○○みたいな恋だった。

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 その男、名を熊公と申します。長屋じゃあそこそこ顔も広ぇが、頭の出来はというと、まあ…春の昼寝みてぇにのんびりしたもんで。そんな熊公が、ある日ふらりと見かけた娘に、ころりとやられちまった。
 「いやぁ大家さん、大変だ。おれぁもう駄目だ」
 「どうした熊公、借金でもこさえたか」
 「借金どころじゃねぇ、恋でさぁ」
 これを聞いた大家、煙管をくゆらせながら、
 「ほぉ、よりによって厄介なもんに手ぇ出したな」
 いつものように朝飯代わりの団子を頬張りながら歩いておりますと、路地の向こうから一人の女がやってまいりました。
 これがいけねぇ。
 別嬪だとか、派手だとか、そういう理屈じゃねぇ。なんとも言えねぇ、見た瞬間に胸の奥が「ん?」と鳴るような、そんな女でございます。
 熊公、団子を飲み込み損ねまして、むせるでもなく止まるでもなく、ただその場で固まった。聞けば相手は表通りの団子屋の娘。名をお糸。これがまた評判の看板娘で、笑えば花が咲くようだってんで、近所の若い衆はみんな狙ってる。
 「で、おめぇは何をしたんだ」
 「毎日団子を買ってるんで」
 「ほう、それで?」
 「金が底をつきやした」
 大家、思わず吹き出す。
 「当たり前だ、恋じゃ腹は膨れねぇぞ」
 それでも熊公、引き下がらねぇ。
 「いや、今日は声をかけようと思いやして」
 「ほぉ、ようやく一歩か」
 「ところが“いらっしゃい”って言われただけで、もう胸がいっぱいで」
 「それは向こうの商売文句だ」
 熊公、しょんぼりしながらも目だけはきらきらしてやがる。
 「でも大家、あの“いらっしゃい”は特別でさぁ」
 「みんなに言ってる」
 「いや、おれには少し柔らかかった」
 「気のせいだ」
 長屋中が呆れる中、それでも熊公の恋の炎は消えやしねぇ。むしろ風が吹くたびに大きくなる。
 ある日、ついに決心して、団子を差し出しながらこう言った。
 「お、お糸さん!」
 「はい?」
 「こ、この団子、うまいねぇ!」
 …言えたのは、それだけでございます。
 お糸はくすりと笑って、
 「ありがとうございます」
 その一言で、熊公の中じゃ花火が上がる。
 帰り道、空を見上げて、
 「いやぁ今日は満月だ」
 昼間でございます。
 さて、この恋がどう転ぶかは、この先のお楽しみ。
 うまくいくか、振られてしょげるか、それともまた団子代で首が回らなくなるか――。

 ※

 荒川師匠と出会い、上崎と幼馴染みの関係になってから、初めて喧嘩した内容は目玉焼きは醤油か胡椒かと、十八になった今思い返すと至極どうでもいい内容で、けれど、そのときはそれが重要だった。松林家では目玉焼きには必ず醬油を垂らして食べる。その方が卵の黄身の甘みや旨味が引き立つからと、事あるごとに醬油を垂らす、そんな母が好きだったからだと思う。
「胡椒の方が上手い」と言う上崎から、母を否定されたように感じたのかも知れないが、出ていった今の母を、当時の自分のように思っているかと聞かれたら、首を縦にも横にも動かせない。
 父が台所に立ち、夕食の目玉焼きを焼く違和感から、母は現在、どこで何をしているのかよりも、何十年の付き合いなのに上崎を呼ぶとき、未だに僕は名前ではなく苗字呼びなんだな、くらいしか疑問に思わない。
 「出来たぞ」
 テーブルに運ばれた目玉焼きには、醬油が垂らされていた。
 「……いただきます」
 「……どうだった」「何が?」「今日の稽古は」「まあまあかな」「……そうか」「うん」
 沈黙を破るように不意に父がリモコンを操作してテレビを付けた。前髪が目にかかって邪魔だ。そろそろ切らないとなと、淡々と昨今の出来事を告げる短髪のアナウンサーを見て、そう思った。父が箸を置いたのはそんな時だった。
 「妙子からな、電話があった」
 僕が箸を止めずに頷いたのは、興味が無いわけではなくて、何が正解かわからなくって、口の中をもごもごと咀嚼した。味が、遠くなりそうだった。
 「母さん、なんて?」
 「落語頑張れだと。あと実家にいるから心配しなくていいとも」
 「うん……」続けて僕は問うた。「迎えに行くのか?」
 父はテレビ台に置いてある写真立てに目を向けて、「いや、まあ。いずれはそうだな」と言って箸を手にした。
 「早く仲直りしろよ」
 ふと、離婚という言葉が頭をかすめたが、嫌な響きだと感じて、口には出さなかった。
 「ああ」
 短髪のアナウンサーが、近くに新しく出来た和菓子屋の新作メニューを取り上げているのを見て、美咲が好きそうだなと、そう思った。
 「……そのうち、髪も切りに行くか」