神社に着いた時、空は夕方へゆっくり傾きかけていた。
昼の明るさをまだ少し残しながらも、境内の木々の影は長く伸びている。風は弱く、葉擦れの音も静かだった。きちんと整えられた石畳の上を歩くたび、靴音だけが乾いて響く。
その音を、昂夜は右耳で確かめるように聞いていた。
朝より少しはましだ。 けれど、戻ったとは言えない。 聞こえている。だが、右だけが薄い膜一枚ぶん遠い。音の輪郭も、距離も、まだどこか曖昧だった。
前を行く宮司の背中を見ながら、壱太は珍しく口数が少なかった。司は昂夜の歩幅を気にするように半歩後ろを歩き、朔也は白布に包んだ猫の置物を両手で抱えている。
その抱え方からして、もういつもの軽さはなかった。
「こちらです」
宮司に案内され、四人は拝殿の脇を抜けて、境内のさらに奥へ入っていく。
そこには小さな祭壇が組まれていた。白布を敷いた台、榊、塩、水、線香。そしてその先に、浅く均された土の場がある。祓うための場所というより、何かを送り出すための場に見えた。
猫の置物の白布を見つめたまま、昂夜は小さく息を吐く。
今回のこれは、鏡の時とは違う。 封じるよりも、帰す方が近い。 そう感じていた。
宮司は祭壇の前に立つと、穏やかな声で口を開いた。
「まず、見立てをお伝えします」
四人が自然と視線を向ける。
「これは猫そのものの呪いではありません」
壱太が少しだけ目を上げた。
「じゃあ、置物はただの器なんですか」
「依代です」
宮司は静かに頷く。
「戦地から土産として持ち帰られたことで、本来その地に留まるべきものが、意味を変えられたままこちらへ来てしまったのでしょう」
夕方の風が榊の葉をかすかに揺らす。
「耳に異変が集中しているのは、耳を壊すことが目的だからではありません。聞こえるはずのものを遠ざける。届くはずの声を届きにくくする。そうして、人を少しずつ孤立させる」
その言葉が落ちた瞬間、昂夜の右耳の奥で、ちり、と細い音が鳴る。
小さいのに、神経だけを引っかくような高さだった。
「昂夜さん」
司がすぐに気づく。
「平気ですか」
「……まだ大丈夫だ」
そう返したが、自分でも“まだ”を付けたことに少しだけ苦くなる。
「今回は祓うよりも」
宮司の声が続く。
「持ち帰ってしまったものを、弔うべきものとして送り直します」
「送り直す」
壱太が小さく繰り返す。
「帰すってことですか」
「ええ」
宮司は頷く。
「土産物として家へ連れて来られたものを、その意味のまま留めてはいけません。今ここで、弔いの品として扱い直し、地へ返すのです」
昂夜は横目で朔也を見る。
朔也は白布に包んだ置物を見下ろしたまま、何も言わなかった。 けれど、その指先がほんのわずかに強ばっているのが分かる。
宮司は続けた。
「その前に、昂夜さん」
「……はい」
「あなたは今、届くものと届かぬものの境目にいます。このままでは、送り出す場でも引かれるでしょう。まず、聞こえる側へ足を戻します」
怪談師として語ることではなく、聞く側へ戻す。 その言い方に、昂夜は少しだけ肩の力を抜いた。
宮司に促され、祭壇の前に出る。
目を閉じると、右耳の奥ではまだ細い音がしている。 だが左から入る風の音、衣擦れ、線香に火が移る小さな気配は、まだちゃんと現実のものとして感じられた。
宮司は鈴ではなく、榊と紙垂を用いて静かに清めを行う。大きな音は立てない。ただ、余計なものを撫で落とすような静かな所作だけが続く。
「聞こえぬものを追わないでください」
宮司の低い声が落ちる。
「届いているものだけを拾うのです」
昂夜は呼吸を整えた。 右耳の奥で、ちり、とまた鳴る。 けれどそのすぐあとに、別の声がした。
「昂夜」
壱太だった。
少し離れた位置から、普段と変わらない調子で呼ぶ。
「おーい。こっち」
左から届く声だ。 輪郭がはっきりしている。
「聞こえる?」
昂夜は目を開ける。
「……聞こえる」
「なら大丈夫」
壱太はすぐに笑った。
「ちゃんとこっちいるじゃん」
その明るさが、妙にありがたかった。
宮司は次に司を見る。
「あなたも」
司は頷き、今度は昂夜の右寄りへ立つ。
聞こえにくい側だ。 あえてそこに立つあたりが司らしい。
「昂夜さん」
呼ばれる。
右からだ。 少し遠い。 だが、消えてはいない。
「今、どちらから聞こえますか」
「……右」
「遠いですか」
「少し」
「それで十分です」
司は静かに言う。
「なくなってはいません」
その一言が、病院で聞いたどの説明よりも昂夜の中へ真っ直ぐ入ってきた。
消えてはいない。 ただ、届きにくいだけだ。
「では、始めます」
宮司の声で、場の空気が切り替わる。
朔也がゆっくり白布を外した。
片耳の欠けた黒猫の置物が、夕方の光の中に現れる。黄色い目は鈍く、けれど生き物みたいな湿り気を帯びていた。
その瞬間、昂夜の右耳の奥で高い音が強く鳴る。
「……っ」
肩が揺れる。
「昂夜」
今度は朔也の声だった。
はっきり左から届く。
「そっち見るな」
短く、鋭い。
その一言に、昂夜は反射的に置物から視線を外した。
朔也は猫の置物だけを見ている。 だがその立ち位置は、変わらず昂夜の聞こえる側にあった。
「こっちだけ聞いとけ」
また、短く言う。
慰めでも励ましでもない。ただ、必要なことだけを置いてくる言い方。 それが今は逆に効いた。
宮司は祭壇の前で線香に火を入れ、白い煙を立たせる。
「これは土産として持ち帰られたものです」
低い祝詞の前に、意味を定めるように言う。
「ならば今ここで、その意味を改めます」
木札に記した詞が祭壇へ置かれる。 贈り物ではなく、弔いの品として。
朔也は猫の置物を両手で持ち、土の前へ進んだ。
その背中を見ながら、昂夜は右耳の音を堪える。 壱太は少し後ろから、何も言わず気配だけでそこにいる。 司は右側に立ったまま、昂夜の変化を見逃さない位置を保っている。
「朔也さん」
宮司が静かに促す。
「最初にこれを持ち帰ったのなら、最後まで送り届けなさい」
朔也はしばらく何も言わなかった。
夕方の空気が少しだけ冷える。
やがて、ぽつりと口を開く。
「俺、持ってりゃ静かになると思ってた」
その声は、いつもの軽さをほとんど持っていなかった。
「今までのも、たぶんそうだった」
猫の置物を土の前に置く。
「他所にあるより、俺のとこにあった方がマシだって」
昂夜は黙って聞いていた。
それはたしかに朔也の本音なのだろう。 欲しかったわけじゃない。 ただ、自分の手元にあった方が静かだと、感覚で知ってしまっていた。
「でも」
朔也は欠けた耳に指先をかける。
「今回は違った」
振り返る。 視線の先には、昂夜がいる。
「お前にいった」
その一言だけで、昂夜の胸の奥に沈むものがある。
朔也が初めて、抱え込むことと守ることは違うのかもしれないと、ちゃんとそこで立ち止まっているのが分かったからだ。
「……悪い」
短い。 けれど、今までよりずっと重い謝罪だった。
昂夜はすぐに返せなかった。 右耳はまだ薄く騒いでいる。 それでも、朔也の声だけは届いている。
「ちゃんと帰せ」
ようやくそう言う。
朔也は小さく頷いた。
宮司の祝詞が始まる。
それは鏡の時のように何かを断ち切る響きではなく、もっと低く、長く、送り出すための流れだった。消すのではなく、見送るための音。
その中で、昂夜の右耳の奥の高い音が一瞬強くなる。
世界がまた少し遠のきかけた、その時。
「昂夜」
壱太の声。 左から、はっきり。
「まだいる?」
その問いかけに、昂夜は息を吐くように「いる」と答えた。
すぐに今度は右から司の声。
「こちらはどうですか」
遠い。 でも、ちゃんと方向が分かる。
「……右」
「消えてはいませんね」
司の声はいつも通り抑えられていたが、その奥にある緊張ははっきり感じ取れた。
そして朔也が、土をひと握り取る。
「もう持ってかなくていい」
猫の置物に向けてというより、自分に言い聞かせるような言い方だった。
ひとつ、土をかける。
「俺んとこじゃなくていい」
もうひとつ。
「帰れ」
その瞬間、右耳の奥で鳴っていた高い音が、すっと一本の糸みたいに引かれて遠のく。
置物の黄色い目が、土で半分隠れる。 さらに土が重なり、欠けた耳も埋もれていく。
宮司の祝詞が最後のところで少しだけ強くなる。
風が吹き、榊が鳴る。
そして、音が切れた。
右耳の奥にまとわりついていたちりちりした高音が、ふっと消える。
代わりに入ってきたのは、夕方の風の音だった。 少し遠くの鳥の声。 壱太の息を吐く気配。 司の服が擦れる小さな音。
それらが、今度は右にも左にも偏らず届いてくる。
「……」
昂夜はゆっくり顔を上げた。
「昂夜」
壱太の声がする。
「聞こえる?」
今度は迷わず頷けた。
「聞こえる」
壱太がぱっと表情を緩める。
司も、目に見えて肩から力を抜いた。
少し遅れて、今度は右側から声がした。
「どうだ」
朔也だった。
右から、ちゃんと届く。
昂夜はそちらを見る。
「聞こえるよ」
そう答えると、朔也はほんの少しだけ目を細めた。
「そっか」
たったそれだけの二文字が、今度は左右どちらにも自然に入ってくる。
昂夜は無意識に右耳へ触れ、それから手を下ろした。
完全に元通りになったわけじゃないかもしれない。 明日また違和感が残るかもしれない。 それでも、届くべき声がちゃんと届いている。
今は、それで十分だった。
宮司は土の表面を静かに整え、最後に一礼する。
「これで、帰る道は閉じました」
誰もすぐには喋らなかった。
夕方の光はさらに傾き、境内の影を伸ばしていく。
その中で、昂夜は朔也へ少し近づいた。
「……お前」
「ん」
「少しは覚えろよ」
低く言う。
「何でも抱えりゃいいってもんじゃねえ」
朔也は土の方を見たまま、少しだけ考えるようにしてから口を開いた。
「……たぶん、こういうの増えてくんだろうな」
「何が」
「持っとくんじゃなくて、ちゃんと手放すの」
その言い方に、昂夜は小さく息を吐いた。
今までも朔也は呪物を手放してきた。 けれどそれは、抱えた先でどうにもならなくなったものを処理するのに近かったのかもしれない。 今回は違う。 誰かを守るために、自分から帰す方を選んだ。
「覚えとけよ」
もう一度、少しだけ柔らかく言う。
「何でも抱えりゃいいってもんじゃねえ」
「……分かってる」
返事は、今までよりずっと素直だった。
そこでようやく、壱太が空気を少しだけ緩めるように口を開いた。
「じゃあさ、帰りなんか食べてかない?こういう後、甘いもんほしいんだけど」
「お前はすぐそれだな」
昂夜が苦笑すると、壱太は「必要でしょ、こういうの」と笑う。
司も小さくため息をついたが、強くは否定しなかった。
そのやり取りの声も、今はちゃんと届く。
昂夜はもう一度だけ耳の奥の静けさを確かめた。
届く声がある。 それを受け取れる。
怪談師としての自分が完全に戻ったわけじゃない。 でも、失われきってはいない。
そのことが、今は何よりありがたかった。
昼の明るさをまだ少し残しながらも、境内の木々の影は長く伸びている。風は弱く、葉擦れの音も静かだった。きちんと整えられた石畳の上を歩くたび、靴音だけが乾いて響く。
その音を、昂夜は右耳で確かめるように聞いていた。
朝より少しはましだ。 けれど、戻ったとは言えない。 聞こえている。だが、右だけが薄い膜一枚ぶん遠い。音の輪郭も、距離も、まだどこか曖昧だった。
前を行く宮司の背中を見ながら、壱太は珍しく口数が少なかった。司は昂夜の歩幅を気にするように半歩後ろを歩き、朔也は白布に包んだ猫の置物を両手で抱えている。
その抱え方からして、もういつもの軽さはなかった。
「こちらです」
宮司に案内され、四人は拝殿の脇を抜けて、境内のさらに奥へ入っていく。
そこには小さな祭壇が組まれていた。白布を敷いた台、榊、塩、水、線香。そしてその先に、浅く均された土の場がある。祓うための場所というより、何かを送り出すための場に見えた。
猫の置物の白布を見つめたまま、昂夜は小さく息を吐く。
今回のこれは、鏡の時とは違う。 封じるよりも、帰す方が近い。 そう感じていた。
宮司は祭壇の前に立つと、穏やかな声で口を開いた。
「まず、見立てをお伝えします」
四人が自然と視線を向ける。
「これは猫そのものの呪いではありません」
壱太が少しだけ目を上げた。
「じゃあ、置物はただの器なんですか」
「依代です」
宮司は静かに頷く。
「戦地から土産として持ち帰られたことで、本来その地に留まるべきものが、意味を変えられたままこちらへ来てしまったのでしょう」
夕方の風が榊の葉をかすかに揺らす。
「耳に異変が集中しているのは、耳を壊すことが目的だからではありません。聞こえるはずのものを遠ざける。届くはずの声を届きにくくする。そうして、人を少しずつ孤立させる」
その言葉が落ちた瞬間、昂夜の右耳の奥で、ちり、と細い音が鳴る。
小さいのに、神経だけを引っかくような高さだった。
「昂夜さん」
司がすぐに気づく。
「平気ですか」
「……まだ大丈夫だ」
そう返したが、自分でも“まだ”を付けたことに少しだけ苦くなる。
「今回は祓うよりも」
宮司の声が続く。
「持ち帰ってしまったものを、弔うべきものとして送り直します」
「送り直す」
壱太が小さく繰り返す。
「帰すってことですか」
「ええ」
宮司は頷く。
「土産物として家へ連れて来られたものを、その意味のまま留めてはいけません。今ここで、弔いの品として扱い直し、地へ返すのです」
昂夜は横目で朔也を見る。
朔也は白布に包んだ置物を見下ろしたまま、何も言わなかった。 けれど、その指先がほんのわずかに強ばっているのが分かる。
宮司は続けた。
「その前に、昂夜さん」
「……はい」
「あなたは今、届くものと届かぬものの境目にいます。このままでは、送り出す場でも引かれるでしょう。まず、聞こえる側へ足を戻します」
怪談師として語ることではなく、聞く側へ戻す。 その言い方に、昂夜は少しだけ肩の力を抜いた。
宮司に促され、祭壇の前に出る。
目を閉じると、右耳の奥ではまだ細い音がしている。 だが左から入る風の音、衣擦れ、線香に火が移る小さな気配は、まだちゃんと現実のものとして感じられた。
宮司は鈴ではなく、榊と紙垂を用いて静かに清めを行う。大きな音は立てない。ただ、余計なものを撫で落とすような静かな所作だけが続く。
「聞こえぬものを追わないでください」
宮司の低い声が落ちる。
「届いているものだけを拾うのです」
昂夜は呼吸を整えた。 右耳の奥で、ちり、とまた鳴る。 けれどそのすぐあとに、別の声がした。
「昂夜」
壱太だった。
少し離れた位置から、普段と変わらない調子で呼ぶ。
「おーい。こっち」
左から届く声だ。 輪郭がはっきりしている。
「聞こえる?」
昂夜は目を開ける。
「……聞こえる」
「なら大丈夫」
壱太はすぐに笑った。
「ちゃんとこっちいるじゃん」
その明るさが、妙にありがたかった。
宮司は次に司を見る。
「あなたも」
司は頷き、今度は昂夜の右寄りへ立つ。
聞こえにくい側だ。 あえてそこに立つあたりが司らしい。
「昂夜さん」
呼ばれる。
右からだ。 少し遠い。 だが、消えてはいない。
「今、どちらから聞こえますか」
「……右」
「遠いですか」
「少し」
「それで十分です」
司は静かに言う。
「なくなってはいません」
その一言が、病院で聞いたどの説明よりも昂夜の中へ真っ直ぐ入ってきた。
消えてはいない。 ただ、届きにくいだけだ。
「では、始めます」
宮司の声で、場の空気が切り替わる。
朔也がゆっくり白布を外した。
片耳の欠けた黒猫の置物が、夕方の光の中に現れる。黄色い目は鈍く、けれど生き物みたいな湿り気を帯びていた。
その瞬間、昂夜の右耳の奥で高い音が強く鳴る。
「……っ」
肩が揺れる。
「昂夜」
今度は朔也の声だった。
はっきり左から届く。
「そっち見るな」
短く、鋭い。
その一言に、昂夜は反射的に置物から視線を外した。
朔也は猫の置物だけを見ている。 だがその立ち位置は、変わらず昂夜の聞こえる側にあった。
「こっちだけ聞いとけ」
また、短く言う。
慰めでも励ましでもない。ただ、必要なことだけを置いてくる言い方。 それが今は逆に効いた。
宮司は祭壇の前で線香に火を入れ、白い煙を立たせる。
「これは土産として持ち帰られたものです」
低い祝詞の前に、意味を定めるように言う。
「ならば今ここで、その意味を改めます」
木札に記した詞が祭壇へ置かれる。 贈り物ではなく、弔いの品として。
朔也は猫の置物を両手で持ち、土の前へ進んだ。
その背中を見ながら、昂夜は右耳の音を堪える。 壱太は少し後ろから、何も言わず気配だけでそこにいる。 司は右側に立ったまま、昂夜の変化を見逃さない位置を保っている。
「朔也さん」
宮司が静かに促す。
「最初にこれを持ち帰ったのなら、最後まで送り届けなさい」
朔也はしばらく何も言わなかった。
夕方の空気が少しだけ冷える。
やがて、ぽつりと口を開く。
「俺、持ってりゃ静かになると思ってた」
その声は、いつもの軽さをほとんど持っていなかった。
「今までのも、たぶんそうだった」
猫の置物を土の前に置く。
「他所にあるより、俺のとこにあった方がマシだって」
昂夜は黙って聞いていた。
それはたしかに朔也の本音なのだろう。 欲しかったわけじゃない。 ただ、自分の手元にあった方が静かだと、感覚で知ってしまっていた。
「でも」
朔也は欠けた耳に指先をかける。
「今回は違った」
振り返る。 視線の先には、昂夜がいる。
「お前にいった」
その一言だけで、昂夜の胸の奥に沈むものがある。
朔也が初めて、抱え込むことと守ることは違うのかもしれないと、ちゃんとそこで立ち止まっているのが分かったからだ。
「……悪い」
短い。 けれど、今までよりずっと重い謝罪だった。
昂夜はすぐに返せなかった。 右耳はまだ薄く騒いでいる。 それでも、朔也の声だけは届いている。
「ちゃんと帰せ」
ようやくそう言う。
朔也は小さく頷いた。
宮司の祝詞が始まる。
それは鏡の時のように何かを断ち切る響きではなく、もっと低く、長く、送り出すための流れだった。消すのではなく、見送るための音。
その中で、昂夜の右耳の奥の高い音が一瞬強くなる。
世界がまた少し遠のきかけた、その時。
「昂夜」
壱太の声。 左から、はっきり。
「まだいる?」
その問いかけに、昂夜は息を吐くように「いる」と答えた。
すぐに今度は右から司の声。
「こちらはどうですか」
遠い。 でも、ちゃんと方向が分かる。
「……右」
「消えてはいませんね」
司の声はいつも通り抑えられていたが、その奥にある緊張ははっきり感じ取れた。
そして朔也が、土をひと握り取る。
「もう持ってかなくていい」
猫の置物に向けてというより、自分に言い聞かせるような言い方だった。
ひとつ、土をかける。
「俺んとこじゃなくていい」
もうひとつ。
「帰れ」
その瞬間、右耳の奥で鳴っていた高い音が、すっと一本の糸みたいに引かれて遠のく。
置物の黄色い目が、土で半分隠れる。 さらに土が重なり、欠けた耳も埋もれていく。
宮司の祝詞が最後のところで少しだけ強くなる。
風が吹き、榊が鳴る。
そして、音が切れた。
右耳の奥にまとわりついていたちりちりした高音が、ふっと消える。
代わりに入ってきたのは、夕方の風の音だった。 少し遠くの鳥の声。 壱太の息を吐く気配。 司の服が擦れる小さな音。
それらが、今度は右にも左にも偏らず届いてくる。
「……」
昂夜はゆっくり顔を上げた。
「昂夜」
壱太の声がする。
「聞こえる?」
今度は迷わず頷けた。
「聞こえる」
壱太がぱっと表情を緩める。
司も、目に見えて肩から力を抜いた。
少し遅れて、今度は右側から声がした。
「どうだ」
朔也だった。
右から、ちゃんと届く。
昂夜はそちらを見る。
「聞こえるよ」
そう答えると、朔也はほんの少しだけ目を細めた。
「そっか」
たったそれだけの二文字が、今度は左右どちらにも自然に入ってくる。
昂夜は無意識に右耳へ触れ、それから手を下ろした。
完全に元通りになったわけじゃないかもしれない。 明日また違和感が残るかもしれない。 それでも、届くべき声がちゃんと届いている。
今は、それで十分だった。
宮司は土の表面を静かに整え、最後に一礼する。
「これで、帰る道は閉じました」
誰もすぐには喋らなかった。
夕方の光はさらに傾き、境内の影を伸ばしていく。
その中で、昂夜は朔也へ少し近づいた。
「……お前」
「ん」
「少しは覚えろよ」
低く言う。
「何でも抱えりゃいいってもんじゃねえ」
朔也は土の方を見たまま、少しだけ考えるようにしてから口を開いた。
「……たぶん、こういうの増えてくんだろうな」
「何が」
「持っとくんじゃなくて、ちゃんと手放すの」
その言い方に、昂夜は小さく息を吐いた。
今までも朔也は呪物を手放してきた。 けれどそれは、抱えた先でどうにもならなくなったものを処理するのに近かったのかもしれない。 今回は違う。 誰かを守るために、自分から帰す方を選んだ。
「覚えとけよ」
もう一度、少しだけ柔らかく言う。
「何でも抱えりゃいいってもんじゃねえ」
「……分かってる」
返事は、今までよりずっと素直だった。
そこでようやく、壱太が空気を少しだけ緩めるように口を開いた。
「じゃあさ、帰りなんか食べてかない?こういう後、甘いもんほしいんだけど」
「お前はすぐそれだな」
昂夜が苦笑すると、壱太は「必要でしょ、こういうの」と笑う。
司も小さくため息をついたが、強くは否定しなかった。
そのやり取りの声も、今はちゃんと届く。
昂夜はもう一度だけ耳の奥の静けさを確かめた。
届く声がある。 それを受け取れる。
怪談師としての自分が完全に戻ったわけじゃない。 でも、失われきってはいない。
そのことが、今は何よりありがたかった。
