明日が待ち遠しくなるなんて



 朝から怠そうにベッドから起き上がる。
 転校先に書類を届けに行かないと……。
 二年生の春なので、既に仲良しのグループが形成されているだろう。特に不安ではない。だって一人でいるほうが楽だ。これまで友達がいなくても困ったことはない。静かで何よりだ。逆に毎日、何をそんなにぺちゃくちゃと話す出来事があるのか……。
 階下に降りると、祖母が朝食を用意してくれている。祖父は日課である新聞から目を離さない。
 両親の海外赴任にはついて行かず、祖父母の家から通える高校に転校することになったが、きっと何とかなるだろう。
「忘れ物は?」
 祖母が玄関先で見送ってくれる。
「ない」
 バッグの中身を確認して家から出ていく。
「転ばないようにね」
 幼稚園児じゃないんだ。転ばないよと言いたいところだが、僕は自他ともに認めるドジっ子だ。


 高校の通学路は遅咲きの桜が咲き乱れ、風で花びらが舞い落ちる。
 明日から毎日、この通学路を行き来するのか。留年しないように、卒業さえできれば親は文句を言わないだろう。
「失礼します」
 書類を無事に届け、ふと校庭を見やる。サッカーをする男子たちは楽しそうで青春ってこういうことかと実感する。校庭のほうに気を取られていたせいで、足元の水たまりに気づかず、早速ドジっぷりの本領を発揮する。石ころも何もないところで転んでしまい服が濡れてしまって気持ち悪い。
 僕はどうしてこうなんだ。
 辺りをキョロキョロと若干挙動不審に見回すが、運良く誰も僕を見ている人物はいなかった。転校先で笑い者にされなければそれだけでいい。穏便に過ごせれば……。
 濡れた服の不快感から早足で歩き出し、建物の角で誰かにぶつかってしまう。
 顔が⋯…美しい。
 どこを切り取っても完璧なパーツ。これまで生きてきた中で見たどんな美人よりも断トツで美しい。
「ごめんね」
 申し訳なさそうに謝られ、ハッと我に返る。なんて間抜けに映っているだろう。
「すみません」
 男が男に見惚れられて不快な思いをさせてないといいけど。
「よかっから使って」
 カーディガンを手渡してきて、何も考えずに受け取る。
奈知(なち)! 早く戻ってこい!」
「それじゃあ、行くね」
 奈知と呼ばれた彼は体育館のほうへ颯爽と立ち去ってしまい、カーディガンを返しに行くべきか悩む。悩んだ末、有り難く一日だけ借りることにした。
 また、あの顔を見たい。
 そんな願望を抱きながら帰路につく。





 今頃、教室ではどんな転校生だろうと話が盛り上がっているだろうか。教室に辿り着くまでの足取りがいつになく重い。
 自己紹介が憂鬱だ。
 先生に続いて教室に入る。騒がしかった教室は先生の一声で静かになり、クラスメイトの視線は僕に集中する。
「ほら、自己紹介」
千崎唯祉(せんざきゆいし)です。よろしく」
 さっさと自己紹介を終わらせ、先生はそれだけかと質問したそうな顔をしたが、それ以上追求されず胸を撫で下ろし着席する。好きな食べ物とか趣味でも付け加えればよかったのだろうか。親睦を深めたいわけでもないからまあいいや。
 授業が終わり、転校生に興味を持ったクラスメイトが席に集まってくる。
「俺、橘友利(たちばなともり)。よろしくな」
 クラスの中心にいそうな快活な男子が話しかけてくる。リーダー格を敵に回すと地獄を見る。相手に気に入られなくていいけど刺激してはいけない。まあ、過敏に怯えるのは杞憂だったと後にわかるんだけど。あれこれ質問されたことを事務的に答える。興味を持つのは物珍しさからで、つまんない奴と思えば話しかけてこない。
 そう、初日だけだ。
 会話が尽きやっと解放される。教科書を取り出そうとバッグをごそごそしていると、柔らかいものに手が触れカーディガンを返さなければいけなかったのを思い出す。
「ちょっと待って」
 橘が席を離れていこうとするのを慌てて呼び止める。
「奈知って人は何組?」
 橘だけではなく自分の声が聞こえた範囲だけ、時間が止まったように会話が途切れ呆然としている。
 え……。何かまずいことを口走ったか。詰んだ。
「先輩な。何おまえ、粒良(つぶら)先輩と知り合い?」
 橘は興味津々で前のめりになっている。
「知り合いではない」
「なーんだ、違うのか。下の名前で呼ぶから昔、仲良かったとかそういうの想像したのにさ」
 明らかにがっかりとされ、なんかごめんという感じだ。
 先輩だったのか。てっきり同学年だと信じて疑わなかったのに。
「それで、その先輩は何組?」
「二組だよ。用があるなら来週にしな」
「なんで?」
 事情を知らないので、純粋な興味を持って聞く。
「あー、知らなくて当然か。三年は修学旅行」
 そっか。そうなんだ。汚したり失くしたらまずいからできることなら早く返したかったけど仕方ないな。





 休憩時間になる度、三年の教室に赴く。粒良先輩はどこにいても人に囲まれていて話しかけづらく、まだカーディガンは僕の手元にある。
 橘の情報によると、粒良先輩はバレーボール部のエースで誰にでも優しくあの外見のせいもありモテるのだとか。
 ここ男子校でモテてどうするんだ。
 男女共学なら女子が粒良先輩を黙って見ているはずがない。僕とは真逆の世界を生きていて、全く無縁の遠い存在のようだ。
 数日間ずっと粒良先輩に話しかけるタイミングを見計らっているが、そんな機会は訪れず次第に面倒くさくなりかけていた。粒良先輩からカーディガンを返してほしいと言いに来てくれたら万事解決するのにと、八つ当たりしてしまう僕はどうしたものか。
 図書室で新刊の小説を手に取り、最近のお気に入りの一人席に迷わず向かう。そこは奥まった場所にぽつんとあり、誰にも邪魔されず読書に熱中するには最適な場所だった。すると、お気に入りの席は既に座られていた。
 やっと粒良先輩が一人になってくれた。
 粒良先輩の友達のどちらかはどうやらモデルをしているらしく、オーラがあり近寄りがたかったが今なら大丈夫そうだ。
「あのー、先輩」
 話しかけるが、粒良先輩は机に突っ伏したままで返答がない。
 あーあ、寝てるんだ。
 起こそうかと考えもしたが、睡眠の邪魔はどうしてもできなかった。カーディガンの入った袋をそっと机に置き、「ありがとうございました」とお礼を述べるだけに留めた。





 遅刻しかけているのにも関わらず慌てる素振りもなく通学路を歩く。面白くて夢中になっている長編小説を片手に教室に入ると、案の定先生に小説を取り上げられる。
 唯一の楽しみといっても過言ではない読書ができず、つまらなそうに窓側の席から見える青空をぼんやりと見つめる。物語の終盤に差し掛かり伏線回収の爽快さに浸っているときに限って全く先生ってば。
「千崎だよね?」
「僕ではないです」
 読みかけの本を読めないせいですこぶる機嫌が悪く、話しかけてくれた相手を見ようともせず邪険に突き放す。ちぐはぐな返答をされた相手が困惑していても、面と向かわず仏頂面だ。
「橘! 嘘ついたろ!」
 突然、耳元で大声がし肩をビクつかせ、ようやく粒良先輩と先輩の友達がいることに気づく。
(もも)ちゃん、くすぐるのはやめろって」
 桃ちゃん……?
 呼び方からして親しい関係だとわかる。橘は叫びながらくすぐろうと魔の手を伸ばす桃下(ももした)先輩から逃げ回っている。
「千崎じゃなかった?」
「僕ですけど……」
 一体、何事だ。何の用もなく、後輩の教室に来るものなのか。
「聞きたいんだけど、ポケットに何か入ってなかった?」
「いえ、何も」
「ないならいいんだ。もし見つかったらそのときは教えて」
「わかりました」
 粒良先輩は終始落ち着きがなく顔が強張っている。
 何かってなんだろう。すごく大切な物だったりするのか。またやらかしたりしてないだろうな。
 自分の不手際だと考えたら冷や汗が止まらない。ありもしないことで不安になり、授業の内容が全く頭に入ってこなかった。
 もしかしたらと一縷の望みを込め、帰宅してすぐ部屋中を探す。
 やっぱりないよな。
 探すのは早々に諦め、勉強机に置かれた小説を読み耽る。読み終わった頃には、すっかり辺りが暗くなっていて、本棚に本を収納する。そこで、見慣れない小さなノートが本棚に紛れ込んでいた。

『20××年 2月22日
 ばあちゃんが亡くなった。伝えたいことがたくさんあった。俺、何も返せてない』

『20××年 2月27日
 うまく笑えてるだろうか。俺だけが取り残されてるようで焦ってる』

『20××年 3月20日
 クラスメイトと起業するんだ。少し不安。ばあちゃんにも俺の活躍を見届けてほしかった』

 高校生が起業!?
 そういえば橘が話していたような気がする。誰だったっけ。素直に凄いと思う。自分には起業のアイデアが思い浮かばないから。他人の一番知られたくない内面を赤裸々に綴った日記を勝手に読むのはいけない。いけないんだけど、読む手が止まらない。何でもいい。メッセージを残したくなった。勉強机の引き出しから付箋を取り出し、思いついた言葉を残す。しまいには、イラストまで添えて。





 なぜ今になって気づいたのか不思議でならない。授業中に「あっ!」と大声を出し、先生は迷惑そうに振り返りクラスメイトは何事かと僕に視線を向ける。注目され身を縮こませる。
 粒良先輩の日記なのかな。休憩時間に聞きに行かないと。
 休憩時間になり、三年の教室に行く。
 はいはい、そうですよね。
 粒良先輩はいつもと変わらずクラスメイトと楽しそうに話している。引き返そうかと悩んでいると背後から声を掛けられる。
「どうした、二年」
 振り返ると、粒良先輩と桃下先輩とよく一緒にいるこれまた高身長グループの人が僕を見下ろしている。名前は確か……。名札には七瀬(ななせ)とあった。三人が並ぶとアイドルみたいで目立ち、遠目でもすぐに見つけられそうだ。もし三人がアイドルだったなら、粒良先輩推しは確実だ。特に、粒良先輩は顔が小さく手足がすらりと長くスタイルがよくて異彩を放っている。アイドルになるべくして生まれてきた存在のように輝いている。僕からしたら、三人の先輩は眩しすぎるってこと。
「あっ……、桃ちゃん先輩に用があって……」
 僕の悪い癖。考えていることと話していることが一致していない。
「桃に用か。呼んでくるわ」
 僕のバカ! 桃下先輩じゃないだろ! 七瀬先輩、違うんです! 粒良先輩を呼んできてください!
 七瀬先輩が呼んでくれた桃下先輩が来てくれたが、いたたまれない限りだ。
「橘からの伝言なら受け付けないからな」
「橘は関係ないです。つ……つつ粒良先輩を呼んでもらえませんか」
 なぜか気恥ずかしくてまともに呼べない。
「は? なんで俺を呼んだんだ? 最初から奈知を呼んでもらえよ」
 はい、ごもっともです。
 申し訳なさから視線を合わせられず下を向く。
「奈知! 呼ばれてる! さっさと来い!」
 面倒くさそうに声を張り上げ呼んでくれる。粒良先輩と目が合い微笑みかけてくる。
 微笑み返したほうがいいのか。
 結局、口角を引き攣らせてぎこちなく微笑み返す。こういうときはどういう反応をすればいいかわからない。だって友達と呼べる相手がいないから。
「どうしたの? もしかして見つかった?」
 慌ててポケットから小さな日記帳を取り出す。
「先輩のですか?」
 安心したように表情を和らげ、「ありがとう」と感謝される。
 へえー、笑うとえくぼができて可愛らしいんだ。
 粒良先輩に親しみやすさを感じるのは、ちょっとした仕草から来るものなのかもしれない。
「読んでないよね?」
「……読んでません」
 本当は読んでます。
 読んだなんて真実はとてもじゃないけど言えず嘘をつく。誰だって無断で他人の事情を知られたくないだろうから。
「本当に?」
 疑うように顔を覗き込まれ、美しい顔面が至近距離にある。怪訝な顔をされると決まりが悪く胸の動悸が治まらない。ほんの数秒だけ、吸い込まれそうな瞳を見つめ美しい顔面を独り占めするが、息ができなくなり視線を逸らす。
「深呼吸。ゆっくりね」
 スーハー。スーハー。
 指摘されるまで息を止めていたことに気づかずにいた。