怪異、お持ち帰り注意

 それから一時間もしないうちに、インターホンが鳴った。
 先に来たのは司だった。  玄関を開けると、少しだけ息を弾ませて立っている。急いで支度してきたのだろう、髪もいつもより少し乱れていた。
「おはようございます」
「早いな」
「連絡の内容が内容なので」
 落ち着いた声だったが、来るまでかなり急いだことは分かった。  司は部屋へ入るなり、机の上のオルゴールを見て、それから昂夜と朔也の顔を順に見る。
「……空気、変わってますね」
「分かるか」
「昨夜までよりは。重さの質が違います」
 その数分後、壱太が駆け込んできた。
「おはよ……っていうか朝早すぎるって!」
 起き抜けの顔で、寝癖も少し残っている。けれど机の上のオルゴールを見るなり、すぐ真顔になった。
「で、三回目まで見たんだよね」
「ああ」
 それから四人は、狭い部屋の中で改めて夢の内容を整理した。  昂夜が見たのは、少女の最期と、その最後まで消えなかった願い。助けてほしいというより、ここではない場所へ連れ出してほしいという祈りだったこと。
「やはり、祓うというより」
「外へ出す、だろ」
 昂夜が言う。
「ええ」
 司もすぐに頷く。
「閉じ込められたものを、そのまま開けた場所へ持っていく方が自然です」
「高いとこがいいと思う」
 朔也がぽつりと言った。
「空が見えるとこ。屋根の下じゃなくて、ちゃんと開けてる場所」
 その言葉に、昂夜は夢で見た窓の細い光を思い出した。少女は最後まで、あの隙間の向こうを見ていた。
「神社の裏手に展望の丘があります」
 司がスマホを開きながら言う。
「ここからそう遠くないですし、朝なら人も少ないはずです」
「じゃあ、そこだね」
 壱太が言う。
「閉じた場所の真逆っぽいし」
 誰も反対しなかった。
 身支度を整え、オルゴールを布に包む。二枚貝もまだ外せないので、それぞれ持ったままだ。以前なら壱太がここで軽口を叩いていたかもしれないが、今日はさすがに静かだった。
 高台に着いたのは、朝の光がようやく白から薄い青へ変わり始めた頃だった。
 そこは小さな展望スペースになっていて、町並みの向こうまで空がよく見えた。木立はあるが視界は塞がれず、風が抜ける。閉ざされた屋敷の夢のあとでは、それだけで胸が少し楽になるような場所だった。
「……ここなら」
 昂夜が小さく言う。
 朔也も頷いた。
「うん」
 四人は展望スペースの端から少し離れた平らな場所へ立つ。  誰も余計なことは言わない。
 布に包まれていたオルゴールを、朔也がゆっくり取り出す。  白木の小さな箱は、ここへ来てもまだ静かなままだった。けれど昨夜までみたいな重さはなく、代わりに何かを待っているようにも見える。
「どうしますか」
 司が静かに聞く。
 朔也は少しだけ考えてから、オルゴールを両手で持ち直した。
「ここでいいんだよな」
 高台の風が、四人の間を抜ける。  朝の空気は冷たいが、閉じ込められた部屋の冷たさとはまるで違った。
「……ここじゃないとこ、見たかったんだろ」
 朔也がぽつりと呟く。
 それだけだった。  長い言葉はいらなかった。
 朔也は、ゆっくり蓋を開ける。
 ねじは回していない。  それなのに、一拍置いてオルゴールが鳴った。
 最初の音は、これまでと同じだった。古い子守歌のような、やわらかくて少し寂しい旋律。どこか一音足りないような、不安定な音。
 だが、風が吹いた瞬間、それが変わる。
 高台を抜ける風がオルゴールの上を撫でていく。  その途端、それまで欠けていたはずの旋律が、すっと澄んだ。
 音が、途切れない。
 薄く欠けていた場所に、ようやく最後の一音が埋まるみたいに、旋律が静かに鳴りきっていく。
 壱太が小さく息を呑む。  司も何も言わない。  昂夜はただ、その音を聞いていた。
 もう、屋敷の匂いはしない。  閉ざされた部屋の冷たさもない。  あるのは、朝の風と、澄んだ音だけだ。
 その音の向こうで、夢で見た少女の気配が一瞬だけ脳裏をよぎる。  白い服。細い肩。最後まで窓の外を見ていた目。
 けれど今度は、その気配が少しも苦しくない。  光の方へ向いている。ただ、それだけが分かった。
 旋律は最後まで静かに鳴りきった。
 音が止んだあともしばらく、誰も動かなかった。  高台を抜ける風の音だけが、木々を揺らしている。
「……終わった、のか」
 壱太が小さく言う。
 司は少し間を置いてから答えた。
「少なくとも、閉じていたものは開いたと思います」
 昂夜はゆっくり息を吐いた。  胸の奥にずっと残っていた重みが、完全ではないにせよ少し軽くなっている。あの少女の願いは、たぶんようやくここへ届いたのだ。
 朔也はまだオルゴールを見ていた。  さっきまでの張りつめた空気が、少しだけ抜けている。
「……変な感じだな」
「何が」
 昂夜が聞く。
「終わったっぽいのに、何か残ってる感じ」
 その言い方に、昂夜は少しだけ目を細めた。
「残るもんは残るだろ」
 朔也が顔を上げる。
「何が」
「さあな」
 昂夜はそれ以上言わなかった。
 壱太が、張りつめていた空気を和らげるみたいに背伸びをする。
「とりあえず、あの子は外見られたってことでいいんだよね」
「そうですね」
 司が静かに答える。
「たぶん、やっと」
 高台の空は、もうすっかり朝の色だった。
 朔也はオルゴールの蓋を閉じる。  けれどその箱は、もう昨夜までのような重さをまとってはいなかった。ただの古い小さなオルゴールに見える。
「これ、どうする」
 壱太が聞く。
 司は少し考えてから答えた。
「処分する必要はないと思います。もう、閉じ込める側のものではなくなったので」
「じゃあ」
 朔也が言う。
「しばらく預かる」
「また持つのかよ」
 昂夜が呆れる。
「今度は大丈夫だろ」
 朔也はそう言って、ほんの少しだけ笑った。  その笑い方には、前みたいな危うさが少なかった。
 高台を下りる前に、昂夜はもう一度だけ空を見上げた。  あの少女が最後まで見たかったのは、たぶんこういう広がりだったのだろう。閉じた部屋の隙間からではなく、ちゃんと自分の上にある空。
 オルゴールの話は、ここで終わる。
 けれど、終わったからといって何もかも元通りになるわけではない。  それでも、壊れたままでも残るものがあるのだと、今はまだ名前のないまま少しだけ信じられる気がした。