怪異、お持ち帰り注意

 夜は、昨夜よりも早く部屋の中へ落ちてきた気がした。
 夕食のあと、朔也は空になったカレーの容器をゴミ袋へ突っ込み、昂夜はチャーハンの蓋を閉じて小さく息を吐いた。どうせ今夜も同じように風呂を済ませ、同じ布団で眠ることになる。そう分かっているだけで、昨日より気持ちの逃げ場がない。
 机の上のオルゴールは、相変わらず静かだった。
 蓋は閉じたまま。誰も触れていない。なのに、視界の隅に入るたび、そこに小さな部屋がひとつ置かれているみたいな気がする。
「……」
 昂夜はスマホを伏せた。
 もう活字を追う気分でもなかった。昨日と違って、これから何が来るか分かっているぶんだけ、待つ時間の方がしんどい。
「風呂、先いいぞ」
 朔也が言う。
 昂夜は顔を上げた。
「昨日と同じでいいんだろ」
「たぶん」
「そのたぶんが嫌だって言ってんだよ」
「でも昨日は平気だったし」
 たしかにそうだ。風呂に関しては、二枚貝の距離を守っていれば何とかなった。問題はそのあとだ。
 結局、昨夜と同じ手順で短くシャワーを済ませた。二枚貝は脱衣所の棚。ドアは少し開けたまま。朔也の気配があると、胸の奥のざわつきは不思議なくらい静かになる。もうそれに文句をつける気力も薄れてきていて、昂夜はそれがまた少し嫌だった。
 部屋へ戻ると、朔也が入れ替わる。今度は昂夜が外に立つ番だ。
「いるか」
 浴室の向こうから朔也の声がする。
「いるよ」
「ならいい」
 短いやり取りだけで済む。それだけで十分だった。
 シャワーを終えて戻ってきた朔也は、髪も半乾きのまま布団へ入った。昂夜も少し遅れて横になる。オルゴールは、昨夜と同じ位置、机の上。蓋はやはり閉じたままだ。
「連絡しとくか」
 昂夜が言うと、朔也は「ああ」とだけ返した。
 司には「今から寝る」、壱太には「たぶん平気」とだけ送る。壱太からはすぐに「たぶんって何!」と返ってきたが、もう返す気力はなかった。
 部屋の電気を消す。
 暗闇の中、昂夜は隣の朔也の気配を意識した。昨日ほどじゃない。昨日は同じ布団という状況そのものに落ち着かなかった。今日は、その気まずさを上回る形で、夢への嫌な予感が先にある。
「起きたら、また同じ夢の話か」
 昂夜が小さく言う。
「そうかもな」
 朔也の返事は、すでに少し眠そうだった。
「お前、よくそんな普通に寝れるな」
「眠いし」
「……呑気すぎる」
 そこで会話は途切れた。
 昂夜はしばらく天井を見ていたつもりだった。けれど、意識は思ったより早く沈んだ。
 目を開けた時、もうあの部屋にいた。
 昨夜と同じ、知らない屋敷の一室。高い天井。褪せた壁紙。厚いカーテン。閉ざされた空気。
 けれど昨夜よりも、少しだけ近い。
 昂夜は最初からその部屋の冷たさを知っていた。だから、夢だと理解するより先に胸が重くなる。
 オルゴールの旋律が流れている。昨夜と同じはずなのに、今夜はもっと近く、もっとはっきり耳に残る。やわらかな子守歌のようでいて、途中の欠けた音が余計に寂しさを際立たせていた。
 少女は窓際に立っていた。
 昨日は椅子に座っていた背中が、今夜は窓の方へ向いている。細い肩。少し大きすぎる白い服。足元は裸足だった。
 窓の外を見ている。でも、外は見えない。カーテンの隙間からわずかに光が差しているだけだ。
「……」
 昂夜は声を出そうとして、やめた。昨夜も届かなかった。今夜も同じだと、夢の中の自分が先に知っている。
 少女が小さく咳をした。
 その音が、妙に生々しかった。
 ただの夢の演出じゃない。乾いていて、喉の奥が痛むような、小さな咳だ。それを二度、三度と繰り返して、少女は窓枠へ片手をつく。
 立っているだけでもつらそうだった。
 昂夜の胸の奥へ、また知らない感情が流れ込んでくる。
 苦しい。だるい。体が重い。お腹が空いているのに、食べる気力もない。外へ行きたい。風がほしい。でも、ここから出られない。
 それは少女の感情だった。そのはずなのに、昂夜の体まで少しずつ重くなる。
 廊下の向こうで扉が鳴る音がした。
 少女がびくりと振り返る。その拍子に、窓際の小さな棚に置かれていたオルゴールへ視線が落ちる。彼女はそれをすがるみたいに抱き上げ、胸へ引き寄せた。
 大事なものなのだと分かる。怖い時、ひとりの時、助けを呼べない時、これだけが彼女の手の中にあったのだ。
 扉は開かない。ただ向こうに誰かの気配だけがある。
 低い声。女か男かも判別しづらい、押し殺したような話し声。でも、そこに愛情がないことだけははっきり分かった。
 少女はベッドの端へ腰を下ろした。動作がゆっくりすぎる。疲れているのだ。衰弱しているのだと、説明されなくても分かる。
 机の上には、ほとんど手のついていない皿が置かれていた。乾いたパンの欠片のようなものと、水の少ないコップ。
 昂夜の喉の奥がひりつく。
 これは夢ではあるが、夢の形をした記憶だ。しかも、一番つらいところだけを何度も見せるための。
 少女はオルゴールの蓋を開けた。旋律が流れる。
 その音を聞いている間だけ、彼女の顔から少しだけ恐怖が薄れる。代わりに、どうしようもない寂しさが浮かぶ。
 唇が動く。
 今度は、ほんの少しだけ聞き取れた気がした。
「おかあさん」
 小さい。ほとんど息みたいな声だ。
 その一言で、胸の奥がぎゅっと縮んだ。本当の両親の形見。このオルゴールだけが、もう会えない誰かへ続く最後の糸だったのかもしれない。
 少女がオルゴールを抱きしめる。  痩せた指先が白くなる。  窓の外へ向く目だけが、どうしようもなく外の光を欲しがっている。
 外へ出たい。  風に触れたい。  たったそれだけの願いが、もう祈りではなく痛みに変わっていた。
 その重さが胸に落ちた瞬間、昂夜は現実へ引き戻された。
 一方、朔也の夢はそこで終わらなかった。
 同じ屋敷。  同じ少女。  同じ、息の詰まる空気。
 けれど少女がオルゴールを胸へ抱いた瞬間、夢の底で何かがずれた。
 視界の端に、赤い小さな光が揺れる。
 屋敷のランプではない。もっと人工的で、暗い場所にぽつりと灯る機械の赤。  見覚えがある気がした。どこで見たのかは分からないのに、胸だけが先にざわつく。
 湿った古い屋敷の匂いに、乾いた埃の匂いが混ざる。  壁紙の花模様が、ひび割れた灰色の壁へ一瞬だけ変わる。
「……」
 夢の中の朔也は立ち尽くした。
 少女の咳が聞こえる。  オルゴールの音が聞こえる。  でもその向こうから、別の何かが呼んでいる。
 声そのものは曖昧なのに、呼ばれている感覚だけが妙にはっきりしていた。
 次の瞬間、視界がまた切り替わる。
 狭い部屋。  むき出しの床。  古い機材のランプが赤く灯っている。  暗い。埃っぽい。息を吸うと喉の奥がざらつく。
 その空間に立った瞬間、朔也は夢の中なのに妙な焦りを覚えた。
 何かをしなければいけない。  今すぐ。  たぶん、渡さなければいけない。
 理由は分からない。  でも、その衝動だけがはっきりしている。
 夢の中の自分の手のひらに、小さなお守りがあった。
 紐のついた、飾り気の少ないお守りだ。  布の色も、結び目の感じも、妙に手に馴染む。  いつから持っていたのか分からない。  なのに、これを自分が渡すのだと、なぜか最初から知っていた。
 目の前には誰かがいる。
 顔ははっきり見えない。  けれど、その相手に渡さなければいけないことだけが、胸の奥へ強く落ちてくる。
 持っててほしい。  なくさないでほしい。  自分の代わりに、ではない。  でも、たぶんこれを渡さないと駄目だ。
 夢の中の朔也は、ほとんど無意識みたいな動きでそのお守りを差し出した。
 手が届く。  相手が受け取る。  その瞬間、胸の奥のざわつきがほんの少しだけ静かになる。
 よかった、と夢の中で思った。
 ちゃんと渡せた。  それだけで、何かひとつ間に合ったような気がした。
 でも次の瞬間には、その光景は霧の向こうへ引いていく。  自分がなぜ渡したかったのかも、誰に渡したのかも、輪郭だけを残してぼやけていく。
 代わりにまた、少女の部屋の冷たさが戻ってくる。
 痩せた少女がオルゴールを抱えたまま、窓の外を見ている。
 外へ出たい。  でも出られない。
 その願いと、自分の中から消えていく何かが、一瞬だけ重なった。
 知っていたはずのものがある。  大事だったはずのものがある。  でも、もう掴めない。
 その喪失感が胸を強く抉った瞬間、朔也も現実へ引き戻された。
 目を開けると、まだ夜明け前だった。
「っ、は……」
 昂夜の呼吸が荒い。  その横で、朔也も同時に起き上がっていた。
「……また」  朔也が、息を整えながら言う。その顔は昨夜より明らかに青い。
「見た」  昂夜が答える。
 二人の声が重なるみたいに、部屋の静けさへ落ちる。
 机の上のオルゴールは、やはり閉じたままだ。でも今は、何かを黙ってしまい込んでいる箱にしか見えなかった。
「女の子」  朔也が低く言う。 「痩せてた」
「……ああ」
「咳してた」
「そうだな」
 そこまでは同じだ。
 朔也は膝を立てたまま、片手で顔を覆った。
「でもまた、変なの混ざった」
 昂夜は黙ってそちらを見る。
「今度はもう少し、はっきりしてた気がする」
「何が」
 しばらく沈黙があった。
「……声」  朔也が言う。 「誰かの声」
「誰の」
「分かんねえ」  即答だった。でも、分からないこと自体に苛立っているのが伝わる。
「近かった。知ってる感じした。でも、思い出そうとすると逃げる」
 その言葉に、昂夜の喉が少し詰まる。
「あと、手」 「手?」
「誰かに掴まれてた感じがする」
 そこで朔也は眉を寄せ、夢の中の感触を探るみたいに指先を握った。
「熱かった」
 短いその言葉が、妙に生々しい。
 昂夜は返事ができなかった。
 夢を見たのは少女のはずだ。なのに、その中に朔也の別の記憶が混ざってくる。しかもそれは、ただの悪夢のノイズじゃない。何か現実に触れている感触を伴っている。
「……ただの夢じゃねえな」  昂夜がようやくそう言うと、朔也は顔を覆ったまま頷いた。
「うん」
「たぶん次で、もっとはっきり出る」
 その予感が、二人の間で妙に確信めいて共有されていた。
 まだ外は明るくなりきっていない。けれど、眠り直す気にはどうしてもなれなかった。
 昂夜はスマホを手に取る。時間を確かめ、司へ短くメッセージを打つ。
 また同じ夢を見た。昨夜よりはっきりしてる。
 送信すると、すぐには返事は来なかった。こんな時間だ、当然だ。
 だが、画面を伏せたあとも、昂夜はしばらく机の上のオルゴールから目を離せなかった。
 少女の願い。  閉じ込められた部屋。  外へ出られなかった時間。  それに引っかかっている、朔也の中の何か。
 今夜、三度目の夢を見る。  そしてたぶん、その先で何かが決まる。
 そう思うだけで、胸の奥がじわりと重くなる。
 隣で、朔也が小さく息を吐いた。
 その時、ふと視線が床へ落ちた。  昂夜の鞄が、壁際に立てかけてある。  その金具に、小さなお守りが下がっていた。
 朔也の目が、そこで止まる。
「……」
 何だろう、と思った。
 見たことがある、というより。  触ったことがある気がする。
 いや、それだけじゃない。  ついさっき夢の中で、自分の手の中にあったものに少し似ている。
 しかも胸の奥に残っている感覚は、懐かしさより先に、これを渡さなくちゃと思っていたあの妙な焦りの方だった。
「どうした」  昂夜が気づいて聞く。
 朔也は数秒黙ってから、首を軽く振った。
「いや」
「何だよ」
「……あれ」  視線だけで鞄を示す。 「前から付いてたっけ」
 昂夜は一瞬だけ言葉を止めた。  それから、何でもないふうを装って答える。
「さあな」
 朔也はまだそのお守りを見ていた。
 自分があれを知っている気がする。  それどころか、誰かに渡した記憶の輪郭に少し似ている。  でも、そこまで考えたところで霧みたいに感覚が薄れていく。
「……気のせいか」
 小さくそう呟いて、視線を外す。
 昂夜はその横顔を見ながら、何も言わなかった。
 お守りのことも。  朔也がそれを見て立ち止まったことも。  今は、まだ言葉にしない方がいい気がした。
 窓の外は、少しずつ朝へ近づいている。
 二夜目は終わった。  けれど、夢の湿った空気はまだ部屋の隅に残っていた。