怪異、お持ち帰り注意

 目を開けると、まだ夜明け前だった。
「……っ、は」
 昂夜が鋭く息を吸う音がして、そのすぐあとで朔也も跳ね起きた。
 暗い部屋。  狭い布団。  机の上のオルゴール。
 三度目の夢は、これまでで一番重かった。
「……見たか」  昂夜が先に言う。  声が掠れている。
「ああ」  朔也も低く返す。  喉の奥がひりつくような感覚がまだ残っていた。
「女の子、」  昂夜が言葉を探す。 「……もう、最後だった」
 朔也は小さく頷く。
「たぶん」
 二人の視線が、同時に机の上のオルゴールへ向く。  蓋は閉じたままだ。  なのに、その静けさが今はむしろ不気味だった。
「外に出たかったんだな」  昂夜がぽつりと言う。 「助けてほしいっていうより、連れ出してほしかった」
 朔也はすぐには答えなかった。  代わりに、自分の膝の上へ落とした手を見つめる。
「……あの言葉」
「ん?」
「さっきの」  朔也は眉を寄せたまま言う。 「別に、全部なくなっても困らないだろ、ってやつ」
 昂夜は黙る。
 朔也は自分で自分の喉のあたりを押さえるみたいに、小さく息を吐いた。
「あれ、たぶん俺が言った」 「……」 「自分の声だった。間違いなく」
 けれど、その先が続かない。
 誰に向かって言ったのか。  何をなくす話だったのか。  どうしてそんな言い方をしたのか。
 そこだけが、夢の中でも現実でも、きれいに霧がかかったみたいに抜けている。
「誰に言ったんだろうな」
 問いかけるような声だった。  昂夜はその横顔を見る。  朔也は本気で分かっていない顔をしていた。
 でも、分からないままで済ませようとしている顔でもなかった。  それが少しだけ、昂夜の胸に刺さる。
「……なくなっても困らないって言ったくせに」  朔也が低く続ける。 「夢の中じゃ、全然そんな感じじゃなかった」
「だろうな」
 昂夜の返事もまた低い。
「失いたくないみたいだった」  朔也はぽつりと零す。 「変だよな」
「変でも何でもいい」  昂夜は少しだけ強く言った。 「今は、その言葉が残ったってだけでも十分だ」
 朔也は顔を上げる。  暗い中で、昂夜の表情まではよく見えない。  でも声だけで、今はそこへ踏み込むなと言われているのが分かった。
 しばらく、誰も喋らなかった。
 外ではまだ鳥も鳴いていない。  朝と夜の間の、いちばん静かな時間だ。
 やがて昂夜がスマホを手に取る。  画面の明かりが、二人の顔を薄く照らした。
「司に連絡する」
「ああ」
 昂夜は短く打ち込む。
 三回目も見た。少女の最期まで見えた。オルゴールは閉じ込められたまま終わりたくなかった子の願いを抱えてる。朔也の方には別の記憶の断片が混ざってる
 送信してから、少しだけ間を置いて、もう一文足した。
 たぶん、今日中に終わらせた方がいい
 送ったあとで、昂夜は画面を伏せた。  すぐには返信は来ない。  それでも、伝えるべきことは伝えた気がした。
「終わらせるって」  朔也が言う。 「どこで」
 昂夜は机の上のオルゴールを見る。
「閉じた場所じゃ駄目なんだろ」 「……」 「屋敷も、部屋も、箱の中も。全部同じだ」  昂夜は小さく息を吐く。 「外だよ。あいつが最後まで見てた方」
 その言葉に、朔也の胸の奥がわずかにざわついた。
 外。  ここじゃない場所。  光のある方へ。
 三夜目の夢の最後に残った少女の願いと、自分の中に引っかかっている何かが、そこでほんの少しだけ重なった気がした。
「……俺も、たぶんそう思う」
 朔也が言う。
「何となく?」  昂夜が聞く。
「何となく」
 でも、その“何となく”は今までの呪物の時とは少し違った。  もっと切実で、もっと静かな感覚だった。

 朝が完全に明るくなる頃になって、ようやく司からの返信が来た。
 昂夜のスマホが震え、暗かった画面に短い通知が浮かぶ。
 今から行きます。壱太にも連絡しました。どこへ持っていくにせよ、明るくなってから動きましょう
 少し遅れて、もう一件。
 できれば、空の開けた場所がいいと思います
 昂夜はその文面を見て、小さく息を吐いた。  やはり考えることは同じらしい。
「司、やっと返信来た」
 壁にもたれていた朔也が顔を上げる。
「何て」
「今から来るって。壱太にも連絡したらしい」  昂夜はスマホを見たまま続ける。 「あと、できれば空の開けた場所がいいって」
 朔也は小さく頷いた。 「やっぱそうか」
 それ以上は言わなかったが、その短い返事の中には納得があった。  三夜目の夢の最後に残ったものと、今ここで出た結論が、同じところを向いているのだろう。
「朝から働かせすぎじゃね」  朔也がぽつりと言う。
「お前が言うな」  昂夜は即座に返した。
 そこでようやく、ほんの少しだけいつもの調子が混じる。  夢の湿った空気はまだ部屋に残っている。けれど、それとは別に、終わりへ向けて動き出した感覚もあった。
 朔也は布団の上で膝を抱えたまま、まだぼんやりと前を見ている。
「……なあ」
「何」
「もしさ」
 朔也は言いかけて、少しだけ口を閉じた。  でも結局、低い声で続ける。
「本当に俺があの言葉言ったんだとしたら」
 別に、全部なくなっても困らないだろ。
 夢の中の自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「最悪だな」
 その呟きに、昂夜は少しだけ目を細めた。
「今さら気づいたのかよ」
「今さらだな」
 朔也は苦くもなく、ただ静かにそう返した。
 窓の外の光が、少しずつ強くなる。  机の上のオルゴールは、朝の薄明かりの中でひどく小さく見えた。あの小さな箱の中に、ひとりの少女が外へ出たいと願った最後の祈りと、まだ言葉にならない何かが、全部閉じ込められているように見える。
 朝が来る。  たぶん今日で、終わらせる。
 そう思いながらも、昂夜は胸の奥の重さが消えないまま、白んでいく窓の方をしばらく見つめていた。