怪異、お持ち帰り注意

 オルゴールの件が片づいた夜、朔也の方から珍しく声をかけてきた。
「今日、帰り飯行く?」
 配信部屋で機材を片づけていた昂夜は、思わず手を止めた。
「……何」
「飯」  朔也はいつもの調子で言う。 「怪異に巻き込みすぎたし」
 それはたぶん、朔也なりの埋め合わせだった。  壱太と司がいる前で言うのが気まずかったのか、言い方は妙に軽い。けれど、司と壱太は自然にそこへ入ってこなかった。壱太はにやっとしそうな顔をして、でも今回は何も言わず、司もただ「あまり遅くならないように」とだけ言った。
 そうして、ふたりだけでファミレスに入った。
 夜の店内はそこそこ客がいて、ざわざわしている。あちこちのテーブルから混ざった声が聞こえ、食器の触れ合う小さな音が時折重なる。その雑多な音の中に紛れてしまえば、少し気まずい沈黙も誤魔化せる気がした。
 朔也はドリンクバーのコップを持って戻ってくると、何でもない顔で向かいに座った。
「何頼む」
「……何でもいいよ」  昂夜はメニューを見下ろしながら答える。 「腹減ってるわけでもねえし」
「じゃあ軽いのにしとけよ」
「お前に指図されたくない」
「さっきから機嫌悪いな」
 その言葉に、昂夜は反射的に顔を上げた。  悪いのは事実だった。オルゴールのことがまだ胸の奥に残っている。少女の最後の願いも、閉じ込められたまま終わった時間も、妙に引きずっていた。しかも、その感情の矛先が、どういうわけか今目の前にいる朔也へ向いてしまう。
「……別に」
 短く返して、昂夜はまたメニューへ視線を落とす。
 結局、昂夜は和風ハンバーグの定食を、朔也はカツカレーを頼んだ。料理が来るまでの間も、会話は途切れがちだった。朔也はたまに水を飲み、昂夜は無意味にナプキンの端を折り曲げる。
「オルゴール、終わってよかったな」  朔也がぽつりと言う。
 昂夜は少し遅れて頷いた。 「まあな」
「今度はちゃんと終わった感じした」
「……そうだな」
 そこまではよかった。  そこまでは、普通の会話だった。
 けれど、夢の中の少女の姿が脳裏から離れない。  最後まで窓の外を見ていた目。  外へ出たいと願っていたのに、どこにも行けなかった体。  あの苦しさを思い出すと、どうしても胸の奥にざらついたものが残る。
 そしてそのざらつきが、朔也へ向いてしまった。
「お前はさ」
 気づけば、そう言っていた。
 朔也が顔を上げる。 「何」
「お前は、閉じ込められる側じゃなくて閉じ込める側だろ」
 言った瞬間、昂夜自身がはっとした。
 それは、本当は今ここで言うべき言葉じゃなかった。  少女に感情移入しすぎたまま、朔也に重ねるように投げつけてしまっただけだ。
 朔也の表情が、ほんの一瞬だけ止まる。
 傷ついたような。  でも、その意味が分からないような。  そういう顔だった。
「……何の話?」
 返ってきたのは、戸惑いそのものの声だった。
 その反応に、昂夜の胸がひやりと冷える。
 違う。  こいつは、そこまで分かっていない。  分からないからこそ、今の言葉は余計にただ傷つけるだけだ。
「……別に」
 昂夜はすぐに目を逸らした。 「何でもない」
「何でもなくはないだろ」
 朔也の声は低くなっていた。  怒っているというより、置いていかれたような響きだった。
 でも昂夜は、それ以上言えなかった。  言えば、もっと踏み込んでしまう気がしたからだ。  夢の中のことも、今までのことも、まだ形になっていないものまで一緒に言葉にしてしまいそうで怖かった。
 結局、そのあとの食事は妙に静かになった。
 運ばれてきた料理の湯気だけがやけに目立つ。  朔也はカツカレーを崩しながら食べ、昂夜はハンバーグへ箸を入れる。味は分かるのに、何を食べているのか頭に入ってこない。
 その途中で、朔也がふと口を開いた。
「俺さ」
 昂夜の手が少しだけ止まる。
「昔、“別に全部なくなっても困らない”とか言った気がする」
 その一言で、昂夜の箸が完全に止まった。
 顔は上げない。  でも、息だけがわずかに詰まる。
 朔也はカレー皿の上を見たまま続けた。
「変な夢のせいかもしれないけど、なんか引っかかってる」
 昂夜は黙った。  それ以上聞けば、何かが動き出してしまいそうだった。  だから、聞かない。  聞けない。
「……そう」
 それだけを返す。
 朔也はその反応を少しだけ不思議そうに受け止めたが、深追いはしなかった。  ただ、その言葉だけは二人の間に小さな棘みたいに残った。
 食事を終えて店を出る頃には、空気はまだ少しぎこちなかった。  仲直りはしていない。  でも完全に壊れたわけでもない。  その中途半端な距離のまま、二人は朔也の部屋へ戻った。
 部屋に入ってから、朔也はいつもより少しだけ昂夜から距離を取った。
 露骨ではない。  けれど、普段なら何となく同じ空間の中で近い場所へ落ち着くのに、今夜は一歩分だけ遠い。水を飲む時も、服を脱いでラフな格好に着替える時も、無意識みたいな顔で距離を開けている。
 ファミレスで言われた言葉が、胸のどこかに引っかかっていた。
 閉じ込める側。
 意味はよく分からない。  でも、あの時の昂夜の声の硬さだけは残っている。
 だったら少し離れた方がいいのかもしれない。  そんな子どもっぽい意地が、朔也の中にあった。
 そして、その延長で、朔也はふと昂夜の様子を見た。
 もしこれまで通りなら、少し離れれば何かしらの変化があるはずだった。  いつもなら、気配が遠のいただけで昂夜の呼吸は少し変わるし、何かしらのざわつきも見えた。
 けれど、今夜の昂夜は平気だった。
 普通に立っている。  普通に鞄を下ろし、上着を脱ぎ、飲み物を口にしている。  あの無意識の不安定さが、ない。
「……」
 朔也はそこで小さく眉を寄せる。
 平気だ。
 その事実に、最初はほっとしそうになった。  でも次の瞬間、妙な違和感が胸に落ちる。
 平気なのは、おかしい。
 今までなら、こんなに離れたら少しは何かあった。  それがない。  よかった、じゃなくて、何かひとつ前提が抜け落ちている感じだった。
 昂夜はそんな朔也の視線に気づかず、机の上へ何気なく二枚貝を置いた。  朔也も自分の方を置く。
 その時、朔也の中で違和感がもうひとつ重なった。  置いたのに、何も起きない。  以前なら、二枚貝の位置や距離にどこか神経が引かれていたのに、その糸がふっと緩んでいる。
 朔也は何も言わなかった。
 言葉にしてしまうと、本当に何かが切れてしまいそうで嫌だったし、何より自分でもまだ説明がつかなかった。
 気まずさをごまかすみたいに、部屋を見回す。
「……模様替えする」
 ぽつりとそう言うと、昂夜が顔を上げた。
「今から?」
「落ち着かないし」
「夜だぞ」
「ちょっとだけ」
 昂夜は呆れたように息を吐いたが、止めはしなかった。
 朔也はそのまま棚の上のものをどかし、収納ケースをずらし、普段ほとんど触らない押し入れの奥まで手を伸ばした。服や雑誌や、よく分からないコード類が出てくる。その奥に、小さな箱がひとつあった。
「……何これ」
 出してみると、そこには古い写真立てが入っていた。
 木製の小さな卓上サイズ。  安物ではないが、長く放っておかれたような乾いた古さがある。ガラスは少し曇っていて、角に小さな傷。中身の写真は、抜かれているのか、焼けてしまったのか、ほとんど輪郭だけしか残っていない。誰かが写っていた気配だけが薄く沈んでいる。
 朔也は眉を寄せた。
「何でこれ取ってあったんだろ」
 その声に、昂夜が振り向く。
 写真立てを見た瞬間、顔色が変わった。
「……おい」
 声が一段低くなる。
 朔也はそちらを見る。 「何」
「それ、どこにあった」
「押し入れの奥」
 昂夜が数秒、何も言わない。  その沈黙だけで、朔也はああ、これはただの古道具じゃないのだと分かった。
「何だよ、これ」
 朔也が聞く。
 昂夜はすぐには答えなかった。  答えられない顔だった。
「……捨ててなかったのか」
 かすれたような声で、昂夜はそう呟く。
「知ってんの?」
 問いかけても、昂夜はすぐには目を合わせない。
「それ」  昂夜はようやく言った。 「夜、ガラス見るな」
「は?」
「いいから」  声音が少し強くなる。 「それのガラスに、自分の顔映すな」
 朔也は写真立てを持ったまま黙る。
 意味は分からない。  でも、昂夜が本気で嫌がっていることだけは伝わった。
「……前からあったんだよな、これ」
「……たぶんな」
「何で俺、持ってたんだろ」
「知らねえよ」
 その返しはあまりにも早すぎて、逆にごまかしに聞こえた。  朔也はそれ以上追及しなかったが、写真立てを見下ろした時、胸の奥が妙に空く感じがした。
 見覚えはない。  なのに、捨てる気にもなれない。  それどころか、ここにあるのが妙に自然な気さえする。
 気持ちが悪かった。
 その夜は、それ以上写真立てのことを話さないまま終わった。
 朝になっても、空気はまだ少し気まずいままだった。
 昂夜が作ったのは、いつものトーストと、簡単なスクランブルエッグ、ウィンナー、サラダだった。味はちゃんとしているのに、二人とも会話が少ない。
「今日、バイト?」  昂夜が聞く。
「うん」  朔也は牛乳を飲みながら答える。 「昼から」
「そっか」
 それきり会話が途切れる。
 昨夜のファミレスの言葉も、写真立てのことも、二人とも何となく避けていた。  仲直りはしていない。  謝れてもいない。  でも、完全に壊れたわけでもない。  その中途半端なまま、時間だけが進んでいく。
 朔也は支度を済ませて先に出た。  昂夜もその後、自分の予定へ向かう。
 その日の昼過ぎ、昂夜はふとスマホを見た。
 朔也からの連絡はない。  別に珍しいことじゃない。  でも、何となく嫌な感じがして、短くメッセージを送る。
 バイト入った?
 返事は来ない。
 数十分後、もう一度送る。
 写真立て、触ってないだろうな
 それも未読のままだった。
 昂夜の胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
 ただの未読ならいい。  バイト中でスマホを見られないだけなら、何でもない。  なのに、そう思えない。
 昂夜は司へ連絡した。
 朔也と連絡取れてる?
 返ってきたのは、数分後だった。
 いえ。何かありましたか
 昂夜はすぐに電話をかけた。司は一コールで出る。
「どうしました」 「朔也と連絡つかねえ」 「バイト中では」 「それだけじゃねえ気がする」  電話の向こうで、司が小さく息をつく気配がした。 「気のせいじゃないですか」 「気のせいならいいけど」 「昼のシフトなら、まだ片づけやら何やらで手が離せないこともありますし」  司の声はいつも通り冷静だった。 「壱太にも一応聞いてみます。ただ、現時点ではそこまで深刻に考えなくてもいいと思います」 「……」 「何もなければ、それで済む話ですから」
 通話が切れたあと、昂夜はしばらくスマホを握ったまま動かなかった。
 何もなければ、それでいい。  ただの考えすぎなら、笑われればいい。
 でも、そう思えない。
 昨夜の写真立てを見た瞬間の感覚だけが、今も胸の奥に嫌な棘みたいに残っている。
「……っ」
 昂夜は立ち上がった。
 待っていられない。  司が軽く流すなら、なおさら自分で確かめるしかない。
 コンビニへ向かう足が、自然と速くなる。  何も起きていないなら、それでいい。  でも、もしあの写真立てが本当に動き出しているのなら。
 昂夜の手の中で、スマホが汗ばんだ。
 朔也の記憶が、また削られている。
 その確信に近い恐怖だけが、今ははっきりとそこにあった。