二週間経てば夏休みに突入する。そうすれば、粒良先輩とは会えない。学校での話だけど。遊ぶ予定もない。粒良先輩は受験生なわけだし仕方ないのはわかっている。無理にとは言わない。一日だけでも遊びに行きたい。メッセージを送る勇気はなく、粒良先輩からの連絡を待っているだけだ。
友達ならどんな文章を送るのだろう。待てよ。僕は先輩の弟だ。もちろんフリをしているんだけど。普段通りでいいんだ。家族と話すときみたいに。難しく考えるからいけないんだ。
肩の力が抜け、粒良先輩のいる教室に急ぐ。粒良先輩の姿が見当たらない。登校しているはずなんだけど、どこにいるのだろう。
「ちょうどいいや」
「桃下先輩」
肩に腕をがっしりと回され、桃下先輩に人けの少ない廊下へ連れて行かれる。
「先輩を知りませんか?」
「それだよ、それ。俺には普通に呼ぶくせに、奈知だけ先輩呼びなのはなんで?」
そう言われたらそうだな。粒良先輩と呼ぶに呼べない。どうしてか本人を目前にして、いざ呼ぼうとすると緊張する。
「……善処します」
「意味わかんねえ。奈知がどうやったら先輩呼びをやめてくれるか悩んでた。さあ、粒良先輩って言ってみろ」
「はい?」
「練習なしで本人に言えるならいいけど無理なんだろ」
「……」
呆れたように溜息を吐かれゴクリと唾を飲む。
「奈知なら保健室」
名前を呼べるまで執拗に要求されるかと思いきや、あっさり解放され拍子抜けだ。
「体調が悪いんですか!?」
保健室の扉をそっと開け様子を伺う。
「先輩、いますか?」
寝てるのだろうか。
起こさないようにカーテンを開けると粒良先輩が寝ていた。椅子に腰掛け心配そうに寝顔を見つめる。
「粒良お兄ちゃん。いやいや、おかしい。粒良先輩でいい。下の名前で呼び合うほど仲良くないし……」
千崎のひとり言で目覚める。
やっと名前呼びしてくれた。
「お兄ちゃん呼びでもいいよ」
「はあ!?」
千崎はまさか聞かれているとつゆほども思わず、ガバッと勢いよく椅子から立ち上がる。耳まで顔が真っ赤だ。
「呼んでくれて嬉しい。下の名前で呼び合えるくらい仲良くなりたいな。千崎はどう思ってる?」
「どうって……、さすがに下の名前で呼ぶのはハードルが高いです。そういう先輩は呼べるんですか?」
「唯祉、これからもよろしく」
千崎に優しく微笑む。恥ずかしさからなのか顔を背けられてしまう。
「嫌だった?」
心配そうに顔を覗き込もうとする。
「違います! これはそんなんじゃないので忘れてください!」
千崎は顔をガードするのに必死だ。
目を見て話したい。隠さないで。
「心配して来てくれたの?」
「あっ、はい。体調はどうですか?」
顔を隠すのはやめて心配で堪らないという表情でどこか落ち着きなさそうにそわそわする。
「うーん、ちょっと怠い」
「寝て早く治してください。心細ければ連絡してほしいです。眠るまでいてあげます」
病気をしても両親は夜遅くまで仕事で迷惑をかけたくなくてひとりでも大丈夫だって強がってきた。本当は心細かった。たとえ嘘だったとしても千崎の言葉に救われる。
「そんなこと言われたら甘えちゃうよ。いいの?」
「つっ……、粒良先輩ならいいです」
消え入りそうな声で名前を呼ぶ。千崎にもたれかかると肩がびくっと震える。
名前を呼ぶのにどうして恥ずかしがるのかな。友達がいなさそうな感じだったから単純に慣れていないだけかな。だけど俺だけ距離感がある気がする。
「夏休みだけど予定は? 受験生だから殆どは勉強しないとだけど息抜きは必要だよね。メリハリがないと集中できないんだ」
「会ってくれるんですか!?」
さっきまでは恥ずかしがっていたのに、パァッと顔を輝かせる。
「うん」
「貴重な時間なのに本当にいいんですか?」
今度は遠慮して躊躇う。
表情がコロコロ変わるのが面白い。
「俺が会いたいんだ。気晴らしに付き合ってよ」
「先輩がいいならどこでもついていきます」
また呼び方が戻ってる。先輩呼びより名前で呼ばれたい。
子供っぽいとわかっていても、あからさまにムスッと不機嫌そうにする。
「つっ……、粒良先輩。まだ呼び慣れないんです。鞄を取ってきます」
そう言い残しバタバタと保健室から出て行く。
千崎と行ってみたいところもしてみたいこともたくさんある。あり過ぎて困る。あれこれと行き先を考えワクワクしている一方で、千崎は保健室のドアにもたれかかりへなへなと崩れ落ちる。
反則だ。反則級にヤバい。
粒良先輩に「唯祉」と呼ばれ、こんなにも震え上がるほど嬉しいなんて。本当に心臓が止まるかと思った。
ずるいよ、粒良先輩。
粒良先輩が呼ぶ「唯祉」が脳内でループされ、体が火照って熱く手でパタパタと扇ぐ。
*
通学路を歩いていると、粒良先輩のすらりとスマートな背中を見つける。後ろ姿を目で追い、粒良先輩目掛けて走り出す。
「粒良先輩、おはようございます」
「おはよう。今日はちゃんと登校してえらいね」
頭を撫でられるのにはまだ慣れない。朝一番に粒良先輩の笑顔を見られるのは運がいい。写真に残しておきたい。いつでも見返せるように。
「おーい、俺らが見えてないのか?」
桃下先輩と七瀬先輩には目もくれず、二人は登校したばかりなのに放課後はどうするか話している。
放課後は粒良先輩が家に遊びに来ることになった。家に人を上げたことなんてない。一通り、部屋は掃除して布団に消臭スプレーをかける。かけ過ぎか。臭いと思われたくなくてにおいチェックを欠かさない。既にお菓子は何がいいか桃下先輩に相談してある。
桃下先輩、困ってたな。
感情的になってしまったのを今更取り消せず自己嫌悪に陥る。
「あー、あんこのお菓子は大好物だな。どら焼きに緑茶の組み合わせは定番。あとは薄味が好み。奈知ってさ、爺さん婆さんみたいじゃね?」
「そんなことないです! それは偏見です! 洋菓子が好きで濃い味が好きな年寄りだっています! 僕のおじいちゃんがそうですから! 粒良先輩を悪く言わないでください!」
桃下先輩に悪気はないだろう。だけど、粒良先輩を悪く言ってほしくない。先輩なのに思いっきり楯突いて本当に生意気だ。ムキになることないじゃないか。明日、謝って黙っといてもらえるように頼み込もう。粒良先輩の耳には届いてほしくない。非常識な奴だなんて。
インターホンが鳴り慌てて玄関にすっ飛ぶ。粒良先輩を待たせるわけにはいかないから。
「どうぞ」
粒良先輩を部屋に入れお菓子を取りに行く。手の震えが止まらず緑茶を淹れるのに一苦労する。
なんでこんなに緊張するんだ。
自室に戻ると、粒良先輩がベッドに座り撮りためた写真を現像したアルバムを興味深そうに見ている。
うわあああ、それは見ないで。
アルバムを奪い返そうと必死で勢い余って体勢を崩し粒良先輩を押し倒してしまう。
どど……、どうしよう。
急に変な汗が吹き出て喉が渇く。粒良先輩は目を瞬かせ動揺している。驚かすつもりも困らせるつもりもなかった。ただアルバムを見られるのは小っ恥ずかしい。
「どうしたの?」
「すみません。何でもないです……」
アルバムを粒良先輩の手からサッと奪い返し、元々隠してあった布団の中にしまい込む。
「本当に? 何でも聞くからお兄さんに話してみてよ」
自然。工芸品。絵画。音楽。言葉。動物。思いつく限りの美しいもの。
大したことではない。人それぞれ価値観は違うものだ。それはわかっている。だけど、自分が美しいと感じる瞬間が大多数の人とは違う。粒良先輩がどう思うかわからない。風変わりだと嘲笑われるだろうか。いや、粒良先輩に限ってないだろう。
「千崎って写真を撮るのが上手いね。もう一回見せてよ」
「笑わないでくれますか?」
「笑わない。約束する」
嘘をつけない粒良先輩のことだ。きっと約束を破らないだろう。
しわくちゃの顔。シワシワの手。黒髪に混じる白髪。老いを感じさせてくれるもの全部が美しい。
老い=衰えではなく、年を重ねるごとに積み重ねた経験全てが外見に現れているのだとしたらそれってすごいな。世の中には大人になれず命尽きる運命がある中で、生きてるってだけで奇跡だ。年を取るのも悪くない。そう老いに前向きに向き合えそうだ。
粒良先輩は決して馬鹿にしたりせず黙って聞いてくれる。
「そんな風に考えたことなかった。自分の価値観を大切にして」
粒良先輩はどら焼きをリスのように口いっぱい頬張っている。頬がぷくっと膨らんでいるのが可愛く知らず知らずにくすくすと笑ってしまう。
僕よりよっぽど弟っぽいっていうか子供みたい。
どら焼きを頬張ったまま、もごもごと何か喋っているが聞き取れない。
「すみません。食べ方が可愛いなって」
思ったことをありのままに伝えると照れている。
「やめてよ。可愛いのは千崎であって俺じゃない」
「いえ、粒良先輩です」
かれこれ数十分間、どっちが如何に可愛いかで押し問答する。後から思えば、すごく性もない話で白熱している。
「年下だから可愛いにはならないでしょう。年は関係なく可愛いものは可愛いんです」
「うぐっ」
粒良先輩は言い返せず押し黙り、ようやく決着がつく。
もっと知りたい。好きな食べ物だけじゃなくて趣味とか休日は何するとか将来の夢とか色々。こんなにも他人に興味を持ったのは初めてだ。
「写真を撮ってみてくれない? 家族以外は撮りたくなかったりする?」
「僕が粒良先輩を撮るんですか!?」
僕のような素人でいいのだろうか。写真の技術はないけど撮ってみたい。何と言っても被写体がいいんだよなあ。コレクションに加えれば、きっと一番のお気に入りになるのは間違いない。
「おじいちゃんに変装しないとだめ?」
「なっ……、何言ってるんですか! せっかくの美貌が台無しじゃないですか!」
変装なんて絶対にだめだ!
粒良先輩がおじいちゃんになったらどんな風なのかは興味がある。だけど、それはまだまだ先でいい。いつか年を取ればわかることだから。
「そ? それで撮ってくれる? 撮ってくれない?」
「撮ります。撮らせてください」
改まってお願いするように頭を下げる。粒良先輩に「よろしくお願いします」と礼儀正しく頭を下げられたら、最高の作品にしないとと俄然やる気が漲る。
粒良先輩の写真を撮る機会なんてこの先、一生訪れないかもしれない。ずっといられる保証なんてない。だからこそ写真として楽しい時間を形に残せるって光栄そのものだ。
「うん、いい感じに撮って」
「難しい注文をしないでほしいです。いい感じって具体的に教えてください」
「千崎の満足いく写真」
眩しそうに目を細めていて、カメラ越しに目が合った瞬間にパシャッとシャッターを切る。
庭で撮影したのは正しかっただろう。庭の一角に咲く美の象徴とされる薔薇が粒良先輩の美貌を際立たせている。特にお気に入りである魅力的なえくぼを見せ微笑む粒良先輩の写真を写真立てに飾る。
*
中庭を通ったとき、粒良先輩を見かける。話しかけようとすると恐らく後輩だろう長身の男子に先を越される。粒良先輩は高身長の部類だというのに、後輩はそれよりも高い。何を食べたらあんな成長するんだ。少しというか結構羨ましい。この頃は身長が伸び悩んでいて気にしてはいる。
「あれは告白だな」
「うわっ!!」
いつの間にか隣に桃下先輩と七瀬先輩がいて、思いの外に驚いてしまい口を手で塞ぐ。
「静かにしろ」
「告白だなんて……。相手は男なんだし……」
そう言いつつも粒良先輩ならあり得るだろうという考えが脳裏をよぎる。
男子校で告白……。人気者で勉強もスポーツも卒なくこなせる絵に描いたような秀才。優しくて物腰が柔らかく笑顔が素敵。高校生で起業したりチャレンジングな一面があるけど、子供っぽいところだったり年下に甘える可愛らしさがある。なんと言ってもあの顔。男の僕でさえ見惚れる整った顔立ち。そんな粒良先輩はやっぱりモテるよなあ。
「何も今回が初めてじゃないしな。ついに付き合うのか?」
「さあな、通常運転だろ。受験生だし学業優先じゃないか」
付き合うだって……。もしも粒良先輩が告白を受け入れたら――。
恋人と手を繋いで通学路を歩き楽しそうに笑う粒良先輩を想像しただけで胸がギューッと締め付けられる。僕にしたように恋人にも頭をよしよしと撫でるのだろうか。この感情の正体がわからずどうにも気が塞いでしまう。
帰り道、顔色が陰る千崎を見かねて「図書館に行かない」と機嫌を取るために誘う。千崎は曖昧な返事をするだけでちゃんと聞いているのかも怪しい。悩み事なのだろうか。千崎が足を止め振り返る。
「付き合うんですか?」
淋しげながらも真っ直ぐに目を見つめてくる。
まさか見られてたなんて。
「付き合わないよ。いつか好きになるからってとりあえず付き合うのは嫌なんだ。期待させてやっぱり違ったは無責任でしょ」
千崎は胸のつかえが取れたように表情を和らげる。悩み事が俺関連だったのは想定していなかった。
「粒良先輩らしいです。それで……」
千崎は言いかけて俯いてしまう。
「ん? 恋愛相談?」
千崎とは恋バナはしたことがない。そもそもしたいのかどうかわからない。兄弟で恋バナってするのが普通だっけ。
「付き合ったことがあるんですか? 立ち入った話なので答えたくなければいいです」
「あるよ。でも、あれは付き合ったうちに入るかは微妙だね。千崎にお願いがあるんだけどいい?」
「はい」
「二人でいるときは敬語をやめてくれない?」
「ぜーったいに無理です」
そんな強く拒否しなくてもいいのに。敬語だとどうしても壁を感じる。
「どうしてもだめ?」
「先輩にタメ口なんてとてもじゃないけどできません」
「学校ではね。今はどうなの?」
「……兄弟」
「兄弟で敬語って使う?」
「いえ、使わ……。いや、兄弟がいないので知りません」
「使わないって言おうとしたでしょ」
千崎はそれ以上、その話題に触れてほしくないのかスタスタと早歩きをする。慌てて追いかけると、点字ブロックあたりで転びかけたのを抱き留める。
「あっぶな。怪我してないよね?」
いきなり突き飛ばされドサッと尻もちをつく。一瞬、何が起こったのか把握できていなかった。
「ごめんなさい。怪我で大会に出場できなくなったらいけないです。病院に行きますか?」
千崎があたふたと焦っていて、安心させるように声を掛ける。
「病院だなんて大袈裟だよ。本当に大丈夫だから」
頭を撫でたときは嫌がってなかったけど、スキンシップは苦手なのかな。仲良くなりたくてつい距離感がバグってしまうのは気をつけないと。
