怪異、お持ち帰り注意

 問題は、風呂のあとだった。
 髪を拭き終えて、どうにか一息ついたところで、昂夜は部屋の中を改めて見回した。
 分かってはいた。  前に来た時も見ている。  けれど今夜は、その事実がやけに重くのしかかる。
 無駄な家具はない。  小さなテーブルと収納、最低限の家電。床は広く見えるくらいに物が少ない。生活するには足りているのに、誰かを泊める前提の空間ではまったくなかった。
 ソファもなければ、予備の寝具もない。
「……おい」
 昂夜が低く言う。
 朔也はタオルを首に掛けたまま、スマホをいじっていた顔を上げた。
「ん」
「布団、一つしかねえじゃん」
「そうだな」
「そうだな、じゃねえよ」
 言いながらも、部屋を見ればどうしようもないのは分かる。  床に直で寝るにしても、毛布一枚ない。しかも今夜は、離れないことが条件だ。別々に寝るという選択肢そのものが怪しい。
「まあ、寝れるだろ」
 朔也はあっさりと言った。
「セミダブルだし」
「だからって」
「嫌なら起きとく?」
「明日死ぬわ」
「じゃあ寝るしかないじゃん」
 その通りすぎて腹が立つ。
 昂夜は小さく舌打ちしたい気分のまま、部屋の隅に敷かれた布団を見た。  広くはないが、たしかに二人並べば入れなくもないサイズだ。入れなくもない、という程度でしかないのが問題だった。
「……お前、ほんと何も気にしてねえな」
「何を」
「何を、って」
 言いかけて、やめる。  そこを細かく説明するのも、何だか馬鹿らしい。
 呪いのせいだ。  条件のせいだ。  そう分かっている。
 分かっているのに、同じ布団で寝るという状況だけが、別の意味でひどく落ち着かなかった。
 朔也はそんな昂夜の内心などまるで気づかない顔で、貝殻を枕元に置いた。
「ほら、お前のも」
「……ああ」
 昂夜も自分の片割れを、少し離して同じあたりへ置く。  それだけで妙に「逃げられない」感が増して、余計に嫌だった。
「電気消すぞ」
「早えよ」
「眠いし」
「まだ俺の気持ちが何も追いついてねえんだけど」
「気持ちでどうにかなる話じゃないだろ」
 淡々と返されて、昂夜は本格的に返す言葉を失う。
 結局、どうにもならなかった。
 昂夜は観念したように布団の端へ入り、できるだけ距離を取るように横になる。朔也もその反対側に入ったが、布団の幅には限界がある。肩が触れるか触れないかの距離。少し寝返りを打てば、すぐに腕や脚がぶつかりそうな近さだった。
 照明が落ちる。
 部屋の中は一気に静かになった。  外の車の音が遠くにして、冷蔵庫の小さな駆動音だけが残る。
 暗さに目が慣れてくると、隣にいる朔也の輪郭がうっすら見えた。
「……ちゃんといるか」
 昂夜が、半分確認みたいに聞く。
「いる」
 すぐに返事が来る。  眠そうで、でもはっきりした声。
 それを聞いた瞬間、胸の奥のざわつきが少しだけ静まる。  呪いのせいだ。  そう思う。  そう思いたい。
 けれど、安心したこと自体は消せない。
「ならいい」
「ん」
 そこで会話は途切れた。
 静かだ。  なのに、昂夜の頭の中だけがまったく静かにならない。
 布団に染みついた匂いがする。
 洗剤の匂いだけじゃない。  もっと、生活の中にある温度の匂い。風呂上がりの湿った髪と、肌に残った石鹸の匂いと、朔也本人の体温が混ざったような、やけに生っぽい気配。
「……」
 落ち着かない。
 狭い布団に横たわっているだけなのに、まるで朔也の中に取り込まれているみたいな錯覚を覚える。包まれている、という言い方の方が近いかもしれない。それが呪いの条件によるものなのか、別の意味で意識しすぎているだけなのか、自分でも分からなくて余計に厄介だった。
 寝返りを打つにも気を使う。  呼吸の深ささえ妙に意識してしまう。
 横目でちらりと朔也を見る。
 もう寝ていた。
 早すぎる。
 ついさっきまで普通に喋っていたはずなのに、今はもう完全に気の抜けた寝顔を晒している。眉間の力も抜けて、口元も少し緩んでいて、無防備そのものだ。呼吸のリズムも穏やかで、一定の寝息が静かに続いている。
「……は?」
 昂夜は小さく眉をひそめた。
 なんでこいつだけそんな簡単に寝られるんだ。
 こっちは呪いとは別の意味でまるで落ち着かないのに、当の本人は何も気にしていないみたいな顔で眠っている。
 少しだけ腹が立った。
「呑気すぎんだろ……」
 小声で呟く。
 当然、返事はない。  朔也は寝たままだ。
 その寝息を聞いているうちに、さっきまでのイライラと別の感情が混じる。呆れとか、諦めとか、何だかよく分からないものが胸のあたりで行き場を失っている。
 右耳を澄ませる。
 あの息苦しさはない。  胸を締めつける焦燥感も、昨夜ほどではない。  ちゃんと近くにいるからだ。
 それが分かること自体が、また少しだけ腹立たしい。
 呪いのせいだ。  近くにいなければ苦しくなるから、落ち着くのは当たり前だ。  そう何度も言い聞かせるのに、隣の体温や寝息の近さが、違う意味で意識を散らしてくる。
 昂夜は浅く息を吐いて、天井を見た。
 眠れない。  でも起き上がるわけにもいかない。  狭い布団の中で、身じろぎするたび朔也の腕や肩が少し近づく気がして、また妙な緊張が走る。
「……ほんと、最悪」
 さっきから何度目かも分からない悪態を心の中でつきながら、昂夜は目を閉じた。
 その横では、朔也が何の悩みもなさそうな寝顔のまま、静かに寝息を立て続けていた。