言葉が落ちたあと、部屋の中の音がひどく遠くなった気がした。
誰もすぐには喋らない。
司だけが先に動いた。テーブルの上のノートパソコンを閉じ、昂夜の正面へ回り込むように立つ。
「いつからですか」
仕事の時の声だった。 冷静に聞いているようで、その実かなり抑えているのが分かる声音。
「昨日の収録の途中から、少し」
昂夜は右耳を押さえたまま答える。
「最初は詰まる感じだけだった。今は……時々、高い音がする」
「鈴みたいな?」
壱太が小さく聞く。
昂夜は頷いた。
「たぶん」
「言ってよ、そういうの」
壱太の声は咎めるというより、普通に心配していた。
「いや、疲れてるだけかと思ってた」
「疲れてるだけで、視聴者と同じような反応出るのは嫌すぎるでしょ」
もっともだった。
司は数秒だけ黙って昂夜を見ていたが、やがて低く息を吐いた。
「片側だけですか」
「今のところは」
「聞こえにくい?」
「そこまでじゃない。でも、少し遠くなる瞬間がある」
「耳鳴りはずっと?」
「断続的」
短く答えながら、自分で言葉にしていくたびに現実味が増していくのが分かった。
ちり、とまた鳴る。
小さいのに、妙に神経へ引っかかる音だった。
「……朔也」
司が振り返る。
そこに立っている朔也は、いつになく黙っていた。猫の置物の方を見たまま、ほとんど表情を動かさない。
「何」
「今回も、何も感じないんですか」
司の声には、前回までほど露骨な刺はなかった。 怒りより先に確認したい、という温度に変わっている。
朔也は少しだけ目を細めた。
「……聞こえるっちゃ聞こえる」
「は?」
昂夜も壱太も同時に顔を上げる。
「何が」
壱太が聞くと、朔也は猫の置物を顎で示した。
「鳴いてるみたいな感じ」
部屋の空気が変わる。
「今さら言うなよ」
昂夜が低く返す。
「いや、ずっとじゃないし」
「どういう音ですか」
司が問う。
朔也は少し考える。
「鈴っていうか、金属擦るみたいな。高い音。ずっと耳に残る感じじゃなくて、置物の近く行くと少し」
その説明を聞きながら、昂夜は右耳の奥を押さえる指先に少し力を込めた。
やはり、何かが起きている。
「……お前、昨日の時点でそれ言えよ」
「言うほどでもないかと思ってた」
「言うほどだろ」
思わず声が強くなる。
だがそこで朔也は珍しく反発せず、少しだけ視線を逸らした。
「悪い」
小さく言う。
その一言で、昂夜もそれ以上は続けなかった。
司がすぐに話を切り替える。
「まず、これ以上悪化させないのが先です」
「どうする?」
壱太が聞く。
「耳なら病院……でも、そういう問題でもない感じだよね」
「両方です」
司は即答した。
「普通の異常かもしれない部分は、普通に潰すべきです。呪物由来だとしても、身体に出ている以上は検査した方がいい」
「今から行けるか?」
昂夜が問う。
司は時刻を確認してから首を横に振る。
「この時間だと耳鼻科は厳しいです。明日の朝一で行ってください」
「了解」
「その上で、今日はもう録音も配信もやめます」
「だな」
昂夜も頷く。
「猫も布か何かかけとくか」
「もう遅いかもしれないですけど、何もしないよりはマシです」
司がそう言った時、壱太が「あ」と声を上げた。
「そうだ、涼花ちゃんの時みたいに、反射とか音とか、広がる前に抑える方向で考えた方がいいんじゃない?」
その一言で、全員の意識が少し揃う。
鏡の時の経験が、ここでようやく形になる。
「音を断つ、か」
昂夜が低く呟く。
「今回は鏡じゃないから反射じゃなくて、聞く方を切る?」
「完全に切るのは無理ですけど」
司が言う。
「少なくとも、余計な音に晒さない方がいい。イヤホン、ヘッドホン、配信音声の確認、そういうのは全部やめるべきです」
「音の少ない場所にいた方がいいってこと?」
「それもあります」
司は少し考えるようにしてから続けた。
「でも、逆に“聞こえなさすぎる”のもよくない気がします。何か別の音を拾い始めるかもしれない」
「やだな、それ」
壱太が顔をしかめた。
昂夜は右耳の違和感を抱えたまま、静かに息を吐く。
「……神社か」
「だと思います」
司が頷く。
「猫の置物の由来も、被害の出方も、普通じゃない。前みたいに相談した方がいい」
そこまで話したところで、部屋の隅に置かれた猫の置物から、かすかな音がした気がした。
ちり。
全員がそちらを見る。
「……今、鳴った?」
壱太が小声で言う。
「いや」
司は低く返す。
「実際に鳴ったというより……」
「聞こえた」
昂夜が言った。
右耳の奥でだけ鳴ったのか、部屋で鳴ったのか分からない。 その曖昧さが一番気持ち悪い。
「俺も」
朔也がぽつりと言う。
「置物の近く、やっぱ少し変」
そこで司が即座に動いた。 棚から厚手のタオルを引っ張り出し、猫の置物にかぶせる。
「とりあえず覆います」
「雑だな」
壱太が言う。
「応急処置です」
言い切る声が少し強い。
昂夜はそのやり取りを見ながら、小さく笑いそうになった。 こういう時の司は、本当に躊躇がない。
だが次の瞬間、右耳の奥でまたちり、と鳴る。 今度はさっきより少し長かった。
「……っ」
思わず顔をしかめる。
壱太がすぐ近づいた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃねえな、たぶん」
正直にそう返すと、壱太の顔が少しだけ固くなる。
「明日、神社は俺も行く」
「俺もです」
司もすぐに続ける。
「今回は最初から全員で動いた方がいい」
昂夜は一瞬だけ二人を見た。
ありがたい、と思う。 同時に、少しだけ申し訳なくもなる。
「……悪いな」
「今さら」
壱太が言う。
「こっちだって、前の鏡の時さんざん巻き込んでもらったし」
「それ、言い方どうなんだ」
「間違ってないじゃん」
少しだけ空気が緩む。
その隙に、朔也が低く言った。
「俺も行く」
全員の視線が向く。
「当然だろ」
昂夜が返す。
「持ち込んだのお前なんだから」
「いや、それもあるけど」
朔也は珍しく言葉を探すみたいに少し黙った。
「たぶん、これ俺も近くにいた方がいい気がする」
「なんで?」
壱太が聞く。
「分かんねえ。でも、鏡の時みたいに最後なんか必要になるかも」
司が少しだけ眉を寄せる。 まだ完全には信用しきれていない顔だ。
だが、否定もしなかった。
「……分かりました」
代わりにそう言う。
「でも、今回は最初から勝手に触らないでください」
「はいはい」
「返事が軽い」
「分かったって」
その言い方に、やっと少しだけいつもの朔也が戻る。
昂夜は右耳の奥の違和感を抱えたまま、タオルをかけられた猫の置物を見た。
布の下の輪郭は小さいのに、気配だけが妙に濃い。
「今日は帰るか」
低く言う。
「神社は明日、全員で行く」
「その前に」
司がすぐに言った。
「昂夜さんは明日の朝、耳鼻科に行ってください」
昂夜が顔を上げる。
「ひとりで?」
「耳の検査です。そこに全員でついて行っても仕方ないでしょう」
もっともだった。
「でもさ」
壱太が少し心配そうに言う。
「一人で大丈夫?」
「病院くらい行けるだろ」
昂夜は苦笑する。
「そこまで子どもじゃねえよ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
そう返しながらも、右耳の奥でまたちり、と鳴る。 その小さな音が、妙に胸に残る。
「検査の結果、すぐ連絡してください」
司の声は仕事の時みたいにきっちりしていた。
「何もなければそれでいい。何かあったら、神社に行く前に情報を揃えたい」
「了解」
「絶対ですよ」
「はいはい」
「返事が軽いのは昂夜さんも同じですね」
ぴしゃりと言われて、壱太が横で吹き出す。
「司、今日ちょっと余裕ないね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
その返しにも、いつもよりずっと疲れが滲んでいた。
昂夜はゆっくり立ち上がる。
帰って休む。 明日の朝、ひとりで耳鼻科へ行く。 そのあと、みんなで神社へ向かう。
流れは決まったはずなのに、ドアの方へ歩き出した瞬間、右耳の奥で誰かが小さく呼んだ気がした。
にゃあ、というより。 もっと掠れた、かすかな音。
振り返る。
タオルのかかった猫の置物は、もちろんそのままだった。
「……昂夜?」
壱太の声がする。
「どうした?」
「いや」
視線を逸らす。
「何でもない」
何でもないはずがないのに、そう言うしかなかった。
部屋を出る時、昂夜は自分でも分かるくらい静かに息を吐いた。
聞こえてはいけない音が、少しずつ自分の中へ入り込んできている。
そんな嫌な確信だけが、右耳の奥に残っていた。
誰もすぐには喋らない。
司だけが先に動いた。テーブルの上のノートパソコンを閉じ、昂夜の正面へ回り込むように立つ。
「いつからですか」
仕事の時の声だった。 冷静に聞いているようで、その実かなり抑えているのが分かる声音。
「昨日の収録の途中から、少し」
昂夜は右耳を押さえたまま答える。
「最初は詰まる感じだけだった。今は……時々、高い音がする」
「鈴みたいな?」
壱太が小さく聞く。
昂夜は頷いた。
「たぶん」
「言ってよ、そういうの」
壱太の声は咎めるというより、普通に心配していた。
「いや、疲れてるだけかと思ってた」
「疲れてるだけで、視聴者と同じような反応出るのは嫌すぎるでしょ」
もっともだった。
司は数秒だけ黙って昂夜を見ていたが、やがて低く息を吐いた。
「片側だけですか」
「今のところは」
「聞こえにくい?」
「そこまでじゃない。でも、少し遠くなる瞬間がある」
「耳鳴りはずっと?」
「断続的」
短く答えながら、自分で言葉にしていくたびに現実味が増していくのが分かった。
ちり、とまた鳴る。
小さいのに、妙に神経へ引っかかる音だった。
「……朔也」
司が振り返る。
そこに立っている朔也は、いつになく黙っていた。猫の置物の方を見たまま、ほとんど表情を動かさない。
「何」
「今回も、何も感じないんですか」
司の声には、前回までほど露骨な刺はなかった。 怒りより先に確認したい、という温度に変わっている。
朔也は少しだけ目を細めた。
「……聞こえるっちゃ聞こえる」
「は?」
昂夜も壱太も同時に顔を上げる。
「何が」
壱太が聞くと、朔也は猫の置物を顎で示した。
「鳴いてるみたいな感じ」
部屋の空気が変わる。
「今さら言うなよ」
昂夜が低く返す。
「いや、ずっとじゃないし」
「どういう音ですか」
司が問う。
朔也は少し考える。
「鈴っていうか、金属擦るみたいな。高い音。ずっと耳に残る感じじゃなくて、置物の近く行くと少し」
その説明を聞きながら、昂夜は右耳の奥を押さえる指先に少し力を込めた。
やはり、何かが起きている。
「……お前、昨日の時点でそれ言えよ」
「言うほどでもないかと思ってた」
「言うほどだろ」
思わず声が強くなる。
だがそこで朔也は珍しく反発せず、少しだけ視線を逸らした。
「悪い」
小さく言う。
その一言で、昂夜もそれ以上は続けなかった。
司がすぐに話を切り替える。
「まず、これ以上悪化させないのが先です」
「どうする?」
壱太が聞く。
「耳なら病院……でも、そういう問題でもない感じだよね」
「両方です」
司は即答した。
「普通の異常かもしれない部分は、普通に潰すべきです。呪物由来だとしても、身体に出ている以上は検査した方がいい」
「今から行けるか?」
昂夜が問う。
司は時刻を確認してから首を横に振る。
「この時間だと耳鼻科は厳しいです。明日の朝一で行ってください」
「了解」
「その上で、今日はもう録音も配信もやめます」
「だな」
昂夜も頷く。
「猫も布か何かかけとくか」
「もう遅いかもしれないですけど、何もしないよりはマシです」
司がそう言った時、壱太が「あ」と声を上げた。
「そうだ、涼花ちゃんの時みたいに、反射とか音とか、広がる前に抑える方向で考えた方がいいんじゃない?」
その一言で、全員の意識が少し揃う。
鏡の時の経験が、ここでようやく形になる。
「音を断つ、か」
昂夜が低く呟く。
「今回は鏡じゃないから反射じゃなくて、聞く方を切る?」
「完全に切るのは無理ですけど」
司が言う。
「少なくとも、余計な音に晒さない方がいい。イヤホン、ヘッドホン、配信音声の確認、そういうのは全部やめるべきです」
「音の少ない場所にいた方がいいってこと?」
「それもあります」
司は少し考えるようにしてから続けた。
「でも、逆に“聞こえなさすぎる”のもよくない気がします。何か別の音を拾い始めるかもしれない」
「やだな、それ」
壱太が顔をしかめた。
昂夜は右耳の違和感を抱えたまま、静かに息を吐く。
「……神社か」
「だと思います」
司が頷く。
「猫の置物の由来も、被害の出方も、普通じゃない。前みたいに相談した方がいい」
そこまで話したところで、部屋の隅に置かれた猫の置物から、かすかな音がした気がした。
ちり。
全員がそちらを見る。
「……今、鳴った?」
壱太が小声で言う。
「いや」
司は低く返す。
「実際に鳴ったというより……」
「聞こえた」
昂夜が言った。
右耳の奥でだけ鳴ったのか、部屋で鳴ったのか分からない。 その曖昧さが一番気持ち悪い。
「俺も」
朔也がぽつりと言う。
「置物の近く、やっぱ少し変」
そこで司が即座に動いた。 棚から厚手のタオルを引っ張り出し、猫の置物にかぶせる。
「とりあえず覆います」
「雑だな」
壱太が言う。
「応急処置です」
言い切る声が少し強い。
昂夜はそのやり取りを見ながら、小さく笑いそうになった。 こういう時の司は、本当に躊躇がない。
だが次の瞬間、右耳の奥でまたちり、と鳴る。 今度はさっきより少し長かった。
「……っ」
思わず顔をしかめる。
壱太がすぐ近づいた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃねえな、たぶん」
正直にそう返すと、壱太の顔が少しだけ固くなる。
「明日、神社は俺も行く」
「俺もです」
司もすぐに続ける。
「今回は最初から全員で動いた方がいい」
昂夜は一瞬だけ二人を見た。
ありがたい、と思う。 同時に、少しだけ申し訳なくもなる。
「……悪いな」
「今さら」
壱太が言う。
「こっちだって、前の鏡の時さんざん巻き込んでもらったし」
「それ、言い方どうなんだ」
「間違ってないじゃん」
少しだけ空気が緩む。
その隙に、朔也が低く言った。
「俺も行く」
全員の視線が向く。
「当然だろ」
昂夜が返す。
「持ち込んだのお前なんだから」
「いや、それもあるけど」
朔也は珍しく言葉を探すみたいに少し黙った。
「たぶん、これ俺も近くにいた方がいい気がする」
「なんで?」
壱太が聞く。
「分かんねえ。でも、鏡の時みたいに最後なんか必要になるかも」
司が少しだけ眉を寄せる。 まだ完全には信用しきれていない顔だ。
だが、否定もしなかった。
「……分かりました」
代わりにそう言う。
「でも、今回は最初から勝手に触らないでください」
「はいはい」
「返事が軽い」
「分かったって」
その言い方に、やっと少しだけいつもの朔也が戻る。
昂夜は右耳の奥の違和感を抱えたまま、タオルをかけられた猫の置物を見た。
布の下の輪郭は小さいのに、気配だけが妙に濃い。
「今日は帰るか」
低く言う。
「神社は明日、全員で行く」
「その前に」
司がすぐに言った。
「昂夜さんは明日の朝、耳鼻科に行ってください」
昂夜が顔を上げる。
「ひとりで?」
「耳の検査です。そこに全員でついて行っても仕方ないでしょう」
もっともだった。
「でもさ」
壱太が少し心配そうに言う。
「一人で大丈夫?」
「病院くらい行けるだろ」
昂夜は苦笑する。
「そこまで子どもじゃねえよ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
そう返しながらも、右耳の奥でまたちり、と鳴る。 その小さな音が、妙に胸に残る。
「検査の結果、すぐ連絡してください」
司の声は仕事の時みたいにきっちりしていた。
「何もなければそれでいい。何かあったら、神社に行く前に情報を揃えたい」
「了解」
「絶対ですよ」
「はいはい」
「返事が軽いのは昂夜さんも同じですね」
ぴしゃりと言われて、壱太が横で吹き出す。
「司、今日ちょっと余裕ないね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
その返しにも、いつもよりずっと疲れが滲んでいた。
昂夜はゆっくり立ち上がる。
帰って休む。 明日の朝、ひとりで耳鼻科へ行く。 そのあと、みんなで神社へ向かう。
流れは決まったはずなのに、ドアの方へ歩き出した瞬間、右耳の奥で誰かが小さく呼んだ気がした。
にゃあ、というより。 もっと掠れた、かすかな音。
振り返る。
タオルのかかった猫の置物は、もちろんそのままだった。
「……昂夜?」
壱太の声がする。
「どうした?」
「いや」
視線を逸らす。
「何でもない」
何でもないはずがないのに、そう言うしかなかった。
部屋を出る時、昂夜は自分でも分かるくらい静かに息を吐いた。
聞こえてはいけない音が、少しずつ自分の中へ入り込んできている。
そんな嫌な確信だけが、右耳の奥に残っていた。
