○○みたいな恋だった。

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 恋ってぇ物は、不思議と静かに始まるもので、落ちるときゃあ階段より早ぇ。気が付きゃもう真っ逆さま、「手すりはどこだ」って首を振っても、そんなもの最初からついちゃいねぇし、見えもしねぇ。そのくせ好きになった相手のことは何でもよく見える。「優しいだ」ってぇが、よく見りゃただののんびり屋、「無口で渋い」ってぇが、実は話が続かねぇだけ。それでも惚れた目にゃ何とやら、豆腐の角に頭をぶつけりゃ、「あぁ、風流だ」なんていう始末で。
 ある日、いつもの道を歩いていると、「あれ、こんな人いたかねぇ」なんて思ったが最後、胸の奥に火が付く。小さな火でございます。最初は線香一本ほど。ところがこれがなかなか消えねえ、消そうと思っても風が吹きゃ燃え上がるしまつ。顔を見りゃ大火事、声を聞きゃあもう手がつけられねぇ。
 やっとの思いで言葉を交わせば、たった一言で明るくなり、たった一言足りねぇだけで夜がやけに長くなる。「今日は笑ってくれた」だの、「いや、あれはよそ行きの顔だ」だの。ひとさまに聞かせりゃ、どうにも小せぇ話でございますが、本人にとっちゃ一大事。
 ところが世の中、上手く出来ておりませんで、想いってぇのは往々にしてすれ違う。こっちは一歩踏み出したつもりでも、向こうは一歩引いてるかもしれねぇ。ようやく手が届くと思ったその時にするりと抜けていく、まるで夢のようでございます。
 で、この恋ってぇやつ、金もかかる。会いに行きゃ茶だ団子だ、贈り物だってぇと懐が寒くなる一方。それでも本人は「これは投資だ」なんて言ってやがる。けど回収できたなんて話ぁ、あんまり聞いたことがねぇ。
 それでもまた人は恋をする。なぜかってぇと……。あの人の名前を呼ぶときの、胸の奥がぎゅっと締まるあの感じ。あれを一度知っちまうと、何もねぇ毎日には戻れねぇんでございます。
 恋ってぇのは笑い話にも涙話にもなる。同じ出来事でも、語る人が違えば喜劇にも悲劇にもなる。だから落語にもなりゃ、芝居にもなる。結局のところ恋ってのは、人の心が勝手に書き上げる、一度きりの大芝居でございます。上手くいってもいかなくても、幕が下りりゃ、どこか愛おしい。
 今からお話致しますは、あほうな男がその身のほどもわきまえずに恋に落ちた、そんな一席でございます。

 ※

 何を言われても父は、ああ。とか、うん。とか適当な返事をする人だった。本当は聞いてすらいないのに「わかった」などと言うものだから、とうとう母の怒りは頂点に達して、さっきキッチンの皿を投げて出て行ってしまった。
 母が出て行ったあと、家の中は妙に静かになった。さっきまで響いていた皿の割れる音や、怒鳴り声の余韻だけが、壁に染みついたみたいに残っている。
 父は、相変わらず「ああ」とだけ言って、割れた皿の破片をぼんやりと見下ろしていた。まるでそれが、ただの雨上がりの水たまりか何かであるかのように、興味も関心もない目で。
 「……片付けるよ」
 そう言っても、父は「うん」と短く返すだけだった。
 本当に聞いているのかどうかは、やっぱり分からない。
 僕はキッチンにしゃがみこんで、指を切らないよう気をつけながら破片をひとつひとつ拾い始めた。指先に触れる冷たい感触と、わずかに残る洗剤の匂い。
 シンクには、水のついたままの皿が一枚、拭きかけの状態で伏せられている。いつもと同じ台所なのに、どこか別の場所みたいに感じる。
 ふと見ると、まだ割れずに残っていた皿が一枚、棚の端から滑り落ちかけている。僕は反射的に手を伸ばして、それを受け止めた。
 白い皿だった。縁にだけ、青い細い線が入っている。
 母が気に入っていて、いつも一番上の棚に置いていたやつだ。
 「それ、高かったんだよな」
 思わずつぶやくと、父が少しだけ顔を上げた。
 「ああ」
 それだけだった。
 けれど、その「ああ」は、さっきまでのものとほんの少し違って聞こえた気がしたが、単に気のせいかもしれない。でも、僕はその違いを確かめたくて、父の方を見た。
 「母さん、どこ行ったと思う?」
 父はしばらく黙っていた。いつものように、何も考えていないみたいな顔で。
 そして――
 「……わからない」
 父はそう言ったあと、ほんのわずかに視線を落とした。
 初めてかもしれない。父が、「わからない」とちゃんと口にしたのは。
 僕は立ち上がって、手に持っていた皿をシンクにそっと置くと、割れた破片はまだ床に散らばっているけれど、なぜか急に、それを全部拾い集めるより先にやるべきことがあるような気がした。
 「探しに行こうか」
 言ってから、自分でも少し驚いた。
 父はすぐには返事をしなかった。けれど、やがてゆっくりと靴箱の方へ歩いていく。
 「……ああ」
 その声は、今度ははっきりと、さっきまでの「適当な返事」ではなかった。
 玄関のドアを開けると、六月の夜の空気がサンダルから剥き出しの足先に流れ込んで、身体の芯まで冷やしてくる。外は思っていたより静かで、遠くで誰かの笑い声がかすかに聞こえる。
 僕は一歩踏み出して、振り返る。
 父は、靴を履くのに少し手間取っていた。小刻みに震える指先で靴紐を結んで、そんな姿を見るのは初めてだった。
 「行こう」
 そう言うと、父は小さくうなずいた。
 今度はちゃんと、目を見て。

 結局、その日は見つからなかった。窓の外では小雨の降る中で、部活帰りの生徒たちの笑い声が遠くに響いているのに、そのどれもが僕には関係のない世界の出来事のように思えた。それでも、上崎祐介は相変わらず、どうでもいい噂話や昨日見た動画の話を得意げに続けている。僕は適当に相槌を打ちながら、購買で買った甘すぎる菓子パンのクリームが口の中に広がるのをぼんやりと感じていた。
 母は、いつ帰ってくるのだろう。
 その疑問は確かに自分の中にあるのに、不思議と切実さがなかった。心配しているはずなのに、どこか遠くの出来事みたいで、胸の奥にぽっかりと空いた空洞だけが残っている。
 「広樹、聞いてる?」と上崎が少し不満そうに言う。
 「ああ、聞いてるよ」と、そう答えてから、僕は少し遅れて、目の前の言葉を拾うみたいに顔を上げ、最後の一口を飲み込んだ。帰ってくるかもしれないし、帰ってこないかもしれない母のことを、まるで今朝の天気予報でも眺めるみたいに考えていた。口の中に残ったクリームの甘さだけが、やけにくどく感じる。上崎は何か言いかけて、結局やめたみたいに笑った。
 「……修行はどうなんだよ。上手くいってんの?うちのじいちゃん厳しいだろ」
 「どうだろな。まあ、荒川師匠みたいにはできないことは確かだな」
 「そらそうよ、何たって「今最もチケットが取れない落語家」の一人だからな」と、上崎は、そのまま楽しそうに話を続けた。八重歯を見せてにやっと笑うと、目尻に浮き出る皺が、本当に荒川師匠の孫だなと、ぼんやり思った。
 初めて荒川菊丸の寄席に赴いたときのことは、小学生にすら間だなっていない頃だった。
 父の作る扇子が夏の暑さを凌ぐ以外にどう使われるのかを尋ねると、父は「じゃあ実際に観に行くか」とだけ言った。
 気づいたときには、浅草演芸ホールの前に立っていた。
 最後まで上演を観ても、何が面白いのかは分からなかった。まだ小学生にもなっていないのだから、それも当然だったのかもしれないが、扇子を箸のように持って麺を啜ったかと思えば、両手で刀を握るように持ち、スパッと下ろす姿を見ている父の横顔だけが、やけに明るく楽しそうなことだけはわかった。高座扇子は、落語家が舞台で使う扇子だと後になって知った。あのときは、ただ、父の手の中にそれがあったことだけを覚えている。
 「いつか広樹も、あんな風に使ってもらえるような立派な扇子職人になるんだぞ」と言った父の言葉を、僕はうまく受け取れなかった。そんな素直に頷かない僕を、父は怪訝そうな目で見つめていた。そのときの父の目が、なぜか少しだけ怖かった。
 「荒川さん。ご無沙汰しております」
 「おお、松林さん。いらしてたのですか」
 「ええ。息子に荒川さんの落語を聞かせてあげたいと思いまして。ほら、挨拶しなさい」
 「………広樹、です」
 荒川菊丸は舞台で見るよりも大柄な人だった。紫色の座布団で正坐をしていたから、妙に現実の人間のように見えたのかも知れない。
 「広樹くん。大きくなったねぇ。おじさんの事覚えてるかな?君のお母さん、妙子さんから広樹君が産まれた時にお父さんと一緒にいた人だよ」
膝に手をついて身をかがめた荒川菊丸の顔が、急に目の前に来た。絵本で目にしたことのある吸血鬼のような牙がやけに目立った。
 「あらら、隠れてしまった。無理もないか。赤ん坊のころに一度会ったきりだからなぁ」
 「すみません。少々人見知りが激しい子でして」
 「いやいや、構わないです。むしろ怖がらせてしまったようで……」
 「いえ。それでどうですか、私の作った扇子の方は」
 「文句なし。最高の一品ですよ」
 バッと勢い良く扇子を広げた荒川菊丸は、何もない空気を仰ぎ始めた。風で揺らぐ白髪を僕はただ見つめていた。
 「勿体ないお言葉をありがとうございます。実は広樹に自分の仕事の成果を見せてやりたいと思いまして。いずれは私の跡継ぎと……」
 「僕も、おじさんみたいにお話する人になりたい」
 僕の遮った言葉が妙な沈黙を作り出した。
 「どうでしょうなぁ」
 荒川菊丸は、扇子をぱたりと閉じたまま、しばらく僕を見ていた。笑っているようでもあり、値踏みしているようでもあり、そのどちらでもないようでもあった。
 「お話する人、ねぇ……」
 言葉を転がすみたいに繰り返して、それからようやく、少しだけ口角を上げた。
 「広樹くん。お話ってのはね、上手い下手じゃないんだよ」
 それ以上は何も言わなかった。
 「まあ、今日はその“入口”だけ覚えて帰りなさい」
 それは許可なのか、拒絶なのか、僕には分からなかった。ただ、その場にいた大人たちの誰もが、それ以上何も付け足さなかったことだけを覚えている。
 父はその横で、笑っていなかった。
 むしろ、少しだけ顎を引いて、何かを飲み込むみたいな顔をしていた。
 ――そして、今になって思う。
 あのとき荒川菊丸が本当に見ていたのは、僕じゃなくて、父の方だったのかもしれない、と。
 荒川菊丸は、そのあと何と言っていただろうか。「いいよ」などと素直に認めてくれる人ではなかっただろうが、けれど実際、弟子になれたのには、単に荒川菊丸の気まぐれだったのか、或いは。
 駅から稽古場に着く頃にはさっきまでの雨は大降りに変わって、帰りを心配していたせいか、荒川師匠に弛んでると怒鳴られ、散々な稽古になった。
 「何かあったのか?まぁ学生は色々あるからな、悩みの一つや二つは尽きんだろ。だがな、勉学と両立すと自分で口にしたんだから、それは守れよ。いいな」
 優しい口調できちんと叱る。荒川師匠の良いところだ。
 昨日の出来事を話してしまおうかとも思ったが、やめた。
 言い訳になる気がした、というより、うまく言葉にできる気がしなかった。
 父みたいに「はい」とだけ返してしまえば、それで済むのかもしれないと、一瞬だけ思ったが、口にした途端に、何か大事なものが軽くなってしまいそうで、小骨が喉に引っかかったように「…それは、守ります。自分で決めた事ですから」と言い終わってから、少し遅れて違和感が残った。
 何を守るのか、自分でもよく分かっていないまま口にした気がする。
 荒川師匠は、すぐには何も言わなかった。ただ、こちらをじっと見ている。見透かされている、というより、量られているみたいな目だった。
 「そうか」
 短くそれだけ言って、師匠は扇子で自分の膝を軽く叩いた。乾いた音が部屋に沁みる。
 「なら、もう一度やれ」
 その声は低く、静かに落ちた。
 水溜まりを避け、差している傘をひっくり返すほどの強風が吹く帰り道を歩きながら、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」を書いた人物は誰だったか、などと鼻歌を歌いながら考えている途中で、お気に入りのコンビニに入った。適当な菓子パンを手に取り、レジへ向かう僕に「………………あ。今日も稽古、あったんだ」とレジカウンターの向こうに立つ三浦美咲が声を掛けてきた。
 僕は財布の小銭入れをガサゴソと漁るフリをして「ああ。……そっちは?」と顔を上げずに答えた。
 「見てわかんない?バイト中」「労働中か、なら邪魔したな」「毎回来てるでしょ」「稽古場から近いんだよ、ここ」
 慣れた手つきで美咲は商品をレジ袋に入れ終えた。
 「……次回の寄席はいつ?」「来月の日曜」「また行くから」「ああ」「ちゃんとした物食べなよ」「努力する、じゃ」
 レジ袋を受け取る際に、手が触れそうになったのを僕は避けて、それからゆっくりとコンビニを後にした。傘を差して見上げた空に、明日は満月だな。とぼんやり思って、それきりだった。