怪異、お持ち帰り注意

 畳の匂いが、ゆっくりと意識に染み込んでくる。
遠くで、風が木を揺らす音がした。それから少し遅れて、自分の呼吸の浅さに気付く。
「……ん」
壱太の喉が小さく鳴る。
まぶたが重い。けれど、なんとか持ち上げると、ぼやけた視界の端に見慣れた色があった。
黒い布地。その上に、見慣れた顎の線。
「……司?」
かすれた声。
すぐ近くから、息を呑む気配がした。
「……起きましたか」
抑えた声だった。
いつものような棘は、ほとんどない。
壱太はゆっくりと瞬きをする。
視界が少しずつ合ってくる。自分が、司の膝の上に頭を乗せていることに気付くまで、数秒かかった。
「……え」
「動かないでください」
間髪入れずに制される。
「まだ顔色が悪いです」
「いや、そうじゃなくて……」
状況を整理しようとする。
神社。炎。人形。それから——
「……俺、どうなってた?」
ぽつりと聞く。
司は一瞬だけ視線を逸らした。
「覚えてないんですか」
「……途中から、あんまり」
正直に答える。
どこかが、抜け落ちている。思い出そうとすると、変に頭が重くなる。
「……そうですか」
それだけ言って、司は口を閉じる。
いつもなら、何かしら嫌味のひとつでも挟みそうなものなのに。妙に静かだった。
「……なに、その顔」
壱太は少しだけ笑う。
「心配してくれてんの?」
「別に」
即答。
ただし、声はわずかに低い。
「倒れた人間を放っておくほど非常識じゃないだけです」
「ふーん」
軽く流す。
そのまま、天井を見上げる。古い木目が、やけに落ち着く。
「昂夜と朔也は?」
「まだ向こうです」
「そっか……」
小さく息を吐く。
少しだけ間が空く。その静けさが、逆に心地よかった。
「……なあ」
「なんですか」
「俺、なんか変なこと言ってた?」
問いかける。
司の指先が、わずかに止まった。壱太の髪に触れていた手が、そのまま動かなくなる。
「……」
「やっぱ言ってた?」
笑い混じりに続ける。
「なんか、そんな気がしてさ」
軽く言ったつもりだった。けれど。
「——やめてください」
低い声で、遮られる。
「……え?」
「そういうの」
司は視線を落としたまま言う。
「自分がどうなってたかも分からないのに、軽く流そうとするの」
その言い方は、明らかにいつもと違っていた。
「いや、別に流してるわけじゃ——」
「流してます」
被せるように言い切る。
少しだけ、息が荒い。
「あなた、さっき火の中に手を突っ込もうとしてたんですよ」
「……え」
言葉が止まる。
「止めなかったら、どうなってたか分かりますか」
「……」
「分からないでしょうね」
自嘲気味に、ほんのわずか笑う。その表情は、すぐに消えた。
「だから、言ってるんです」
静かに。
「もう少し、自分のことをちゃんと考えてください」
言葉はきついのに、声は抑えられている。怒鳴っているわけでもない。なのに、妙に刺さる。
「……悪い」
壱太は素直に言った。
少しだけ視線を逸らす。
「そんなつもりじゃなかったんだけど」
「でしょうね」
即答だった。
「分かってます」
その一言に、わずかに力が抜ける。
「……」
沈黙が落ちる。
さっきよりも、少しだけ重い。
壱太はゆっくりと瞬きをする。それから、ぽつりと。
「でもさ」
「なんですか」
「司がそんな顔するの、珍しい」
そう言って、少しだけ笑う。
「なんか、ちゃんと心配してる人みたい」
「……」
今度は、司が黙る番だった。
「いつもはもっとさ、こう……うるさいのに」
「……うるさいとはなんですか」
反射的に返す。
けれど、勢いは弱い。
「いや、ほら、小言多いし」
「あなたが問題起こすからでしょう」
「まあ、それはそうかも」
軽く笑う。
そのまま、少しだけ体の力を抜く。膝枕の感触が、じんわりと伝わる。
「……でも、ありがと」
不意に、そう言った。
「助けてくれて」
視線は天井のまま。何気ない調子で。だからこそ。
「……別に」
司の返事は、少し遅れた。
「当然のことをしただけです」
「それでも」
壱太は続ける。
「司がいなかったら、やばかったかもだし」
軽く言っている。けれど、その言葉の重さを、司は知っている。
「……」
言葉が出てこない。
代わりに、壱太の髪に触れていた指先に、わずかに力が入る。無意識に。
「……あの」
少しだけ、声が低くなる。
「次からは」
言いかけて、止まる。
何を言うべきか、一瞬迷う。それでも。
「無茶は、しないでください」
結局、そんな言葉になる。
らしくないくらい、真っ直ぐな。
「……はは」
壱太は小さく笑った。
「それ、昂夜にも言ってやってよ」
「言ってます」
「聞いてなさそう」
「ええ、全く」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
その隙間に。ぽつりと、落ちるように。
「……あなただって」
小さく、続ける。
「同じです」
壱太は、それに返事をしなかった。
ただ、目を閉じる。完全に眠るわけではない。けれど、少しだけ力を抜いた。
その様子を見て、司は息を吐く。静かに。気付かれないように。
膝の上の重みを、確かめるように。ほんのわずかだけ、指先で髪を撫でる。
それ以上は、何もしない。何も言わない。
ただ、そこにいるだけ。
それだけでいいと、自分に言い聞かせるように。
外では、風がまた木を揺らしていた。