怪異、お持ち帰り注意

 翌朝、昂夜はひとりで耳鼻科へ向かった。
 平日の朝の待合室は思っていたより混んでいて、子どもの泣き声や咳払い、受付の呼び出しが絶え間なく響いていた。そういう何気ない生活音が、今日はやけに遠く感じる。
 右耳だけが、薄い膜の向こうにあるみたいだった。
 聞こえないわけではない。  けれど、まっすぐ届かない。  人の声も、椅子の軋む音も、少し遅れて頭の中へ入ってくる気がする。
 番号を呼ばれて診察室へ入ると、医師は淡々と症状を聞き、聴力検査と耳の中の確認を進めた。無機質な電子音に合わせてボタンを押していく間、昂夜は何度か舌打ちしたくなる衝動を堪えた。
 右だけ、微妙に拾いにくい。  あまりにわずかな差だが、自分にははっきり分かる。
 検査結果を見ながら、医師は首を傾げた。
「大きな異常ではないですね」
「異常じゃないんですか」
「聞こえ方に少し左右差はあります。ただ、重い難聴というほどではないですし、鼓膜も炎症も目立った問題はありません」
 昂夜は椅子に座ったまま、膝の上で手を組み直した。
「でも、違和感はあるんです」
「ええ。ですから、感音系の軽い不調の可能性はあります。疲労やストレスでも出ますし、急な悪化があればすぐ来てください」
「……治るんですか」
 つい、そう聞いていた。
 医師は一瞬だけ昂夜を見たあと、慎重に答える。
「今の段階なら、様子見で戻ることもあります。ただ、はっきりした原因が見えない以上、無理はしない方がいいですね」
 診察室を出たあと、昂夜はしばらく病院の外のベンチに座っていた。
 軽い不調。  様子見。  大きな異常ではない。
 医師の言葉はどれも正しいのだろう。  だからこそ、逆に気が重くなる。
 何でもないなら、なんでこんなに違和感があるのか。  何かあるのに、医者の言葉では掴めないのだとしたら、それは余計に厄介だ。
 スマホを取り出して、司へ短くメッセージを送る。
 重くはないらしい。軽い聴力低下と違和感。原因ははっきりしない。
 すぐに既読がついた。
 大丈夫ですか
 その四文字に、昂夜は少しだけ視線を止めた。
 大丈夫です、なんて返す気にはなれなかった。  だから結局、
 まだ分からない。少ししてから向かう
 とだけ返した。
 病院の前を人が行き交っていく。  話し声、車の走る音、遠くで鳴る自転車のベル。  全部聞こえているのに、右側だけ世界が薄い。
 昂夜はそのまま立ち上がれず、しばらくベンチに座ったままだった。
 すぐに神社へ向かうべきだ。  そう頭では分かっている。  でも、足が動かなかった。
 右耳を押さえてみる。  当然、何も変わらない。
 怪異そのものが怖いわけじゃない。  今さらそんなものに怯えて立ち止まるほど、甘い場所でやってきたわけでもない。
 怖いのは、もっと別のことだった。
 耳が、仕事にならなくなるかもしれない。  その可能性を、病院で一度ちゃんと言葉にされてしまった。  重くない。様子見。今すぐ終わるわけじゃない。  でも、それは逆に言えば、確実に大丈夫とも言われなかったということだ。
 怪談師として生きてきた。  声の震え方、間、空気の揺れ、客の息を飲む気配。  そういうものを聞き取って、自分の語りを作ってきた。
 片耳が少し聞こえにくいだけ。
 たぶん世間的には、その程度だ。  でも昂夜にとっては、その“その程度”が仕事の根を揺らしかねない。
「……最悪だな」
 小さく呟いた声が、自分でも思ったより遠く聞こえた。
 そのあと、昂夜は駅前をあてもなく少し歩いた。
 通りに面したガラスに自分の姿が映るたび、足が止まりかける。  猫の置物のせいで耳が気になるのか、それとも鏡の件の名残がまだ心に残っているのか、自分でも分からない。
 コンビニの前で立ち止まり、買うつもりもない缶コーヒーの棚を眺めた。  駅ビルの階段を上って、途中で面倒になって引き返した。  何かをしていないと落ち着かないのに、何かをする気力もまとまらない。
 その間も、右耳の奥では時々ちり、と小さな音が鳴った。
 鈴のような。  金属を爪で弾いたような。  気のせいだと流せる程度の音なのに、それがあるたび、胸の奥が冷える。
 昼を過ぎる頃には、いい加減このまま外にいても仕方がないと分かっていた。
 神社へ行く前に、一度だけ配信部屋へ寄る。  朔也が先に来ていると聞いていたからだ。  今、何となくでも誰かのいる場所に行かないと、自分の考えに沈みすぎる気がした。
 そう思って歩き出したものの、配信部屋のビルが見えた時も、昂夜はすぐには中へ入れなかった。
 入口の前で立ち止まり、もう一度だけ深く息を吸う。
 大したことないかもしれない。  でも、大したことないと自分に言い聞かせるには、今日は少しだけしんどすぎた。
 スマホを見る。  司からは追加で何通か来ていた。
 壱太にも伝えておきます  神社には全員で向かいます  無理しないでください
 どれも司らしい、無駄のない文面だった。  けれどその無駄のなさが、今は逆にありがたかった。
 昂夜はようやくスマホをしまい、ビルの階段を上がった。
 ドアを開けると、部屋の空気は昨日よりも少し重かった。カーテンは半分閉められたままで、机の上には白い布を掛けられた猫の置物が置いてある。窓際に立っていた朔也が、振り向いた。
「病院どうだった」
 昂夜はバッグを肩から外しながら、小さく息を吐いた。
「重くはないってさ」
「じゃあ平気じゃん」
「そういう言い方すんな」
 思わず低く返す。
 朔也は少しだけ目を細めた。  その一瞬で、昂夜の苛立ちの質を読んだらしい。
「……悪い」
 素直に言うので、逆に勢いが削がれる。
 昂夜は近くの椅子に腰を下ろした。右耳の奥は、今も薄く詰まっている。病院を出てからしばらく街をうろついても、結局一度もよくなった感じはしなかった。
「で、司たちは」
「あと十分くらい」
「そうか」
 短いやり取りのあと、部屋に沈黙が落ちる。
 朔也は窓際から動かない。  昂夜は何となく、その立ち位置が自分の右側に来ないようにしていることに気付いた。声が聞こえやすい左側へ回り込むような、不器用な気遣い。
 今さらそれに触れる気にもなれず、昂夜は視線を白布のかかった置物へ向けた。
「なあ」
「ん」
「お前、毎回こうなるのに、なんでまた手出すんだよ」
 ぽつりと零れた問いだった。
 責めるつもり半分、確認したい気持ち半分。  耳の違和感が残る今は、余計にそう聞きたくなった。
 朔也はすぐには答えなかった。  少し考えるようにしてから、壁にもたれていた体を離す。
「欲しいわけじゃないんだよな」
「は?」
「呪物」
 朔也は白布の方を見たまま続ける。
「集めたいとか、自慢したいとか、そういうんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「放っとく方が気持ち悪い」
 あまりにも自然な口調で言うので、昂夜は一瞬だけ言葉を失う。
「……気持ち悪い?」
「他人のとこにある方が嫌なんだよ」
 朔也は肩をすくめた。
「俺のとこにあった方がまだ静かっていうか」
「静か、って」
「うまく言えねえけど。外にあるとずっと引っかかるんだよ。変な感じで」
 その言い方は誇張も説明もない。  ただ、本当にそう感じているだけの人間の声だった。
「だから持ってくる」
「それで毎回面倒なことになってんだろ」
「なってるな」
 否定しない。
「でも、持ってこなかったらもっと面倒になる気がする」
 昂夜は眉を寄せたまま、朔也を見る。
 冗談で言っている顔ではなかった。  使命感に酔っているわけでもない。  ただ、感覚でそう知ってしまっているような顔。
「……お前、それ」
 昂夜は少しだけ迷ってから言葉を継いだ。
「自分が一番マシな置き場所だと思ってるだろ」
 朔也はほんのわずかに目を動かした。
 否定しない。
「たぶん」
「たぶん、じゃねえよ」
「でもそうなんじゃね」
 軽く返しながらも、そこには開き直りではなく妙な静けさがあった。
「俺、平気なこと多いし」
 その一言に、昂夜は小さく息を止める。
 平気。  確かにそう見える。  けれど、実際にはそうではないことを昂夜は知っている。
 呪物に侵されにくい代わりに、朔也は別のものを削って均衡を取っている。  何も感じないわけじゃない。  ただ、壊れ方が静かすぎるだけだ。
「……平気じゃねえよ、お前は」
 気付けばそう返していた。
 朔也が少しだけ首を傾げる。
「何が」
「全部」
 昂夜はそれ以上言わなかった。  言ったところで、今ここで説明できるものでもない。
 白布の向こうの猫の置物は黙っている。  それでも、その存在だけがじりじりと部屋を侵しているような気がした。
「俺にはよく分かんねえけど」
 朔也が小さく言う。
「他所で誰かに何かあるよりは、俺んとこで止まるならそっちの方がいい」
 その言い方が、妙にまっすぐで、昂夜は返事に詰まった。
 そういうところだ。  この男は、自分で思っているよりずっと厄介で、厄介なまま妙に優しい。
「……それで今回みたいに俺がやられるのは勘弁なんだけどな」
 わざと軽く言うと、朔也はほんの少しだけ口元を緩めた。
「悪い」
「ほんとだよ」
「でも、終わらせるだろ」
「終わらせるよ」
 即答したものの、声は少し掠れた。
 そのかすれを、朔也は聞き逃さなかったらしい。
「昂夜」
 呼ばれる。
「ん?」
「お前、仕事のこと考えてるだろ」
 その一言で、昂夜の肩がわずかに強張る。
「別に」
「嘘つけ」
 朔也は壁から離れて、今度ははっきり昂夜の左側へ回った。聞こえる方へ立つ、その不器用な動きに昂夜は何も言えない。
「病院出たあとから顔違う」
「顔でそんな分かるかよ」
「分かる」
 短く言い切られて、昂夜は視線を逸らした。
 怪談師として生きてきた。  声を聞き、間を拾い、観客の息遣いを読む。  耳はただ音を受ける器官じゃない。  自分の仕事そのものだった。
 片耳が少し聞こえづらいだけ。  医者はそう言った。
 でも、その少しが致命的かもしれないという恐怖は、病院を出たあとからずっと胸の底に沈んでいる。
「……片耳くらいって思うだろ」
 ぽつりと零れた。
 朔也は何も挟まない。
「でも俺、声聞いて、空気拾って、それでやってきたんだよ」
 右耳を押さえていた手が、いつの間にか強くなっている。
「そこ狂ったら、何が残るんだって思う」
 言葉にした瞬間、自分でも驚くくらいそのまま本音だった。
 怪異が怖いわけじゃない。  聞こえなくなることが怖い。  怪談師としての自分が削れることが怖い。
 朔也は少しだけ黙ってから、低く言った。
「じゃあ、聞こえなくなる前に終わらせればいい」
 あまりにも朔也らしい、まっすぐすぎる返答だった。
 昂夜は苦く笑う。
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃねえよ」
 朔也は珍しく、言い切る声に揺らぎがなかった。
「でも、お前がそれで終わるやつなら、もうとっくに終わってるだろ」
「……」
「片耳でも、お前の話聞くやつは聞くだろ」
 その言葉に、昂夜は目を上げる。
 慰めとしては不器用だ。  でも、変に綺麗ごとではない分だけ、妙に刺さった。
「何だよ、それ」
「そのまんま」
 朔也は小さく肩をすくめる。
「お前、聞こえ方ひとつで空っぽになるほど薄くないだろ」
 昂夜はしばらく何も言えなかった。
 空っぽ、という言葉にかすかに引っかかる。  それは本来、朔也の側にある言葉のはずなのに。
「……お前に言われると腹立つな」
 ようやくそう返すと、朔也は少しだけ笑った。
「だろうな」
 その時、廊下の向こうで足音がした。  壱太の軽い足取りと、司の迷いのない靴音。
 昂夜は深く息を吸って、少しだけ背筋を伸ばす。
 まだ終わっていない。  でも、今さっき胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。
 朔也は何も言わず、昂夜の左側に立ったままだった。