怪異、お持ち帰り注意

 夕方、朔也の部屋へ戻る道すがらも、オルゴールは一度も鳴らなかった。
 なのに、部屋に入って机の上へ置かれた瞬間、その場の空気だけがわずかに重くなった気がした。
「……」
 昂夜は無言でそれを見る。
 白木の小さな箱は、蓋を閉じたまま静かに置かれている。  ただそれだけなのに、部屋の隅に目を開けたまま座っている誰かみたいな気配があった。
 司と壱太が帰ったあと、部屋にはまた昂夜と朔也だけが残った。
 何かが起こるなら、たぶん夜だ。  それはもう、二人とも口に出さなくても分かっていた。
 けれど、だからといってずっとオルゴールを睨み続けているわけにもいかない。  妙に落ち着かない空気のまま、時間だけがじわじわ進んでいく。
 朔也はいつもの調子でベッドにもたれ、サブスクのアニメを流し始めた。  内容に深く入り込んでいるわけでもなさそうで、ただ画面を眺めながら、時々ぼんやり笑ったり、適当に菓子をつまんだりしている。
 一方の昂夜は、机から少し離れた場所に座り、スマホで電子書籍を開いた。  活字を追っている方が余計なことを考えずに済む。そう思ったのに、ページをめくる指はいつもより遅かった。気づけば視線が文字から滑り、何度も机の上のオルゴールへ戻ってしまう。
 アニメの音が、小さく部屋に流れている。  オルゴールの旋律とはまったく違うはずなのに、どこかで不意に似た高さの音が鳴るたび、昂夜の意識はそちらへ引っ張られた。
「気にしすぎ」
 画面を見たまま、朔也が言う。
「見てねえよ」
「見てる」
 あっさり返されて、昂夜はスマホを持ったまま小さく眉を寄せた。
「お前こそ、気にしてんだろ」
「まあな」
 朔也はそれを隠さなかった。
 あっさりしているようで、完全に無関心なわけじゃない。  そのことが分かるだけで、少しだけ息がしやすくなる自分に昂夜は気づいていた。
 夕食は、冷蔵庫の残りとコンビニの総菜で適当に済ませた。  会話は少ない。少ないが、まったくないわけでもない。アニメのついでみたいな軽い雑談と、壱太からの「今のところ生きてる?」というメッセージに朔也が「たぶん」と返し、それを見た昂夜が「たぶんって何だよ」と呆れる程度の、そんなやり取りだけがぽつぽつ続いた。
 窓の外が暗くなる。
 部屋の中の光が、机の上のオルゴールだけを少し浮かび上がらせる。
 誰もそれを鳴らそうとはしなかった。  触れたいとも、触れたくないとも、はっきり言葉にはしないまま、ただ夜だけが近づいてくる。
 風呂は昨日と同じように、短いシャワーで済ませた。  二枚貝は脱衣所の棚に並べて置き、ドアは少し開けたまま。昨日ほどひどくはないが、やはり気配が遠のくと胸の奥がざわつく。もう慣れたくもないのに、手順だけは少しずつ手慣れていくのが嫌だった。
 部屋へ戻ると、オルゴールはさっきと変わらない顔で机の上にある。
 蓋は閉じたまま。  なのに、近くを通るたび、木の箱の中で何かが眠りながら息をしているみたいな気がした。
 布団へ入る時も、昂夜は一度だけそちらを見た。  朔也はすでに横になっていて、スマホをいじりながら適当に「電気消すぞ」と言う。
 部屋が暗くなる。
 狭い布団の中で、昨日と同じように少し距離を取って横になる。隣には朔也の体温があり、部屋の向こうにはオルゴールがある。近くにあるはずの安心と、近くにあるせいで気になるものとが、同じ空間に混ざっている。
 眠れる気がしない。  そう思っていたのに、体の方は昨日からの疲れを引きずっていたらしい。
 二枚貝由来のあの強い圧迫感は、今夜はない。  ただ、静かな部屋のどこかで、まだ鳴っていないはずの音を待っている自分がいる。
 目を閉じる。
 すぐに眠ったわけではない。  けれど、まどろみの境目で、ふっと空気の質が変わった気がした。
 かすかな音がする。
 鳴っている。  オルゴールだ。
 目を開けたつもりだった。  けれど、そこにあったのは朔也の部屋の天井ではなかった。
 高い天井。  薄い色に褪せた壁紙。  大きな窓はあるのに、厚いカーテンが引かれていて、外の様子がよく見えない。
「……」
 昂夜は立っていた。
 知らない部屋だ。  空気が冷たい。  いや、冷たいというより、長い間人が笑っていない部屋の匂いがする。
 かすかな旋律が続いている。  オルゴールの音だ。  今度ははっきり聞こえる。あの古い子守歌みたいな旋律。やわらかいのに、どこか一音だけ薄い。
 昂夜はゆっくりと振り返る。
 部屋の中央に、小さな椅子がある。  その前に、背の低い机。  机の上に、あのオルゴール。
 そして、その前に少女が座っていた。
 白いワンピースのようなものを着ている。  髪は肩口で揃えられていて、背中は細い。年は十にも満たないくらいに見えた。
 少女は振り返らない。  ただ、じっとオルゴールを見つめている。
 昂夜は声を出そうとした。
「……おい」
 けれど、声がやけに小さい。  まるで、部屋そのものに音を吸われているみたいだった。
 少女は動かない。
 その代わり、遠くで足音がした。
 廊下だろうか。  板張りの床を、硬い靴音がゆっくりと歩いていく。
 少女の肩が、小さくすくむ。
 昂夜はそこで初めて、この部屋の息苦しさの正体を知った。
 閉じ込められている。
 窓があるのに、外がない。  扉があるのに、開く感じがしない。  この部屋だけが家の中で時間を止めたみたいに、静かに閉ざされている。
 少女がようやく動いた。
 細い指でオルゴールの蓋を撫でる。  開ける。  旋律が少しだけ大きくなる。
 その音を聞きながら、少女は窓の方を見る。  でも立ち上がらない。  立ち上がれないのかもしれない。
 昂夜は一歩近づく。
「お前、」
 また声が薄い。  届かない。
 少女は窓の外を見たまま、ほんの少しだけ唇を動かした。  何かを言ったはずなのに、聞き取れない。  外へ出たい、なのか。  お母さん、なのか。  ただ、そこにある感情だけが妙に胸へ入り込んでくる。
 寂しい。  苦しい。  待っている。  でも、誰も来ない。
 その感情の濃さに、昂夜は思わず眉を寄せた。
 足音がまた遠くで止まる。  扉の向こうに誰かがいる気配。  少女はびくりと肩を震わせ、オルゴールを抱えるようにして体を小さくした。
 怖がっている。
 その瞬間、部屋の空気がぐっと重くなる。  昂夜の胸の奥まで、冷たいものが流れ込んでくる。  少女の怖さが、そのままこちらへ染みてくるみたいだった。
 苦しい。  悲しい。  息が詰まる。
「……っ」
 そこで、場面が変わった。
 薄暗い廊下。  手すりの冷たい感触。  どこかで風が鳴っている。
 昂夜は自分の視点ではない感覚に一瞬だけくらむ。  少女が見ているのかもしれない。
 長い廊下の先に、閉まった扉がある。  その向こうに光がある気がする。  行きたい。  でも行けない。
 足が重い。  体が動かない。
 そのどうしようもない閉塞感が、胸へ一気に押し寄せた瞬間――
 昂夜は目を開けた。
「……っは」
 暗い天井。  朔也の部屋だ。
 呼吸が少し早い。  布団の中は汗ばんでいて、胸のあたりが妙に重い。
 横では朔也がまだ寝ている。  だが、寝息が少し乱れていた。
 昂夜は起き上がり、反射的に机の方を見る。
 オルゴールはそこにあった。  蓋は閉じている。  なのに、今しがたまで確かにあの音を聞いていた感覚が、耳の奥にまだ残っている。
「……夢、か」
 低く呟く。
 ただの夢ではない。  あの部屋の冷たさも、少女の感情も、あまりに生々しかった。
 その時、隣で布団が少し揺れた。
 朔也が、ゆっくりと目を開ける。
「……」
 起きたのに、すぐには何も言わない。  少し焦点の合わない目で天井を見たあと、ようやく横へ顔を向けた。
「お前も起きてるのか」
 声が少し低い。  眠気だけじゃないものが混じっている。
「今、起きた」
 昂夜は答えながら、朔也の顔を見る。 「お前は」
「分かんね」
 朔也は眉を寄せたまま、片手で目元を押さえた。
「……変な夢見た気がする」
 その一言に、昂夜の背筋がひやりとする。
「どんな」
「屋敷」
 朔也は短く言う。
「知らねえ部屋。女の子いた」
 そこまで聞いて、昂夜は小さく息を呑んだ。
 同じだ。
 やはり、同じ夢を見ていた。
 だが、朔也はそこで少しだけ首をひねる。
「でも、なんか変で」
「変?」
「途中から、別のもん混ざってた」
 昂夜は黙る。
 朔也は天井を見たまま、うまく言葉を探すみたいに続けた。
「屋敷のはずなのに、違う匂いしてた。埃っぽい、もっと古い……」
 そこで一度、言葉が止まる。
「あと、声」
「声?」
「誰かが何か言ってた気がする」
 朔也は眉間にしわを寄せた。 「でも思い出せねえ」
 昂夜は返事ができなかった。
 ただの夢の余韻ではない。  朔也のその顔は、何かに触れかけて取り逃がした時の顔だった。
「……お前、平気か」
 どうにかそう聞くと、朔也は少しだけ視線をこちらへ向ける。
「平気っていうか、気持ち悪い」
「だろうな」
「でも、さっきまで何か」
 また止まる。  そして結局、首を振った。
「分かんねえ」
 それ以上はもう、出てこなかった。
 昂夜は机の上のオルゴールを見る。
 閉じたままの箱。  だが、今やそれはただの木箱には見えなかった。  誰かが長い時間閉じ込められていた部屋の匂いを、そのまましまい込んでいるみたいだった。
 そして、その夢は自分だけではなく、朔也の中の何かにも触れた。
 まだ輪郭はない。  ただ、嫌な引っかかりだけが残る。
「……司に連絡する」
 昂夜が言うと、朔也は「ああ」とだけ返した。
 その声はまだ少し夢の底に引かれているみたいで、昂夜は無意識にその横顔を見つめた。
 何を見たんだ、お前は。  あの屋敷の夢の中で、何に触れた。
 問いは喉まで上がったが、今はまだ言葉にならなかった。
 窓の外は、うっすらと明け始めていた。  第一夜は終わった。  けれど、あのオルゴールの夢は、まだ始まったばかりだと昂夜には分かっていた。