コンビニの青白い看板が見えた瞬間、昂夜の心臓が一度だけ強く鳴った。
自動ドアが開く。
冷えた空気と、揚げ物の油の匂い、弁当売り場のあたたかいにおいが一緒に流れてきた。ぱっと見た限り、店内はいつも通りだった。レジに並ぶ客、雑誌棚の前で立ち読みしている男、飲み物の補充をしている店員。
そのレジの向こうに、朔也がいた。
「……」
制服を着て、普通に働いている。 バーコードを通し、袋を差し出し、会計を済ませる。その動き自体は極端におかしくなかった。
なのに、昂夜は立ち止まったまま目を離せなかった。
何かが違う。
声の調子なのか、表情なのか、自分でもうまく言葉にできない。けれど、見慣れたはずの朔也が、少しだけ遠い。客ひとりひとりへ向ける視線も、言葉も、必要な分だけ切り取って置いているみたいに薄かった。
客がひとり去り、レジ前が一瞬だけ空く。
昂夜はそのまま近づいた。
「朔也」
名前を呼ぶ。
朔也が顔を上げる。 目が合う。
その瞬間、昂夜の胸の奥が冷えた。
顔は朔也だ。 声も、たぶん変わっていない。 でも、そこにあるはずの近さが、きれいに抜け落ちていた。
「……どうしたの」
返ってきたのは、ごく普通の声だった。
だからこそ余計にまずいと分かる。
知らない相手へ向ける声じゃない。 でも、親しい相手へ向ける声でもない。
顔見知りとか、たまに会う知人とか。 そういう距離の温度だった。
「お前」 昂夜は少しだけ声を低くする。 「何で返事しねえんだよ」
朔也は少し眉を寄せた。 本気で分からない顔だった。
「返事?」
「メッセージ送っただろ」
「ああ」 朔也はそこで一拍置く。 「見てなかった」
「電話もした」
「……出られなかった」
言葉としては成立している。 受け答えもできている。 なのに、やはりおかしい。
昂夜が今ここで何をそんなに焦っているのか、朔也にはほとんど伝わっていない。その視線の奥に、昨夜までの感情のつながりがない。
「平気か」 昂夜はそう聞いた。
朔也は少しだけ首を傾げる。
「何が」
その返し方だけで、もう十分だった。
何が、じゃない。 全部だ。
でも、ここでそれを言葉にしたところで、余計に噛み合わなくなるだけだと昂夜にも分かった。目の前の朔也は、深く踏み込まれたところで受け止められる状態じゃない。
レジに次の客が並ぶ。 朔也はそちらへ視線を戻しかけた。
昂夜は一瞬だけ食い下がりそうになって、やめた。
「……いや、悪い。仕事中に」
朔也は小さく頷くだけだった。
その頷き方さえ、どこかよそよそしい。
昂夜はレジ前から一歩引く。 客が割り込むように間へ入り、そのまま会計が始まる。朔也はもう、そちらへ必要なだけの注意を向けている。さっきまで昂夜がそこにいたことすら、少しずつ薄れていくみたいな顔だった。
「……」
それ以上そこにいるのが怖くなって、昂夜は店を出た。
外へ出た瞬間、冷たい風が顔に当たる。
胸の奥で、嫌な予感がもうほとんど確信に変わっていた。
あれはただ機嫌が悪い時の朔也じゃない。 寝不足でぼんやりしている顔でもない。 もっと根本から、何かが抜けている。
しかも今のあの状態では、シフトが終わったあと当たり前みたいに同じ夜を過ごすこともできない。 ここ最近、朔也は昼のシフトを終えたら、いつもそのまま昂夜と夜を過ごしていた。配信部屋か、朔也の部屋か、形は違っても、夜には必ず同じ場所にいた。 それが今日は、想像すらできない。
昂夜は歩道の端で立ち止まり、スマホを見た。
シフトが終わる時間は、もうそう遅くない。 今はまだ仕事中だ。深追いしない方がいい。そう頭では分かる。 それでも嫌な感じだけが消えなかった。
帰宅しても、落ち着かなかった。
自分の部屋の中は静かで、必要なものは揃っていて、何もおかしくないはずなのに、夜の置き場だけがごっそり抜けている感じがした。
今までなら、こんなふうに離れたまま夜になる方がよほど異常だった。 二枚貝の呪いがあったからだ。 だから、部屋へ戻ってからも昂夜は身構えていた。
いつ息苦しくなってもいいように水を置く。 スマホを手元に置く。 必要ならすぐ連絡できるよう、充電も確認する。
けれど、何も起きなかった。
「……は?」
思わず小さく声が漏れる。
胸の圧迫感がない。 気配が遠のく不安もない。 朔也が近くにいないことへの、あの身体的なざわつきが、妙なほど静かだった。
助かった、とは思えない。
むしろ、それが一番怖かった。
あれだけ強かった呪いが、こんなふうに何も告げず薄れるはずがない。 良くなった感じじゃない。 何か大事な前提だけが抜け落ちている感じだった。
時計を見る。 もう、朔也の昼シフトは終わっている時間だった。
普段なら、このくらいには「今終わった」とか「先帰ってる」とか、雑でも何かしら連絡が来る。来なくても、こっちから送ればすぐ返る。 夜を一緒に過ごすのが、もう当たり前になっていたからだ。
なのに今日は、何もない。
昂夜は一度だけ電話をかけた。 呼び出し音が鳴る。 長い。 切れる。
出ない。
短くメッセージを送る。
終わったなら連絡しろ
既読もつかない。
さらに時間が空く。 外はもう夜だ。 それでも、何も来ない。
そこでようやく、昂夜はグループLINEを開いた。 司と壱太と、朔也が入っているやつだ。
少しの間、画面を見たまま指が止まる。 ただの考えすぎならいい。 でも、もうそうは思えなかった。
昂夜 朔也、昼シフト終わってるはずなのに連絡つかねえ
送信してから、数秒置いてもう一件打つ。
昂夜 さっきコンビニで見たけど様子がかなりおかしかった
既読が先についたのは司だった。 その少しあとに壱太の既読もつく。 朔也のところには、何も変化がない。
壱太 え、どういうこと? まだバイト終わってないとかじゃなくて?
昂夜 もう終わってる時間 いつもならとっくに帰ってる
壱太 電話は?
昂夜 出ない
しばらくして、司から返ってくる。
司 今、二枚貝の件も含めて少し確認しています
昂夜はスマホを強く握った。 部屋の静けさが妙に耳に痛い。
朔也と離れて夜を過ごしているのに、何も起きない。 その異常さが、今さらみたいに胸へ戻ってくる。
やがて司から少し長めのメッセージが来た。
司 二枚貝型の呪物について、以前見ていた資料と類似の記述を再確認しました 本来、片方の持ち主が消えると効果が解けるとされています 多くは死亡と結びつけて書かれていますが、呪物側が“持ち主として認識できなくなる”場合も、理屈としては近いかもしれません
その文面を読んだ瞬間、昂夜の中で嫌な感覚が一本に繋がった。
壱太がすぐに反応する。
壱太 え? でも生きてるじゃん
その一言に、昂夜はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
生きている。 たしかに、身体はそこにあった。 コンビニで働いていた。 受け答えもしていた。
でも。
昂夜 あの朔也、中身は空だったから
送信してから、自分でもその言葉の冷たさに少しだけ息が詰まる。
壱太 は? どういう意味
司からは、すぐには返ってこなかった。 きっとその言葉の重さを考えているのだろう。
昂夜は一度だけ目を閉じた。
ここまで来たら、もう黙っていられない。
昂夜 前にも一回あった あの写真立て、初めてじゃない 昔、朔也はあれで記憶を落としてる 本人はもうその事件ごと覚えてない
送ったあと、グループは数秒静まり返った。
壱太 ……え
司 それは、いつの話ですか
問いはもっともだった。 でも、昂夜はすぐに全部は返せない。
あの時のことを思い出すだけで、喉の奥がひりつく。 朔也が自分を助けて、代わりに何かを失った夜のことを、ずっとひとりで抱え込んできたのだから。
昂夜 長くなる でもたぶん、また同じことが起きてる
送信してから、昂夜はスマホを伏せた。
窓の外は、すっかり夜だった。 なのに貝殻は何も言わない。 ただ静かに、何も起きていないみたいな顔をしている。
その沈黙が、今はいちばん怖かった。
自動ドアが開く。
冷えた空気と、揚げ物の油の匂い、弁当売り場のあたたかいにおいが一緒に流れてきた。ぱっと見た限り、店内はいつも通りだった。レジに並ぶ客、雑誌棚の前で立ち読みしている男、飲み物の補充をしている店員。
そのレジの向こうに、朔也がいた。
「……」
制服を着て、普通に働いている。 バーコードを通し、袋を差し出し、会計を済ませる。その動き自体は極端におかしくなかった。
なのに、昂夜は立ち止まったまま目を離せなかった。
何かが違う。
声の調子なのか、表情なのか、自分でもうまく言葉にできない。けれど、見慣れたはずの朔也が、少しだけ遠い。客ひとりひとりへ向ける視線も、言葉も、必要な分だけ切り取って置いているみたいに薄かった。
客がひとり去り、レジ前が一瞬だけ空く。
昂夜はそのまま近づいた。
「朔也」
名前を呼ぶ。
朔也が顔を上げる。 目が合う。
その瞬間、昂夜の胸の奥が冷えた。
顔は朔也だ。 声も、たぶん変わっていない。 でも、そこにあるはずの近さが、きれいに抜け落ちていた。
「……どうしたの」
返ってきたのは、ごく普通の声だった。
だからこそ余計にまずいと分かる。
知らない相手へ向ける声じゃない。 でも、親しい相手へ向ける声でもない。
顔見知りとか、たまに会う知人とか。 そういう距離の温度だった。
「お前」 昂夜は少しだけ声を低くする。 「何で返事しねえんだよ」
朔也は少し眉を寄せた。 本気で分からない顔だった。
「返事?」
「メッセージ送っただろ」
「ああ」 朔也はそこで一拍置く。 「見てなかった」
「電話もした」
「……出られなかった」
言葉としては成立している。 受け答えもできている。 なのに、やはりおかしい。
昂夜が今ここで何をそんなに焦っているのか、朔也にはほとんど伝わっていない。その視線の奥に、昨夜までの感情のつながりがない。
「平気か」 昂夜はそう聞いた。
朔也は少しだけ首を傾げる。
「何が」
その返し方だけで、もう十分だった。
何が、じゃない。 全部だ。
でも、ここでそれを言葉にしたところで、余計に噛み合わなくなるだけだと昂夜にも分かった。目の前の朔也は、深く踏み込まれたところで受け止められる状態じゃない。
レジに次の客が並ぶ。 朔也はそちらへ視線を戻しかけた。
昂夜は一瞬だけ食い下がりそうになって、やめた。
「……いや、悪い。仕事中に」
朔也は小さく頷くだけだった。
その頷き方さえ、どこかよそよそしい。
昂夜はレジ前から一歩引く。 客が割り込むように間へ入り、そのまま会計が始まる。朔也はもう、そちらへ必要なだけの注意を向けている。さっきまで昂夜がそこにいたことすら、少しずつ薄れていくみたいな顔だった。
「……」
それ以上そこにいるのが怖くなって、昂夜は店を出た。
外へ出た瞬間、冷たい風が顔に当たる。
胸の奥で、嫌な予感がもうほとんど確信に変わっていた。
あれはただ機嫌が悪い時の朔也じゃない。 寝不足でぼんやりしている顔でもない。 もっと根本から、何かが抜けている。
しかも今のあの状態では、シフトが終わったあと当たり前みたいに同じ夜を過ごすこともできない。 ここ最近、朔也は昼のシフトを終えたら、いつもそのまま昂夜と夜を過ごしていた。配信部屋か、朔也の部屋か、形は違っても、夜には必ず同じ場所にいた。 それが今日は、想像すらできない。
昂夜は歩道の端で立ち止まり、スマホを見た。
シフトが終わる時間は、もうそう遅くない。 今はまだ仕事中だ。深追いしない方がいい。そう頭では分かる。 それでも嫌な感じだけが消えなかった。
帰宅しても、落ち着かなかった。
自分の部屋の中は静かで、必要なものは揃っていて、何もおかしくないはずなのに、夜の置き場だけがごっそり抜けている感じがした。
今までなら、こんなふうに離れたまま夜になる方がよほど異常だった。 二枚貝の呪いがあったからだ。 だから、部屋へ戻ってからも昂夜は身構えていた。
いつ息苦しくなってもいいように水を置く。 スマホを手元に置く。 必要ならすぐ連絡できるよう、充電も確認する。
けれど、何も起きなかった。
「……は?」
思わず小さく声が漏れる。
胸の圧迫感がない。 気配が遠のく不安もない。 朔也が近くにいないことへの、あの身体的なざわつきが、妙なほど静かだった。
助かった、とは思えない。
むしろ、それが一番怖かった。
あれだけ強かった呪いが、こんなふうに何も告げず薄れるはずがない。 良くなった感じじゃない。 何か大事な前提だけが抜け落ちている感じだった。
時計を見る。 もう、朔也の昼シフトは終わっている時間だった。
普段なら、このくらいには「今終わった」とか「先帰ってる」とか、雑でも何かしら連絡が来る。来なくても、こっちから送ればすぐ返る。 夜を一緒に過ごすのが、もう当たり前になっていたからだ。
なのに今日は、何もない。
昂夜は一度だけ電話をかけた。 呼び出し音が鳴る。 長い。 切れる。
出ない。
短くメッセージを送る。
終わったなら連絡しろ
既読もつかない。
さらに時間が空く。 外はもう夜だ。 それでも、何も来ない。
そこでようやく、昂夜はグループLINEを開いた。 司と壱太と、朔也が入っているやつだ。
少しの間、画面を見たまま指が止まる。 ただの考えすぎならいい。 でも、もうそうは思えなかった。
昂夜 朔也、昼シフト終わってるはずなのに連絡つかねえ
送信してから、数秒置いてもう一件打つ。
昂夜 さっきコンビニで見たけど様子がかなりおかしかった
既読が先についたのは司だった。 その少しあとに壱太の既読もつく。 朔也のところには、何も変化がない。
壱太 え、どういうこと? まだバイト終わってないとかじゃなくて?
昂夜 もう終わってる時間 いつもならとっくに帰ってる
壱太 電話は?
昂夜 出ない
しばらくして、司から返ってくる。
司 今、二枚貝の件も含めて少し確認しています
昂夜はスマホを強く握った。 部屋の静けさが妙に耳に痛い。
朔也と離れて夜を過ごしているのに、何も起きない。 その異常さが、今さらみたいに胸へ戻ってくる。
やがて司から少し長めのメッセージが来た。
司 二枚貝型の呪物について、以前見ていた資料と類似の記述を再確認しました 本来、片方の持ち主が消えると効果が解けるとされています 多くは死亡と結びつけて書かれていますが、呪物側が“持ち主として認識できなくなる”場合も、理屈としては近いかもしれません
その文面を読んだ瞬間、昂夜の中で嫌な感覚が一本に繋がった。
壱太がすぐに反応する。
壱太 え? でも生きてるじゃん
その一言に、昂夜はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
生きている。 たしかに、身体はそこにあった。 コンビニで働いていた。 受け答えもしていた。
でも。
昂夜 あの朔也、中身は空だったから
送信してから、自分でもその言葉の冷たさに少しだけ息が詰まる。
壱太 は? どういう意味
司からは、すぐには返ってこなかった。 きっとその言葉の重さを考えているのだろう。
昂夜は一度だけ目を閉じた。
ここまで来たら、もう黙っていられない。
昂夜 前にも一回あった あの写真立て、初めてじゃない 昔、朔也はあれで記憶を落としてる 本人はもうその事件ごと覚えてない
送ったあと、グループは数秒静まり返った。
壱太 ……え
司 それは、いつの話ですか
問いはもっともだった。 でも、昂夜はすぐに全部は返せない。
あの時のことを思い出すだけで、喉の奥がひりつく。 朔也が自分を助けて、代わりに何かを失った夜のことを、ずっとひとりで抱え込んできたのだから。
昂夜 長くなる でもたぶん、また同じことが起きてる
送信してから、昂夜はスマホを伏せた。
窓の外は、すっかり夜だった。 なのに貝殻は何も言わない。 ただ静かに、何も起きていないみたいな顔をしている。
その沈黙が、今はいちばん怖かった。
