怪異、お持ち帰り注意

 夜、朔也の部屋へ戻ると、空気が昨日までより一段重く感じられた。
 机の上のオルゴールは、蓋を閉じたまま静かに置かれている。誰も触れていないのに、そこにあるだけで部屋の温度が少し下がったようだった。
「……嫌な感じするな」
 昂夜が漏らすと、朔也もオルゴールを見た。
「昨日より?」
「昨日より」
「俺も」
 さすがに今夜が山だと分かっているらしい。
 夕食はコンビニのそばとうどんだった。
「今日は麺かよ」
「毎日飽きないだろ」
「そういう問題じゃねえんだよ」
 軽口は交わすが、二人とも食べる速度は遅い。オルゴールのことも、今夜の夢も、頭から離れていなかった。
「司、何て?」
「三回目は強く出るかもしれないから、できるだけ起きてろって」
「無理だろ」
「だろうな」
 風呂はもう何も言わず、昨日と同じ手順で済ませた。二枚貝は脱衣所、ドアは少し開ける。気配と声が届く位置を守る。その確認が、今夜のための小さな儀式みたいだった。
 シャワーを終えて部屋へ戻ると、オルゴールはやはり同じ場所にある。昂夜は布団へ入る前に一度だけその前で立ち止まった。
「……お前は、何見せたいんだよ」
 返事はない。けれど、閉じた蓋の向こうで音だけが待っている気がした。
 布団へ入る。隣には朔也がいる。二枚貝由来の不安はない。代わりに、今夜来る夢だけが確実にそこにあった。
「寝るか」
「ああ」
「今夜、なんか見たら」
 朔也は少し言葉を切った。
「……起きたら言う」
「お前もな」
 電気を消す。見えなくなった方が、余計にオルゴールの存在が分かった。
 昂夜は目を閉じた。眠りへ落ちる直前、どこか遠くで、まだ鳴っていないはずの旋律の最初の一音を聞いた気がした。
 目を開けた時、昂夜はもう夢の中にいた。
 同じ屋敷だった。高い天井。褪せた壁紙。厚いカーテン。ただ今夜は静かすぎる。長く息を潜め続けた末に、その息すら尽きかけているような静けさだった。
 部屋の中央にベッドがある。少女はそこに横たわっていた。昨夜のように窓辺に立ってはいない。ただ細い体をシーツへ沈めたまま、胸にオルゴールを抱いている。それだけが、この子の最後の意志みたいに見えた。
 少女の目は開いていた。カーテンの隙間から差す白い光を見ている。そこにあるのは恐怖より、諦めきれない願いだった。
 外へ行きたい。一度でいいから、この部屋の外へ。
 その願いが声にならないまま、昂夜の胸へ流れ込んでくる。ずっと閉じ込められて削れ続けたせいで、最後には祈りだけが薄く残ったみたいだった。
 少女の指先がかすかに動く。オルゴールの蓋に触れ、開こうとする。けれど力が足りない。
 昂夜は反射的に手を伸ばした。もちろん届かない。夢は、それを許してくれない。
 その時、不意に旋律が鳴った。
 誰もねじを回していないのに。古い子守歌みたいな音。今夜はこれまでよりずっと静かで、ずっと澄んでいた。
 少女の唇がわずかに動く。言葉にはならない。けれど昂夜には分かった。
 助けて、ではない。苦しい、でもない。
 連れていって。ここじゃないところへ。
 その願いがオルゴールへ染み込んでいく。
 昂夜はそこで初めて理解する。この子は誰かを呪いたかったわけじゃない。ただ、閉じ込められたまま終わりたくなかった。誰かに見つけてほしかった。外へ連れ出してほしかった。その願いだけが死にきれずに残ったのだ。
 少女の視線が、窓の光から少しだけ逸れる。もう会えない誰かを思うように。
 本当の両親だ、と昂夜は直感した。オルゴールはその人たちの形見で、この子にとっては外の世界そのものだったのだ。
 旋律が最後へ近づく。その時、少女の指がゆるむ。オルゴールを抱く力が消える。
 部屋の空気がふっと止まった。
 泣き声も叫びもない。ただ、長く閉じていたものがそのまま静かに途切れる感覚だけがあった。なのに終わりではなかった。
 少女の願いだけが、そこに残っている。
 外へ。ここではない場所へ。光のある方へ。
 その祈りが部屋を満たした瞬間、昂夜の胸へずしりと重みが落ちる。これだ。この願いが、あのオルゴールを歪ませたのだ。
 見つけてほしい。連れ出してほしい。自分と同じ気持ちを知ってほしい。
 そうして人の夢へ入り込み、同じ孤独を味わわせることでしか、もう届かなくなってしまった。
 昂夜がそう理解した瞬間、夢の景色が激しく揺れた。
 一方、朔也の夢では、その揺れと一緒に別の断片が割り込んでいた。
 少女の部屋の静けさ。窓の光。途切れかけた旋律。その向こうから、赤い小さな光が灯る。
 今度は前より近い。暗い部屋。埃っぽい空気。狭い空間。誰かが目の前にいる。
 顔は見えない。けれど、自分がそこにいる相手へ言葉を投げた感触だけは鮮明だった。
「別に、全部なくなっても困らないだろ」
 自分の声だ。少し突き放すようで、でも本気でそう思っている声ではない。
 夢の中の朔也は、その瞬間に分かった。
 嘘だ。
 その言葉は平気なふりをするためのものだった。なくなっても困らないなんて、そんなはずがない。本当はその逆だ。
 失いたくない。壊したくない。でも、それを認めるのが怖くて、先に切り捨てるような言い方をした。
 その痛みが、少女の祈りと重なる。閉じ込められている。外へ出せない。大事なものの名前を、言葉にできない。
 夢の中で、朔也は息を呑んだ。
「あれは俺が言った言葉だった……?」
 誰に向けて。どうして。答えは出ない。けれど、自分のものだという感覚だけは逃げない。そして、その誰かを失ったら困るのだということも、言葉になる前の痛みとしてはっきり残る。
 次の瞬間、少女の部屋も赤い光の部屋も一緒に崩れ、朔也は現実へ引き戻された。