怪異、お持ち帰り注意

 朝になっても、夢の名残は消えなかった。
 夜明けの光がカーテンの隙間から差し込み、机の上のオルゴールをぼんやり浮かび上がらせている。少女の咳も、外へ出たがっていた目も、まだ胸の奥に残っていた。
 それでも、浸ってばかりはいられない。昂夜は布団を出て冷蔵庫を開けた。食パン、卵、ウィンナー、サラダ。朝食くらいは作れそうだった。
「……また朝飯作るか」
「作って」
 後ろから朔也の声がする。
「当たり前みたいに言うな」
 振り向くと、朔也は寝起きの顔のまま壁にもたれていた。夢を引きずってはいるが、表面上はもういつもの調子だ。
「だって、お前が作った方がうまいし」
「はいはい」
 昂夜はフライパンを火にかけた。トーストを焼き、スクランブルエッグを作り、ウィンナーを転がす。狭いキッチンで朔也の気配が近いのが少し落ち着かない。けれど手を動かしている間だけは、頭の中が少し整理された。
「コーヒーいるか」
「いる」
「牛乳じゃなくて?」
「じゃあ牛乳」
「今、いちいち聞くなって顔してたぞ」
「してない」
 そんなやり取りのうちに、朝食が揃う。トーストに卵、ウィンナー、サラダ。昂夜はコーヒー、朔也は牛乳。
「はい」
 テーブルへ置くと、朔也は素直に「うまそう」と言った。ひと口食べて、わりと本気で続ける。
「お前がウチにいると人間のメシが食えるな」
 昂夜は顔をしかめた。
「普段どんなもん食ってる設定だよ」
「コンビニ飯」
「それは知ってる」
「だから人間のメシ感ある」
「またそうやって過剰に褒めて……」
「ほんとだって」
「魂胆が見え透いてる」
「何の」
「今後も作ってもらおうって魂胆」
「それもある」
「ほら見ろ」
 昂夜が即座に返すと、朔也は少しだけ笑った。
「でも普通にうまいし」
「はいはい」
 こういう朝の空気に慣れてしまいそうなのが嫌だ。嫌なのに、目の前で牛乳を飲みながらトーストをかじっている朔也を見ると、完全には突き放せない。
 夢のことも、オルゴールのことも、何ひとつ片づいていない。それでもこの時間だけは、少しだけ普通の朝に見えてしまう。
「今日も作業日だろ」
「ああ」
「司たち来てるかな」
「もう来てるんじゃね」
 それ以上の会話は途切れたが、沈黙は重くなかった。
 朝食を済ませたあと、昂夜は朔也と並んで配信部屋へ向かった。オルゴールも二枚貝も持っていく。気軽に置いていけないものばかり増えていくのが嫌だった。
 ドアを開けると、司と壱太はすでにいた。壱太はクッションでスマホをいじり、司はパソコンを開いている。
「おはよー」
「おはようございます」
 司が顔を上げた瞬間、ふっと眉が動いた。
「何」
 昂夜が言うと、司は躊躇なく口を開いた。
「最近お前から朔也の匂いがする」
「…………は?」
 昂夜の動きが止まる。あまりにも直球だった。しかも司は冗談の顔をしていない。ただ事実として言っただけだった。
 数秒遅れて、壱太が吹き出す。
「ははっ、何それ!」
「笑うな!」
「いやだって、司がそんなストレートに言うと思わなくて……っ」
 壱太は腹を押さえて笑っている。昂夜は一気に複雑な気分になった。
 たしかに昨夜も同じ布団で寝た。今朝も朔也の部屋で朝食を作って、そのまま来た。匂いが移っていても不思議ではない。だが、それを人に言われると話は別だ。
「お前な……」
 低く睨むと、司はきょとんと首をかしげる。
「何ですか。事実でしょう」
「事実でも言い方ってもんがあるだろ!」
「あります?」
「あるよ!」
 壱太はもう完全に笑いのつぼに入っていた。
「やば、朝から面白すぎる……」
「全然面白くねえ」
「いやでも、たしかにちょっと分かるかも。洗剤だけじゃない感じするもん」
「乗るな!」
「乗ってないって、観察」
「最悪だな」
 朔也はその横で、状況をあまり重く受け止めていない顔をしていた。
「そんな変か?」
「お前は黙ってろ」
「でもずっと一緒にいたし」
「そういう問題じゃねえんだよ……」
 昂夜は額を押さえた。何だこの朝一番の地獄は。
 司はようやく少しだけ言い方が直球すぎたと気づいたのか、小さく咳払いした。
「……まあ、近くで寝起きしてるなら当然かと」
「フォローになってねえ」
 壱太はまだ肩を震わせていたが、その空気のおかげで昨夜の夢の重さが少しだけ薄まるのも事実だった。複雑だ。ものすごく複雑だが、完全に悪い気分でもないのがまた腹立たしい。
 昂夜はため息をつき、机の上に荷物を置く。その端にオルゴールの箱が静かに置かれた。
 笑いの余韻が引いていくと、部屋の空気はまたゆるやかに引き締まった。今夜、三度目の夢を見る。その前に、できることは整理しておかなければならない。
 それでも昂夜の耳には、さっきの司の言葉と壱太の笑い声がしばらく残り続けていた。