翌日、配信部屋に集まったのは昂夜と司と壱太の三人だけだった。
いつもなら誰かしら軽口のひとつでも叩く空気なのに、その日は妙に静かだった。壱太もさすがにソファ代わりのクッションへだらしなく沈み込む気にはなれないらしく、机の端へ腰かけたまま落ち着かない様子でスマホをいじっている。司はノートパソコンを開いていたが、作業をしているというより、何かを確認するために画面をつけているだけに見えた。
昂夜は、部屋へ入ってからしばらく立ったままだった。
昨夜はほとんど眠れなかった。 眠ろうとするたび、コンビニでこちらを見る朔也の目が浮かぶ。顔も声もそのままなのに、そこだけきれいに近さが抜け落ちていた、あの感覚が何度も胸の底へ戻ってきた。
「……で」 先に口を開いたのは壱太だった。 「昨日のあれ、どういうことなの」
軽さを消した声だった。
昂夜は少しだけ目を閉じてから、ようやく椅子を引いて座った。 司が何も言わずに待っている。 それが逆に、逃げ場をなくす。
「長くなるって言っただろ」 昂夜は低く言う。
「長くていいよ」 壱太が返す。 「ここまで来たら、ちゃんと聞かない方が怖い」
司も静かに頷いた。 「俺たちにできることを判断するためにも、知っておきたいです」
昂夜はテーブルの木目へ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
口にしたくない。 でも、もう口にしない方が無理だった。
「……あの写真立て、初めてじゃない」
配信部屋の空気が、わずかに張る。
「前にも一回、あれで朔也は記憶を落としてる」
壱太が息を呑む音がした。 司は何も挟まない。ただ、その先を促すみたいに視線だけを向けてくる。
「俺が巻き込まれたんだよ」 昂夜は続けた。 「まだ今みたいに、つるんでなかった頃」
言いながら、記憶の奥に沈んでいた夜が少しずつ浮かんでくる。
あれは、今よりもっと何も知らなかった頃だった。
怪異に興味があったわけでも、呪物に関わる覚悟があったわけでもない。ただ、知り合いに付き合って行った古道具市で、変なものを見た。それが最初だった。
古びた露店の端に、その写真立ては置かれていた。
木製の、小さな卓上サイズ。 安物じゃないが、妙に曇ったガラスと、中の焼けた跡だけが目についた。誰かが写っていたはずなのに、顔の輪郭だけがきれいに抜け落ちている。見た瞬間、視線が離れなかった。
今思えば、その時点でもう引っかかっていたのだと思う。
「俺が触った」 昂夜はぽつりと言う。 「何が入ってたのか、気になって。誰の写真だったんだろって」
壱太が小さく眉を寄せた。 司はそのまま聞いている。
「その日の夜から、おかしくなった」
思い出そうとするたび、頭の中に霧がかかる。 でも、それ以上に鮮明なのは、気配だった。
自分の部屋じゃない場所にいる感じ。 背中の方に、誰かの視線がある感じ。 夜になると、写真立てのガラスへ勝手に自分の顔が映り込んで、その向こうにもうひとつ別の輪郭があるように見えた。
しかも、それを見るたびに、何かが少しずつ抜けていく。
その恐怖を最初にまともに察したのが、朔也だった。
「なんであいつがそこにいたのかは、今でもよく分かんねえ」 昂夜は苦く言う。 「たぶん、たまたまだよ。あの頃から、変なもん拾ってたし」
その時の朔也は、今よりもっと薄かった。 軽くて、空っぽで、何を考えてるのか分からないやつだった。 でも、怪異に対する勘だけは異様に鋭かった。
昂夜が写真立てを持っているのを見て、すぐ顔色を変えた。 それで、取り上げて、何が起きているのかを確かめようとして、結局自分で抱え込んだ。
「俺を助けたんだよ」 昂夜は言った。 「でも、その代わりに、あいつが持ってかれた」
そこまで言って、喉が少し詰まる。
壱太が、もう笑いも何もない顔で聞いていた。 司も変わらず静かだが、視線だけが鋭くなる。
「全部じゃない」 昂夜は続ける。 「でも、でかいのが抜けた。あの事件ごと、きれいに」
あの夜、朔也は確かに昂夜を助けた。 助けた直後までは、まだ何か喋っていた気がする。 でも、そのあとから急に焦点がずれた。
さっきまで共有していたはずの危機感が途切れて、 昂夜を見ても、 写真立てを見ても、 何をしていたのか分からない顔になった。
しかも恐ろしいのは、写真立てそのものを捨てる理由まで抜けていくことだった。
危険だと知ったから手放す、ではなく、 危険だと知った記憶ごと削られる。 だから、処分する判断そのものができなくなる。
「俺は、あれをまだ持ってるか聞けなかった」 昂夜は机を見たまま言う。 「聞いたら、何で知ってるのか説明しなきゃなんねえだろ。しかも、本人は何も覚えてないのに」
壱太が、ようやく小さく呟いた。 「……じゃあ、今のあいつの空っぽっぽさって」
「最初から全部がそうだったわけじゃねえ」 昂夜は言い切る。 「元々軽いやつではあったけど、今みたいに、何か大事なもんごとどっか諦めてる感じは、そのあとからだ」
部屋が静まる。
壱太はしばらく何も言えない顔をしていた。 司だけが、少し間を置いてから口を開く。
「つまり、写真立ては持っているだけで記憶を脆くする」 「たぶん」 昂夜が頷く。 「それで、代償が要る時に、そこから持ってく」 「それを長く手元に置いたせいで、朔也さんの輪郭自体が曖昧になっていた可能性がある」 「……ああ」
壱太が顔を上げる。 「じゃあ昨日の、二枚貝が静かだったのって」
昂夜は息を吐いた。 もうそこも、ひとつながりにしか見えない。
「朔也の記憶が抜けて、中身が薄くなったからだと思う」 「でも生きてるじゃん」 壱太は昨夜と同じ言葉を口にした。 「身体はそこにあるんでしょ」
「身体はな」 昂夜は低く答える。 「でも呪物から見たら、持ち主が分からなくなったんだろ。死んだのと同じくらい、輪郭が消えた」
壱太は黙った。 その言い方がただの比喩じゃないと、今はもう分かっているのだろう。
司が、ノートパソコンの画面を閉じる。 「急ぎましょう」 「何を」 壱太が聞く。
「このままなら、さらに削れます」 司の声は静かだったが、そこには昨日までよりはっきりした焦りがあった。 「今の段階で昂夜さんと俺たちの認識が薄れているなら、次はもっと大きく落ちる可能性が高い」
その言葉が落ちた瞬間、昂夜のスマホが震えた。
三人とも反射的にそちらを見る。
画面に出ていたのは、朔也の名前だった。
「……!」
昂夜はすぐに出る。 だが、耳に届いたのは沈黙だった。
「朔也?」 昂夜が呼ぶ。
向こうで、少しだけ呼吸の気配がした。 それから、低い声が返る。
「……何度も、何の用?」
昂夜の背筋が凍る。
昨夜コンビニで向けられた温度よりも、さらに遠い。 顔見知りですらないわけじゃない。 でも、もう“近い相手”ではない声だった。
「お前、どこにいる」 昂夜はできるだけ抑えて聞く。
「部屋」 朔也は短く言う。 「何回も通知来てるから見たけど」
そこで一度言葉が切れる。 何かを探すような間。
「……何でそんなに連絡してくんの」
その一言で、壱太がはっきり顔色を変えた。 司も目を細める。
昂夜は答えられなかった。
何で。 そんなの、そんなの決まってるだろ、と叫びたいのに、向こうの朔也にはもうその前提がない。
「朔也」 昂夜は低く言う。 「そこで動くな。今から行く」
「は?」 向こうの声に、本気の困惑が混じる。 「いや、何で」
その“何で”が、コンビニの時よりもっと深く昂夜の胸へ刺さった。
「いいから」 昂夜は強く言う。 「それ以上、写真立て触るな」
電話の向こうで、短く沈黙が落ちる。
「……写真立て?」
分かっていない。 完全にではないにせよ、もうかなり危うい。
昂夜が何か言い返すより早く、通話は切れた。
「やばいね、これ」 壱太が言った。 声が少し掠れている。
「ええ」 司が立ち上がる。 「今の時点で、かなり進んでいます」
昂夜ももう椅子に座っていられなかった。 立ち上がる動きが、自分でも分かるくらい荒い。
「行くぞ」
壱太と司もすぐに立つ。
配信部屋の空気が、一気に動き出す。 昨夜まではまだ曖昧だったものが、今の電話で決定的になった。
朔也の記憶喪失は進んでいる。 しかも、もう昂夜だけの問題じゃない。
今ならまだ間に合うのか。 それとも、もう遅いのか。
その答えはまだ分からない。 でも、止まっている時間だけはなかった。
いつもなら誰かしら軽口のひとつでも叩く空気なのに、その日は妙に静かだった。壱太もさすがにソファ代わりのクッションへだらしなく沈み込む気にはなれないらしく、机の端へ腰かけたまま落ち着かない様子でスマホをいじっている。司はノートパソコンを開いていたが、作業をしているというより、何かを確認するために画面をつけているだけに見えた。
昂夜は、部屋へ入ってからしばらく立ったままだった。
昨夜はほとんど眠れなかった。 眠ろうとするたび、コンビニでこちらを見る朔也の目が浮かぶ。顔も声もそのままなのに、そこだけきれいに近さが抜け落ちていた、あの感覚が何度も胸の底へ戻ってきた。
「……で」 先に口を開いたのは壱太だった。 「昨日のあれ、どういうことなの」
軽さを消した声だった。
昂夜は少しだけ目を閉じてから、ようやく椅子を引いて座った。 司が何も言わずに待っている。 それが逆に、逃げ場をなくす。
「長くなるって言っただろ」 昂夜は低く言う。
「長くていいよ」 壱太が返す。 「ここまで来たら、ちゃんと聞かない方が怖い」
司も静かに頷いた。 「俺たちにできることを判断するためにも、知っておきたいです」
昂夜はテーブルの木目へ視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
口にしたくない。 でも、もう口にしない方が無理だった。
「……あの写真立て、初めてじゃない」
配信部屋の空気が、わずかに張る。
「前にも一回、あれで朔也は記憶を落としてる」
壱太が息を呑む音がした。 司は何も挟まない。ただ、その先を促すみたいに視線だけを向けてくる。
「俺が巻き込まれたんだよ」 昂夜は続けた。 「まだ今みたいに、つるんでなかった頃」
言いながら、記憶の奥に沈んでいた夜が少しずつ浮かんでくる。
あれは、今よりもっと何も知らなかった頃だった。
怪異に興味があったわけでも、呪物に関わる覚悟があったわけでもない。ただ、知り合いに付き合って行った古道具市で、変なものを見た。それが最初だった。
古びた露店の端に、その写真立ては置かれていた。
木製の、小さな卓上サイズ。 安物じゃないが、妙に曇ったガラスと、中の焼けた跡だけが目についた。誰かが写っていたはずなのに、顔の輪郭だけがきれいに抜け落ちている。見た瞬間、視線が離れなかった。
今思えば、その時点でもう引っかかっていたのだと思う。
「俺が触った」 昂夜はぽつりと言う。 「何が入ってたのか、気になって。誰の写真だったんだろって」
壱太が小さく眉を寄せた。 司はそのまま聞いている。
「その日の夜から、おかしくなった」
思い出そうとするたび、頭の中に霧がかかる。 でも、それ以上に鮮明なのは、気配だった。
自分の部屋じゃない場所にいる感じ。 背中の方に、誰かの視線がある感じ。 夜になると、写真立てのガラスへ勝手に自分の顔が映り込んで、その向こうにもうひとつ別の輪郭があるように見えた。
しかも、それを見るたびに、何かが少しずつ抜けていく。
その恐怖を最初にまともに察したのが、朔也だった。
「なんであいつがそこにいたのかは、今でもよく分かんねえ」 昂夜は苦く言う。 「たぶん、たまたまだよ。あの頃から、変なもん拾ってたし」
その時の朔也は、今よりもっと薄かった。 軽くて、空っぽで、何を考えてるのか分からないやつだった。 でも、怪異に対する勘だけは異様に鋭かった。
昂夜が写真立てを持っているのを見て、すぐ顔色を変えた。 それで、取り上げて、何が起きているのかを確かめようとして、結局自分で抱え込んだ。
「俺を助けたんだよ」 昂夜は言った。 「でも、その代わりに、あいつが持ってかれた」
そこまで言って、喉が少し詰まる。
壱太が、もう笑いも何もない顔で聞いていた。 司も変わらず静かだが、視線だけが鋭くなる。
「全部じゃない」 昂夜は続ける。 「でも、でかいのが抜けた。あの事件ごと、きれいに」
あの夜、朔也は確かに昂夜を助けた。 助けた直後までは、まだ何か喋っていた気がする。 でも、そのあとから急に焦点がずれた。
さっきまで共有していたはずの危機感が途切れて、 昂夜を見ても、 写真立てを見ても、 何をしていたのか分からない顔になった。
しかも恐ろしいのは、写真立てそのものを捨てる理由まで抜けていくことだった。
危険だと知ったから手放す、ではなく、 危険だと知った記憶ごと削られる。 だから、処分する判断そのものができなくなる。
「俺は、あれをまだ持ってるか聞けなかった」 昂夜は机を見たまま言う。 「聞いたら、何で知ってるのか説明しなきゃなんねえだろ。しかも、本人は何も覚えてないのに」
壱太が、ようやく小さく呟いた。 「……じゃあ、今のあいつの空っぽっぽさって」
「最初から全部がそうだったわけじゃねえ」 昂夜は言い切る。 「元々軽いやつではあったけど、今みたいに、何か大事なもんごとどっか諦めてる感じは、そのあとからだ」
部屋が静まる。
壱太はしばらく何も言えない顔をしていた。 司だけが、少し間を置いてから口を開く。
「つまり、写真立ては持っているだけで記憶を脆くする」 「たぶん」 昂夜が頷く。 「それで、代償が要る時に、そこから持ってく」 「それを長く手元に置いたせいで、朔也さんの輪郭自体が曖昧になっていた可能性がある」 「……ああ」
壱太が顔を上げる。 「じゃあ昨日の、二枚貝が静かだったのって」
昂夜は息を吐いた。 もうそこも、ひとつながりにしか見えない。
「朔也の記憶が抜けて、中身が薄くなったからだと思う」 「でも生きてるじゃん」 壱太は昨夜と同じ言葉を口にした。 「身体はそこにあるんでしょ」
「身体はな」 昂夜は低く答える。 「でも呪物から見たら、持ち主が分からなくなったんだろ。死んだのと同じくらい、輪郭が消えた」
壱太は黙った。 その言い方がただの比喩じゃないと、今はもう分かっているのだろう。
司が、ノートパソコンの画面を閉じる。 「急ぎましょう」 「何を」 壱太が聞く。
「このままなら、さらに削れます」 司の声は静かだったが、そこには昨日までよりはっきりした焦りがあった。 「今の段階で昂夜さんと俺たちの認識が薄れているなら、次はもっと大きく落ちる可能性が高い」
その言葉が落ちた瞬間、昂夜のスマホが震えた。
三人とも反射的にそちらを見る。
画面に出ていたのは、朔也の名前だった。
「……!」
昂夜はすぐに出る。 だが、耳に届いたのは沈黙だった。
「朔也?」 昂夜が呼ぶ。
向こうで、少しだけ呼吸の気配がした。 それから、低い声が返る。
「……何度も、何の用?」
昂夜の背筋が凍る。
昨夜コンビニで向けられた温度よりも、さらに遠い。 顔見知りですらないわけじゃない。 でも、もう“近い相手”ではない声だった。
「お前、どこにいる」 昂夜はできるだけ抑えて聞く。
「部屋」 朔也は短く言う。 「何回も通知来てるから見たけど」
そこで一度言葉が切れる。 何かを探すような間。
「……何でそんなに連絡してくんの」
その一言で、壱太がはっきり顔色を変えた。 司も目を細める。
昂夜は答えられなかった。
何で。 そんなの、そんなの決まってるだろ、と叫びたいのに、向こうの朔也にはもうその前提がない。
「朔也」 昂夜は低く言う。 「そこで動くな。今から行く」
「は?」 向こうの声に、本気の困惑が混じる。 「いや、何で」
その“何で”が、コンビニの時よりもっと深く昂夜の胸へ刺さった。
「いいから」 昂夜は強く言う。 「それ以上、写真立て触るな」
電話の向こうで、短く沈黙が落ちる。
「……写真立て?」
分かっていない。 完全にではないにせよ、もうかなり危うい。
昂夜が何か言い返すより早く、通話は切れた。
「やばいね、これ」 壱太が言った。 声が少し掠れている。
「ええ」 司が立ち上がる。 「今の時点で、かなり進んでいます」
昂夜ももう椅子に座っていられなかった。 立ち上がる動きが、自分でも分かるくらい荒い。
「行くぞ」
壱太と司もすぐに立つ。
配信部屋の空気が、一気に動き出す。 昨夜まではまだ曖昧だったものが、今の電話で決定的になった。
朔也の記憶喪失は進んでいる。 しかも、もう昂夜だけの問題じゃない。
今ならまだ間に合うのか。 それとも、もう遅いのか。
その答えはまだ分からない。 でも、止まっている時間だけはなかった。
