夜。
朔也の部屋へ戻ると、空気が昨日までよりも一段重い気がした。
朔也の部屋へ戻ると、空気が昨日までよりも一段重い。机の上のオルゴールは、相変わらず蓋を閉じたまま静かに置かれている。誰も触れていないのに、そこにあるだけで部屋の温度が少し下がったように感じた。
昂夜は鞄を下ろし、何となく部屋の中央で立ち止まる。
「……嫌な感じするな」
思わずそう漏らすと、朔也も同じようにオルゴールを見た。
「昨日より?」
「昨日より」
「俺も」
短い返答だったが、いつもより少しだけ声が低い。 朔也も、さすがに今夜が山だと分かっているのだろう。
夕食は、昨日までとは違うものになった。 コンビニから持ち帰った廃棄のそばとうどん。昂夜はそばの蓋を開け、朔也はうどんを持って机へ向かう。
「今日は麺かよ」
昂夜が半目で言う。
「昨日よりは変わっただろ」
朔也は気にした様子もなく返す。
「そういう問題じゃねえんだよ」
「でも米より軽いし、夜向きじゃね」
「その発想だけは妙に現実的だな」
そんなやり取りをしながらも、二人とも食べる速度はいつもより少し遅い。オルゴールのことを考えているのか、今夜の夢を意識しているのか、その両方かもしれなかった。
「司、何て?」
昂夜が聞く。
「さっきメッセージ来てた」
朔也がそばつゆの容器を手元へ寄せながら答える。
「三回目は強く出るかもしれないから、できるだけ起きてろって」
「無理だろ」
「だろうな」
その通りだ。 撮影で体は疲れているし、昨夜までの寝不足もある。起きていようと意識したところで、あの夢は眠りの浅いところからでも引きずり込んでくる。
風呂は、もう何も言わずに昨日と同じ手順で済ませた。
二枚貝は脱衣所。 ドアは少し開ける。 気配と声が届く位置にいる。
手順に慣れてしまったことが妙に腹立たしい。 けれど、それをひとつひとつ確認していくのが今夜のための小さな儀式みたいにも感じられた。
シャワーを終えて部屋へ戻ると、オルゴールはやはり同じ場所にある。
昂夜は布団へ入る前に、一度だけその前で立ち止まった。
「……お前は、何見せたいんだよ」
無意識にそう呟いていた。
返事はない。 もちろん、あるわけもない。
それでも、閉じた蓋の向こうで音だけが待っている気がした。
布団へ入る。 隣には朔也がいる。
今日の撮影で太陽の下に長くいたせいか、朔也の体温はいつもより少し高く感じた。狭い布団の中で、その熱が近い。二枚貝由来の不安はない。代わりに、今夜来る夢だけが確実にそこにある。
「寝るか」
朔也が言う。
「ああ」
「今夜、なんか見たら」
そこで一瞬だけ言葉が切れる。
「……起きたら言う」
昂夜は小さく頷いた。
「お前もな」
電気を消す。
暗闇が落ちる。 オルゴールは見えなくなる。 なのに、見えなくなった方が余計にそこにあるのが分かる。
昂夜は目を閉じた。 眠りへ落ちる直前、どこか遠くで、まだ鳴っていないはずの旋律の最初の一音を聞いた気がした。
目を開けた時、昂夜はもう夢の中にいた。
けれど、今夜の屋敷はこれまでと少し違っていた。
静かすぎる。
高い天井も、褪せた壁紙も、厚いカーテンも同じなのに、空気の張りつめ方だけが違う。誰かが長いあいだ息を潜め続けた末に、もうその息すら尽きかけているような静けさだった。
部屋の中央に、ベッドがある。
少女はそこに横たわっていた。
昨夜のように咳き込んだり、窓辺に立ったりはしていない。ただ細い体をシーツの上に沈めたまま、胸の上へオルゴールを抱いている。もう、それを抱えていることだけが、この子の最後の意志みたいに見えた。
昂夜は足を止める。
近づこうとしても、夢の中の体は思うように動かない。 届かない。 それでも目だけは逸らせなかった。
少女の目は開いていた。
窓の方を見ている。
今夜はカーテンの隙間が少しだけ広く、外の白い光が細く差し込んでいた。風は入ってこない。ただ光だけが、ここではないどこかの広がりを思わせる。
その光へ向けられた少女の目に、もう恐怖はあまり残っていなかった。
あるのは、諦めきれない願いだけだ。
外へ行きたい。 一度でいいから。 この部屋の外へ。 空の下へ。
その願いは声にもならず、でもはっきりと昂夜の胸へ流れ込んでくる。
泣き叫ぶような強さではない。 ずっと閉じ込められて削れ続けたせいで、最後には祈りだけが薄く、透明に残ったみたいだった。
少女の指先が、かすかに動く。
オルゴールの蓋へ触れる。 開こうとする。 けれど力が足りない。
昂夜は反射的に手を伸ばした。 もちろん届かない。 夢は、それを許してくれない。
その時、不意に旋律が鳴った。
誰もねじを回していないのに。
古い子守歌みたいな音。 でも今夜は、これまでよりずっと静かで、ずっと澄んでいた。 欠けた一音があるはずなのに、そこへ差しかかるたび、少女の息そのものが代わりに鳴っているように聞こえる。
少女の唇が、ほんの少し動いた。
今度は言葉にならない。 けれど、昂夜には分かった。
助けて、ではない。 苦しい、でもない。
連れていって。 ここじゃないところへ。
その願いが、オルゴールへ染み込んでいく。
昂夜はそこで初めて理解する。
この子は誰かを呪いたかったわけじゃない。 ただ、閉じ込められたまま終わりたくなかった。 誰かに見つけてほしかった。 外へ連れ出してほしかった。 その願いだけが、死にきれずに残ったのだ。
少女の視線が、窓の光から少しだけ逸れる。
部屋の中ではなく、もっと遠く。 もう会えない誰かを思うように。
本当の両親だ、と昂夜は直感した。
オルゴールはその人たちの形見で、 この子にとっては外の世界そのものだったのだ。
旋律が、最後の一節へ近づく。
その時、少女の指がゆるむ。
オルゴールを抱く力が、消える。
部屋の空気が、ふっと止まった。
泣き声もない。 叫びもない。 ただ、長く閉じていたものがそのまま静かに途切れる感覚だけがあった。
なのに、終わりではなかった。
少女の願いだけが、そこに残っている。
外へ。 ここではない場所へ。 光のある方へ。
その祈りが部屋の中を満たした瞬間、昂夜の胸へずしりと重みが落ちる。
これだ。 この願いが、あのオルゴールを歪ませた。
見つけてほしい。 連れ出してほしい。 自分と同じ気持ちを知ってほしい。
そうして人の夢へ入り込み、同じ孤独を味わわせることでしか、もう届かなくなってしまったのだ。
昂夜がそう理解した瞬間、夢の景色が激しく揺れた。
一方、朔也の夢では、その揺れと一緒に別の断片が割り込んでいた。
少女の部屋の静けさ。 窓の光。 途切れかけた旋律。
その全部の向こうから、赤い小さな光がまた灯る。
今度は前より近い。
暗い部屋。 埃っぽい空気。 狭い空間。 誰かが目の前にいる。
顔はやはり見えない。 でも、そこにいる相手へ向けて、自分が言葉を投げた感触だけは鮮明だった。
「別に、全部なくなっても困らないだろ」
自分の声だ。
少し突き放すみたいに。 でも本気でそう思っている声ではない。 夢の中の朔也は、それを聞いた瞬間に分かった。
嘘だ。
その言葉は、平気なふりをするためのものだった。 なくなっても困らないなんて、そんなはずがない。 ほんとうは、その逆だった。
失いたくない。 壊したくない。 でも、それを認めるのが怖くて、先に切り捨てるような言い方をした。
その感情の痛みが、少女の祈りと重なる。
閉じ込められている。 外へ出せない。 大事なものの名前を、言葉にできない。
夢の中で、朔也は息を呑んだ。
「あれは俺が言った言葉だった……?」
誰に向けて。 どうして。
答えは出ない。 けれど、自分のものだという感覚だけは逃げない。
そして、その“誰か”を失ったら困るのだということも、言葉になる前の痛みとしてはっきり残る。
次の瞬間、少女の部屋も赤い光の部屋も一緒に崩れ、朔也は現実へ引き戻された。
朔也の部屋へ戻ると、空気が昨日までよりも一段重い気がした。
朔也の部屋へ戻ると、空気が昨日までよりも一段重い。机の上のオルゴールは、相変わらず蓋を閉じたまま静かに置かれている。誰も触れていないのに、そこにあるだけで部屋の温度が少し下がったように感じた。
昂夜は鞄を下ろし、何となく部屋の中央で立ち止まる。
「……嫌な感じするな」
思わずそう漏らすと、朔也も同じようにオルゴールを見た。
「昨日より?」
「昨日より」
「俺も」
短い返答だったが、いつもより少しだけ声が低い。 朔也も、さすがに今夜が山だと分かっているのだろう。
夕食は、昨日までとは違うものになった。 コンビニから持ち帰った廃棄のそばとうどん。昂夜はそばの蓋を開け、朔也はうどんを持って机へ向かう。
「今日は麺かよ」
昂夜が半目で言う。
「昨日よりは変わっただろ」
朔也は気にした様子もなく返す。
「そういう問題じゃねえんだよ」
「でも米より軽いし、夜向きじゃね」
「その発想だけは妙に現実的だな」
そんなやり取りをしながらも、二人とも食べる速度はいつもより少し遅い。オルゴールのことを考えているのか、今夜の夢を意識しているのか、その両方かもしれなかった。
「司、何て?」
昂夜が聞く。
「さっきメッセージ来てた」
朔也がそばつゆの容器を手元へ寄せながら答える。
「三回目は強く出るかもしれないから、できるだけ起きてろって」
「無理だろ」
「だろうな」
その通りだ。 撮影で体は疲れているし、昨夜までの寝不足もある。起きていようと意識したところで、あの夢は眠りの浅いところからでも引きずり込んでくる。
風呂は、もう何も言わずに昨日と同じ手順で済ませた。
二枚貝は脱衣所。 ドアは少し開ける。 気配と声が届く位置にいる。
手順に慣れてしまったことが妙に腹立たしい。 けれど、それをひとつひとつ確認していくのが今夜のための小さな儀式みたいにも感じられた。
シャワーを終えて部屋へ戻ると、オルゴールはやはり同じ場所にある。
昂夜は布団へ入る前に、一度だけその前で立ち止まった。
「……お前は、何見せたいんだよ」
無意識にそう呟いていた。
返事はない。 もちろん、あるわけもない。
それでも、閉じた蓋の向こうで音だけが待っている気がした。
布団へ入る。 隣には朔也がいる。
今日の撮影で太陽の下に長くいたせいか、朔也の体温はいつもより少し高く感じた。狭い布団の中で、その熱が近い。二枚貝由来の不安はない。代わりに、今夜来る夢だけが確実にそこにある。
「寝るか」
朔也が言う。
「ああ」
「今夜、なんか見たら」
そこで一瞬だけ言葉が切れる。
「……起きたら言う」
昂夜は小さく頷いた。
「お前もな」
電気を消す。
暗闇が落ちる。 オルゴールは見えなくなる。 なのに、見えなくなった方が余計にそこにあるのが分かる。
昂夜は目を閉じた。 眠りへ落ちる直前、どこか遠くで、まだ鳴っていないはずの旋律の最初の一音を聞いた気がした。
目を開けた時、昂夜はもう夢の中にいた。
けれど、今夜の屋敷はこれまでと少し違っていた。
静かすぎる。
高い天井も、褪せた壁紙も、厚いカーテンも同じなのに、空気の張りつめ方だけが違う。誰かが長いあいだ息を潜め続けた末に、もうその息すら尽きかけているような静けさだった。
部屋の中央に、ベッドがある。
少女はそこに横たわっていた。
昨夜のように咳き込んだり、窓辺に立ったりはしていない。ただ細い体をシーツの上に沈めたまま、胸の上へオルゴールを抱いている。もう、それを抱えていることだけが、この子の最後の意志みたいに見えた。
昂夜は足を止める。
近づこうとしても、夢の中の体は思うように動かない。 届かない。 それでも目だけは逸らせなかった。
少女の目は開いていた。
窓の方を見ている。
今夜はカーテンの隙間が少しだけ広く、外の白い光が細く差し込んでいた。風は入ってこない。ただ光だけが、ここではないどこかの広がりを思わせる。
その光へ向けられた少女の目に、もう恐怖はあまり残っていなかった。
あるのは、諦めきれない願いだけだ。
外へ行きたい。 一度でいいから。 この部屋の外へ。 空の下へ。
その願いは声にもならず、でもはっきりと昂夜の胸へ流れ込んでくる。
泣き叫ぶような強さではない。 ずっと閉じ込められて削れ続けたせいで、最後には祈りだけが薄く、透明に残ったみたいだった。
少女の指先が、かすかに動く。
オルゴールの蓋へ触れる。 開こうとする。 けれど力が足りない。
昂夜は反射的に手を伸ばした。 もちろん届かない。 夢は、それを許してくれない。
その時、不意に旋律が鳴った。
誰もねじを回していないのに。
古い子守歌みたいな音。 でも今夜は、これまでよりずっと静かで、ずっと澄んでいた。 欠けた一音があるはずなのに、そこへ差しかかるたび、少女の息そのものが代わりに鳴っているように聞こえる。
少女の唇が、ほんの少し動いた。
今度は言葉にならない。 けれど、昂夜には分かった。
助けて、ではない。 苦しい、でもない。
連れていって。 ここじゃないところへ。
その願いが、オルゴールへ染み込んでいく。
昂夜はそこで初めて理解する。
この子は誰かを呪いたかったわけじゃない。 ただ、閉じ込められたまま終わりたくなかった。 誰かに見つけてほしかった。 外へ連れ出してほしかった。 その願いだけが、死にきれずに残ったのだ。
少女の視線が、窓の光から少しだけ逸れる。
部屋の中ではなく、もっと遠く。 もう会えない誰かを思うように。
本当の両親だ、と昂夜は直感した。
オルゴールはその人たちの形見で、 この子にとっては外の世界そのものだったのだ。
旋律が、最後の一節へ近づく。
その時、少女の指がゆるむ。
オルゴールを抱く力が、消える。
部屋の空気が、ふっと止まった。
泣き声もない。 叫びもない。 ただ、長く閉じていたものがそのまま静かに途切れる感覚だけがあった。
なのに、終わりではなかった。
少女の願いだけが、そこに残っている。
外へ。 ここではない場所へ。 光のある方へ。
その祈りが部屋の中を満たした瞬間、昂夜の胸へずしりと重みが落ちる。
これだ。 この願いが、あのオルゴールを歪ませた。
見つけてほしい。 連れ出してほしい。 自分と同じ気持ちを知ってほしい。
そうして人の夢へ入り込み、同じ孤独を味わわせることでしか、もう届かなくなってしまったのだ。
昂夜がそう理解した瞬間、夢の景色が激しく揺れた。
一方、朔也の夢では、その揺れと一緒に別の断片が割り込んでいた。
少女の部屋の静けさ。 窓の光。 途切れかけた旋律。
その全部の向こうから、赤い小さな光がまた灯る。
今度は前より近い。
暗い部屋。 埃っぽい空気。 狭い空間。 誰かが目の前にいる。
顔はやはり見えない。 でも、そこにいる相手へ向けて、自分が言葉を投げた感触だけは鮮明だった。
「別に、全部なくなっても困らないだろ」
自分の声だ。
少し突き放すみたいに。 でも本気でそう思っている声ではない。 夢の中の朔也は、それを聞いた瞬間に分かった。
嘘だ。
その言葉は、平気なふりをするためのものだった。 なくなっても困らないなんて、そんなはずがない。 ほんとうは、その逆だった。
失いたくない。 壊したくない。 でも、それを認めるのが怖くて、先に切り捨てるような言い方をした。
その感情の痛みが、少女の祈りと重なる。
閉じ込められている。 外へ出せない。 大事なものの名前を、言葉にできない。
夢の中で、朔也は息を呑んだ。
「あれは俺が言った言葉だった……?」
誰に向けて。 どうして。
答えは出ない。 けれど、自分のものだという感覚だけは逃げない。
そして、その“誰か”を失ったら困るのだということも、言葉になる前の痛みとしてはっきり残る。
次の瞬間、少女の部屋も赤い光の部屋も一緒に崩れ、朔也は現実へ引き戻された。
