夜は、昨夜よりも早く部屋の中へ落ちてきた気がした。
夕食のあと、朔也は空になったカレーの容器をゴミ袋へ突っ込み、昂夜はチャーハンの蓋を閉じて小さく息を吐いた。どうせ今夜も同じように風呂を済ませ、同じ布団で眠ることになる。そう分かっているだけで、昨日より気持ちの逃げ場がない。
机の上のオルゴールは、相変わらず静かだった。
蓋は閉じたまま。誰も触れていない。なのに、視界の隅に入るたび、そこに小さな部屋がひとつ置かれているみたいな気がする。
「……」
昂夜はスマホを伏せた。
もう活字を追う気分でもなかった。昨日と違って、これから何が来るか分かっているぶんだけ、待つ時間の方がしんどい。
「風呂、先いいぞ」
朔也が言う。
昂夜は顔を上げた。
「昨日と同じでいいんだろ」
「たぶん」
「そのたぶんが嫌だって言ってんだよ」
「でも昨日は平気だったし」
たしかにそうだ。風呂に関しては、二枚貝の距離を守っていれば何とかなった。問題はそのあとだ。
結局、昨夜と同じ手順で短くシャワーを済ませた。二枚貝は脱衣所の棚。ドアは少し開けたまま。朔也の気配があると、胸の奥のざわつきは不思議なくらい静かになる。もうそれに文句をつける気力も薄れてきていて、昂夜はそれがまた少し嫌だった。
部屋へ戻ると、朔也が入れ替わる。今度は昂夜が外に立つ番だ。
「いるか」
浴室の向こうから朔也の声がする。
「いるよ」
「ならいい」
短いやり取りだけで済む。それだけで十分だった。
シャワーを終えて戻ってきた朔也は、髪も半乾きのまま布団へ入った。昂夜も少し遅れて横になる。オルゴールは、昨夜と同じ位置、机の上。蓋はやはり閉じたままだ。
「連絡しとくか」
昂夜が言うと、朔也は「ああ」とだけ返した。
司には「今から寝る」、壱太には「たぶん平気」とだけ送る。壱太からはすぐに「たぶんって何!」と返ってきたが、もう返す気力はなかった。
部屋の電気を消す。
暗闇の中、昂夜は隣の朔也の気配を意識した。昨日ほどじゃない。昨日は同じ布団という状況そのものに落ち着かなかった。今日は、その気まずさを上回る形で、夢への嫌な予感が先にある。
「起きたら、また同じ夢の話か」
昂夜が小さく言う。
「そうかもな」
朔也の返事は、すでに少し眠そうだった。
「お前、よくそんな普通に寝れるな」
「眠いし」
「……呑気すぎる」
そこで会話は途切れた。
昂夜はしばらく天井を見ていたつもりだった。けれど、意識は思ったより早く沈んだ。
目を開けた時、もうあの部屋にいた。
昨夜と同じ、知らない屋敷の一室。高い天井。褪せた壁紙。厚いカーテン。閉ざされた空気。
けれど昨夜よりも、少しだけ近い。
昂夜は最初からその部屋の冷たさを知っていた。だから、夢だと理解するより先に胸が重くなる。
オルゴールの旋律が流れている。昨夜と同じはずなのに、今夜はもっと近く、もっとはっきり耳に残る。やわらかな子守歌のようでいて、途中の欠けた音が余計に寂しさを際立たせていた。
少女は窓際に立っていた。
昨日は椅子に座っていた背中が、今夜は窓の方へ向いている。細い肩。少し大きすぎる白い服。足元は裸足だった。
窓の外を見ている。でも、外は見えない。カーテンの隙間からわずかに光が差しているだけだ。
「……」
昂夜は声を出そうとして、やめた。昨夜も届かなかった。今夜も同じだと、夢の中の自分が先に知っている。
少女が小さく咳をした。
その音が、妙に生々しかった。
ただの夢の演出じゃない。乾いていて、喉の奥が痛むような、小さな咳だ。それを二度、三度と繰り返して、少女は窓枠へ片手をつく。
立っているだけでもつらそうだった。
昂夜の胸の奥へ、また知らない感情が流れ込んでくる。
苦しい。だるい。体が重い。お腹が空いているのに、食べる気力もない。外へ行きたい。風がほしい。でも、ここから出られない。
それは少女の感情だった。そのはずなのに、昂夜の体まで少しずつ重くなる。
廊下の向こうで扉が鳴る音がした。
少女がびくりと振り返る。その拍子に、窓際の小さな棚に置かれていたオルゴールへ視線が落ちる。彼女はそれをすがるみたいに抱き上げ、胸へ引き寄せた。
大事なものなのだと分かる。怖い時、ひとりの時、助けを呼べない時、これだけが彼女の手の中にあったのだ。
扉は開かない。ただ向こうに誰かの気配だけがある。
低い声。女か男かも判別しづらい、押し殺したような話し声。でも、そこに愛情がないことだけははっきり分かった。
少女はベッドの端へ腰を下ろした。動作がゆっくりすぎる。疲れているのだ。衰弱しているのだと、説明されなくても分かる。
机の上には、ほとんど手のついていない皿が置かれていた。乾いたパンの欠片のようなものと、水の少ないコップ。
昂夜の喉の奥がひりつく。
これは夢ではあるが、夢の形をした記憶だ。しかも、一番つらいところだけを何度も見せるための。
少女はオルゴールの蓋を開けた。旋律が流れる。
その音を聞いている間だけ、彼女の顔から少しだけ恐怖が薄れる。代わりに、どうしようもない寂しさが浮かぶ。
唇が動く。
今度は、ほんの少しだけ聞き取れた気がした。
「おかあさん」
小さい。ほとんど息みたいな声だ。
その一言で、胸の奥がぎゅっと縮んだ。本当の両親の形見。このオルゴールだけが、もう会えない誰かへ続く最後の糸だったのかもしれない。
少女がオルゴールを抱きしめる。 痩せた指先が白くなる。 窓の外へ向く目だけが、どうしようもなく外の光を欲しがっている。
外へ出たい。 風に触れたい。 たったそれだけの願いが、もう祈りではなく痛みに変わっていた。
その重さが胸に落ちた瞬間、昂夜は現実へ引き戻された。
一方、朔也の夢はそこで終わらなかった。
同じ屋敷。 同じ少女。 同じ、息の詰まる空気。
けれど少女がオルゴールを胸へ抱いた瞬間、夢の底で何かがずれた。
視界の端に、赤い小さな光が揺れる。
屋敷のランプではない。もっと人工的で、暗い場所にぽつりと灯る機械の赤。 見覚えがある気がした。どこで見たのかは分からないのに、胸だけが先にざわつく。
湿った古い屋敷の匂いに、乾いた埃の匂いが混ざる。 壁紙の花模様が、ひび割れた灰色の壁へ一瞬だけ変わる。
「……」
夢の中の朔也は立ち尽くした。
少女の咳が聞こえる。 オルゴールの音が聞こえる。 でもその向こうから、別の何かが呼んでいる。
声そのものは曖昧なのに、呼ばれている感覚だけが妙にはっきりしていた。
次の瞬間、視界がまた切り替わる。
狭い部屋。 むき出しの床。 古い機材のランプが赤く灯っている。 暗い。埃っぽい。息を吸うと喉の奥がざらつく。
その空間に立った瞬間、朔也は夢の中なのに妙な焦りを覚えた。
何かをしなければいけない。 今すぐ。 たぶん、渡さなければいけない。
理由は分からない。 でも、その衝動だけがはっきりしている。
夢の中の自分の手のひらに、小さなお守りがあった。
紐のついた、飾り気の少ないお守りだ。 布の色も、結び目の感じも、妙に手に馴染む。 いつから持っていたのか分からない。 なのに、これを自分が渡すのだと、なぜか最初から知っていた。
目の前には誰かがいる。
顔ははっきり見えない。 けれど、その相手に渡さなければいけないことだけが、胸の奥へ強く落ちてくる。
持っててほしい。 なくさないでほしい。 自分の代わりに、ではない。 でも、たぶんこれを渡さないと駄目だ。
夢の中の朔也は、ほとんど無意識みたいな動きでそのお守りを差し出した。
手が届く。 相手が受け取る。 その瞬間、胸の奥のざわつきがほんの少しだけ静かになる。
よかった、と夢の中で思った。
ちゃんと渡せた。 それだけで、何かひとつ間に合ったような気がした。
でも次の瞬間には、その光景は霧の向こうへ引いていく。 自分がなぜ渡したかったのかも、誰に渡したのかも、輪郭だけを残してぼやけていく。
代わりにまた、少女の部屋の冷たさが戻ってくる。
痩せた少女がオルゴールを抱えたまま、窓の外を見ている。
外へ出たい。 でも出られない。
その願いと、自分の中から消えていく何かが、一瞬だけ重なった。
知っていたはずのものがある。 大事だったはずのものがある。 でも、もう掴めない。
その喪失感が胸を強く抉った瞬間、朔也も現実へ引き戻された。
目を開けると、まだ夜明け前だった。
「っ、は……」
昂夜の呼吸が荒い。 その横で、朔也も同時に起き上がっていた。
「……また」 朔也が、息を整えながら言う。その顔は昨夜より明らかに青い。
「見た」 昂夜が答える。
二人の声が重なるみたいに、部屋の静けさへ落ちる。
机の上のオルゴールは、やはり閉じたままだ。でも今は、何かを黙ってしまい込んでいる箱にしか見えなかった。
「女の子」 朔也が低く言う。 「痩せてた」
「……ああ」
「咳してた」
「そうだな」
そこまでは同じだ。
朔也は膝を立てたまま、片手で顔を覆った。
「でもまた、変なの混ざった」
昂夜は黙ってそちらを見る。
「今度はもう少し、はっきりしてた気がする」
「何が」
しばらく沈黙があった。
「……声」 朔也が言う。 「誰かの声」
「誰の」
「分かんねえ」 即答だった。でも、分からないこと自体に苛立っているのが伝わる。
「近かった。知ってる感じした。でも、思い出そうとすると逃げる」
その言葉に、昂夜の喉が少し詰まる。
「あと、手」 「手?」
「誰かに掴まれてた感じがする」
そこで朔也は眉を寄せ、夢の中の感触を探るみたいに指先を握った。
「熱かった」
短いその言葉が、妙に生々しい。
昂夜は返事ができなかった。
夢を見たのは少女のはずだ。なのに、その中に朔也の別の記憶が混ざってくる。しかもそれは、ただの悪夢のノイズじゃない。何か現実に触れている感触を伴っている。
「……ただの夢じゃねえな」 昂夜がようやくそう言うと、朔也は顔を覆ったまま頷いた。
「うん」
「たぶん次で、もっとはっきり出る」
その予感が、二人の間で妙に確信めいて共有されていた。
まだ外は明るくなりきっていない。けれど、眠り直す気にはどうしてもなれなかった。
昂夜はスマホを手に取る。時間を確かめ、司へ短くメッセージを打つ。
また同じ夢を見た。昨夜よりはっきりしてる。
送信すると、すぐには返事は来なかった。こんな時間だ、当然だ。
だが、画面を伏せたあとも、昂夜はしばらく机の上のオルゴールから目を離せなかった。
少女の願い。 閉じ込められた部屋。 外へ出られなかった時間。 それに引っかかっている、朔也の中の何か。
今夜、三度目の夢を見る。 そしてたぶん、その先で何かが決まる。
そう思うだけで、胸の奥がじわりと重くなる。
隣で、朔也が小さく息を吐いた。
その時、ふと視線が床へ落ちた。 昂夜の鞄が、壁際に立てかけてある。 その金具に、小さなお守りが下がっていた。
朔也の目が、そこで止まる。
「……」
何だろう、と思った。
見たことがある、というより。 触ったことがある気がする。
いや、それだけじゃない。 ついさっき夢の中で、自分の手の中にあったものに少し似ている。
しかも胸の奥に残っている感覚は、懐かしさより先に、これを渡さなくちゃと思っていたあの妙な焦りの方だった。
「どうした」 昂夜が気づいて聞く。
朔也は数秒黙ってから、首を軽く振った。
「いや」
「何だよ」
「……あれ」 視線だけで鞄を示す。 「前から付いてたっけ」
昂夜は一瞬だけ言葉を止めた。 それから、何でもないふうを装って答える。
「さあな」
朔也はまだそのお守りを見ていた。
自分があれを知っている気がする。 それどころか、誰かに渡した記憶の輪郭に少し似ている。 でも、そこまで考えたところで霧みたいに感覚が薄れていく。
「……気のせいか」
小さくそう呟いて、視線を外す。
昂夜はその横顔を見ながら、何も言わなかった。
お守りのことも。 朔也がそれを見て立ち止まったことも。 今は、まだ言葉にしない方がいい気がした。
窓の外は、少しずつ朝へ近づいている。
二夜目は終わった。 けれど、夢の湿った空気はまだ部屋の隅に残っていた。
夕食のあと、朔也は空になったカレーの容器をゴミ袋へ突っ込み、昂夜はチャーハンの蓋を閉じて小さく息を吐いた。どうせ今夜も同じように風呂を済ませ、同じ布団で眠ることになる。そう分かっているだけで、昨日より気持ちの逃げ場がない。
机の上のオルゴールは、相変わらず静かだった。
蓋は閉じたまま。誰も触れていない。なのに、視界の隅に入るたび、そこに小さな部屋がひとつ置かれているみたいな気がする。
「……」
昂夜はスマホを伏せた。
もう活字を追う気分でもなかった。昨日と違って、これから何が来るか分かっているぶんだけ、待つ時間の方がしんどい。
「風呂、先いいぞ」
朔也が言う。
昂夜は顔を上げた。
「昨日と同じでいいんだろ」
「たぶん」
「そのたぶんが嫌だって言ってんだよ」
「でも昨日は平気だったし」
たしかにそうだ。風呂に関しては、二枚貝の距離を守っていれば何とかなった。問題はそのあとだ。
結局、昨夜と同じ手順で短くシャワーを済ませた。二枚貝は脱衣所の棚。ドアは少し開けたまま。朔也の気配があると、胸の奥のざわつきは不思議なくらい静かになる。もうそれに文句をつける気力も薄れてきていて、昂夜はそれがまた少し嫌だった。
部屋へ戻ると、朔也が入れ替わる。今度は昂夜が外に立つ番だ。
「いるか」
浴室の向こうから朔也の声がする。
「いるよ」
「ならいい」
短いやり取りだけで済む。それだけで十分だった。
シャワーを終えて戻ってきた朔也は、髪も半乾きのまま布団へ入った。昂夜も少し遅れて横になる。オルゴールは、昨夜と同じ位置、机の上。蓋はやはり閉じたままだ。
「連絡しとくか」
昂夜が言うと、朔也は「ああ」とだけ返した。
司には「今から寝る」、壱太には「たぶん平気」とだけ送る。壱太からはすぐに「たぶんって何!」と返ってきたが、もう返す気力はなかった。
部屋の電気を消す。
暗闇の中、昂夜は隣の朔也の気配を意識した。昨日ほどじゃない。昨日は同じ布団という状況そのものに落ち着かなかった。今日は、その気まずさを上回る形で、夢への嫌な予感が先にある。
「起きたら、また同じ夢の話か」
昂夜が小さく言う。
「そうかもな」
朔也の返事は、すでに少し眠そうだった。
「お前、よくそんな普通に寝れるな」
「眠いし」
「……呑気すぎる」
そこで会話は途切れた。
昂夜はしばらく天井を見ていたつもりだった。けれど、意識は思ったより早く沈んだ。
目を開けた時、もうあの部屋にいた。
昨夜と同じ、知らない屋敷の一室。高い天井。褪せた壁紙。厚いカーテン。閉ざされた空気。
けれど昨夜よりも、少しだけ近い。
昂夜は最初からその部屋の冷たさを知っていた。だから、夢だと理解するより先に胸が重くなる。
オルゴールの旋律が流れている。昨夜と同じはずなのに、今夜はもっと近く、もっとはっきり耳に残る。やわらかな子守歌のようでいて、途中の欠けた音が余計に寂しさを際立たせていた。
少女は窓際に立っていた。
昨日は椅子に座っていた背中が、今夜は窓の方へ向いている。細い肩。少し大きすぎる白い服。足元は裸足だった。
窓の外を見ている。でも、外は見えない。カーテンの隙間からわずかに光が差しているだけだ。
「……」
昂夜は声を出そうとして、やめた。昨夜も届かなかった。今夜も同じだと、夢の中の自分が先に知っている。
少女が小さく咳をした。
その音が、妙に生々しかった。
ただの夢の演出じゃない。乾いていて、喉の奥が痛むような、小さな咳だ。それを二度、三度と繰り返して、少女は窓枠へ片手をつく。
立っているだけでもつらそうだった。
昂夜の胸の奥へ、また知らない感情が流れ込んでくる。
苦しい。だるい。体が重い。お腹が空いているのに、食べる気力もない。外へ行きたい。風がほしい。でも、ここから出られない。
それは少女の感情だった。そのはずなのに、昂夜の体まで少しずつ重くなる。
廊下の向こうで扉が鳴る音がした。
少女がびくりと振り返る。その拍子に、窓際の小さな棚に置かれていたオルゴールへ視線が落ちる。彼女はそれをすがるみたいに抱き上げ、胸へ引き寄せた。
大事なものなのだと分かる。怖い時、ひとりの時、助けを呼べない時、これだけが彼女の手の中にあったのだ。
扉は開かない。ただ向こうに誰かの気配だけがある。
低い声。女か男かも判別しづらい、押し殺したような話し声。でも、そこに愛情がないことだけははっきり分かった。
少女はベッドの端へ腰を下ろした。動作がゆっくりすぎる。疲れているのだ。衰弱しているのだと、説明されなくても分かる。
机の上には、ほとんど手のついていない皿が置かれていた。乾いたパンの欠片のようなものと、水の少ないコップ。
昂夜の喉の奥がひりつく。
これは夢ではあるが、夢の形をした記憶だ。しかも、一番つらいところだけを何度も見せるための。
少女はオルゴールの蓋を開けた。旋律が流れる。
その音を聞いている間だけ、彼女の顔から少しだけ恐怖が薄れる。代わりに、どうしようもない寂しさが浮かぶ。
唇が動く。
今度は、ほんの少しだけ聞き取れた気がした。
「おかあさん」
小さい。ほとんど息みたいな声だ。
その一言で、胸の奥がぎゅっと縮んだ。本当の両親の形見。このオルゴールだけが、もう会えない誰かへ続く最後の糸だったのかもしれない。
少女がオルゴールを抱きしめる。 痩せた指先が白くなる。 窓の外へ向く目だけが、どうしようもなく外の光を欲しがっている。
外へ出たい。 風に触れたい。 たったそれだけの願いが、もう祈りではなく痛みに変わっていた。
その重さが胸に落ちた瞬間、昂夜は現実へ引き戻された。
一方、朔也の夢はそこで終わらなかった。
同じ屋敷。 同じ少女。 同じ、息の詰まる空気。
けれど少女がオルゴールを胸へ抱いた瞬間、夢の底で何かがずれた。
視界の端に、赤い小さな光が揺れる。
屋敷のランプではない。もっと人工的で、暗い場所にぽつりと灯る機械の赤。 見覚えがある気がした。どこで見たのかは分からないのに、胸だけが先にざわつく。
湿った古い屋敷の匂いに、乾いた埃の匂いが混ざる。 壁紙の花模様が、ひび割れた灰色の壁へ一瞬だけ変わる。
「……」
夢の中の朔也は立ち尽くした。
少女の咳が聞こえる。 オルゴールの音が聞こえる。 でもその向こうから、別の何かが呼んでいる。
声そのものは曖昧なのに、呼ばれている感覚だけが妙にはっきりしていた。
次の瞬間、視界がまた切り替わる。
狭い部屋。 むき出しの床。 古い機材のランプが赤く灯っている。 暗い。埃っぽい。息を吸うと喉の奥がざらつく。
その空間に立った瞬間、朔也は夢の中なのに妙な焦りを覚えた。
何かをしなければいけない。 今すぐ。 たぶん、渡さなければいけない。
理由は分からない。 でも、その衝動だけがはっきりしている。
夢の中の自分の手のひらに、小さなお守りがあった。
紐のついた、飾り気の少ないお守りだ。 布の色も、結び目の感じも、妙に手に馴染む。 いつから持っていたのか分からない。 なのに、これを自分が渡すのだと、なぜか最初から知っていた。
目の前には誰かがいる。
顔ははっきり見えない。 けれど、その相手に渡さなければいけないことだけが、胸の奥へ強く落ちてくる。
持っててほしい。 なくさないでほしい。 自分の代わりに、ではない。 でも、たぶんこれを渡さないと駄目だ。
夢の中の朔也は、ほとんど無意識みたいな動きでそのお守りを差し出した。
手が届く。 相手が受け取る。 その瞬間、胸の奥のざわつきがほんの少しだけ静かになる。
よかった、と夢の中で思った。
ちゃんと渡せた。 それだけで、何かひとつ間に合ったような気がした。
でも次の瞬間には、その光景は霧の向こうへ引いていく。 自分がなぜ渡したかったのかも、誰に渡したのかも、輪郭だけを残してぼやけていく。
代わりにまた、少女の部屋の冷たさが戻ってくる。
痩せた少女がオルゴールを抱えたまま、窓の外を見ている。
外へ出たい。 でも出られない。
その願いと、自分の中から消えていく何かが、一瞬だけ重なった。
知っていたはずのものがある。 大事だったはずのものがある。 でも、もう掴めない。
その喪失感が胸を強く抉った瞬間、朔也も現実へ引き戻された。
目を開けると、まだ夜明け前だった。
「っ、は……」
昂夜の呼吸が荒い。 その横で、朔也も同時に起き上がっていた。
「……また」 朔也が、息を整えながら言う。その顔は昨夜より明らかに青い。
「見た」 昂夜が答える。
二人の声が重なるみたいに、部屋の静けさへ落ちる。
机の上のオルゴールは、やはり閉じたままだ。でも今は、何かを黙ってしまい込んでいる箱にしか見えなかった。
「女の子」 朔也が低く言う。 「痩せてた」
「……ああ」
「咳してた」
「そうだな」
そこまでは同じだ。
朔也は膝を立てたまま、片手で顔を覆った。
「でもまた、変なの混ざった」
昂夜は黙ってそちらを見る。
「今度はもう少し、はっきりしてた気がする」
「何が」
しばらく沈黙があった。
「……声」 朔也が言う。 「誰かの声」
「誰の」
「分かんねえ」 即答だった。でも、分からないこと自体に苛立っているのが伝わる。
「近かった。知ってる感じした。でも、思い出そうとすると逃げる」
その言葉に、昂夜の喉が少し詰まる。
「あと、手」 「手?」
「誰かに掴まれてた感じがする」
そこで朔也は眉を寄せ、夢の中の感触を探るみたいに指先を握った。
「熱かった」
短いその言葉が、妙に生々しい。
昂夜は返事ができなかった。
夢を見たのは少女のはずだ。なのに、その中に朔也の別の記憶が混ざってくる。しかもそれは、ただの悪夢のノイズじゃない。何か現実に触れている感触を伴っている。
「……ただの夢じゃねえな」 昂夜がようやくそう言うと、朔也は顔を覆ったまま頷いた。
「うん」
「たぶん次で、もっとはっきり出る」
その予感が、二人の間で妙に確信めいて共有されていた。
まだ外は明るくなりきっていない。けれど、眠り直す気にはどうしてもなれなかった。
昂夜はスマホを手に取る。時間を確かめ、司へ短くメッセージを打つ。
また同じ夢を見た。昨夜よりはっきりしてる。
送信すると、すぐには返事は来なかった。こんな時間だ、当然だ。
だが、画面を伏せたあとも、昂夜はしばらく机の上のオルゴールから目を離せなかった。
少女の願い。 閉じ込められた部屋。 外へ出られなかった時間。 それに引っかかっている、朔也の中の何か。
今夜、三度目の夢を見る。 そしてたぶん、その先で何かが決まる。
そう思うだけで、胸の奥がじわりと重くなる。
隣で、朔也が小さく息を吐いた。
その時、ふと視線が床へ落ちた。 昂夜の鞄が、壁際に立てかけてある。 その金具に、小さなお守りが下がっていた。
朔也の目が、そこで止まる。
「……」
何だろう、と思った。
見たことがある、というより。 触ったことがある気がする。
いや、それだけじゃない。 ついさっき夢の中で、自分の手の中にあったものに少し似ている。
しかも胸の奥に残っている感覚は、懐かしさより先に、これを渡さなくちゃと思っていたあの妙な焦りの方だった。
「どうした」 昂夜が気づいて聞く。
朔也は数秒黙ってから、首を軽く振った。
「いや」
「何だよ」
「……あれ」 視線だけで鞄を示す。 「前から付いてたっけ」
昂夜は一瞬だけ言葉を止めた。 それから、何でもないふうを装って答える。
「さあな」
朔也はまだそのお守りを見ていた。
自分があれを知っている気がする。 それどころか、誰かに渡した記憶の輪郭に少し似ている。 でも、そこまで考えたところで霧みたいに感覚が薄れていく。
「……気のせいか」
小さくそう呟いて、視線を外す。
昂夜はその横顔を見ながら、何も言わなかった。
お守りのことも。 朔也がそれを見て立ち止まったことも。 今は、まだ言葉にしない方がいい気がした。
窓の外は、少しずつ朝へ近づいている。
二夜目は終わった。 けれど、夢の湿った空気はまだ部屋の隅に残っていた。
