その日の夕方、昂夜は一度だけ自分の部屋へ戻った。
朔也の部屋で過ごす日が増えて、着替えや充電器を取りに帰るのも面倒になっていた。どうせ今夜も向こうで過ごすなら、必要なものをまとめておいた方が早い。
部屋に入ると、慣れた空気が鼻先をかすめた。落ち着くはずなのに、最近はひとりでいると妙に静かすぎる。二枚貝のせいなのか、別の意味で慣れてしまったのか、自分でもよく分からない。
シャツや下着をまとめ、歯ブラシと充電器を鞄へ入れる。そこで棚の端に押しやられていた小さなものが目に入った。
紐の付いた小さなお守りだった。
素朴な布地に、少し色褪せた糸。朔也が何でもない顔で、それでも妙に真面目な調子で「持っとけ」と押しつけてきたものだ。
「……お前はもう覚えてないだろうけど」
小さく呟き、昂夜は親指で縁をなぞった。あの時の朔也の顔はまだ覚えている。ぶっきらぼうなくせに、渡すことだけは迷っていなかった。
やがて息を吐き、お守りの紐を鞄の金具へそっと結ぶ。目立たない場所だが、自分には分かる。それで十分だった。
部屋を出る時、昂夜は一度だけ振り返った。静かな部屋は、何も知らない顔で夕方の光を受けていた。
一方その頃、朔也はコンビニのバックヤードで箱を片づけながら、昨夜の夢を思い出していた。
ただの悪夢と片づけるには、手触りが残りすぎている。知らない屋敷。少女の背中。閉ざされた空気。そこに途中から、別の感覚が混ざった。埃っぽい乾いた匂い。赤い光。誰かの声。
思い出そうとすると、霧の向こうへ引っ込む。それでも、ただの夢ではないという感覚だけは消えなかった。
「朔也くん、それお願いねー」
先輩に呼ばれ、「はーい」と気の抜けた返事をする。体はいつも通り動くのに、頭の片隅ではずっと昨夜の屋敷が引っかかっていた。
もし今夜も同じ夢を見るなら。それはもう悪夢じゃない。何かを見せられているのだと、たぶん確信できる。
バイトを終え、廃棄のカレーライスとチャーハンを持って部屋へ戻る頃には、外はもう暗くなっていた。
部屋に着くと、昂夜は先に来ていた。
「おかえり」
「ただいま」
朔也は袋を机へ置いて靴を脱ぐ。鞄の金具に何か小さな飾りが増えているのが一瞬目に入ったが、そこまでは気に留めなかった。
「今日、ずっと思ってたんだけど」
カレーを取り出しながら朔也が言う。
「昨夜のやつ。ただの悪夢じゃない気がする」
その一言で、部屋の空気が少しだけ締まる。
「何で」
「途中から別のもん混ざってたろ。あれ、屋敷の記憶だけじゃない」
朔也はカレーをひと口食べてから続けた。
「もし今晩また同じ夢を見たら、それが確信に変わる気がする」
「確信って何の」
「夢が夢じゃないってこと。屋敷の女の子の記憶を見せられてるだけじゃなくて、もっと別のもんに引っかかってる感じ」
昂夜は返事をしなかった。さっき見つけたお守りのことが頭をよぎる。覚えていないはずのもの。言葉にしないまま沈んでいるもの。あのオルゴールがそういうものに触れてくるのだとしたら、嫌すぎる話だった。
朔也はそんな沈黙も気にせず、普通に食べ進める。
「まあ、今晩また見れば分かるだろ」
「分かりたくねえな……」
昂夜は半分本気で言いながらチャーハンをひと口入れ、それからふっと目を細めた。
「……っていうか毎日コンビニ飯、飽きてきた」
朔也はきょとんとする。
「そう?」
「そうだよ。昨日チャーハン系食って、今日またチャーハンだぞ」
「だってもったいねーじゃん」
「その理屈で生きてるの、お前くらいだろ」
「食えるならよくね?」
「よくねえよ。人間には気分ってもんがあるんだよ」
「贅沢」
「贅沢じゃねえ」
そう言いながらも、チャーハンを食べる手は止まらない。味そのものに罪はない。むしろ普通にうまいのが腹立たしい。
朔也はそんな昂夜を見て少しだけ笑った。
「じゃあ明日は別の持って帰る」
「廃棄前提なのやめろ」
「でも無料だし」
「そこだけはほんとブレねえな」
どうでもいい軽口を叩いている時間だけは、少しだけ現実に戻れた。
机の上には、まだ静かなままのオルゴールが置かれている。蓋は閉じたまま、何も語らない。
けれど今夜もう一度眠れば、またあの屋敷へ引かれるのだろう。そう思うだけで、胸の奥がじわりと重くなった。
朔也は何でもない顔をしている。けれどその目の奥には、昨夜の夢の残り火みたいなものがまだ消えずにある気がした。
昂夜はそれを横目で見て、何も言わずチャーハンをもうひと口食べた。
朔也の部屋で過ごす日が増えて、着替えや充電器を取りに帰るのも面倒になっていた。どうせ今夜も向こうで過ごすなら、必要なものをまとめておいた方が早い。
部屋に入ると、慣れた空気が鼻先をかすめた。落ち着くはずなのに、最近はひとりでいると妙に静かすぎる。二枚貝のせいなのか、別の意味で慣れてしまったのか、自分でもよく分からない。
シャツや下着をまとめ、歯ブラシと充電器を鞄へ入れる。そこで棚の端に押しやられていた小さなものが目に入った。
紐の付いた小さなお守りだった。
素朴な布地に、少し色褪せた糸。朔也が何でもない顔で、それでも妙に真面目な調子で「持っとけ」と押しつけてきたものだ。
「……お前はもう覚えてないだろうけど」
小さく呟き、昂夜は親指で縁をなぞった。あの時の朔也の顔はまだ覚えている。ぶっきらぼうなくせに、渡すことだけは迷っていなかった。
やがて息を吐き、お守りの紐を鞄の金具へそっと結ぶ。目立たない場所だが、自分には分かる。それで十分だった。
部屋を出る時、昂夜は一度だけ振り返った。静かな部屋は、何も知らない顔で夕方の光を受けていた。
一方その頃、朔也はコンビニのバックヤードで箱を片づけながら、昨夜の夢を思い出していた。
ただの悪夢と片づけるには、手触りが残りすぎている。知らない屋敷。少女の背中。閉ざされた空気。そこに途中から、別の感覚が混ざった。埃っぽい乾いた匂い。赤い光。誰かの声。
思い出そうとすると、霧の向こうへ引っ込む。それでも、ただの夢ではないという感覚だけは消えなかった。
「朔也くん、それお願いねー」
先輩に呼ばれ、「はーい」と気の抜けた返事をする。体はいつも通り動くのに、頭の片隅ではずっと昨夜の屋敷が引っかかっていた。
もし今夜も同じ夢を見るなら。それはもう悪夢じゃない。何かを見せられているのだと、たぶん確信できる。
バイトを終え、廃棄のカレーライスとチャーハンを持って部屋へ戻る頃には、外はもう暗くなっていた。
部屋に着くと、昂夜は先に来ていた。
「おかえり」
「ただいま」
朔也は袋を机へ置いて靴を脱ぐ。鞄の金具に何か小さな飾りが増えているのが一瞬目に入ったが、そこまでは気に留めなかった。
「今日、ずっと思ってたんだけど」
カレーを取り出しながら朔也が言う。
「昨夜のやつ。ただの悪夢じゃない気がする」
その一言で、部屋の空気が少しだけ締まる。
「何で」
「途中から別のもん混ざってたろ。あれ、屋敷の記憶だけじゃない」
朔也はカレーをひと口食べてから続けた。
「もし今晩また同じ夢を見たら、それが確信に変わる気がする」
「確信って何の」
「夢が夢じゃないってこと。屋敷の女の子の記憶を見せられてるだけじゃなくて、もっと別のもんに引っかかってる感じ」
昂夜は返事をしなかった。さっき見つけたお守りのことが頭をよぎる。覚えていないはずのもの。言葉にしないまま沈んでいるもの。あのオルゴールがそういうものに触れてくるのだとしたら、嫌すぎる話だった。
朔也はそんな沈黙も気にせず、普通に食べ進める。
「まあ、今晩また見れば分かるだろ」
「分かりたくねえな……」
昂夜は半分本気で言いながらチャーハンをひと口入れ、それからふっと目を細めた。
「……っていうか毎日コンビニ飯、飽きてきた」
朔也はきょとんとする。
「そう?」
「そうだよ。昨日チャーハン系食って、今日またチャーハンだぞ」
「だってもったいねーじゃん」
「その理屈で生きてるの、お前くらいだろ」
「食えるならよくね?」
「よくねえよ。人間には気分ってもんがあるんだよ」
「贅沢」
「贅沢じゃねえ」
そう言いながらも、チャーハンを食べる手は止まらない。味そのものに罪はない。むしろ普通にうまいのが腹立たしい。
朔也はそんな昂夜を見て少しだけ笑った。
「じゃあ明日は別の持って帰る」
「廃棄前提なのやめろ」
「でも無料だし」
「そこだけはほんとブレねえな」
どうでもいい軽口を叩いている時間だけは、少しだけ現実に戻れた。
机の上には、まだ静かなままのオルゴールが置かれている。蓋は閉じたまま、何も語らない。
けれど今夜もう一度眠れば、またあの屋敷へ引かれるのだろう。そう思うだけで、胸の奥がじわりと重くなった。
朔也は何でもない顔をしている。けれどその目の奥には、昨夜の夢の残り火みたいなものがまだ消えずにある気がした。
昂夜はそれを横目で見て、何も言わずチャーハンをもうひと口食べた。



