夕方、朔也の部屋へ戻る道すがら、オルゴールは一度も鳴らなかった。なのに机へ置かれた瞬間、その場の空気だけがわずかに重くなった気がした。
昂夜は無言でそれを見る。白木の小さな箱は蓋を閉じたまま静かに置かれている。ただそれだけなのに、誰かが息を潜めているみたいな気配がある。
司と壱太が帰ったあと、部屋にはまた昂夜と朔也だけが残った。何かが起こるなら、たぶん夜だ。それはもう、口にしなくても分かっていた。
けれど、ずっと見張っているわけにもいかない。朔也はベッドにもたれてアニメを流し、昂夜は少し離れて電子書籍を開く。活字を追っていれば紛れるはずなのに、視線は何度も机へ戻った。
「気にしすぎ」
画面を見たまま朔也が言う。
「見てねえよ」
「見てる」
あっさり返されて、昂夜は眉を寄せた。
「お前こそ気にしてんだろ」
「まあな」
その返しだけで、少し息がしやすくなる自分がいた。
夕食は冷蔵庫の残りと総菜で済ませた。会話は少ない。壱太から「今のところ生きてる?」とメッセージが来て、朔也が「たぶん」と返し、昂夜が「たぶんって何だよ」と呆れる程度だった。
窓の外が暗くなる。部屋の光が、机の上のオルゴールだけを少し浮かび上がらせる。誰もそれを鳴らそうとはしなかった。
風呂は短いシャワーで済ませた。二枚貝は脱衣所の棚、ドアは少し開けたまま。嫌なのに、手順だけはもう慣れ始めている。
部屋へ戻っても、オルゴールはさっきと同じ顔で机の上にある。蓋は閉じたままなのに、近くを通るたび中で何かが息をしているみたいだった。
布団へ入る時も、昂夜は一度だけそちらを見た。朔也はもう横になっていて、スマホを見ながら「電気消すぞ」と言う。
部屋が暗くなる。隣には朔也の体温、向こうにはオルゴール。安心するはずの近さと、近いせいで気になるものとが同じ空間にある。
眠れる気はしなかった。けれど体の方は疲れていたらしい。まどろみの境目で、ふっと空気の質が変わる。
かすかな音がした。オルゴールだ。
目を開けたつもりだった。だが、そこにあったのは朔也の部屋の天井ではなかった。
高い天井。褪せた壁紙。大きな窓はあるのに、厚いカーテンのせいで外は見えない。知らない部屋だった。冷たいというより、長い間誰も笑っていない部屋の匂いがする。
あの子守歌みたいな旋律が続いている。やわらかいのに、一音だけ薄い。
部屋の中央に小さな椅子と机があり、その上にオルゴールがあった。前には少女が座っている。白い服、肩で揃えた髪、小さな背中。少女は振り返らず、じっとオルゴールを見ていた。
「……おい」
声を出したつもりなのに、ひどく小さい。部屋そのものに吸われていくみたいだった。
少女は動かない。代わりに遠くで足音がした。板張りの床を、硬い靴音がゆっくり歩いていく。少女の肩が小さくすくむ。
その時、昂夜はこの部屋の息苦しさの正体を知った。
閉じ込められている。
窓があるのに外がない。扉があるのに開く感じがしない。この部屋だけが時間を止めたみたいに閉ざされている。
少女がようやく動いた。細い指でオルゴールの蓋を開ける。旋律が少しだけ大きくなる。その音を聞きながら窓の方を見る。でも立ち上がらない。立ち上がれないのかもしれなかった。
昂夜は一歩近づく。
「お前、」
また声が届かない。少女の唇が少し動く。何かを言ったはずなのに聞き取れない。ただ感情だけが胸へ流れ込んでくる。
寂しい。苦しい。待っている。でも誰も来ない。
足音が止まる。扉の向こうに誰かがいる気配。少女はびくりと肩を震わせ、オルゴールを抱えるように体を小さくした。
怖がっている。
その瞬間、部屋の空気がぐっと重くなる。少女の怖さが、そのままこちらへ流れ込んでくるみたいだった。
苦しい。悲しい。息が詰まる。
次の瞬間、場面が変わった。
薄暗い廊下。冷たい手すり。風の鳴る音。今度は自分の視点ではない。少女が見ているのかもしれなかった。
長い廊下の先に、閉まった扉がある。その向こうに光がある気がする。行きたい。でも行けない。足が重い。体が動かない。
その閉塞感が一気に押し寄せた瞬間、昂夜は目を開けた。
「……っは」
暗い天井。朔也の部屋だ。呼吸が早い。布団の中は汗ばんでいて、胸が妙に重い。
横では朔也が寝ている。だが、寝息が少し乱れていた。
昂夜は起き上がり、反射的に机を見る。オルゴールはそこにある。蓋は閉じている。なのに、さっきまで確かにあの音を聞いていた感覚が耳に残っていた。
「……夢、か」
ただの夢ではない。あの部屋の冷たさも、少女の感情も、生々しすぎた。
その時、隣で布団が少し揺れた。朔也がゆっくり目を開ける。
「お前も起きてるのか」
眠気だけじゃないものが混じった声だった。
「今、起きた。お前は」
「分かんね」
朔也は眉を寄せ、目元を押さえる。
「……変な夢見た気がする」
その一言に、昂夜の背筋がひやりとする。
「どんな」
「屋敷。知らねえ部屋。女の子いた」
そこまで聞いて、昂夜は小さく息を呑んだ。同じだ。
だが朔也は少し首をひねる。
「でも、なんか変で」
「変?」
「途中から、別のもん混ざってた」
昂夜は黙る。
「屋敷のはずなのに、違う匂いしてた。埃っぽい、もっと古い……あと、声」
「声?」
「誰かが何か言ってた気がする。でも思い出せねえ」
その顔は、何かに触れかけて取り逃がした時の顔だった。
「……お前、平気か」
どうにかそう聞くと、朔也は少しだけ視線を向ける。
「平気っていうか、気持ち悪い」
「だろうな」
「でも、さっきまで何か」
また止まる。そして結局、首を振った。
「分かんねえ」
それ以上は出てこなかった。
昂夜は机の上のオルゴールを見る。閉じたままの箱。けれど今は、もうただの木箱には見えなかった。
あの夢は、自分だけじゃなく朔也の中の何かにも触れている。
「……司に連絡する」
昂夜が言うと、朔也は「ああ」とだけ返した。
窓の外はうっすら明け始めていた。第一夜は終わった。けれど、オルゴールの夢はまだ始まったばかりだと、昂夜には分かっていた。
昂夜は無言でそれを見る。白木の小さな箱は蓋を閉じたまま静かに置かれている。ただそれだけなのに、誰かが息を潜めているみたいな気配がある。
司と壱太が帰ったあと、部屋にはまた昂夜と朔也だけが残った。何かが起こるなら、たぶん夜だ。それはもう、口にしなくても分かっていた。
けれど、ずっと見張っているわけにもいかない。朔也はベッドにもたれてアニメを流し、昂夜は少し離れて電子書籍を開く。活字を追っていれば紛れるはずなのに、視線は何度も机へ戻った。
「気にしすぎ」
画面を見たまま朔也が言う。
「見てねえよ」
「見てる」
あっさり返されて、昂夜は眉を寄せた。
「お前こそ気にしてんだろ」
「まあな」
その返しだけで、少し息がしやすくなる自分がいた。
夕食は冷蔵庫の残りと総菜で済ませた。会話は少ない。壱太から「今のところ生きてる?」とメッセージが来て、朔也が「たぶん」と返し、昂夜が「たぶんって何だよ」と呆れる程度だった。
窓の外が暗くなる。部屋の光が、机の上のオルゴールだけを少し浮かび上がらせる。誰もそれを鳴らそうとはしなかった。
風呂は短いシャワーで済ませた。二枚貝は脱衣所の棚、ドアは少し開けたまま。嫌なのに、手順だけはもう慣れ始めている。
部屋へ戻っても、オルゴールはさっきと同じ顔で机の上にある。蓋は閉じたままなのに、近くを通るたび中で何かが息をしているみたいだった。
布団へ入る時も、昂夜は一度だけそちらを見た。朔也はもう横になっていて、スマホを見ながら「電気消すぞ」と言う。
部屋が暗くなる。隣には朔也の体温、向こうにはオルゴール。安心するはずの近さと、近いせいで気になるものとが同じ空間にある。
眠れる気はしなかった。けれど体の方は疲れていたらしい。まどろみの境目で、ふっと空気の質が変わる。
かすかな音がした。オルゴールだ。
目を開けたつもりだった。だが、そこにあったのは朔也の部屋の天井ではなかった。
高い天井。褪せた壁紙。大きな窓はあるのに、厚いカーテンのせいで外は見えない。知らない部屋だった。冷たいというより、長い間誰も笑っていない部屋の匂いがする。
あの子守歌みたいな旋律が続いている。やわらかいのに、一音だけ薄い。
部屋の中央に小さな椅子と机があり、その上にオルゴールがあった。前には少女が座っている。白い服、肩で揃えた髪、小さな背中。少女は振り返らず、じっとオルゴールを見ていた。
「……おい」
声を出したつもりなのに、ひどく小さい。部屋そのものに吸われていくみたいだった。
少女は動かない。代わりに遠くで足音がした。板張りの床を、硬い靴音がゆっくり歩いていく。少女の肩が小さくすくむ。
その時、昂夜はこの部屋の息苦しさの正体を知った。
閉じ込められている。
窓があるのに外がない。扉があるのに開く感じがしない。この部屋だけが時間を止めたみたいに閉ざされている。
少女がようやく動いた。細い指でオルゴールの蓋を開ける。旋律が少しだけ大きくなる。その音を聞きながら窓の方を見る。でも立ち上がらない。立ち上がれないのかもしれなかった。
昂夜は一歩近づく。
「お前、」
また声が届かない。少女の唇が少し動く。何かを言ったはずなのに聞き取れない。ただ感情だけが胸へ流れ込んでくる。
寂しい。苦しい。待っている。でも誰も来ない。
足音が止まる。扉の向こうに誰かがいる気配。少女はびくりと肩を震わせ、オルゴールを抱えるように体を小さくした。
怖がっている。
その瞬間、部屋の空気がぐっと重くなる。少女の怖さが、そのままこちらへ流れ込んでくるみたいだった。
苦しい。悲しい。息が詰まる。
次の瞬間、場面が変わった。
薄暗い廊下。冷たい手すり。風の鳴る音。今度は自分の視点ではない。少女が見ているのかもしれなかった。
長い廊下の先に、閉まった扉がある。その向こうに光がある気がする。行きたい。でも行けない。足が重い。体が動かない。
その閉塞感が一気に押し寄せた瞬間、昂夜は目を開けた。
「……っは」
暗い天井。朔也の部屋だ。呼吸が早い。布団の中は汗ばんでいて、胸が妙に重い。
横では朔也が寝ている。だが、寝息が少し乱れていた。
昂夜は起き上がり、反射的に机を見る。オルゴールはそこにある。蓋は閉じている。なのに、さっきまで確かにあの音を聞いていた感覚が耳に残っていた。
「……夢、か」
ただの夢ではない。あの部屋の冷たさも、少女の感情も、生々しすぎた。
その時、隣で布団が少し揺れた。朔也がゆっくり目を開ける。
「お前も起きてるのか」
眠気だけじゃないものが混じった声だった。
「今、起きた。お前は」
「分かんね」
朔也は眉を寄せ、目元を押さえる。
「……変な夢見た気がする」
その一言に、昂夜の背筋がひやりとする。
「どんな」
「屋敷。知らねえ部屋。女の子いた」
そこまで聞いて、昂夜は小さく息を呑んだ。同じだ。
だが朔也は少し首をひねる。
「でも、なんか変で」
「変?」
「途中から、別のもん混ざってた」
昂夜は黙る。
「屋敷のはずなのに、違う匂いしてた。埃っぽい、もっと古い……あと、声」
「声?」
「誰かが何か言ってた気がする。でも思い出せねえ」
その顔は、何かに触れかけて取り逃がした時の顔だった。
「……お前、平気か」
どうにかそう聞くと、朔也は少しだけ視線を向ける。
「平気っていうか、気持ち悪い」
「だろうな」
「でも、さっきまで何か」
また止まる。そして結局、首を振った。
「分かんねえ」
それ以上は出てこなかった。
昂夜は机の上のオルゴールを見る。閉じたままの箱。けれど今は、もうただの木箱には見えなかった。
あの夢は、自分だけじゃなく朔也の中の何かにも触れている。
「……司に連絡する」
昂夜が言うと、朔也は「ああ」とだけ返した。
窓の外はうっすら明け始めていた。第一夜は終わった。けれど、オルゴールの夢はまだ始まったばかりだと、昂夜には分かっていた。



