怪異、お持ち帰り注意

 夜になる前に、昂夜は渋々ながら朔也のアパートへ向かった。
 司に「着いたら連絡を」と念を押され、壱太には「死にそうになったら我慢しないで呼んで」と妙に真顔で言われたまま別れたあとも、気分はまったく晴れなかった。
 死にそうになるのが分かっていて、わざわざその夜を迎えに行くみたいで気が重い。  しかも相手は朔也だ。  もっと気を遣わずに済む誰かならまだしも、あのマイペースな男と“近くにいなきゃいけない”という状況そのものがすでにだいぶ面倒くさい。
 インターホンを押すと、間もなくドアが開いた。
「早かったな」
 朔也はもう部屋着だった。  黒っぽいスウェットに、髪も適当に乾かしただけのまま。いつも通り気の抜けた顔をしているのに、ポケットのあたりが少し膨らんでいる。貝殻をちゃんと持っているのだろう。
「お前が来いって言ったんだろ」
「そうだけど」
 言いながら、朔也は身を引く。  昂夜は靴を脱いで部屋に上がった。
 中はこの前来た時とほとんど変わっていない。必要最低限の家具だけが置かれた、妙にさっぱりした部屋だ。生活感はあるのに、どこか仮の場所みたいにも見える。
「司から連絡来た?」
 昂夜がバッグを下ろしながら聞く。
「来た」  朔也はスマホを適当に持ち上げて見せた。 「一時間おきくらいに生存確認しろって」
「やっぱ保護者じゃねえか」
「管理らしいけど」
 その返しに少しだけ笑いそうになる。  けれど胸の奥には、まだ昨夜の息苦しさの記憶が残っていて、完全には気が緩まない。
 昂夜はポケットから自分の貝殻を取り出した。  白っぽい殻は夜の部屋の照明の下でも静かで、何も主張していないように見える。なのに、それを見ているだけでじわりと嫌な予感がよみがえる。
「……これ、ほんとに持っとかなきゃ駄目なんだよな」
「たぶん」
「そのたぶんやめろ」
「でも司が言ってたし」
「お前が言うと軽く聞こえる」
 朔也は「そうか?」とでも言いたげに肩をすくめるだけだった。
 しばらくして、ふと朔也が冷蔵庫の方を見やった。
「風呂どうする」
 昂夜は一瞬だけ黙った。
 そうだ。夜を越すということは、そういう生活の細かいことをひとつずつ処理しなきゃいけないということだ。
「……別でいいだろ、風呂くらい」
「まあ、ドア一枚だしな」
 朔也も最初はあっさりしていた。
 司に確認しようかと一瞬思ったが、そこまで逐一聞くのも癪だ。  貝殻はそれぞれ手元にある。部屋も狭い。浴室と居間でそこまで離れるわけでもない。  たぶん大丈夫だろう。
 たぶん、という言葉に自分で苛立ちながら、昂夜は立ち上がった。
「じゃあ俺、先入る」
「ん」
「貝殻どうする」
「持ち込むのは無理だろ」
 昂夜が言うと、朔也も頷いた。
「洗面台のとこに置いとけばいいんじゃね」
 結局、二つの貝殻は脱衣所の棚の上に並べて置くことにした。  互いの手元から離れるとはいえ、すぐ近くではある。
「これで平気なら楽なんだけどな」
 昂夜はそう言い残して、浴室へ入った。
 ドアを閉める。  服を脱ぎ、シャワーを捻る。  最初の数十秒は何でもなかった。
 湯気が上がり、白く曇り始めた浴室の中で、昂夜は少しだけ肩の力を抜く。  やっぱり考えすぎかもしれない。  昨夜のは、たまたまタイミングが悪かっただけで。
 そう思った矢先だった。
「……っ」
 胸の奥が、ひゅ、と狭くなる。
 呼吸がうまく深く入らない。  昨夜と同じだ。  いや、昨夜より早い。
 目の前の湯気が妙に濃く感じる。  狭い浴室の中で、空気が足りないような圧迫感が一気に増した。
 昂夜はシャワーを止めた。  それでも、苦しさは消えない。
 貝殻はすぐ外だ。  距離も大したことない。  なのに、明らかに遠い。
「……は、っ」
 息が浅い。  心臓が早い。  ただののぼせではないと、体が先に分かっている。
 どうにか壁に手をつき、昂夜はドアの方へ顔を向けた。
「朔也」
 声を出したつもりだったが、自分でも驚くくらい掠れていた。
 すぐに外から足音が寄る。
「どうした」
 ドア越しに朔也の声がする。  少し近づいただけなのに、ほんのわずかに呼吸が楽になる。
「……駄目だ、ちょっと」
「開けるぞ」
 返事を待たず、浴室のドアが数センチ開いた。  湯気の向こうに、朔也の気配が来る。
 それだけで、胸を締め付けていたものが少し緩んだ。
「……っは」
 昂夜は思わず壁に額を押しつける。  さっきまでの焦燥感が、完全ではないにしても明らかに薄い。
「やばい?」
 朔也の声がする。  今度はちゃんと届く。
「……やばい」  昂夜は正直に言った。 「ドア閉まってたら、昨日みたいになる」
 少し間があってから、朔也が「そっか」と低く返した。
 ふざけた様子はなかった。
「じゃあ、開けとけ」
「は?」
「ドア」
 当然みたいに言う。
「全部閉めんのは駄目なんだろ。ちょっと開けたまま急いで済ませりゃいい」
 あまりにも実務的で、昂夜は一瞬だけ気が抜けた。
「……お前な」
「何」
「そういう言い方やめろよ」
「でもそうだろ」
 その通りだ。  その通りだから余計に腹立たしい。
 けれど、今は意地を張っている場合でもない。  昂夜はドアを少し開けたままにして、もう一度だけ深く息を吸った。
「まだ平気?」
 外から朔也が聞く。
「……さっきよりは」
「ならさっさと流せ」
「命令すんな」
「死にそうなんだろ」
 それを言われると返せない。
 昂夜は短くシャワーだけで済ませることにした。  湯を浴びる間も、ドアの隙間の向こうに朔也の気配があるのが分かる。時々、床に体重をかける音がする。それだけで妙に安心している自分に気づいて、少しだけ嫌になる。
「まだいるか」
 思わずそう声をかけると、すぐに返事があった。
「いる」
 短い。  けれど、ちゃんとそこにいると分かる声だった。
 結局、昂夜は本当にシャワーを浴びるだけで浴室を出た。
 髪を拭きながら出ていくと、脱衣所のすぐ外の壁に朔也がもたれていた。スマホを見ていたらしいが、昂夜が出た瞬間に視線を上げる。
「もう平気?」
「……大丈夫」  タオルで髪を乱暴に拭きながら答える。 「少なくとも、さっきよりは」
「じゃあやっぱ、ドア一枚でも駄目なんだな」
 朔也の言い方は淡々としていた。  怖がるでもなく、面白がるでもなく、ただ事実として受け止めている。
「お前も試すか」
 昂夜が言うと、朔也は少しだけ眉を上げた。
「試すって」
「風呂だよ。俺だけが駄目なのか、お前もなのか」
「別に入らなくても」
「気持ち悪いんだろ」
「まあ」
「じゃあ試せ」
 昂夜はそう言って、貝殻を脱衣所の棚へ戻した。
 朔也は少しだけ迷うような顔をしたが、やがて「じゃあ入る」と素直に答えた。
 今度は昂夜が脱衣所の外に立つ番だった。
 朔也が浴室へ入る。  ドアが閉まる。
 数十秒。  何も起きないように思えた。
「……」
 昂夜は腕を組み、壁にもたれる。  自分ほど強くは出ないのかもしれない。  そう考えかけた時、胸の奥がじわりとざわついた。
 さっきほどじゃない。  だが、確実に落ち着かない。
 息苦しいというより、胸の中心が空いていくみたいな変な感覚。  近くにいたはずのものが、急に見えない場所へ行ってしまったような、妙な焦燥。
 昂夜は眉を寄せた。
「……おい」
 ドア越しに声をかける。
「んー?」
 中から気の抜けた返事がする。  その瞬間だけ、少し楽になる。
 昂夜は思わず舌打ちしそうになった。
「何でもねえ」
「何だよ」
「いや、別に」
 認めるのが妙に癪だった。
 だが、そのまま数十秒経つと、やはりじわじわ胸が落ち着かなくなる。  これは昨夜の苦しさほど強くはないが、無視はできない。
「……朔也」
「だから何」
「ドア、少し開けろ」
 中で少しだけ間があってから、「はは」と笑う気配がした。
「そっちもかよ」
「うるせえ」
 やがてドアがほんの少し開く。  湯気と一緒に朔也の気配が近づく。
 それだけで、胸のざわつきが少し引いた。
「分かりやす」
「黙れ」
「いや、いいじゃん。俺だけじゃないって分かったし」
「よくねえよ」
 そう返しながらも、昂夜は壁から背を離した。
 これで確定だ。  自分だけじゃない。  強さに差はあっても、離れるとちゃんと引っ張られている。
 呪いのせいだ。  そう頭では分かっている。
 分かっているのに、相手の気配が近いだけで楽になる事実が、妙に扱いづらかった。
 朔也がシャワーを終えて出てくると、髪を適当に拭きながら「面倒だな」と言った。
「今さらかよ」
「いや、改めて」
「お前、ほんと呑気だな」
「でも、まあ」
 タオルを首に掛けたまま、朔也は少しだけ目を細める。
「どっちも同じなら、まだマシじゃね」
 その言い方に、昂夜は一瞬だけ返事に詰まった。
 たしかに、片方だけが一方的に苦しいよりはマシかもしれない。  そう思ってしまった時点で、もうだいぶ呪いに感覚を慣らされている気もした。
 結局その夜は、風呂は短時間のシャワーで済ませるしかないと分かった。
 ドア一枚でも危ない。  貝殻は脱衣所の棚に置いたまま。  そして、声と気配が届く状態でなければ駄目。
 そこまで試したところで、二人とももう十分うんざりしていた。
「……で」
 昂夜が濡れた髪を拭きながら言う。
「寝るのはどうする」
 その一言に、部屋の空気がまた少しだけ気まずくなる。
 夜は、まだこれからだった。