翌日、配信部屋に集まったのは昂夜と司と壱太の三人だけだった。
いつもなら誰かしら軽口のひとつでも叩く空気なのに、その日は妙に静かだった。壱太も落ち着かない様子で机の端に腰かけ、司はノートパソコンを開いているものの作業をしているというより待っているように見える。 昂夜は部屋に入ってからしばらく立ったままだった。昨夜はほとんど眠れなかった。コンビニでこちらを見た朔也の、近さだけがきれいに抜け落ちた目が何度も浮かんだからだ。
「……で」 先に口を開いたのは壱太だった。 「昨日のあれ、どういうことなの」
昂夜は少しだけ目を閉じてから、ようやく椅子を引いて座る。
「長くなるって言っただろ」
「長くていいよ」 壱太が返す。 「ここまで来たら、聞かない方が怖い」
司も静かに頷いた。
「俺たちにできることを判断するためにも、知っておきたいです」
昂夜はしばらく机を見たまま黙っていた。 口にしたくない。でも、もう口にしない方が無理だった。
「……あの写真立て、初めてじゃない」
部屋の空気がわずかに張る。
「前にも一回、あれで朔也は記憶を落としてる」
壱太が息を呑む。 司は何も挟まない。ただ、その先を促すみたいに視線を向けてくる。
「俺が巻き込まれたんだよ。まだ今みたいにつるんでなかった頃」
言いながら、記憶の奥に沈んでいた夜が少しずつ浮かぶ。
「古道具市で見つけた。小さい写真立てで、妙に曇ったガラスと焼けた跡だけが目についてさ。誰の写真だったのか気になって、俺が触った」
壱太も司も黙って聞いている。
「その日の夜からおかしくなった。背中の方に視線がある感じがして、夜になるとガラスに自分の顔が勝手に映って、その向こうに別の輪郭が見える気がした。しかも、それを見るたびに何かが少しずつ抜けていく」
昂夜は一度息をついた。
「その恐怖に最初に気づいたのが朔也だった。あいつ、昔から変なもん拾ってたし、怪異に対する勘だけは妙に鋭かった」
「それで?」 壱太が低く聞く。
「俺から取り上げて、自分で抱えた。俺を助けたんだよ」 昂夜は言った。 「でも、その代わりに、あいつが持ってかれた」
喉が少し詰まる。
「全部じゃない。でも、でかいのが抜けた。あの事件ごと、きれいに」
あの夜、朔也はたしかに昂夜を助けた。だがそのあと急に焦点がずれた。さっきまで共有していた危機感が途切れて、昂夜を見ても、写真立てを見ても、何をしていたのか分からない顔になった。
「しかも厄介なのは、写真立てそのものを捨てる理由まで抜けてくことだった。危険だと知ったから手放す、じゃなくて、危険だと知った記憶ごと削られる。だから処分する判断そのものができなくなる」
「……じゃあ」 壱太が小さく呟く。 「今のあいつの空っぽっぽさって」
「最初から全部がそうだったわけじゃねえ」 昂夜は言い切る。 「元々軽いやつではあったけど、今みたいに何か大事なもんごとどっか諦めてる感じは、そのあとからだ」
部屋が静まる。
しばらくして、司が口を開いた。
「つまり、写真立ては持っているだけで記憶を脆くする」
「たぶん」 昂夜が頷く。 「それで、代償が要る時にそこから持ってく」
「それを長く手元に置いたせいで、朔也さんの輪郭自体が曖昧になっていた可能性がある」
「……ああ」
壱太が顔を上げる。
「じゃあ昨日の、二枚貝が静かだったのって」
昂夜は息を吐いた。
「朔也の記憶が抜けて、中身が薄くなったからだと思う」
「でも生きてるじゃん」 壱太は昨夜と同じ言葉を口にした。 「身体はそこにあるんでしょ」
「身体はな」 昂夜は低く答える。 「でも呪物から見たら、持ち主が分からなくなったんだろ。死んだのと同じくらい、輪郭が消えた」
壱太は黙った。その言い方が比喩じゃないと分かったのだろう。
司がノートパソコンを閉じる。
「急ぎましょう」
「何を」 壱太が聞く。
「このままなら、さらに削れます」 司の声は静かだったが、焦りははっきりしていた。 「今の段階で昂夜さんと俺たちの認識が薄れているなら、次はもっと大きく落ちる可能性が高い」
その言葉が落ちた瞬間、昂夜のスマホが震えた。
三人とも反射的にそちらを見る。 画面に出ていたのは、朔也の名前だった。
「……!」
昂夜はすぐに出る。 だが、耳に届いたのは沈黙だった。
「朔也?」
向こうで少しだけ呼吸の気配がした。それから、低い声が返る。
「……何度も、何の用?」
昂夜の背筋が凍る。 昨夜コンビニで向けられた温度より、さらに遠い。顔見知りですらないわけじゃない。だが、もう近い相手ではない声だった。
「お前、どこにいる」 昂夜はできるだけ抑えて聞く。
「部屋」 朔也は短く言う。 「何回も通知来てるから見たけど」
そこで一度言葉が切れる。
「……何でそんなに連絡してくんの」
その一言で、壱太がはっきり顔色を変えた。司も目を細める。 昂夜は答えられなかった。何で。そんなの決まってるだろ、と叫びたいのに、向こうの朔也にはもうその前提がない。
「朔也」 昂夜は低く言う。 「そこで動くな。今から行く」
「は?」 向こうの声に、本気の困惑が混じる。 「いや、何で」
その何でが、コンビニの時よりもっと深く昂夜の胸に刺さった。
「いいから。それ以上、写真立て触るな」
電話の向こうで短い沈黙が落ちる。
「……写真立て?」
分かっていない。完全にではないにせよ、もうかなり危うい。 昂夜が何か言い返すより早く、通話は切れた。
「やばいね、これ」 壱太が言った。声が少し掠れている。
「ええ」 司が立ち上がる。 「今の時点で、かなり進んでいます」
昂夜ももう椅子に座っていられなかった。立ち上がる動きが自分でも分かるくらい荒い。
「行くぞ」
壱太と司もすぐに立つ。
配信部屋の空気が一気に動き出す。 昨夜まではまだ曖昧だったものが、今の電話で決定的になった。
朔也の記憶喪失は進んでいる。 しかも、もう昂夜だけの問題じゃない。
今ならまだ間に合うのか。 それとも、もう遅いのか。
答えはまだ分からない。 でも、止まっている時間だけはなかった。
いつもなら誰かしら軽口のひとつでも叩く空気なのに、その日は妙に静かだった。壱太も落ち着かない様子で机の端に腰かけ、司はノートパソコンを開いているものの作業をしているというより待っているように見える。 昂夜は部屋に入ってからしばらく立ったままだった。昨夜はほとんど眠れなかった。コンビニでこちらを見た朔也の、近さだけがきれいに抜け落ちた目が何度も浮かんだからだ。
「……で」 先に口を開いたのは壱太だった。 「昨日のあれ、どういうことなの」
昂夜は少しだけ目を閉じてから、ようやく椅子を引いて座る。
「長くなるって言っただろ」
「長くていいよ」 壱太が返す。 「ここまで来たら、聞かない方が怖い」
司も静かに頷いた。
「俺たちにできることを判断するためにも、知っておきたいです」
昂夜はしばらく机を見たまま黙っていた。 口にしたくない。でも、もう口にしない方が無理だった。
「……あの写真立て、初めてじゃない」
部屋の空気がわずかに張る。
「前にも一回、あれで朔也は記憶を落としてる」
壱太が息を呑む。 司は何も挟まない。ただ、その先を促すみたいに視線を向けてくる。
「俺が巻き込まれたんだよ。まだ今みたいにつるんでなかった頃」
言いながら、記憶の奥に沈んでいた夜が少しずつ浮かぶ。
「古道具市で見つけた。小さい写真立てで、妙に曇ったガラスと焼けた跡だけが目についてさ。誰の写真だったのか気になって、俺が触った」
壱太も司も黙って聞いている。
「その日の夜からおかしくなった。背中の方に視線がある感じがして、夜になるとガラスに自分の顔が勝手に映って、その向こうに別の輪郭が見える気がした。しかも、それを見るたびに何かが少しずつ抜けていく」
昂夜は一度息をついた。
「その恐怖に最初に気づいたのが朔也だった。あいつ、昔から変なもん拾ってたし、怪異に対する勘だけは妙に鋭かった」
「それで?」 壱太が低く聞く。
「俺から取り上げて、自分で抱えた。俺を助けたんだよ」 昂夜は言った。 「でも、その代わりに、あいつが持ってかれた」
喉が少し詰まる。
「全部じゃない。でも、でかいのが抜けた。あの事件ごと、きれいに」
あの夜、朔也はたしかに昂夜を助けた。だがそのあと急に焦点がずれた。さっきまで共有していた危機感が途切れて、昂夜を見ても、写真立てを見ても、何をしていたのか分からない顔になった。
「しかも厄介なのは、写真立てそのものを捨てる理由まで抜けてくことだった。危険だと知ったから手放す、じゃなくて、危険だと知った記憶ごと削られる。だから処分する判断そのものができなくなる」
「……じゃあ」 壱太が小さく呟く。 「今のあいつの空っぽっぽさって」
「最初から全部がそうだったわけじゃねえ」 昂夜は言い切る。 「元々軽いやつではあったけど、今みたいに何か大事なもんごとどっか諦めてる感じは、そのあとからだ」
部屋が静まる。
しばらくして、司が口を開いた。
「つまり、写真立ては持っているだけで記憶を脆くする」
「たぶん」 昂夜が頷く。 「それで、代償が要る時にそこから持ってく」
「それを長く手元に置いたせいで、朔也さんの輪郭自体が曖昧になっていた可能性がある」
「……ああ」
壱太が顔を上げる。
「じゃあ昨日の、二枚貝が静かだったのって」
昂夜は息を吐いた。
「朔也の記憶が抜けて、中身が薄くなったからだと思う」
「でも生きてるじゃん」 壱太は昨夜と同じ言葉を口にした。 「身体はそこにあるんでしょ」
「身体はな」 昂夜は低く答える。 「でも呪物から見たら、持ち主が分からなくなったんだろ。死んだのと同じくらい、輪郭が消えた」
壱太は黙った。その言い方が比喩じゃないと分かったのだろう。
司がノートパソコンを閉じる。
「急ぎましょう」
「何を」 壱太が聞く。
「このままなら、さらに削れます」 司の声は静かだったが、焦りははっきりしていた。 「今の段階で昂夜さんと俺たちの認識が薄れているなら、次はもっと大きく落ちる可能性が高い」
その言葉が落ちた瞬間、昂夜のスマホが震えた。
三人とも反射的にそちらを見る。 画面に出ていたのは、朔也の名前だった。
「……!」
昂夜はすぐに出る。 だが、耳に届いたのは沈黙だった。
「朔也?」
向こうで少しだけ呼吸の気配がした。それから、低い声が返る。
「……何度も、何の用?」
昂夜の背筋が凍る。 昨夜コンビニで向けられた温度より、さらに遠い。顔見知りですらないわけじゃない。だが、もう近い相手ではない声だった。
「お前、どこにいる」 昂夜はできるだけ抑えて聞く。
「部屋」 朔也は短く言う。 「何回も通知来てるから見たけど」
そこで一度言葉が切れる。
「……何でそんなに連絡してくんの」
その一言で、壱太がはっきり顔色を変えた。司も目を細める。 昂夜は答えられなかった。何で。そんなの決まってるだろ、と叫びたいのに、向こうの朔也にはもうその前提がない。
「朔也」 昂夜は低く言う。 「そこで動くな。今から行く」
「は?」 向こうの声に、本気の困惑が混じる。 「いや、何で」
その何でが、コンビニの時よりもっと深く昂夜の胸に刺さった。
「いいから。それ以上、写真立て触るな」
電話の向こうで短い沈黙が落ちる。
「……写真立て?」
分かっていない。完全にではないにせよ、もうかなり危うい。 昂夜が何か言い返すより早く、通話は切れた。
「やばいね、これ」 壱太が言った。声が少し掠れている。
「ええ」 司が立ち上がる。 「今の時点で、かなり進んでいます」
昂夜ももう椅子に座っていられなかった。立ち上がる動きが自分でも分かるくらい荒い。
「行くぞ」
壱太と司もすぐに立つ。
配信部屋の空気が一気に動き出す。 昨夜まではまだ曖昧だったものが、今の電話で決定的になった。
朔也の記憶喪失は進んでいる。 しかも、もう昂夜だけの問題じゃない。
今ならまだ間に合うのか。 それとも、もう遅いのか。
答えはまだ分からない。 でも、止まっている時間だけはなかった。



