほしいらしい。何を言われてもやめる気はないから、本番まで紡とは一切話しませんって言ってた。
ついさっきまで一緒に兎の世話をしていた時は、佐倉はそんなことはひと言も言っていなかった。
だが、珠代と付き合っていることを噂されている現状を嫌がって、どうすればいいのか悩んでいる様子だったため、カップルグランプリで片想いを公に叫べば誤解が解けるという最悪の結論に至ったのだろう。
そんなことをすれば、佐倉の好きな相手が俺だとバレる可能性がある。
俺が付き合わない選択をした意味がなくなるだろうと、慌てて俺は佐倉にするべき抗議を珠代にしたのだが、珠代はそれにも淡々と答えた。
——紡が出場しなかったら、適当に片想い相手はぼかすみたい。私もすごいことするなと思ったけど、名案だと思ったからオッケーした。
——なんで勝手に珠代がオッケーするんだよ。
——でも、もうオッケーしたから仕方がない。
俺が行こうが行くまいが、佐倉が片想いをしていることが校内に知れ渡れば、佐倉と珠代が付き合っているという噂は消えてなくなるだろう。
だからってとんでもない作戦だと思った俺は、どうすればいいのかかなり悩んだ。
佐倉を訪ねて教室に行っても逃げられ、メッセージを送っても兎が口にばつ印を付けたスタンプを返されるのみ。
マジでカップルグランプリまでの間、俺と会話する気は一切ないらしい佐倉に頭を抱えた俺は、悩んだ末に迎えた文化祭当日である今日の朝に、珠代にお願いした。
——俺が俺だって絶対わかんない感じに変装させることってできる?
全くの別人に変装してしまったら、佐倉も俺が俺だってわからない可能性はある。
そうなったら、佐倉にだけは俺が凪紡であることを伝えればいいだけの話だ。
とにかく、ベストカップルグランプリというベストカップルを決める場で片想いを叫ぶ痛い男に佐倉をしたくなかった。
誰だかわからないが、ちゃんと佐倉には珠代ではない付き合っている相手がいるのだと学校中に思い込ませればいい。
そのために、俺が誰だかわからないくらいに変装して、佐倉のお相手としてベストカップルグランプリに出場することにした。
珠代は俺の考えをふむふむと聞いて、力強くうなずいてくれた。
——もちろん。紡を絶対かわいくする。
さすがは中学生のときからプロのコスプレイヤーとして活躍している珠代だ。
手鏡の中の俺はまるで別人みたいにかわいい。
金髪のウィッグの髪型を整えながら、珠代も満足げにうなずいた。
「やっぱり紡はかわいい。女装は似合うと思ってた」
「なんか化粧って顔かゆいな」
「絶対触らないで。崩れる」
ぴしゃりと言われて鼻先を掻こうとしていた手を下ろす。
女の子って大変だ。
「でも、私はこんな女装なんてしなくても、紡はそのままステージに立てばよかったと思う」
ウィッグに櫛を通しながら、珠代は穏やかに言う。
俺はじっとしたまま、背後に立つ珠代の表情を手鏡で窺った。
目を伏せている珠代も、今日はクラスの出し物であるメイド喫茶のためのクラシカルなメイド服に身を包んでいる。
今の珠代は、まるで舞踏会に赴くお姫様を一番魅力的に磨き上げているメイドのようだった。
「紡はいつも自信がない。私のことも別の世界の人だって最初はよく言ってた」
「だって、珠代のうちめちゃくちゃでかいし、竹内さんもいつも傍にいるし、しょうがないだろ」
「だけど、私と紡は仲良くなれた。紡がよく言う違う世界の人間だって話をするなら、私達は男の子と女の子で、お金持ちと一般家庭で、地味な陰キャと目立つ人気者なのに」
俺がよく言う区分を並べる珠代と鏡越しに目が合った。
「本当はそんな境界線ないのに、紡はいつも怖がって他人と線を引く。いつか拒否されるかも、捨てられるかも、関係が終わるかもって」
「だって、怖いだろ」
両親が俺のことを不要な子どもだと押しつけあっている怒鳴り声を聞いたときの記憶が忘れられない。
消えてしまいたいと思った、あの時のことを。
ドクドクと心臓が嫌な音を立てる。
その心臓を慰めるように珠代が俺の背中を撫でた。
「そのいつかが来ても私がいるよ」
「……珠代は俺を拒否もしないし、捨てもしないし、関係も終わらねーの?」
「拒否しないし、捨てないし、終わらない。私は紡のこと、もう家族だと思ってる」
俺だって、珠代のことをもう家族だって思ってる。
だけど、その家族にとって俺は不要な子どもだったんだ。
「私を信じるなら、さくぴのことを信じてほしい。傷ついても、泣いても、私が傍にいる」
「なんでそんなに佐倉の肩持つんだよ」
「紡が好きな人だから。それだけ」
ぽんぽんと、珠代が俺の背を軽く叩いた。
普段は無表情な珠代がその時だけは手鏡の中で微笑んだ。
「好きな人にいつでも『好き』って言ってよくて、好きな人にたくさん『好き』って言われる。そんな幸せをさくぴが紡にくれるなら、私はさくぴを信じたい。紡を大事にしてくれるって。それだけだよ」
「……うん」
本当は変装をしても、ベストカップルグランプリのステージに立つことは怖いと思っていた。
俺が凪紡だと会場の人間が気が付くことはなくたって、衆目に晒されることに代わりはない。
失敗をして悪目立ちしないか、うまくできるのか。
たくさんの不安が俺の中を渦巻いていた。
だけど、俺にはどんなことがあっても珠代という友達が傍にいてくれる。
そう思うだけで、スーッと心から不安の波が引いていった気がした。
「そろそろ時間。行けそう?」
「うん。行ける」
俺の不在が不審に思われないように、変装をするのはベストカップルグランプリがはじまるギリギリの時間にしていた。
もうそろそろ体育館のステージ裏に行かないと間に合わない。
「いってらっしゃい、紡。しっかり見てる」
「がんばってくるよ」
珠代に言われたとおりに、俺が俺のままステージに上がる勇気はまだない。
だけど、珠代の話のおかげで、俺は堂々とステージに上がれる。
顔だけでなく、心にまで珠代が武装をしてくれた気がして、心強い。
廊下では多くの人が俺を振り向いた。
女装をしているとバレたのではないかとヒヤヒヤしたが、珠代のメイクを信じて早足で体育館のステージ裏に向かう。
待機しているカップル達の中、ひとりで隅っこにいた佐倉は俺の姿を見るなり目を見開いた。
