怪談ライブの会場は、古い雑居ビルの三階にある小さなイベントスペースだった。
それから数日。 右耳の違和感は完全に消えたわけではないが、少なくともあの日ほど世界が薄く感じることはなくなっていた。音の位置も、客のざわめきも、空気の揺れも、ちゃんと拾える。怪談師として舞台に立つには、まだ少し神経質になる程度の不安は残っていたけれど、それでも今日は出ると決めた。
客席の明かりが落ち、舞台の上だけが照らされる。 昂夜はマイクを持ち、客席をゆっくり見渡した。
そこに、見慣れた顔があった。
壁際の後方席。黒っぽい服のまま、気だるそうに椅子へ座っている朔也。いかにも場慣れしていないくせに、妙に目立つ。視線が合うと、朔也は少しだけ顎を上げた。それだけで、来ていることを伝えるには十分だった。
様子を見に来たのだろう。 そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。
ライブは問題なく進んだ。 客の笑いどころ、息を呑む間、ざわつき、静まり返る気配。全部、ちゃんと聞こえた。右も左も、偏らずに届いてくる。怖い話を語る声の奥で、昂夜は何度も小さく安堵していた。
終演後、楽屋で軽く片づけを済ませて外へ出ると、朔也は本当に何事もなかった顔で待っていた。
「おつかれ」
「……いたのかよ」
「見に来たんだからいるだろ」
当然みたいに言う。
その物言いに、昂夜は少しだけ笑った。
「どうだった」
「普通に良かった」
「感想雑だな」
「でも、ちゃんと聞こえてそうだった」
その一言だけが、妙に真っ直ぐだった。
昂夜は返事の代わりに、小さく息を吐く。
「夕飯、行くんだろ」
朔也が言う。
「ああ」
もともと、その約束はしていた。 ライブが終わったあとで飯でも食おう、と、かなり前に何となく決めていた話だ。
入ったのは、駅から少し歩いた先の個室居酒屋だった。 靴を脱いで上がる半個室で、照明は少し暗い。外の喧騒が遠くなって、二人きりの空気がやけに濃く感じる。
最初の一杯が来るまでは普通だった。
ライブの話を少しして、料理を適当に頼んで、最近の配信や壱太や司のことを話す。朔也は相変わらずマイペースに箸を伸ばし、昂夜はそんな様子を見ながら適当に突っ込む。いつも通りのはずだった。
問題は、朔也が酒に弱いくせに調子に乗って飲み始めてからだった。
「お前、そんなペースで飲むなよ」
昂夜が言った時には、すでに二杯目の半分が消えていた。
「別に平気」
「その“平気”信用ならねえんだよ」
「昂夜がいるし」
さらっと返されて、昂夜は一瞬だけ言葉に詰まる。
「それはそうかもしれねえけど」
「だろ」
妙に満足そうに言って、朔也はまたグラスを傾けた。
案の定、酔いが回るのは早かった。
目元が少し緩み、声の調子がいつもより柔らかくなる。完全に潰れているわけではないが、明らかに機嫌のいい酔っ払いだった。
「なあ」
テーブルに頬杖をついたまま、朔也が言う。
「ん?」
「今日、ほんとに大丈夫そうだった」
「さっきも聞いた」
「でも確認したい」
「何を」
聞き返した次の瞬間、朔也が身を寄せてきた。
狭い個室だ。もともと距離は遠くない。なのに今の動きは、明らかに近すぎた。
「お、おい」
昂夜が身を引きかけるより先に、朔也はそのまま肩を寄せる。 そして右側へ回り込むように顔を近づけた。
「ちゃんと聞こえる?」
右耳のすぐそばで、低く囁かれる。
妙に甘い声だった。 酒のせいで少し熱が乗っていて、吐息まで近い。
昂夜は一瞬、言葉を失った。
聞こえるかどうかなんて、ただの確認のはずなのに。 耳のすぐ近くに落ちる声と、酒の匂いの混じった息がやけに生々しくて、心臓が不自然に跳ねる。
「……聞こえてる」
どうにか返すと、朔也は「ふうん」と小さく笑った。
「よかった」
それだけ言って離れるのかと思ったのに、離れない。 むしろ肩のあたりに少し重みをかけたまま、気を許した猫みたいに凭れてくる。
昂夜はグラスに手を伸ばした。 何でもいいから飲まないと、この妙な動揺が顔に出そうだった。
「お前、酔ってんだろ」
「酔ってる」
「自覚あるのかよ」
「ある」
あるくせに、まったく直す気配がない。
朔也はそのまま、また右耳に近い位置で喋る。
「でも、ちゃんと聞こえるならよかった」
「……近い」
「そう?」
「そうだよ」
「確認してるだけ」
本人に一切悪気がないのが分かるから、余計に困る。
昂夜はぐいっと酒を煽った。 冷たい液体が喉を通るのに、顔の熱は引かない。
「なんか顔赤くね」
朔也が言う。
「酒飲んでるからだろ」
「ふうん」
納得したのかしていないのか分からない返事のまま、朔也はまた適当に枝豆をつまみ、そしてそのまま昂夜の肩に寄りかかる。
甘えている、という言葉が一番近かった。 自覚なく、自然に、そこが自分の居場所みたいな顔で体重を預けてくる。
昂夜はそれを振り払うこともできず、ただやたらと酒の減るペースだけが早くなっていった。
「お前さ」
「んー?」
「そういう距離感、誰にでもやるなよ」
「やんない」
即答だった。
「じゃあなんで俺にはやるんだよ」
「昂夜だから」
酔っ払いの返事は、時々無防備すぎる。
昂夜はもう一度酒を飲んだ。 だが、さっきから全然気が紛れていない。
右耳のそばで囁かれた声が、まだ変に残っている。 聞こえるかどうかを確かめるための言葉だったはずなのに、それ以上の意味を勝手に拾い上げてしまいそうな自分が、少し面倒だった。
結局、朔也はそのまま順調に酔いを深めていき、最後には完全に潰れた。
「……おい」
昂夜が肩を揺すると、朔也は机に突っ伏したまま「んー……」と気の抜けた声を漏らすだけだ。
「帰るぞ」
「むり」
「無理じゃねえよ」
「歩けない」
「歩け」
「やだ」
会話は成立しているようでしていない。
仕方なく会計を済ませ、昂夜は朔也を引っ張るように店の外へ連れ出した。
夜風に当たっても、朔也はほとんどしゃきっとしなかった。むしろ一瞬だけ目を開けて、「さむ」と呟いてまた昂夜に体重を預けてくる。
「重いんだよ、お前」
「うそ」
「嘘じゃねえ」
「昂夜、鍛えてそうなのに」
「そういう問題か」
半分引きずるみたいにして歩きながら、昂夜は何度ため息をついたか分からない。
それでも不思議と、本気で腹が立つわけではない。 面倒くさい。手がかかる。呆れる。けれど、置いていこうとは思えない。
アパートに着く頃には、昂夜の方が妙にぐったりしていた。
「鍵」
「ぽっけ……」
「どこの」
「右……いや左……」
「どっちだよ」
どうにかポケットから鍵を見つけ出し、部屋のドアを開けて中へ入れる。朔也は靴を脱ぐのも半端なまま、ほとんど倒れ込むように布団へ沈んだ。
「……おい、せめて上着」
返事はない。
まあいいか、と昂夜は小さく息を吐く。 どうせ今ちゃんと世話を焼かせるだけ無駄だ。
テーブルの上に水だけ置いて、少し離れたところから朔也を見る。
さっきまであんなに好き勝手していたくせに、寝顔だけは妙に穏やかだった。 眉間の力も抜けて、子どもみたいに無防備で、何も考えていない顔をしている。
「……呑気なやつ」
小さく呟く。
それが呆れなのか、苦笑なのか、自分でもよく分からなかった。
右耳に手をやる。 もう違和感はほとんどない。 さっき居酒屋であんなに近くで囁かれた声も、今はただ変に残っているだけだ。
面倒で、勝手で、気まぐれで。 それなのに、こうして放っておけない。
昂夜はもう一度だけ朔也の寝顔を見て、やれやれと小さく肩をすくめた。
ほんとうに、憎めないやつだった。
それから数日。 右耳の違和感は完全に消えたわけではないが、少なくともあの日ほど世界が薄く感じることはなくなっていた。音の位置も、客のざわめきも、空気の揺れも、ちゃんと拾える。怪談師として舞台に立つには、まだ少し神経質になる程度の不安は残っていたけれど、それでも今日は出ると決めた。
客席の明かりが落ち、舞台の上だけが照らされる。 昂夜はマイクを持ち、客席をゆっくり見渡した。
そこに、見慣れた顔があった。
壁際の後方席。黒っぽい服のまま、気だるそうに椅子へ座っている朔也。いかにも場慣れしていないくせに、妙に目立つ。視線が合うと、朔也は少しだけ顎を上げた。それだけで、来ていることを伝えるには十分だった。
様子を見に来たのだろう。 そう思うと、少しだけ肩の力が抜ける。
ライブは問題なく進んだ。 客の笑いどころ、息を呑む間、ざわつき、静まり返る気配。全部、ちゃんと聞こえた。右も左も、偏らずに届いてくる。怖い話を語る声の奥で、昂夜は何度も小さく安堵していた。
終演後、楽屋で軽く片づけを済ませて外へ出ると、朔也は本当に何事もなかった顔で待っていた。
「おつかれ」
「……いたのかよ」
「見に来たんだからいるだろ」
当然みたいに言う。
その物言いに、昂夜は少しだけ笑った。
「どうだった」
「普通に良かった」
「感想雑だな」
「でも、ちゃんと聞こえてそうだった」
その一言だけが、妙に真っ直ぐだった。
昂夜は返事の代わりに、小さく息を吐く。
「夕飯、行くんだろ」
朔也が言う。
「ああ」
もともと、その約束はしていた。 ライブが終わったあとで飯でも食おう、と、かなり前に何となく決めていた話だ。
入ったのは、駅から少し歩いた先の個室居酒屋だった。 靴を脱いで上がる半個室で、照明は少し暗い。外の喧騒が遠くなって、二人きりの空気がやけに濃く感じる。
最初の一杯が来るまでは普通だった。
ライブの話を少しして、料理を適当に頼んで、最近の配信や壱太や司のことを話す。朔也は相変わらずマイペースに箸を伸ばし、昂夜はそんな様子を見ながら適当に突っ込む。いつも通りのはずだった。
問題は、朔也が酒に弱いくせに調子に乗って飲み始めてからだった。
「お前、そんなペースで飲むなよ」
昂夜が言った時には、すでに二杯目の半分が消えていた。
「別に平気」
「その“平気”信用ならねえんだよ」
「昂夜がいるし」
さらっと返されて、昂夜は一瞬だけ言葉に詰まる。
「それはそうかもしれねえけど」
「だろ」
妙に満足そうに言って、朔也はまたグラスを傾けた。
案の定、酔いが回るのは早かった。
目元が少し緩み、声の調子がいつもより柔らかくなる。完全に潰れているわけではないが、明らかに機嫌のいい酔っ払いだった。
「なあ」
テーブルに頬杖をついたまま、朔也が言う。
「ん?」
「今日、ほんとに大丈夫そうだった」
「さっきも聞いた」
「でも確認したい」
「何を」
聞き返した次の瞬間、朔也が身を寄せてきた。
狭い個室だ。もともと距離は遠くない。なのに今の動きは、明らかに近すぎた。
「お、おい」
昂夜が身を引きかけるより先に、朔也はそのまま肩を寄せる。 そして右側へ回り込むように顔を近づけた。
「ちゃんと聞こえる?」
右耳のすぐそばで、低く囁かれる。
妙に甘い声だった。 酒のせいで少し熱が乗っていて、吐息まで近い。
昂夜は一瞬、言葉を失った。
聞こえるかどうかなんて、ただの確認のはずなのに。 耳のすぐ近くに落ちる声と、酒の匂いの混じった息がやけに生々しくて、心臓が不自然に跳ねる。
「……聞こえてる」
どうにか返すと、朔也は「ふうん」と小さく笑った。
「よかった」
それだけ言って離れるのかと思ったのに、離れない。 むしろ肩のあたりに少し重みをかけたまま、気を許した猫みたいに凭れてくる。
昂夜はグラスに手を伸ばした。 何でもいいから飲まないと、この妙な動揺が顔に出そうだった。
「お前、酔ってんだろ」
「酔ってる」
「自覚あるのかよ」
「ある」
あるくせに、まったく直す気配がない。
朔也はそのまま、また右耳に近い位置で喋る。
「でも、ちゃんと聞こえるならよかった」
「……近い」
「そう?」
「そうだよ」
「確認してるだけ」
本人に一切悪気がないのが分かるから、余計に困る。
昂夜はぐいっと酒を煽った。 冷たい液体が喉を通るのに、顔の熱は引かない。
「なんか顔赤くね」
朔也が言う。
「酒飲んでるからだろ」
「ふうん」
納得したのかしていないのか分からない返事のまま、朔也はまた適当に枝豆をつまみ、そしてそのまま昂夜の肩に寄りかかる。
甘えている、という言葉が一番近かった。 自覚なく、自然に、そこが自分の居場所みたいな顔で体重を預けてくる。
昂夜はそれを振り払うこともできず、ただやたらと酒の減るペースだけが早くなっていった。
「お前さ」
「んー?」
「そういう距離感、誰にでもやるなよ」
「やんない」
即答だった。
「じゃあなんで俺にはやるんだよ」
「昂夜だから」
酔っ払いの返事は、時々無防備すぎる。
昂夜はもう一度酒を飲んだ。 だが、さっきから全然気が紛れていない。
右耳のそばで囁かれた声が、まだ変に残っている。 聞こえるかどうかを確かめるための言葉だったはずなのに、それ以上の意味を勝手に拾い上げてしまいそうな自分が、少し面倒だった。
結局、朔也はそのまま順調に酔いを深めていき、最後には完全に潰れた。
「……おい」
昂夜が肩を揺すると、朔也は机に突っ伏したまま「んー……」と気の抜けた声を漏らすだけだ。
「帰るぞ」
「むり」
「無理じゃねえよ」
「歩けない」
「歩け」
「やだ」
会話は成立しているようでしていない。
仕方なく会計を済ませ、昂夜は朔也を引っ張るように店の外へ連れ出した。
夜風に当たっても、朔也はほとんどしゃきっとしなかった。むしろ一瞬だけ目を開けて、「さむ」と呟いてまた昂夜に体重を預けてくる。
「重いんだよ、お前」
「うそ」
「嘘じゃねえ」
「昂夜、鍛えてそうなのに」
「そういう問題か」
半分引きずるみたいにして歩きながら、昂夜は何度ため息をついたか分からない。
それでも不思議と、本気で腹が立つわけではない。 面倒くさい。手がかかる。呆れる。けれど、置いていこうとは思えない。
アパートに着く頃には、昂夜の方が妙にぐったりしていた。
「鍵」
「ぽっけ……」
「どこの」
「右……いや左……」
「どっちだよ」
どうにかポケットから鍵を見つけ出し、部屋のドアを開けて中へ入れる。朔也は靴を脱ぐのも半端なまま、ほとんど倒れ込むように布団へ沈んだ。
「……おい、せめて上着」
返事はない。
まあいいか、と昂夜は小さく息を吐く。 どうせ今ちゃんと世話を焼かせるだけ無駄だ。
テーブルの上に水だけ置いて、少し離れたところから朔也を見る。
さっきまであんなに好き勝手していたくせに、寝顔だけは妙に穏やかだった。 眉間の力も抜けて、子どもみたいに無防備で、何も考えていない顔をしている。
「……呑気なやつ」
小さく呟く。
それが呆れなのか、苦笑なのか、自分でもよく分からなかった。
右耳に手をやる。 もう違和感はほとんどない。 さっき居酒屋であんなに近くで囁かれた声も、今はただ変に残っているだけだ。
面倒で、勝手で、気まぐれで。 それなのに、こうして放っておけない。
昂夜はもう一度だけ朔也の寝顔を見て、やれやれと小さく肩をすくめた。
ほんとうに、憎めないやつだった。
