怪異、お持ち帰り注意

 翌朝、昂夜が目を覚ました時、最初に見えたのは朔也の顔だった。
「……っ!?」
 思わず声が漏れる。
 近い。近すぎる。
 昨夜はちゃんと布団の端と端で寝たはずなのに、いつの間にか朔也の顔がすぐ目の前まで来ていた。寝返りのせいなのか、狭い布団のせいなのか、とにかく鼻先が触れそうな距離だ。
 昂夜は反射的に上半身を起こした。
「うわ、びっくりした……!」
 その声で、隣の朔也がゆっくりと目を開ける。
 まだ半分眠っている顔のまま、目元をこすって、小さく息を吐く。
「……んー……」
「お前、近っ……!」
 昂夜が低く言うと、朔也は寝ぼけたまま少しだけ笑った。
「そんなに驚くなよ」
「驚くだろ普通に!」
「布団狭いし」
「そういう問題じゃねえ」
 そう返しながらも、昂夜は自分の顔が少し熱い気がして、余計に機嫌が悪そうな声になった。
 朔也はまだ眠そうなまま、あくびを噛み殺すように口元へ手をやる。
「ちゃんと生きてるじゃん」
「……朝一番に確認することかよ、それ」
「大事だろ」
 その言い方があまりにも自然で、昂夜はそれ以上怒る気を削がれた。
 たしかに昨夜は、あのまま何事もなく朝を迎えられる保証なんてなかった。  だからこうして目を覚まして、妙に近い距離であっても、とりあえず普通に息をしている相手がいるのは悪いことじゃない……と、そこまで考えて、昂夜は小さく眉を寄せる。
 何を納得しかけているんだ、自分は。
「起きるぞ」
 ぶっきらぼうに言って布団から抜け出す。
 右耳を気にしてみる。  昨夜の息苦しさはない。  胸の奥のざわつきも、少なくとも今は大丈夫そうだった。
 朔也ももぞもぞと起き上がり、髪をぐしゃぐしゃとかき上げる。
「朝飯どうする」
「あるのかよ」
「食パンならある」
「また廃棄か」
「また廃棄」
 当たり前みたいに言って、朔也はキッチンの方へ向かった。
 結局、朝食は妙にちゃんとしたものになった。
 朔也がコンビニバイトでもらってきた廃棄の食パンをトースターへ入れ、その間に昂夜が冷蔵庫を覗く。中には卵とベーコン、それから使いかけのチーズや野菜が適当に入っていた。
「これ使っていいか」
「いいよ」
「ほんとに生活感あるな、お前んち」
「あるだろ、住んでんだから」
 そんなやり取りをしながら、昂夜はフライパンを火にかける。ベーコンを焼き、卵を割り入れる。油のはねる音がして、トースターからはパンの焼ける匂いが漂う。
 キッチンは広くない。  後ろを通るたび少し肩が触れそうな距離で、そこがまた妙に落ち着かない。
 それでも、手を動かしている方が余計なことを考えずに済む。
 焼けたトーストの上に、目玉焼きとベーコンをのせる。  飲み物は、昂夜がコーヒー。朔也は牛乳だった。
「はい」
 皿をテーブルへ置くと、朔也が素直に「うまそう」と言った。
「お前、手際いいな」
「まあ、普通だろ」
「普通じゃなくね」
 トーストを見ながら、朔也は本気で感心したように言う。
「卵の焼き方とか、慣れてる感じする」
「朝飯くらい自分で作るし」
「偉」
「うるせえ」
 昂夜はコーヒーのカップを持ちながら眉を寄せた。  でも、褒められて悪い気はしない。
「いや、ほんとに」  朔也は牛乳を飲みながら続ける。 「こういうのぱっと作れるの、普通にすごい」
「……作ってもらうのが楽だからって、調子よく褒めてるだろ」
 照れ隠しみたいに釘を刺すと、朔也は少しだけ笑った。
「それもある」
「正直すぎんだよ」
「でも普通にうまいし」
 さらっと重ねてくるから、昂夜は返しに詰まる。
 こういうところだ。  妙なところで素直で、変に距離が近い。  そのくせ、自分が何をしているのか分かっていないみたいな顔をしている。
「……食えよ、冷める」
 ぶっきらぼうに言って、自分もトーストへ手を伸ばす。
 外はさくっとしていて、中は少しもっちりしていた。ベーコンの塩気と半熟気味の黄身がちょうどいい。自分で作っておいて何だが、悪くない。
「うま」
 朔也が素直に言う。
「来るたびに飯作ってもらいてえ」
「嫌だよ」
「なんで」
「お前が調子に乗るから」
「もう乗ってる」
「知ってる」
 そう返しながら、昂夜は少しだけ笑ってしまった。
 昨夜の気まずさも、息苦しさも、今この朝の中では少し遠い。  目の前には、牛乳を飲みながらトーストを頬張る朔也がいて、テーブルの端には問題の二枚貝が静かに置かれている。
 呪いのせいで一緒にいるだけ。  そう言い切るには、こういう朝の空気は少しだけ穏やかすぎた。