怪談ライブの会場は、古い雑居ビル三階の小さなイベントスペースだった。
それから数日。右耳の違和感は完全には消えていなかったが、あの日ほど世界が薄く感じることはない。音の位置も客のざわめきも、ちゃんと拾える。まだ少し不安は残っていたが、それでも昂夜は舞台に立った。
客席の明かりが落ち、ステージだけが照らされる。 客席を見渡した時、壁際の後方席に朔也を見つけた。黒っぽい服のまま、気だるそうに座っている。視線が合うと、朔也は少しだけ顎を上げた。
様子を見に来たのだろう。 それだけで、少し肩の力が抜けた。
ライブは問題なく進んだ。 笑いどころも、息を呑む間も、静まり返る気配も、全部ちゃんと聞こえた。右も左も偏らず届く。そのたびに昂夜は胸の奥で小さく安堵した。
終演後、片づけを済ませて外へ出ると、朔也は何事もなかった顔で待っていた。
「おつかれ」
「……いたのかよ」
「見に来たんだからいるだろ」
当然みたいに言われて、昂夜は少しだけ笑う。
「どうだった」
「普通に良かった」
「感想雑だな」
「でも、ちゃんと聞こえてそうだった」
その一言だけが妙に真っ直ぐで、昂夜は返事の代わりに小さく息を吐いた。
「夕飯、行くんだろ」
「ああ」
入ったのは、駅から少し歩いた先の個室居酒屋だった。半個室の狭い空間に座ると、二人きりの空気がやけに濃く感じる。
最初は普通だった。 ライブの話をして、料理を頼んで、最近の配信や壱太や司のことを少し話す。いつも通りのはずだった。
問題は、朔也が酒を飲み始めてからだった。
「お前、そんなペースで飲むなよ」
「別に平気」
「その平気が信用ならねえんだよ」
「昂夜がいるし」
さらっと言われて、昂夜は一瞬言葉に詰まる。
「それはそうかもしれねえけど」
「だろ」
案の定、酔いが回るのは早かった。目元が緩み、声もいつもより柔らかい。完全に潰れてはいないが、機嫌のいい酔っ払いなのは明らかだった。
「なあ」
「ん?」
「今日、ほんとに大丈夫そうだった」
「さっきも聞いた」
「でも確認したい」
「何を」
聞き返した次の瞬間、朔也が身を寄せてきた。明らかに近すぎる。
「お、おい」
朔也はそのまま右側へ回り込み、耳元で低く囁いた。
「ちゃんと聞こえる?」
ただの確認のはずなのに、声も吐息も近すぎて、昂夜の心臓が不自然に跳ねる。
「……聞こえてる」
どうにか返すと、朔也は小さく笑った。
「よかった」
それだけ言って離れるかと思ったのに、そのまま肩へ重みを預けてくる。
昂夜はグラスを掴んだ。何でもいいから飲まないと、この動揺が顔に出そうだった。
「お前、酔ってんだろ」
「酔ってる」
「自覚あるのかよ」
「ある」
「……近い」
「そう?」
「そうだよ」
「確認してるだけ」
悪気がないのが分かるから余計に困る。 酒を煽っても、顔の熱はまるで引かなかった。
「なんか顔赤くね」
「酒飲んでるからだろ」
「ふうん」
納得したのかしていないのか分からないまま、朔也はまた肩に寄りかかる。
「お前さ」
「んー?」
「そういう距離感、誰にでもやるなよ」
「やんない」
即答だった。
「じゃあなんで俺にはやるんだよ」
「昂夜だから」
酔っ払いの返事は、時々無防備すぎる。
結局、朔也はそのまま順調に酔いを深め、最後には完全に潰れた。
「……おい」
「んー……」
「帰るぞ」
「むり」
「無理じゃねえよ」
「歩けない」
「歩け」
「やだ」
会話はほとんど成立していない。 仕方なく会計を済ませ、昂夜は朔也を引っ張るように店の外へ連れ出した。
夜風に当たっても、朔也はほとんどしゃきっとしない。むしろ「さむ」と呟いて、また昂夜に体重を預けてくる。
「重いんだよ、お前」
「うそ」
「嘘じゃねえ」
半分引きずるようにして歩きながら、昂夜は何度ため息をついたか分からない。それでも本気で腹が立つわけではなかった。面倒だし手もかかる。けれど、置いていこうとは思えない。
アパートに着く頃には、昂夜の方が妙にぐったりしていた。
「鍵」
「ぽっけ……」
「どこの」
「右……いや左……」
「どっちだよ」
どうにか鍵を見つけて部屋を開けると、朔也はそのまま布団へ倒れ込んだ。
「……おい、せめて上着」
返事はない。 昂夜は小さく息を吐き、テーブルの上に水だけ置いた。
少し離れたところから朔也を見る。 さっきまであんなに好き勝手していたくせに、寝顔だけは妙に穏やかだった。子どもみたいに無防備で、何も考えていない顔をしている。
「……呑気なやつ」
小さく呟く。 呆れなのか苦笑なのか、自分でもよく分からなかった。
右耳に手をやる。 もう違和感はほとんどない。さっき耳元で囁かれた声だけが、妙に残っている。
面倒で、勝手で、気まぐれで。 それなのに、こうして放っておけない。
昂夜はもう一度だけ朔也の寝顔を見て、小さく肩をすくめた。
ほんとうに、憎めないやつだった。
それから数日。右耳の違和感は完全には消えていなかったが、あの日ほど世界が薄く感じることはない。音の位置も客のざわめきも、ちゃんと拾える。まだ少し不安は残っていたが、それでも昂夜は舞台に立った。
客席の明かりが落ち、ステージだけが照らされる。 客席を見渡した時、壁際の後方席に朔也を見つけた。黒っぽい服のまま、気だるそうに座っている。視線が合うと、朔也は少しだけ顎を上げた。
様子を見に来たのだろう。 それだけで、少し肩の力が抜けた。
ライブは問題なく進んだ。 笑いどころも、息を呑む間も、静まり返る気配も、全部ちゃんと聞こえた。右も左も偏らず届く。そのたびに昂夜は胸の奥で小さく安堵した。
終演後、片づけを済ませて外へ出ると、朔也は何事もなかった顔で待っていた。
「おつかれ」
「……いたのかよ」
「見に来たんだからいるだろ」
当然みたいに言われて、昂夜は少しだけ笑う。
「どうだった」
「普通に良かった」
「感想雑だな」
「でも、ちゃんと聞こえてそうだった」
その一言だけが妙に真っ直ぐで、昂夜は返事の代わりに小さく息を吐いた。
「夕飯、行くんだろ」
「ああ」
入ったのは、駅から少し歩いた先の個室居酒屋だった。半個室の狭い空間に座ると、二人きりの空気がやけに濃く感じる。
最初は普通だった。 ライブの話をして、料理を頼んで、最近の配信や壱太や司のことを少し話す。いつも通りのはずだった。
問題は、朔也が酒を飲み始めてからだった。
「お前、そんなペースで飲むなよ」
「別に平気」
「その平気が信用ならねえんだよ」
「昂夜がいるし」
さらっと言われて、昂夜は一瞬言葉に詰まる。
「それはそうかもしれねえけど」
「だろ」
案の定、酔いが回るのは早かった。目元が緩み、声もいつもより柔らかい。完全に潰れてはいないが、機嫌のいい酔っ払いなのは明らかだった。
「なあ」
「ん?」
「今日、ほんとに大丈夫そうだった」
「さっきも聞いた」
「でも確認したい」
「何を」
聞き返した次の瞬間、朔也が身を寄せてきた。明らかに近すぎる。
「お、おい」
朔也はそのまま右側へ回り込み、耳元で低く囁いた。
「ちゃんと聞こえる?」
ただの確認のはずなのに、声も吐息も近すぎて、昂夜の心臓が不自然に跳ねる。
「……聞こえてる」
どうにか返すと、朔也は小さく笑った。
「よかった」
それだけ言って離れるかと思ったのに、そのまま肩へ重みを預けてくる。
昂夜はグラスを掴んだ。何でもいいから飲まないと、この動揺が顔に出そうだった。
「お前、酔ってんだろ」
「酔ってる」
「自覚あるのかよ」
「ある」
「……近い」
「そう?」
「そうだよ」
「確認してるだけ」
悪気がないのが分かるから余計に困る。 酒を煽っても、顔の熱はまるで引かなかった。
「なんか顔赤くね」
「酒飲んでるからだろ」
「ふうん」
納得したのかしていないのか分からないまま、朔也はまた肩に寄りかかる。
「お前さ」
「んー?」
「そういう距離感、誰にでもやるなよ」
「やんない」
即答だった。
「じゃあなんで俺にはやるんだよ」
「昂夜だから」
酔っ払いの返事は、時々無防備すぎる。
結局、朔也はそのまま順調に酔いを深め、最後には完全に潰れた。
「……おい」
「んー……」
「帰るぞ」
「むり」
「無理じゃねえよ」
「歩けない」
「歩け」
「やだ」
会話はほとんど成立していない。 仕方なく会計を済ませ、昂夜は朔也を引っ張るように店の外へ連れ出した。
夜風に当たっても、朔也はほとんどしゃきっとしない。むしろ「さむ」と呟いて、また昂夜に体重を預けてくる。
「重いんだよ、お前」
「うそ」
「嘘じゃねえ」
半分引きずるようにして歩きながら、昂夜は何度ため息をついたか分からない。それでも本気で腹が立つわけではなかった。面倒だし手もかかる。けれど、置いていこうとは思えない。
アパートに着く頃には、昂夜の方が妙にぐったりしていた。
「鍵」
「ぽっけ……」
「どこの」
「右……いや左……」
「どっちだよ」
どうにか鍵を見つけて部屋を開けると、朔也はそのまま布団へ倒れ込んだ。
「……おい、せめて上着」
返事はない。 昂夜は小さく息を吐き、テーブルの上に水だけ置いた。
少し離れたところから朔也を見る。 さっきまであんなに好き勝手していたくせに、寝顔だけは妙に穏やかだった。子どもみたいに無防備で、何も考えていない顔をしている。
「……呑気なやつ」
小さく呟く。 呆れなのか苦笑なのか、自分でもよく分からなかった。
右耳に手をやる。 もう違和感はほとんどない。さっき耳元で囁かれた声だけが、妙に残っている。
面倒で、勝手で、気まぐれで。 それなのに、こうして放っておけない。
昂夜はもう一度だけ朔也の寝顔を見て、小さく肩をすくめた。
ほんとうに、憎めないやつだった。



