その日の夕方、昂夜は一度だけ自分の部屋へ戻った。
朔也の部屋に泊まる日が増えてきて、必要なものをいちいち取りに帰るのも面倒になっている。どうせ今夜も向こうで過ごすのなら、着替えや充電器や細々したものを少しまとめておいた方が早い。
部屋に入ると、慣れた空気が鼻先をかすめた。 落ち着くはずの場所なのに、最近はここにひとりでいると、妙に静かすぎる気がする。 それが二枚貝のせいなのか、それとも別の意味で慣れてしまったのかは、自分でもよく分からなかった。
昂夜はクローゼットを開け、適当にシャツや下着を引っ張り出してベッドの上へ置く。洗面台の前で整髪料や歯ブラシをまとめ、充電器を抜き、使い慣れた本を一冊だけ鞄へ入れた。
その時だった。
棚の端に押しやられていた小さなものが、視界の隅に引っかかった。
「……」
手を伸ばして取る。
紐の付いた、小さなお守りだった。 派手さのない布地に、少し色褪せた糸。神社で売っているような整ったものではなく、もっと素朴で、どこか手の温度が残るような見た目をしている。
昂夜はそれを掌に乗せたまま、しばらく動かなかった。
いつだったか。 いや、いつだったかは知っている。
朔也がまだ今より少しだけ不安定で、今よりずっと無自覚で、今よりもう少し危なっかしかった頃。 何の脈絡もない顔をして、でも妙に真面目な調子で「持っとけ」と押しつけてきたものだ。
たぶん、あの時の朔也なりに渡した理由があった。 でも今となっては、その理由ごと向こうはきれいに失くしているのかもしれない。
昂夜は親指で、お守りの縁をそっとなぞった。
「……お前はもう覚えてないだろうけど」
小さく呟く。
部屋の中に落ちたその声は、誰にも拾われずに消えた。
朔也がこれを渡してきた時の顔を、昂夜ははっきり覚えている。 何でもない顔のくせに、目だけが少し落ち着かなくて、照れ隠しみたいにぶっきらぼうで、でも渡すこと自体は妙に迷っていなかった。
あの時、昂夜は大して深く考えずに受け取った。 受け取って、それきり引き出しに入れたままだった。
なのに今になって、それを見つけてしまう。
昂夜はゆっくり目を閉じた。
思い返すのはほんの一瞬だ。 それでも胸の奥に、少し古い熱みたいなものが残る。
忘れたのは向こうだ。 でも、残される側は案外ちゃんと覚えている。 そういうものなのかもしれなかった。
やがて昂夜は息を吐いて、お守りの紐を鞄の金具へそっと結んだ。
目立たない場所だ。 でも、自分には分かる。
それで十分だった。
荷物をまとめ終えて部屋を出る時、昂夜は一度だけ振り返った。 静かな部屋は、何も知らない顔で夕方の光を受けている。
もう一度深く息を吸ってから、昂夜は扉を閉めた。
一方その頃、朔也はコンビニのバックヤードで品出しの箱を片づけながら、昨夜の夢のことを考えていた。
ただの悪夢。 そう片づけるには、妙に手触りが残りすぎている。
知らない屋敷。 少女の背中。 閉ざされた空気。 あれだけなら、いかにも呪物の見せる夢だと言える。
でも、途中から混ざった別の感覚があった。
埃っぽい、もっと乾いた匂い。 知らないはずなのにどこか知っているような、赤い光の感じ。 声。 誰かの声。
思い出そうとすると、霧の向こうへ引っ込んでしまう。 それでも、ただの夢ではないという妙な確信だけが残っていた。
「朔也くん、それお願いねー」
先輩に呼ばれて、「はーい」と気の抜けた返事をする。 体はいつも通り動く。 でも頭の片隅では、ずっと昨夜の屋敷が引っかかっていた。
もし今夜も同じ夢を見るなら。 それはただの悪夢じゃない。 何かを見せられているのだと、たぶん確信できる。
そんなことを考えながらバイトを終え、廃棄になったカレーライスとチャーハンを袋に入れて部屋へ戻った頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。
部屋に着くと、昂夜は先に来ていた。
「おかえり」
床に置かれた鞄の金具に、小さな飾りのようなものが増えているのが一瞬だけ目に入ったが、朔也はそこまでは気に留めなかった。代わりに、机の上へ廃棄の弁当を置いて靴を脱ぐ。
「ただいま」
袋からカレーライスを取り出しながら、朔也は言った。
「今日、ずっと思ってたんだけど」
昂夜はコンビニのチャーハンを受け取りながら顔を上げる。
「何を」
「昨夜のやつ」
その一言で、部屋の空気が少しだけ締まる。
朔也はカレーの蓋を開けて、スプーンを差した。
「ただの悪夢じゃない気がする」
昂夜は少しだけ眉を寄せた。
「何で」
「夢の途中から、別のもん混ざってたろ」
「……お前が言ってたやつか」
「たぶん。あれ、屋敷の記憶だけじゃない」
朔也はカレーをひと口食べてから続ける。
「もし今晩また同じ夢を見たら、それが確信に変わる気がする」
言い方はいつも通り淡々としているのに、その中身だけが妙に引っかかる。 昂夜はチャーハンのスプーンを止めた。
「確信って何の」
「夢が夢じゃないってこと」
朔也は少し考えるように視線を落とす。
「屋敷の女の子の記憶を見せられてるだけじゃなくて、もっと別のもんに引っかかってる感じ」
「……」
昂夜は返事をしなかった。
さっき自分の部屋で見つけたお守りのことが、ふと頭をよぎる。 覚えていないはずのもの。 失くしたはずのもの。 言葉にしないまま沈んでいるもの。
そういうものに、あのオルゴールが触れてくるのだとしたら。 それは少し、嫌すぎる話だった。
朔也はそんな昂夜の沈黙も気にせず、カレーを普通に食べ進める。
「まあ、今晩また見れば分かるだろ」
「分かりたくねえな……」
昂夜は半分本気で言いながら、チャーハンをひと口入れた。
数秒してから、ふっと目を細める。
「……っていうか毎日コンビニ飯、飽きてきた」
半目になってそう言うと、朔也はきょとんとした顔をした。
「そう?」
「そうだよ。昨日チャーハン系食って、今日またチャーハンだぞ」
「だってもったいねーじゃん」
全然気にしていない顔で返される。
「その理屈で生きてるの、お前くらいだろ」
「食えるならよくね?」
「よくねえよ。人間には気分ってもんがあるんだよ」
「贅沢」
「贅沢じゃねえ」
そう言いながらも、チャーハンを食べる手は止まらない。 味そのものに罪はない。むしろ普通にうまいのが腹立たしい。
朔也はそんな昂夜を見て少しだけ笑った。
「じゃあ明日は別の持って帰る」
「廃棄前提なのやめろ」
「でも無料だし」
「そこだけはほんとブレねえな」
やり取りを交わしながら、昂夜は少しだけ息を抜いた。
オルゴールのこと。 今夜また同じ夢を見るかもしれないこと。 その夢が何を引っ張り出すのか分からないこと。 考えれば考えるほど嫌な材料ばかりだ。
それでも、こうしてどうでもいいことで軽口を叩いている時間だけは、少しだけ現実に戻れる。
机の上には、まだ静かなままのオルゴールが置かれている。
蓋は閉じたまま。 何も語らない。
けれど、今夜もう一度眠れば、またあの屋敷へ引かれるのだろう。 そう思うだけで、胸の奥がじわりと重くなった。
朔也はスプーンを口に運びながら、何でもない顔をしている。 でもその目の奥には、昨夜の夢の残り火みたいなものがまだ消えずにある気がした。
昂夜はそれを横目で見て、何も言わずにチャーハンをもうひと口食べた。
朔也の部屋に泊まる日が増えてきて、必要なものをいちいち取りに帰るのも面倒になっている。どうせ今夜も向こうで過ごすのなら、着替えや充電器や細々したものを少しまとめておいた方が早い。
部屋に入ると、慣れた空気が鼻先をかすめた。 落ち着くはずの場所なのに、最近はここにひとりでいると、妙に静かすぎる気がする。 それが二枚貝のせいなのか、それとも別の意味で慣れてしまったのかは、自分でもよく分からなかった。
昂夜はクローゼットを開け、適当にシャツや下着を引っ張り出してベッドの上へ置く。洗面台の前で整髪料や歯ブラシをまとめ、充電器を抜き、使い慣れた本を一冊だけ鞄へ入れた。
その時だった。
棚の端に押しやられていた小さなものが、視界の隅に引っかかった。
「……」
手を伸ばして取る。
紐の付いた、小さなお守りだった。 派手さのない布地に、少し色褪せた糸。神社で売っているような整ったものではなく、もっと素朴で、どこか手の温度が残るような見た目をしている。
昂夜はそれを掌に乗せたまま、しばらく動かなかった。
いつだったか。 いや、いつだったかは知っている。
朔也がまだ今より少しだけ不安定で、今よりずっと無自覚で、今よりもう少し危なっかしかった頃。 何の脈絡もない顔をして、でも妙に真面目な調子で「持っとけ」と押しつけてきたものだ。
たぶん、あの時の朔也なりに渡した理由があった。 でも今となっては、その理由ごと向こうはきれいに失くしているのかもしれない。
昂夜は親指で、お守りの縁をそっとなぞった。
「……お前はもう覚えてないだろうけど」
小さく呟く。
部屋の中に落ちたその声は、誰にも拾われずに消えた。
朔也がこれを渡してきた時の顔を、昂夜ははっきり覚えている。 何でもない顔のくせに、目だけが少し落ち着かなくて、照れ隠しみたいにぶっきらぼうで、でも渡すこと自体は妙に迷っていなかった。
あの時、昂夜は大して深く考えずに受け取った。 受け取って、それきり引き出しに入れたままだった。
なのに今になって、それを見つけてしまう。
昂夜はゆっくり目を閉じた。
思い返すのはほんの一瞬だ。 それでも胸の奥に、少し古い熱みたいなものが残る。
忘れたのは向こうだ。 でも、残される側は案外ちゃんと覚えている。 そういうものなのかもしれなかった。
やがて昂夜は息を吐いて、お守りの紐を鞄の金具へそっと結んだ。
目立たない場所だ。 でも、自分には分かる。
それで十分だった。
荷物をまとめ終えて部屋を出る時、昂夜は一度だけ振り返った。 静かな部屋は、何も知らない顔で夕方の光を受けている。
もう一度深く息を吸ってから、昂夜は扉を閉めた。
一方その頃、朔也はコンビニのバックヤードで品出しの箱を片づけながら、昨夜の夢のことを考えていた。
ただの悪夢。 そう片づけるには、妙に手触りが残りすぎている。
知らない屋敷。 少女の背中。 閉ざされた空気。 あれだけなら、いかにも呪物の見せる夢だと言える。
でも、途中から混ざった別の感覚があった。
埃っぽい、もっと乾いた匂い。 知らないはずなのにどこか知っているような、赤い光の感じ。 声。 誰かの声。
思い出そうとすると、霧の向こうへ引っ込んでしまう。 それでも、ただの夢ではないという妙な確信だけが残っていた。
「朔也くん、それお願いねー」
先輩に呼ばれて、「はーい」と気の抜けた返事をする。 体はいつも通り動く。 でも頭の片隅では、ずっと昨夜の屋敷が引っかかっていた。
もし今夜も同じ夢を見るなら。 それはただの悪夢じゃない。 何かを見せられているのだと、たぶん確信できる。
そんなことを考えながらバイトを終え、廃棄になったカレーライスとチャーハンを袋に入れて部屋へ戻った頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。
部屋に着くと、昂夜は先に来ていた。
「おかえり」
床に置かれた鞄の金具に、小さな飾りのようなものが増えているのが一瞬だけ目に入ったが、朔也はそこまでは気に留めなかった。代わりに、机の上へ廃棄の弁当を置いて靴を脱ぐ。
「ただいま」
袋からカレーライスを取り出しながら、朔也は言った。
「今日、ずっと思ってたんだけど」
昂夜はコンビニのチャーハンを受け取りながら顔を上げる。
「何を」
「昨夜のやつ」
その一言で、部屋の空気が少しだけ締まる。
朔也はカレーの蓋を開けて、スプーンを差した。
「ただの悪夢じゃない気がする」
昂夜は少しだけ眉を寄せた。
「何で」
「夢の途中から、別のもん混ざってたろ」
「……お前が言ってたやつか」
「たぶん。あれ、屋敷の記憶だけじゃない」
朔也はカレーをひと口食べてから続ける。
「もし今晩また同じ夢を見たら、それが確信に変わる気がする」
言い方はいつも通り淡々としているのに、その中身だけが妙に引っかかる。 昂夜はチャーハンのスプーンを止めた。
「確信って何の」
「夢が夢じゃないってこと」
朔也は少し考えるように視線を落とす。
「屋敷の女の子の記憶を見せられてるだけじゃなくて、もっと別のもんに引っかかってる感じ」
「……」
昂夜は返事をしなかった。
さっき自分の部屋で見つけたお守りのことが、ふと頭をよぎる。 覚えていないはずのもの。 失くしたはずのもの。 言葉にしないまま沈んでいるもの。
そういうものに、あのオルゴールが触れてくるのだとしたら。 それは少し、嫌すぎる話だった。
朔也はそんな昂夜の沈黙も気にせず、カレーを普通に食べ進める。
「まあ、今晩また見れば分かるだろ」
「分かりたくねえな……」
昂夜は半分本気で言いながら、チャーハンをひと口入れた。
数秒してから、ふっと目を細める。
「……っていうか毎日コンビニ飯、飽きてきた」
半目になってそう言うと、朔也はきょとんとした顔をした。
「そう?」
「そうだよ。昨日チャーハン系食って、今日またチャーハンだぞ」
「だってもったいねーじゃん」
全然気にしていない顔で返される。
「その理屈で生きてるの、お前くらいだろ」
「食えるならよくね?」
「よくねえよ。人間には気分ってもんがあるんだよ」
「贅沢」
「贅沢じゃねえ」
そう言いながらも、チャーハンを食べる手は止まらない。 味そのものに罪はない。むしろ普通にうまいのが腹立たしい。
朔也はそんな昂夜を見て少しだけ笑った。
「じゃあ明日は別の持って帰る」
「廃棄前提なのやめろ」
「でも無料だし」
「そこだけはほんとブレねえな」
やり取りを交わしながら、昂夜は少しだけ息を抜いた。
オルゴールのこと。 今夜また同じ夢を見るかもしれないこと。 その夢が何を引っ張り出すのか分からないこと。 考えれば考えるほど嫌な材料ばかりだ。
それでも、こうしてどうでもいいことで軽口を叩いている時間だけは、少しだけ現実に戻れる。
机の上には、まだ静かなままのオルゴールが置かれている。
蓋は閉じたまま。 何も語らない。
けれど、今夜もう一度眠れば、またあの屋敷へ引かれるのだろう。 そう思うだけで、胸の奥がじわりと重くなった。
朔也はスプーンを口に運びながら、何でもない顔をしている。 でもその目の奥には、昨夜の夢の残り火みたいなものがまだ消えずにある気がした。
昂夜はそれを横目で見て、何も言わずにチャーハンをもうひと口食べた。
