母親に黙ってバイトの面接を受け採用され、夏休みの期間だけ働くことになった。それはいいんだけど、祖母から伝え聞いたのだろう。かれこれ一時間ほど母親とビデオ通話をしている。バイトは社会人経験になっていいけど、塾でも通って学業優先にしろだのあーだこーだと言われ続け、さすがにうんざりしてくる。どうやら言いたいことが山ほどあるみたいだ。心配しているからこそ、言ってくれているのは重々理解している。たとえ親が子供の将来を気にかけていたとしても、行き過ぎた干渉はやる気が削がれ逆効果だ。僕は無性に反発したくなる。
「期末テストの成績が下がってるじゃない。バイトする時間があるなら勉強しなさい」
「どっちも両立する」
「あんたにできるわけないわ。進級して苦労するわよ。塾が嫌なら家庭教師でもいいわ」
できないだなんてやってもないのにわからないじゃないか。どうせできないだなんて決めつけないでほしい。
「とにかくバイトはする。シフトだって入れてるのにほかの人に迷惑をかけられない。勉強も疎かにしないから」
母親は仕方ないと根負けして、とりあえずバイトの件は片が付く。母親とのやり取りを終えて、粒良先輩からメッセージが届いているのに気づき慌てて送信する。突然、ビデオ通話したいだなんて何かあったのだろうか。
「何かありましたか?」
仕事の合間を縫って勉強しているらしいことが、見慣れた部屋の壁から推測できる。
「何もないよ。バイト初日で緊張してるかなって。だけど平気そうだね」
「まあ、そうですね。先輩たちのカフェで働かせてもらってるし、バイトが初めてってわけでもないから緊張はしてません」
「そ? 何のバイトか教えてよ」
「言ってませんでした?」
「聞いてない」
完全に言った気でいた。そういえば、カフェのほかにバイトするってだけ伝えたんだった。
「百均で業務は接客したり品出し」
「そうなんだ。本屋でバイトするかと思ってた」
「そのつもりでしたけど、距離的に遠いのでやめました」
「家から近いほうが体力的に楽だよね。そろそろ準備しないとだよね。バイト、頑張って」
「はい。受験勉強、毎日お疲れ様です」
「ありがとう」
ビデオ通話を切ろうとすると、好奇心旺盛で物怖じしない新入り猫が乱入してきて、カメラにどアップで映り込む。猫って本当に予測のつかない行動をしてくるなあ。思わず口元が緩む。カメラを猫に占領されていて粒良先輩の顔が映っていない。きっと今頃、粒良先輩も猫に癒されているだろう。何の前触れもなく、画面に粒良先輩の口元がクローズアップされ、唇をまじろぎもせず見つめてしまう。
「ん? 切れてなかった?」
「えっと……、はい」
ビデオ通話を切ったつもりだったんだ……。なんでよりによって口元が映るんだ。無意識にキスを連想してしまうじゃないか。
「先に切って」
「粒良先輩から切ってください」
「じゃあ、時間に遅れちゃうだろうから本当に切るね。また」
粒良先輩は食いしん坊で抱っこが大好きなシノンという名前のオス猫を抱き、前足をフリフリと振り見送ってくれる。こんな風に毎日、いってらっしゃいと見送ってもらえたらバイトに何倍も身が入るのに。
*
バイト先の先輩は皆親切で丁寧に教えてくれる。覚えることは多いけどそれなりにやっていけそうだ。
「千崎だよな。おまえもここでバイト始めたんだ」
口ぶりからして同い年くらいだろう。吊り目でピアスを開けていてツンツン頭。知らないんだけど……。バイト先の先輩は君付けで呼ぶのに初対面で呼び捨てって馴れ馴れしい奴。
「そうだけど……」
「最初は覚えることだらけで頭がついていかなかったな。そのうち慣れるから。俺もそうだったし」
本当に初対面なのか。どっかで見た顔だな。どこだっけ。思い出せない。
「帰り、どっか遊びに行かね?」
「えっと……、岩倉だっけ?」
確か、橘とよく遊んでいる友達に顔が似てなくはない。たった一人を除いて、他人に興味はないのでクラスメイトに意識を向けたことはない。
「石倉だ! 石倉博臣! クラスメイトの名前を覚えてないのか?」
未だに名前を覚えていなくてイラッとされる。
「本当にごめん。今、覚えたから」
「遅えっつうの。で、どうする?」
「いいよ。行きたいところがあるの?」
普段なら予定がなくても家の手伝いがあるからとか適当に言い訳をするけど、名前を間違えて呼びお詫びの気持ちとして了承する。
「腹減ってきたし、まずは飯食いに行こうぜ」
食品売り場で入荷商品をせっせと棚に並べていると客に声を掛けられる。
「ちょっといいですか?」
「はい」
「これって在庫ありますか?」
商品が置いてある場所まで案内するのは最中にヘマをしないかとびくびく物だ。差し出されたスマホの表示画面に映っていたのは限定商品で当店舗では売り切れた物だった。確認するまでもなくわかりきっているが、確認せずにありませんなんて言ったら、客の立場なら不満になるだろうか。心の中では気を揉むが、決してその感情は表に出さずそこで初めてちゃんと客の顔を見る。
「確認して……、って粒良先輩!?」
仕事中だというのにフリーズして、粒良先輩だからよかったにはならないけど先輩に接客態度を注意されただろう。
「頑張ってるみたいだね。仕事はどう? 大変?」
「職場環境はいいです。後、知り合いがいて楽しくやれそうです」
「そ? バイトの話を振っても『まあ』とか曖昧な返事だから、馴染めてないのかなって心配で見に来ちゃった。黙って来てごめんね。仕事中だしもう行くよ」
心配してわざわざ様子を見に来てくれたんだ。ただ顔を見れただけで胸がいっぱいになる。粒良先輩は穏やかな眼差しで振り返りながら手を振って去っていく。
「待って! 待ってください!」
追いかけて咄嗟に服の裾を掴み、粒良先輩は突然引っ張られ足をぴたっと止める。呼び止めたのはいいけど客からの視線が痛いほど突き刺さる。人がいるところで何を頼むつもりでいたんだ。よく考えもせず行動するなと自分を戒める。
「どうしたの?」
「ちょっといいですか?」
粒良先輩の腕をぐいっと引っ張って、人けのない洗濯用品の陳列棚に隠れる。誰も見ていないか周囲を入念に確認して粒良先輩に頼み事をする。
やっとアルバイトが終わり頬が上がり瞳がキラキラしていて、先輩には即座に気づかれる。
「いいことでもあった?」
「どうだろう。多分ありました。お先に失礼します」
「ご苦労様」
あれは恋ね。
石倉はベンチに座り待っていて千崎が出てきて手を振る。
「こっちこっち!」
石倉にも千崎がルンルン気分なのが伝わる。自分が遊びに誘ってこうはならないだろう。夏休みで避暑地としてショッピングモールに訪れる客は多い。ショッピングモール内のベンチはどこも座られていて、通りがかった客は空きがないかと目を光らせている。
「やっぱ混んでるな」
フードコートも人でごった返していて熱気がすごい。
「レストランにする?」
「石倉と千崎? おまえら二人で何してたんだ?」
橘が四人掛けの席でぼっち飯を食べていて、二人に気づき声を掛けてくる。
「同じバイト先で俺が遊びに誘った」
「へえー、おまえらもここで食えよ」
「おう、そうする。こいつがいてもいいよな?」
千崎は一人が好きなのか大抵ぼっちだ。読書好きな同級生。転校してきてだいぶ経つけど大して知らない奴。橘が一人増えただけではあるが、大勢で食事するのが嫌かもしれないし一応聞く。
「大丈夫」
石倉はどうしても粒良先輩と千崎の関係が気になって、冷やし中華を食べている千崎をチラチラと盗み見る。
「ついてる?」
千崎は視線に気づきおもむろに口を開く。食べかすはついていないが、口を強く擦り落とそうとしている。
「ついてねえ」
「……そっか」
いつからだ。粒良先輩のあとを金魚のフンみたいに付きまとう後輩と一部では噂になっていた。その後輩とやらは千崎おまえだ。噂とか気にしなさそうだし知らないだろうな。さっきもそうだけど距離感が近い。粒良先輩は告白をことごとく断ってるし、ガードが硬い先輩を千崎が落とすとは考えられない。考えすぎか。だけどあれは――。
石倉が客にメガネクリーナーの置き場を教えて持ち場に戻ろうとすると、通りかかった洗濯用品の陳列棚で粒良先輩と千崎が二人でいるのに気づく。
「頼みたいことがあって猫の餌をもらってくれませんか?」
「いいけど買ったの?」
「違います。おばあちゃんの友達が猫を飼っていて死んじゃって少し経つんだ。それで余った餌をもらってくれないかって」
「そういうことなら引き取りに行くよ。直接お礼したいんだけどいいかな?」
「僕が行きます。粒良先輩は勉強に集中してください」
「ありがとう。じゃあ、行くね」
「え……」
千崎は落胆して肩を落とす。
「ん? まだ何かあった?」
「頭を撫でてくれると……。やっぱり今のは忘れてください」
粒良先輩は耳が赤くなった千崎の頭をぽんぽんと撫でていて、千崎が目を細めて笑っている。
随分と可愛がられてるんだ。なーんだ、千崎の片想いか。
「聞きたいことでもある?」
千崎はもじもじと居心地悪そうにする。さすがに見過ぎた。
「いや、何でもねえ。仕事中だと誰が見てるかわからねえ。気をつけろよ?」
「見てた!?」
千崎はばつが悪そうに苦笑いする。
「何の話だ?」
橘は二人を交互に見て説明を求めてくる。
「おまえは知らなくていい。桃下先輩は受験勉強?」
「おう、粒良先輩と勉強だって。俺らも来年受験生じゃん。マジで勉強とかやだ〜」
橘は机に突っ伏して非難めいている。
「来年になってから考えればよくね?」
「勉強の約束、完全に忘れてた! どうしよう?」
「誰と約束?」
千崎は勉強とバイトを両立するという母親との約束があることを打ち明ける。
「母ちゃんは海外なんだろ。勉強してるかなんてどうやってわかんだ?」
「それはそうなんだけど、いつかは知らないけど夏休み中に帰ってくるんだ。そのときにテストされたら瞬時にバレる」
「テストだと!?」
信じられない。親がそこまでするとかスパルタ。
「大学は行きたいし、いずれはしないとだから別にいいよ。問題があるとしたら、一人だとつい読書しちゃうんだよなあ」
「だろうな〜」
片時も本を離したがらない奴がやっぱり本の誘惑には勝てないよな。
「先週、上映した映画観た?」
「まだ」
「観てない」
「観に行かね?」
「おう、何時からだっけ」
橘がスマホで上映時間を確認していると、メッセージの着信音が鳴る。
「ヤバっ! 石倉も見ろ!」
「なんだよ?」
「粒良先輩の集大成。興味あるだろ? 粒良先輩、好きじゃん」
「誤解を招く言い方するな!」
千崎と一瞬目が合ったが視線を泳がせ目を合わせようとせず、眉をハの字に寄せ口元を歪めている。完全に誤解している。俺のはそういうんじゃない。ファンクラブに入会してるだけでやましいことはない。学年ごとにファンクラブがあるし、入会してない奴のほうが少数だから。
「知ってた? 石倉はテニス部に入部するつもりだったんだけど、粒良先輩のプレーに惚れ込んでバレー部に入部したんだ。定員があるんだけど争奪戦でヤバかったんだぜ」
「そう……なんだ……」
千崎は眉をひそめて半信半疑だ。
「尊敬してるってだけ。粒良先輩を恋愛対象として見てないっていうか……」
ここで否定しとかないと勘違いされたままになりそう。さすがに伝わってるよな。
「……わかった」
千崎は肩の荷が下りたように険しかった眉が優しいアーチを描く。
マジで理解しているよな。誤解されてあらぬ敵対心とか持たれたくない。そもそも俺には彼女がいるし、どう転んでも恋愛には発展しないから安心しろ。
「インターハイで粒良先輩、大活躍だったよな」
「ああ、マジでかっこよかった」
三年生はインターハイに連れて行ってくれて有終の美を飾って引退した。エースの粒良先輩が抜けた穴は大きい。ものすごく頼れる存在で憧れだ。
「僕も応援に行きたかったなあ」
「行ってねえの?」
当然、応援に駆けつけていると思ってた。
「行けなかったんだ。おじいちゃんが入院でバタバタしてたから」
「マジか。そりゃあ大変だったな」
「千崎もファンクラブに入ればいいのに。そしたら大会の動画とか見放題だぞ」
「本当!? 入りたい!!」
千崎は身を乗り出している。橘がそれとなく勧誘してなかったっけ。あのときは好きじゃなかったのか?
映画はそっちのけで過去のアーカイブを漁り、粒良先輩のハイライト動画で盛り上がっていて、三人は不穏な影に全く気づかないでいた。
「桃下先輩と七瀬先輩にもファンクラブがあるの!?」
「そうそう。あの三人はファンクラブの存在自体知らない。死んでもあの三人に言うなよ?」
「言わないけどバレた場合はどうなるの?」
「そんなん考えたくもない。アカウントごと削除になるんじゃね?」
「全校生徒に怨まれる」
橘は背筋をゾクッとさせて自分の体を抱きしめる。
「そこまで?」
橘はうんうんと頷く。石倉は誰かに監視されているようで悪寒が走り、顔を上げて血の気がサァーっと引く。
「桃ちゃんはそういうの嫌がるだろうな。俺には関係ないけど。会員数は言うまでもなく粒良先輩が多くて、少ないっていってもまあまあいるのが桃ちゃん」
「おい、そのくらいにしとけ」
石倉はテーブル下で橘にスネ蹴りをお見舞いする。
「ッ……! 蹴るなって!」
橘は背後の存在に気づかないまま喋り続けている。
マジで黙ってくれ。桃下先輩は鬼の形相で冷や汗が止まらない。七瀬先輩は真顔で逆に怖いし……。たった一人、粒良先輩だけは涼しい顔でジュースを飲んでいる。
マジで詰んだな、俺ら……。俺はちゃんと止めたからな。怨まれるのはおまえだ。
「踏むな!! さっきから何!?」
石倉は橘の足を踏みつけ、顎をしゃくって背後を指す。橘と千崎は仰向き三人の視線に圧倒される。
「ぎゃあああ!! 桃ちゃんがなんでここにいるんだよ!? 神出鬼没め!!」
橘はお化けにでも遭遇したかのように叫び声を上げて萎縮している。千崎はというと、粒良先輩しか目に入っていないらしくあっちはあっちで雑談をしている。
「いたら悪いか。おまえがそんな四字熟語を知ってたとは驚きだ」
「そんくらい知ってるっての。馬鹿にするのも程々にしろよ」
「さっきの話は全部聞いた。さっさと消せ」
「それは絶対に無理。そんな怒んなって。な?」
橘は神経質になっている桃下先輩を必死に宥める。
隣の親子連れが席を立ち、空いた席に桃下先輩はドカッと座り舌打ちをしてまだ不機嫌なようだ。石倉は向かいの席に座る三人の先輩を見れずあらぬ方向を見て祈る。
誰でもいいからこの状況をどうにかしろ。
「そんな怒らないであげてください。先輩の応援をしているだけですから見逃してあげてほしいです」
千崎は三段重ねのアイスを先輩たちの前に置く。真夏ということもあり、カフェの手伝いでの休憩時間に先輩たちはよくアイスを食べているので好みは把握済みだ。粒良先輩は小豆アイスのほかに和風アイスが好きみたいだ。なので迷った末、抹茶アイスときな粉アイスを追加する。桃下先輩はフルーツフレーバー。七瀬先輩は大のチョコミント好き。
「賄賂か?」
「はい」
先輩たちはテラス席でいたらしいが暑くなって屋内に移動してきたので、断る理由もなく差し出されたアイスを食べている。僕のアイデアだが、何とか功を奏し丸く収まりそうだ。
「七瀬のほうがファンが多いとか腹立つ。なんでこいつなんだよ。こんな約束をすっぽかす自分勝手な奴のどこがいいんだ」
怒ってた理由ってそこ……。
千崎は先輩たちが食べ終わったゴミを掻き集めて捨てに行こうとする。
「自分で捨てる」
「そうだよ。そこまでしてくれなくていいから」
「そうですか。わかりました」
ふと、フードコートの一角にあるドーナツ店で見慣れた後ろ姿を発見して背筋をシャキッと伸ばす。見間違いのはず。母親なわけない。だが横顔を見た途端、母親だと確信を持って言える。突然、防災訓練が開始したかの如くテーブルの下にサッと潜り、慌てていたせいで頭をゴツンとぶつける。
「痛ッ!」
「何やってんだ?」
「慌てすぎ」
「頭、大丈夫?」
粒良先輩がテーブルの下を覗き込み、頭を優しく撫でてくれる。
「はい、いいえ」
間髪を入れずに否定する。全然大丈夫じゃない。そういえば、おばあちゃんから母親の帰国が早まるかもって聞いたような……。最悪だ。よりによってなんでここにいるんだ。ちゃんと働いているか様子を見に来たとか。
「どっちだよ……」
「終わった。明日から監視されるだなんて地獄だ。帰りたくない」
愚痴らないとやってられない。見張るのはさすがにやり過ぎ。僕はまだ三年生じゃないのに気が早過ぎるんだ。受験勉強は三年生からでいい。
「監視って誰に?」
七瀬先輩の質問に石倉がそれとなく答えてくれる。
「まあ」
全員が僕の置かれている状況に同情していると、聞き慣れた声がして慌てて手で口を塞ぐ。
「あのときの先輩ね。こんにちは」
おばあちゃん!!
祖母は僕が座っていた席に腰掛ける。
「こんにちは。買い物ですか?」
「そうよ。今日は娘が帰ってきていてご馳走を作ろうと思ってね」
「いいですね」
「探したんだからね。若者に紛れて何を話してたの?」
母さん!!
「挨拶してただけよ。少し座ったら楽になったわ。唯祉が帰ってくるから行きましょう」
「お気をつけて」
祖母が椅子をギィーッと引き立ち上がり母親とその場を離れ大きく息をついたのもつかの間、聞きそびれたことでもあるのか母親が引き返してくる。
いいから早く帰って。
「ねえ、もしかしてだけど唯祉と仲良くしてくれてる先輩だったりする?」
「……そうですね。千崎のお母さんですか?」
やめてよ、母さん。粒良先輩が困ってる。
「ええ、そうよ。あの子、学校でちゃんとやってる?」
「はい、心配しなくても友達と楽しくやってます」
友達? 僕に友達だって? ああ、そうか。粒良先輩のことか。
「友達ね……。先輩が卒業したらあの子、またひとりになるのね」
「いえ、橘と石倉がいるのでひとりじゃないですよ」
ん? いつ友達になったんだ? そんなに喋ってないんだけど……。
粒良先輩がテーブルの下から手を伸ばして髪を梳かすように撫でてくる。
粒良先輩って、頭を撫でるの好きだよなあ。
何だか甘えたくなって粒良先輩の太ももにちょんっと顎を乗せる。
「そっちは先輩だけど俺らはクラスメイトなので」
石倉が話を合わせてくれる。後でお礼を言っておかないとな。
「そうだったの! 授業中に本を読んだりしてない? それでよく注意される子なのよね」
もういい加減にして!!
「ごめんなさいね。心配性な娘なのよ。そのくらいにしなさい。もう高校生よ。よちよち歩きの赤ちゃんじゃないの。自分の将来をちゃんと考えられるんだから。唯祉のしたいようにさせて親は見守るものよ」
おばあちゃん!
祖母の言う通りだ。母親の心配性は困ったものだ。祖母の叱責に少し気が晴れる。
「だけどね……」
まだあるのか……。うんざりを通り越して呆れ果てる。せっかくいい雰囲気だったのにぶち壊しだ。消えてしまいたい。テーブルの下でさらに身を縮こまらせ耳を塞ぐ。
「ちょっといいですか?」
「ええ」
「明後日から勉強合宿なんですけど千崎を連れて行っていいですか? 良ければ後で予定を確認してみます」
「いいけど邪魔――」
「行く!!」
母親の言葉を遮りテーブルの下だということを忘れ立ち上がろうとして、またもや鈍い音がする。頭頂部を強打し脳髄が揺れるような衝撃に頭を抱え地面に伏せる。
「あんたねえ、いつからいたのよ!?」
激痛に苦悶の表情を浮かべ地面を這いつくばってテーブルの下から出てくると、母親が目を見張っている。
「たんこぶできてない?」
粒良先輩が髪を掻き分けて腫れてないかものすごく心配してくる。自分がぶつけたみたいに痛そうな顔をしている。ぶつけたのは僕なのに。
「本当に付いていっていいんですか?」
「いいよ。だけど遊びじゃないよ。わかってる?」
「わかってます。家で勉強するより百倍いいです」
母親は嫌味を言おうとするが、粒良先輩と顔を綻ばせる僕に何も言えなくなりグッと堪える。
*
バイトが終わり昨日庇ってくれた石倉にお礼がしたくて先に退勤していった石倉の背中を追う。
「石倉! 待って!」
追いかけていると足がもつれて転倒してしまう。
こんな姿、見られなくなかった。
「おいおい、大丈夫かよ……」
差し出された石倉の手を取り立ち上がる。
「大丈夫。昨日は嘘ついてまで助けてくれてありがとう」
「……嘘って?」
石倉は昨日の会話に思い当たる節がないか振り返っているのか顎に手を当てている。
「友達だって嘘つかせて巻き込んでごめん」
「あー、そのこと。別に気にしてねえよ。てか、友達にならね?」
「……うん」
友達か。昨日、楽しかったなあ。バレーボールのルールとか詳しくないけど、石倉の解説はわかりやすかった。
「その間はなんだよ。嫌なら別に強制しねえから」
「嫌じゃない。だけど、ずっと話してるのは疲れるっていうかその……」
どう伝えたらいいだろう。たまにならああいうわいわいするのもいいけど毎日は辛いかもしれない。読書しながら話すとか無理だから。
「ひとりになりたいときは今までみたいに読書してろよ。誰もずっと喋ってろなんて言ってねえだろ」
「石倉っていい奴だね」
「は? 今までどういう印象を持たれてたんだよ」
石倉はバイト後に学校の友達と待ち合わせしていたらしく混ぜてもらうことになった。橘ではないらしくおぼろげながら浮かんできたクラスメイトの名前を思い出す。
「名前って森? 沖? 何だっけ?」
「関」
「そうだった」
「おーい」
そこに一人ではなく二人現れ、目をゴシゴシと擦る。
幻覚か。二人いるんだけど……。
「双子だよ。こっちが風流でこっちは凰流」
何から何まで似すぎ。顔にあるほくろの位置まで同じ。服装まで一緒だから区別がつかない。
「どうやって見分けてるの?」
「どうやってって……、俺にもわかんねえけど話すときの癖(?)」
「僕にはさっぱりわからない」
「そのうち見分けられるって」
「だってさ」
「そうかな……?」
ゲームセンターで遊んだり昨日見損なった映画鑑賞をしたり、普通の高校生がする遊びをしているとすっかり夕飯の時間帯になる。
「そろそろ帰るか。千崎は明日勉強合宿だろ」
「うん」
「すご〜い」
「頑張れ〜」
帰り際、輸入雑貨店に通りかかり粒良先輩の誕生日プレゼントをまだ選べていないのを思い出す。
「この店、寄っていい?」
「いいよ〜」
「これプレゼントにどうかな?」
悪夢に出てきそうな邪悪なピエロの人形を手に取る。粒良先輩はホラー小説が好きだから気に入りそう。人形を見て僕を思い出したりするだろうか。
「誰にプレゼント?」
「恋人?」
人形を見た石倉はギョッと後ずさる。双子は揃いも揃ってブルッと身震いしている。
「違うよ。粒良先輩の誕生日プレゼント」
「いやぁ、それはやめといたほうが……」
双子は頻りに頷き石倉に同調する。
いいと思うんだけどなあ。
ちょっと納得はいかないけどほかの商品を見て回る。
「美的センスなさそうだけどあれ大丈夫?」
「そんなことよりプレゼント選びを止めないと」
「いや、止めるな。選ばせてやれ」
「絶対に泣くよ?」
「ひどい奴」
僕のいないところでこんな会話が交わされていたなんてそのときは知る由もない。
*
勉強合宿一日目
高速バスに揺られているとあっという間に合宿場である温泉宿に着く。
「千崎、着いたよ。起きて」
粒良先輩の優しい声で起き寝ぼけ眼を擦る。バスから降りると、まだ寝ぼけている僕のキャリーケースを粒良先輩が引いてくれる。
「千崎は午前中か午後だけ勉強して、後の時間は自由時間にしなよ。お母さんには黙っとくから」
「え? でも、先輩たちが勉強してるのに怠けるだなんてできません」
「俺が無理矢理誘ったようなものでしょ。俺らのことは気にしないで。せっかくだし温泉でゆっくりしな」
「無理矢理だなんてそんなことないです」
「咄嗟にああ言っちゃったけど先に聞いとくべきだった。本当にごめん」
僕の意思で今ここにいるのに。粒良先輩は僕が家に帰りたくないなんて言っちゃったから、手を差し伸ばしてくれたんじゃなかったのかな。同じ空間にいるだけで幸せなのに。
いつもの仲良し三人組だけではなく一度も話したことない三年生が二人いて、先輩たちと離れた席で勉強に勤しむ。一時間は真面目に勉強するけど集中力が持続しない。ちょっと休憩したい。だけど、先輩たちは教え合いをして切磋琢磨しているのに僕だけ休憩なんてできず教科書と睨めっこをする。
何時間過ぎただろう。頭はパンク寸前で何一つ頭に入ってこない。何時間もぶっ続けで勉強だなんて苦行だ。ついには机に突っ伏してしまう。
「頑張ったね。夕飯の時間だよ。行こう」
頬を机につけて横を向くと、全く疲弊した様子を感じさせない粒良先輩が瞳に映る。きっと僕よりも大きな手で頭を撫でてくるんだろう。数秒先の未来を読めるとかじゃない。自然とパターンがわかってるってだけ。ほら、やっぱりそうだ。わしゃわしゃと頭を撫でてくる。
先輩たちと温泉に入りに行って一日の疲れを洗い流す。温泉は受験勉強で疲れ切った心身を癒やしてくれるだろう。ようやく一日が終わった。後二日あるけど……。それにしても、先輩たちと並んで立つとチビだなあ。粒良先輩くらいの身長が目標。三年生になる前には先輩たちの中で身長が低い桃下先輩の身長になりたいと勉強とは無関係のことで決意を新たにする。湯のれんをくぐると、僕の身長を優に超えている男子学生グループと鉢合わせる。
「なーたん?」
男子学生グループの中で一際身長が高い男子の親しい呼び方に粒良先輩が歩みを止める。
「やっぱ合ってた。大会ぶりじゃん。そっちも合宿?」
「うん、そっちもってことは合宿なんだ」
「まあな。後で話さないか?」
「……少しだけならいいけど」
「オーケー」
一瞬、粒良先輩の表情が曇ったのがどうも引っ掛かる。
自動販売機で水を買いに行って部屋に戻るとき、廊下で粒良先輩がさっき鉢合わせた男子と話しているのを偶然見つけて慌てて隠れる。話している内容より粒良先輩の肩に手を回しているほうが気になって癪に障る。
なーたんってなんだよ!
どういう関係かは知らないけど目障りだ。
「盗み聞きか?」
振り返ると桃下先輩がいて、橘が言っていた通り本当に神出鬼没だ。
「違います。ここからは聞こえません」
「あっそ、隠れてないで部屋に戻れ」
「言われなくても戻ります。あの、桃下先輩はあの人が誰か知っているんですか?」
「中学のクラスメイトだろ。奈知とは中学が違うからあんま知らねえけど」
「そうですか……」
本当にただのクラスメイトなんだろうか。粒良先輩のあの表情からすると二人の間に何かありそうだ。
七瀬先輩と後二人の先輩はコンビニに夜食を買いに行って、部屋には三人だけになる。
「もう寝たのか」
「疲れたんでしょ」
本当はまだ寝ていない。目を閉じて休んでいるだけなんだけど……。寝たふりをしよう。
「……大丈夫なのか?」
「何が?」
「さっきの奴が原因じゃねえの? エスカレーター校だったのに外部受験しただろ」
「……違うよ。自分には合ってなかっただけ」
「そっか。それならいいけど……。あいつがあれだろ。付き合ってたとかいう奴」
付き合ってたってそんなはずは……。
「桃に嘘は通じないか」
粒良先輩が苦笑する。
本当なんだ……。あの人だったんだ。胸が締め付けられて苦しい。
「何年一緒にいると思ってんだよ。いいから話せ」
なんで命令口調……。
「……付き合ってって言われて断る理由はなかったし、付き合うことにはなったんだけど普段と何も変わらなかった」
「は? 本当に好きだったのかよ……」
「好きだったのは本当だよ。俺が悪いんだ」
なんで粒良先輩が悪いの?
「どういうこと?」
「最初から知ってたんだ、俺の気持ち。だから気持ちを汲み取って友達のままでいてくれたんだ。心のどこかでいつか好きになるだろうって安易に考えてた。結局、傷つけただけだった」
「そっか。あんま引きずるなよ?」
「……うん、ありがと」
僕の粒良先輩に抱く感情は邪魔だ。好きだと悟られないようにこっそり恋をするぶんには許してほしい。アイドルを好きでいるファンでいいから粒良先輩を好きでいたい。
*
勉強合宿二日目
物音がした気がして早朝に目が覚める。横を見ると粒良先輩がいない。さっき部屋を出て行ったのは粒良先輩だ。きっとトイレだろう。待てど待てど戻ってこず、先輩たちを起こさないように抜き足差し足で部屋を出て行こうとするが、テーブルの脚に小指をぶつける。
「ゔっ……」
骨に響く痛さのあまり声が出てしまいその場に蹲る。幸い、誰も起きてこなかった。
外は肌寒くて一応持ってきておいた上着を羽織り粒良先輩を探す。粒良先輩はベンチに腰掛けていたが声を掛けようにもそうできなかった。だって、一人で声を押し殺して泣いていたから。日記を読んで知っている。粒良先輩のストレス発散法は泣くこと。泣いているときは誰にも見られたくないって知っているからこそ、見なかった振りをする。
部屋に戻ってきた粒良先輩はいつも通りだ。
「散歩ですか?」
「まあね、よく寝れた?」
「はい」
朝食を食べ終えたら、部屋に缶詰状態で参考書と向き合う。先輩たちは本当にすごいと感心する。すぐに集中力が切れる僕とは違うから。読書なら一日中でもできるのに、勉強となったら途端にだめになる。今から来年が思いやられる。
昼食を食べているとき、粒良先輩に「午後は遊んでおいで」と言われるが勉強一点張りを貫き通す。午後は眠気と闘うだけで精一杯になり眠気を撃退しようとそっと部屋から出て行く。トイレで顔に冷水をバシャバシャバシャとかけると目が覚める。外した眼鏡の置き場所が悪く、誤って床に落とし手探りで探そうとしたときパキッと嫌な音が鳴る。
……やってしまった。
数分間は自分の失態に呆然とする。眼鏡のフレームが折れてしまっている。これは修理に出さないと使い物にならない。仕方ない。コンタクトを作ったはいいものの、慣らすために数日付けてからはまた眼鏡に逆戻りになってたんだった。どうせ使わないだろうと踏んでいたが思わぬところで役に立った。持ってきていてよかった。
また勉強に戻るが、難題に躓き眉間にしわを寄せていると、桃下先輩が眼鏡をしていない僕に気づき目を疑っている。桃下先輩は七瀬先輩の腕を肘で軽くつつく。
「なんだ?」
「あいつって千崎だよな? 眼鏡外したらあんな変わんの……」
どうしてこうなったんだろう。粒良先輩は僕が先輩たちに囲まれているのに気づかず、脇目も振らず過去問を解いている。ものすごい集中力……。
助けて、粒良先輩!
ノートの切れ端に縮こまった文字で『僕に構わず勉強してください』と書いたものを掲げ、耐えられずノートで顔を隠す。
「奈知! こっち来い!」
「今は無理」
粒良先輩はノートから顔を上げず答える。七瀬先輩と桃下先輩が粒良先輩を引っ張ってくる。
「まだ休憩するには早いんだけど何かあった?」
開いたノートの陰から目だけを覗かせ、粒良先輩になら伝わると信じて目配せを送る。すると、目を丸くする粒良先輩は理解してくれたみたいだ。
「困らせないであげて。あっちで勉強してな。俺はこっちでするから」
粒良先輩が僕に群がる先輩たちを追い払ってくれてやっと一息つく。
粒良先輩が肩が触れそうなくらい近くに座ってくる。
「眼鏡はどうしたの?」
「壊れました」
「じゃあ、見えてないのか。これは何本かわかる?」
顔の前に人差し指を立てて視力検査をされる。
「やめてくださいよ。見えてますから」
慌てて粒良先輩の手を下ろさせる。
「本当に? 眼鏡がないと見えないんじゃないの?」
「そうですけど、今はコンタクトをしているのではっきりと見えてます」
「そうなんだ。千崎の涙ぼくろっていいね。わからない問題あったら教えるよ」
小学校の頃、涙ぼくろをいじられすっかりコンプレックスになっていたけど、そんな風に言われたらありのままの自分を受け入れられそうだ。
「この問題、教えてください」
「いいよ」
受験生にとっては貴重な時間を割いてもらっているのに、真剣に教えてくれている粒良先輩の顔ばかり目で追いかけてしまう。それはコンタクトのほうが粒良先輩の顔がよく見えるから。
「千崎、ちゃんと聞いてる?」
「ごめんなさい。もう一回だけ教えてください」
一日の勉強を終え、先輩たちは布団で寝転んでいる。
一日中勉強したら疲れて当然だよなあ。まだ二日目で明日が最後か。
「散歩してきます。先に寝といてください」
寝かけている先輩たちに言い置いて出かける。本当は粒良先輩と行きたかったけど、眠たそうだったし無理に誘えない。写真だけ撮って後で見せようと夜道を歩いていると背後から呼び止められる。
「待って!」
粒良先輩……?
粒良先輩の声が聞こえた気がして振り返ると、息急き切ってこちらに駆けてくる。
「走ってどこに行くんですか?」
「どこって……、俺が聞きたいよ。どこに行こうとしてたの?」
「星を見に行くところでした。粒良先輩はどこに行くんですか?」
「じゃあ、行こう」
粒良先輩は先をスタスタと歩き出す。
「行こうって……、コンビニとは逆方向です」
「言わないとわかんない? 千崎を追いかけてきたんだよ。コンビニに用はない。早く行くよ」
振り向きざまの粒良先輩は唇を尖らせていた。あんなに急いで僕を追いかけてきたんだ……。先を歩く粒良先輩に小走りで追いつき隣を歩く。
「置いていこうとしないでください」
「誘ってくれたらいいのに、ひとりで楽しむつもりだったんだ」
粒良先輩はつんけんしていて誘わなかったのを後悔する。
「本当は誘うつもりでした。疲れてるみたいだったのでやめたんです」
空を仰ぐと星が静寂の中で輝きを放つ。宝石を散りばめたような星空ごと閉じ込めておきたい。
*
勉強合宿三日目
いつも通り、瞼を開け横向きになるが隣に粒良先輩はいない。それどころか布団はすでにもぬけの殻だ。暫くは布団でゴロゴロしていたが、違和感を覚え跳ね起きる。先輩たちは部屋におらずシーンと静まり返っている。部屋にある時計を一瞥して、時計が壊れているのではないかと懐疑心を抱く。そうじゃないとおかしい。現在時刻は午前十一時五十分。
寝坊じゃないか!
十時間は寝てただなんて信じられない。疲れが溜まっていたにしても十時間もぶっ通しで寝たことはない。それにしても、起こしてくれたっていいのに置いてきぼりを食らった。昨日の仕返しなのだろうか。
着替えて食堂へまっしぐらに急ぎ粒良先輩を探す。探すまでもなくすぐ目に飛び込んできたけど。怒りに震える僕は食事しながら談笑している粒良先輩に向かって迷いなくまっすぐ進む。
「いひゃっ」
背後から粒良先輩の頬をつねる。
「起こしてください! おかげで午前の勉強は潰れたじゃないですか!」
「熟睡できてよかったね」
「どこもよくないです!」
「お腹減ったでしょ。食べなよ」
「さらっと話をすり替えないでください!!」
先輩たちはお気楽そうに笑っているが、僕は笑える状況じゃない。
午後は午前中の遅れを挽回しようと今まで以上に本腰を入れて取り組むが、さっきから視界の隅でうるさい。気になって集中力が削がれる。どうやら開けていた窓からトンボが迷い込んできたらしい。トンボを見てどこかで聞いたスピリチュアルが頭に思い浮かび笑み零れる。粒良先輩のお祖母様が粒良先輩にメッセージを届けに来てくれたんだろうか。何にせよ、いいことが起こる前兆に変わりない。暫しの間、畳の上で寝そべってトンボを観察する。トンボに気を取られていて離れたところで見られている視線には気づかずに。
何時間、経過したんだろう。時間を忘れ英単語を暗記する。
「今日はそこまでにしない?」
「しません」
ノートに英単語を殴り書きして粒良先輩のほうは見向きもしない。
「祭りに行かなくていいのか?」
「はい」
桃下先輩が何か言っているが適当に返事をする。
「留守番してるの?」
「はい」
「本当に行かないんだな?」
「さっきから何なんですか! 勉強は……?」
ノートから顔を上げて呆気に取られる。だって、勉強なんてそっちのけで遊びに行く気満々だから。
「なんで浴衣を着ているんですか!?」
「祭りに行くって言ったろ」
「一応、何回か誘ったんだけど聞いてなかったか」
「受験勉強はしなくていいんですか?」
「今日は祭りに行くつもりだったから朝早く起きてやってたんだ」
「そうなんですか?」
粒良先輩の瞳をじっと見つめて聞く。粒良先輩は僕の瞳をまっすぐ見つめ返し口を開く。
「うん、言ってなくてごめんね。喜んでくれると思って……」
嬉しさが込み上げて粒良先輩に抱きつく。
「行きたいです」
「浴衣、着てく?」
「着る!」
祭りは遠方から足を運ぶ人で混雑していた。人混みに揉まれて先輩たちを見失わないようにするだけで精一杯だ。祭りってこんな混むんだ。ご無沙汰すぎて最後に来た記憶がない。不意に手を引っ張られ腰を抱き寄せられる。
「掴んでなよ」
言われた通り、浴衣の袖を控えめに掴む。屋台から立ち込める美味しそうな匂いにより一層食欲が掻き立てられる。ただでさえ、脳の酷使で空腹が限界に達していて匂いに酔い痴れて気を失いそうだ。
粒良先輩からはじゃがバター、桃下先輩からはたこせん、七瀬先輩からはフランクフルト、後二人の先輩からはチョコバナナとわたあめを贅沢にも奢ってもらう。食い意地を張ってバクバクとあっという間に平らげる。それだけでは足りずかき氷まで食べる。粒良先輩は抹茶シロップで味が気になって、一挙手一投足を見逃すまいと口へ運ぶ手元を目で追いかけてしまう。嚥下する音に釣られて唾を飲む。
「そんな見つめないで。食べにくい」
「ごめんなさい」
我に返りふいっとそっぽを向く。
「食べたい?」
目の前に一掬いのかき氷が差し出される。食べていいのか同意を求めるように粒良先輩の瞳を直視する。
「いいよ」
ほろ苦くて甘ったるい雰囲気とはミスマッチな味だった。
祭りと言えば花火だ。花火が上がるまで少し時間があり射的をする。僕は銃の扱いが不慣れでかすりもしない。粒良先輩はもう一押しで落ちそうという惜しいところまで行く。
「花火始まる。さっさとしろ」
「さっきのは惜しかったんだ。見てた?」
「見てなかった」
「七瀬、取ってよ」
七瀬先輩は一発で撃ち落とし、ゲットした景品をプレゼントしてくれる。
「取ってあげられなくてごめんね」
「いいんです」
勉強漬けで終わる三日間だったはずなのに、最終日に思わぬプレゼントがあったから一生忘れられない夏の思い出になった。
夜空に舞い上がる花火は言葉にできない感情を体現したかのようだ。一瞬だけ漆黒を彩る大輪の花と刹那に消えてしまう儚さ。
