明日が待ち遠しくなるなんて



 普段と何ら変わらず、粒良は桃下と七瀬と話しながら廊下を歩いていると、向こうから本を読みながら歩いてくる千崎が目に入る。今までどうやって話してたっけ。気まずくて咄嗟に近くのトイレに逃げ込む。
「粒良先輩と一緒じゃないんですか?」
「何言ってんだ。後ろに……」
「おかしいな。さっきまでいたんだけどな……」
 桃下と七瀬は振り返りようやくいないことに気づく。
「そうですか」
 千崎は沈んだ表情で項垂れ、また本に視線を戻し歩き去る。
 ごめん、千崎。
 好きだと自覚して否が応でも意識してしまう。
「そこで何やってる?」
 トイレでしゃがんだままでいると、桃下と七瀬が心配してトイレに駆け込んで来る。
「何でもないよ」


 そうして、千崎を避けて一週間が経つ。粒良が机に突っ伏していると、桃下が椅子を引きずってきてそこに跨って座る。
「最近変だよな。千崎を避けてるだろ」
「そんなに変?」
「何があった? 喧嘩じゃないよな?」
「喧嘩ではないよ。俺が千崎を好きっぽくて何を話したらいいのかわからないんだ」
「やっと自覚したのか」
 勢いよく顔を上げて桃下を見る。
「気づいてた?」
「気づかないほうがおかしいだろ」
 千崎から抱きしめてくれたお泊まりの日。桃下と七瀬に嫉妬した誕生日パーティーの日。膝枕をしてくれた体育祭の日。それらが一気に頭をよぎり今更羞恥心が湧き、ほんのりと熱い頬を悟られないように手で顔を隠す。


 それからも千崎とはすれ違いの日々が過ぎる。中間テストの日、テスト中に突然頭が真っ白になり全身にうっすらと冷や汗が滲み殆ど白紙で提出する。今までこんなことはなかったのに……。不安の波が押し寄せて息苦しく、ぺしゃんこに押しつぶされてしまいそうになる。テスト順位は見なくたって上位から転落したのは明らかだ。このままだと受験勉強に支障が出る。しっかりしないといけないのに、張り詰めた糸がぷつりと切れ受験勉強に身が入らない。
 昼休憩になり、担任に呼ばれ職員室に行く。
「悩み事でもあるのか?」
「何でもないです」
「そうか。いつでも相談しに来ていいからな」
「はい」
 相談するにも何にこんなにも不安になっているのかわからない。
 千崎は先生に頼まれて数学のノートを職員室まで運んでいた。そこで担任と話し込む粒良先輩を見かける。粒良先輩は物悲しげな笑みを浮かべていて放っておけなくなり頼りない背中を追いかける。
「粒良先輩!」
 粒良先輩の腕を掴む。こっちを向いてほしい。粒良先輩は振り向くこともなく手を振り解いて逃げるようにさっさと立ち去ってしまう。振り払われた手に動揺を隠せない。はっきりと拒絶された。何がいけなかったのだろう。最近は避けられているのか粒良先輩とは面と向かって話せていない。受験で神経質になっているのだろうか。ひとりにしてほしいのかもしれないけど少しでも力になりたい。粒良先輩を探すべく走り出す。
 廊下で石倉とすれ違う。
「粒良先輩を知らない?」
「知らないけどそんな慌てて急ぎの用?」
「そんなとこ」
 あちこち探すが粒良先輩の姿はない。どこに隠れているんだろう。
 隠れている?
 隠れているというワードとかくれんぼが結びつき屋上へと急ぐ。
 屋上にはやはり粒良先輩がいた。ベンチに寝そべり腕で光を遮っている。ゆっくりと近づき顔の近くでしゃがむ。
「桃?」
「粒良先輩、少し話をしましょう」
 粒良先輩は指の隙間から輝きを失ってどんよりした目を覗かせる。寝不足なんだろう。
「ごめん。用を思い出したからまた今度にして」
 粒良先輩は勢いよく上体を起こし、またもや逃げるように立ち去って行こうとする。なんでこんなに避けられるんだろう。ただ話がしたいだけなのに。
「お願いします。話がしたいです。今度じゃなくて今したいんです」
 逃げられないように回り込み切実に訴えかけ引き留める。
「しつこいよ。今は本当に無理なんだ」
「しつこくてごめんなさい。これだけは伝えておきたいんです。上手く言葉にできなくていいです。悩んでいるなら僕を頼ってください。相談に乗るくらいはできます。何と言っても秘密を共有する仲なんですから。それじゃあ、僕はこれで」
 それだけ伝えて踵を返す。振り返りもせずただ突っ走り階段を転げ落ちるように駆け下りる。
 粒良は屋上で頭を抱えてしゃがみ込む。
「体調が悪いんですか?」
 野菜の収穫をしていた一年生が心配して駆け寄ってくる。
「大丈夫。気にしないで」
 あんな風に気遣われて胸の奥がじわっと熱くなる。千崎には格好悪い自分を見せたくないのに縋り付きたくなる。周りは本格的に受験勉強を始動させていて出遅れたくはない。このままだとどんどん差が開いて引き離されてしまう。どうにかして現状を打破できればそれでいい。





 下校時間になり、粒良は昇降口の軒先で雨宿りをしている。天気予報では曇りのち雨だったのに、傘を持たずに家を飛び出していた。運よく一時間後には雨脚が弱まるっぽいので、ガランとした教室に戻りぼんやりと外を眺める。静かに瞼を下ろし雨音に耳を澄ましていると、渦巻く不安ごと洗い流してくれているようだ。時間を忘れてその場に座って佇んでいると、近寄る足音と椅子を引く音がする。誰かが教室に入ってきたんだろう。話しかけてこないので瞼を閉じたまま雨音に耳をそばだてていると肩の力が抜けていく。すると、手が伸びてきて頭を撫でてくる。反射的に座ったまま後ろへ飛び退く。
「……」
 目の前には千崎がいた。
「帰らないんですか?」
「帰るよ……」
「傘を忘れたんですか?」
「なんでわかるの?」
「雨宿りをしているのが見えたから」
 見られてたんだ。気になって様子を窺いに来たのかな。
「ちょっとだけ動かないでください」
 千崎はまた手を伸ばしてきて優しく払いのける。
「撫でようとしないで」
「そうですか。よく頭を撫でてくるので撫でられるのが好きかと思ったんです」
 千崎は大人しく手を引っ込める。
 そんなに撫でてたっけ。健気な千崎を見ていたら無性に可愛がりたくなる。
「少しは顔色が良くなったみたいで安心しました」
「そんなに顔色が悪かった?」
「自覚してなかったんですか。ひどい顔をしてましたよ」
 よく見ているんだ。心配されているのに内心嬉しい。上手く話せてる気がする。千崎とのこともちゃんとけじめをつけないといけない。
「これ、使ってください」
 千崎は席を立ち机の上に折りたたみ傘を置く。
「千崎はどうするの?」
「途中まで石倉の傘に入れてもらいます。最悪走ればいいので何とかなります」
 途中まで肩を並べて歩き、分かれ道で千崎は体育館のほうへ向かって行く。振り返り千崎の背中が見えなくなるまでただ見つめ続ける。
 昇降口の軒先で壁にもたれ待っていると、千崎が石倉と話しながら出てくる。
「千崎」
 千崎は石倉と話すのに夢中になっていたが、声がしたほうに顔を向ける。
「粒良先輩! まだ帰ってなかったんですか?」
 千崎は心配した面持ちで駆け寄ってくる。呼べばすぐに駆けつけてきてくれるのはどうしてかな。今はほかのことより俺を優先してほしい。
「ちょっと話せない?」
 千崎は石倉のほうを振り返り途方に暮れている。先約があったなら仕方ない。
「俺のことはいいから。それじゃ」
 石倉は空気を読んで傘を差し千崎を置いて歩き出す。
「また明日」


 あまり人には聞かれたくはなかったので、客足がまばらなドーナツチェーン店に入る。
「……上手く言えないんだけど」
「はい」
 千崎はジュースを飲もうとしていた手を止め、穏やかな表情で相槌を打つ。
「不安で何も手がつかないんだ」
「何に不安になっているかわかりそうですか?」
「どうだろう。大学受験に受からなかったらどうしようとか将来のこととか色々……」
「先行きが不透明だから不安になっているんですね。不安になるのは普通のことです。だけど自信を持ってください。僕はずっと見てきたからわかります。粒良先輩は誰よりも努力してるし、その積み重ねた努力は裏切らないと思うんです。自分の可能性を信じていれば大丈夫ですから。それでも不安なときは深呼吸をするのがおすすめです。脳に酸素が行き届いて頭が冴えるんです。僕はバイトの面接で緊張したときにしてました」
 心理カウンセラーに向いているんじゃないかな。やっぱり千崎に相談してよかった。気持ちを汲み取るのが上手い。そっと背中を押してくれる言葉の数々はどこから来るのだろう。あれだけ本を読んでいるからなのかな。
 さっきまでの堂々とした態度はどこへやら挙動不審になりジュースを一気飲みして口を開く。
「あの、ごめんなさい。これで合ってますか?」
「うん、相談に乗ってくれてありがとう」
 心の中にずっと居座っていたわだかまりが消え、心の底から笑みが零れる。これでようやく前を向けそう。
「あ、はい」
 千崎は釣られて相好を崩す。いつの間にか客がいなくなった店内で、二人のいる空間だけやけにほのぼのとした空気が漂う。心の靄が晴れたからなのか、あんなに降っていた雨が止み雲の隙間から光が差し込む。





 文化祭
 千崎は早く休憩時間になりはしないかと時計ばかり気にしている。それは粒良先輩から文化祭を一緒に回らないかと誘われたからだ。
「千崎、先に休憩に行ってこいよ」
「わかった」
「ったく、しょうがない奴だな……」
 石倉の呆れ果てた声を後にし、今か今かと待ち侘びていたので粒良先輩がいる教室にすっ飛んで行く。
 粒良先輩のいる教室は人気で次から次へと客足が途絶えない。きっとあの仲良し三人組目当てだろう。魔法使いのコスプレってどんな感じだろう。通行人に邪魔にならないよう廊下で隅っこに縮こまり待っていると、勉強合宿でいた先輩がひとりで持つには重そうな段ボール箱を運んでいて思わず駆け寄る。
「持ちます」
「おう、ありがと」
 段ボール箱を運んだついでに教室を見回す。教室の扉を潜ると、そこはまさに異世界に迷い込んだかのような錯覚を起こさせた。細部までこだわっていて、高校最後の文化祭にクラス全体が総力をあげたのだと見て取れる。
 あの仲良し三人組は女子に囲まれていて、魔法使いになりきっている。粒良先輩とばっちり目が合いウィンクをされる。
 え……。
 不意打ちにあれはずるい。誰に向けてウィンクをしたんだろう。あんなのをさらっとしてしまえるのがすごい。女子は目をハートにしている。あれはひとたまりもないだろう。僕でさえもドキッとした。
 粒良と千崎は映画を観ようと席に着こうとしていると、粒良の前にいる子連れ女性がベビーカーを引き後退する。千崎はぶつからないように粒良の腰を持って引き寄せる。
「ぶつかるところでした。粒良先輩?」
「何でもない」
 平静を装っても鼓動は高鳴る。さりげなくボディタッチをしないで。触れられた箇所から全身が熱を持つ。これ以上は心臓が持たない。
 粒良と千崎は屋上のフェンス越しに賑わう校庭を見下ろす。
「千崎」
 文化祭の日に言おうと決意したんだ。
「はい」
 二人は向かい合ってお互いの目を一心に見つめる。
「兄弟ごっこ、終わりにしない?」
 揺らぐな。笑って終わりにしたい。それなのにこれまで一緒に過ごした時間を思うと目頭が熱くなる。
「へっ……」
 千崎の瞳がゆらゆらと揺れる。
「これまで我儘に付き合ってくれてありがとう」
 今は受験勉強に全神経を注ぎたい。受験が終わったらそのときは千崎とのこれからを考えたい。少しだけ待っていてほしい。
「……はい。こちらこそ、ありがとうございました」
 千崎の顔から明るさが消え、俯き加減で声が小さくなる。
「最後にハグして終わりにする?」
 千崎は首を縦に振り、二人は惜しむように長めのハグをする。どちらからともなく体を離し、先に粒良が後ろ髪を引かれつつも屋上を後にする。
 千崎は突然訪れた終わりに頭が追いつかないでいた。時間が経つにつれ、本当に終わってしまったんだと実感する。二人きりの甘い秘密の時間は粒良先輩が卒業するまで続くのだと当然のように信じていた。こんなに呆気なく泡沫の夢のように終わってしまい、この先どうしたらいいのだろう。話しかけるのもだめなのだろうか。他人のように知らないふりをしないといけないのだろうか。僕の心境なんてお構いなしの清々しい天気が恨めしい。
 こうして、体育祭に文化祭と行事続きだった月日は怒涛のように過ぎる。





 文化祭後は粒良先輩を見かけても声を掛けられずにいてただ月日は流れていく。進路希望調査票が配られ、もうそんな時期なのかとぼんやり考える。隣の席の石倉はスラスラと記入している。将来の夢が決まっているのだろうか。僕はどうしたいんだろう。本に囲まれた仕事は楽しそうだけど、自分が編集者として働いている姿が想像できない。
「粒良先輩と同じ大学に行くのって単純かな?」
 遠くからでもいいから見守っていたい。追いかけるのは気持ち悪いってわかっている。でも、好きって気持ちに抑えが利かない。
「学びたい学部があるならいいけど、粒良先輩がいるからってだけで選ぶのは違うんじゃねえ」
「そっか」
 石倉の言う通りだ。学生の本分とは何かを忘れてはいけない。何も考えずに行動すれば何れ後悔するだろう。大学で運命の人に出会い付き合う流れになっても果たして見守れるだろうか。
 屋上のベンチで白紙の進路希望調査票を片手に澄み渡った青空を見上げていると、橘がフェンスに手を掛け大きなため息をつく。
「悩み事?」
 橘がため息だなんて珍しい。悩みなんてなさそうにいつも朗らかだから。
「悩みっつうか嫌気が差してるだけ」
「何があったの?」
「三つ子が生まれて色々あってさ、うんざりしてるとこ」
「三つ子か。世話で大変だろうなあ」
「大変どころじゃねえ。三つ子の夜泣きで寝れなくて桃ちゃんはずっと不機嫌なんだ。赤ん坊には怒れないから俺に八つ当たりしてくるわけ。あんなカリカリしなくたっていいのにさ」
 なるほど、そういうわけか。通りすがりに挨拶したとき、目の下にあるクマが目立っていて見るからに疲労感がすごかった。受験時期と重なるとはタイミングが悪い。
「桃ちゃんにとってはそれが後数カ月のことだけど」
「え?」
「だって、一人暮らしするじゃん」
「そうなの!?」
 粒良先輩はどうするのだろう。一人暮らしをするのだろうか。そしたら簡単に会えなくなるんだ……。何もかもが今まで通りではなくなるんだ。
「進路はどうするか決めた?」
「高校卒業後は弟子入りして寿司職人になるのが夢」
 進路希望調査票が手からはらりと零れ落ちる。そのとき、屋上に一陣の風が吹き抜け、紙は宙を漂い校庭へ舞い落ちていった。まさか進路がまだ決まっていないのは僕だけなんて……。橘には失礼だけど、将来について何も考えていないと勝手に決めつけていた。石倉は体育教師。双子は漫画家。皆んな、ちゃんと考えているんだ。
 考え事をしながら校内をほっつき歩いていると、取り壊しが決まった旧校舎前に来ていた。確か美術部と軽音楽部は旧校舎なんだったけど、年内には新校舎に移るらしい話を聞いたなあ。取り壊し前に探検するのもいいかもしれない。
 旧校舎は不気味なほど静まり返っていて探検心をくすぐられる。壁や床や黒板には所狭しと落書きがされている。温かいメッセージが多くを占める中で、一際存在感を放つ壁画を見つけてしまう。駅のホームを忙しなく行き交う会社員の中で、たった一人だけ時が止まったように立ち尽くす少年。行き交う人々に『大人になるにつれ忘れたものは何か』と問いかけているようだ。壁画に込められたメッセージ性に感嘆のため息が漏れる。誰がどんな意図で制作したのだろう。階段に座り込み考え込んでいると予鈴が鳴り響き、階段を駆け下りグラウンドを突っ切る。


 それからというもの、休憩時間は旧校舎で過ごすことが多くなる。歩き回っていると発見があり愛や孤独をテーマにした作品も描いていることがわかる。制作者が気になっていると壁画の側端に、『Kirito』とサインが入っているのが目に入る。どんな人なのだろう。会う機会があるならお礼が言いたい。おかげで僕が大人になっても大切にしたいものについて向き合えた。今この場に粒良先輩がいたらよかった。粒良先輩はこの作品から何を捉えるだろうか。
 旧校舎で過ごすようになったのにはほかに理由がある。廊下を歩いているだけで視線を感じるのだ。本から顔を上げ目が合うと逸らされる。
 一体、何だって言うんだ。
 本と言っても参考書ではあるが、続きを読むべく視線を戻す。
「最近ずっと誰かに見られているんだけどなんで?」
「その顔」
 双子は声を揃えてそう言う。
 顔が何だって言うんだ。
「わかりやすく言って」
「千崎は眼鏡をしてないと見違えるほどカッコよくなるって噂になってるんだ」
 そんなに変わるだろうか。大して代わり映えしないのに大袈裟に騒ぎ立て過ぎだ。
「失恋から立ち直るためなんでしょ?」
 失恋って誰の話?
 失恋はしてないんだけど噂が一人歩きしている。
「そういうんじゃない。眼鏡を失くして新しいのを作りに行けてないだけ」
「この際、コンタクトのままにしなよ。そっちのほうが似合ってる」
 ほかに理由を挙げるとすれば、担任が頻りに心配してくるからだ。真面目に授業を受けているのになんで心配されるんだ。粒良先輩のいる大学に行くかはさておき、今の成績だと底辺大学しか合格できない。重い腰を上げ受験に向けて早めのスタートを切っただけにすぎないのだから心配される筋合いはない。今までの授業態度が悪かったんだ。授業は聞いているようで聞いていなかったから。