怪異、お持ち帰り注意

 神社に着いた頃には、空は夕方へ傾いていた。石畳を踏む音を、昂夜は右耳で確かめるように聞く。朝よりはましだが、まだ少し遠い。
 境内の奥には、小さな祭壇が組まれていた。白布を敷いた台、榊、塩、水、線香。その先に浅く均された土の場がある。祓うというより、送り出すための場所だった。
 宮司が静かに言う。
「これは猫そのものの呪いではありません。依代です」
「じゃあ、置物は器なんですか」
「戦地から土産として持ち帰られたことで、本来その地に留まるべきものが、意味を変えられたままこちらへ来てしまったのでしょう」
 風が榊を揺らす。
「耳に異変が集中しているのも、耳を壊すためではありません。聞こえるはずのものを遠ざけ、届く声を届きにくくする。そうして人を少しずつ孤立させるのです」
 その言葉が落ちた瞬間、昂夜の右耳の奥でちり、と細い音が鳴った。
「昂夜さん」
 司がすぐに気づく。
「平気ですか」
「……まだ大丈夫だ」
 自分で“まだ”と付けたことが苦かった。
「今回は祓うより、持ち帰ってしまったものを弔いの品として送り直します」
 昂夜は横目で朔也を見る。白布に包んだ置物を見下ろしたまま、指先だけが少し強ばっていた。
「その前に、昂夜さん」
「……はい」
「あなたは今、届くものと届かぬものの境目にいます。まずは聞こえる側へ足を戻しなさい」
 促されて昂夜は祭壇の前へ出た。目を閉じると、右耳の奥ではまだ細い音がする。だが左から入る風や衣擦れは、まだちゃんと現実のものとして届いていた。
 宮司は榊と紙垂で静かに清めを行う。
「聞こえぬものを追わなくていい。届いているものだけを拾いなさい」
 そこで、壱太の声がした。
「昂夜」
 左から、はっきり届く。
「こっち。聞こえる?」
「……聞こえる」
「なら大丈夫。ちゃんとこっちいるじゃん」
 その明るさが妙にありがたかった。
 次に司が昂夜の右側へ立つ。聞こえにくい側だ。
「昂夜さん」
 少し遠い。だが消えてはいない。
「今、どちらから聞こえますか」
「……右」
「遠いですか」
「少し」
「それで十分です。なくなってはいません」
 その一言が、病院で聞いたどの説明よりも真っ直ぐ入ってきた。
 宮司が空気を切り替える。
「では、始めましょう」
 朔也が白布を外した。片耳の欠けた黒猫が夕方の光に現れる。黄色い目だけが妙に湿って見えた。
 その瞬間、昂夜の右耳の奥で高い音が強く鳴る。
「……っ」
「昂夜」
 今度は朔也の声だった。左から、はっきり届く。
「そっち見るな」
 短く鋭い声に、昂夜は反射的に置物から目を外した。朔也は猫だけを見ている。だが立ち位置は変わらず、昂夜の聞こえる側にあった。
「こっちだけ聞いとけ」
 必要なことだけを置いてくる言い方だった。それが今は逆に効いた。
 宮司が線香に火を入れる。
「これは土産として持ち帰られたものです。ですから今ここで、その意味を改めます」
 木札が置かれる。贈り物ではなく、弔いの品として。
 朔也は猫を両手で持ち、土の前へ進んだ。
「最初にこれを持ち帰ったのなら、最後まで送り届けなさい」
 しばらく黙ったあと、朔也がぽつりと口を開く。
「俺、持ってりゃ静かになると思ってた」
 猫を土の前に置く。
「他所にあるより、俺んとこにあった方がマシだって」
 昂夜は黙って聞いていた。それはたしかに朔也の本音だった。
「でも、今回は違った」
 朔也は欠けた耳に指先をかけ、振り返る。視線の先には昂夜がいる。
「お前にいった」
 その一言だけで、昂夜の胸の奥に重いものが沈んだ。朔也が初めて、抱え込むことと守ることは違うのかもしれないと立ち止まっているのが分かったからだ。
「……悪い」
 短いが、今までよりずっと重い謝罪だった。
 昂夜はすぐに返せなかった。右耳はまだ薄く騒いでいる。それでも、朔也の声だけは届いている。
「ちゃんと帰せ」
 ようやくそう言うと、朔也は小さく頷いた。
 宮司の祝詞が始まる。鏡の時みたいに断ち切る響きではなく、もっと低く長い、送り出すための流れだった。
 その中で、昂夜の右耳の奥の高い音がまた強くなる。世界が遠のきかけた、その時。
「昂夜」
 壱太の声。左から、はっきり。
「まだいる?」
「いる」
 すぐに今度は右から司の声。
「こちらはどうですか」
 遠い。けれど、ちゃんと方向が分かる。
「……右」
「消えてはいませんね」
 そして朔也が、土をひと握り取る。
「もう持ってかなくていい」
 ひとつ、土をかける。
「俺んとこじゃなくていい」
 もうひとつ。
「帰れ」
 その瞬間、右耳の奥で鳴っていた高い音が、すっと糸みたいに遠のいた。
 置物の黄色い目が土で半分隠れ、さらに欠けた耳も埋もれていく。宮司の祝詞が最後に少し強くなる。風が吹き、榊が鳴る。
 そして、音が切れた。
 右耳の奥にまとわりついていた高音が消える。代わりに入ってきたのは、夕方の風の音だった。遠くの鳥の声。壱太の息を吐く気配。司の服が擦れる小さな音。それらが今度は右にも左にも偏らず届いてくる。
「……」
 昂夜はゆっくり顔を上げた。
「昂夜」
 壱太の声がする。
「聞こえる?」
 今度は迷わず頷けた。
「聞こえる」
 壱太がぱっと表情を緩める。司も目に見えて肩から力を抜いた。
 少し遅れて、今度は右側から声がした。
「どうだ」
 朔也だった。右から、ちゃんと届く。
「聞こえるよ」
 そう答えると、朔也はほんの少しだけ目を細めた。
「そっか」
 たったそれだけが、今度は自然に入ってくる。昂夜は無意識に右耳へ触れ、それから手を下ろした。完全に元通りじゃなくても、届くべき声が届いている。今はそれで十分だった。
 宮司は最後に土の表面を整え、一礼した。
「これで、帰る道は閉じました」
 誰もすぐには喋らなかった。夕方の光はさらに傾き、境内の影を伸ばしていく。
 その中で、昂夜は朔也へ少し近づいた。
「……お前」
「ん」
「少しは覚えろよ。何でも抱えりゃいいってもんじゃねえ」
 朔也は土の方を見たまま、少し考えてから口を開く。
「……たぶん、こういうの増えてくんだろうな」
「何が」
「持っとくんじゃなくて、ちゃんと手放すの」
 その言い方に、昂夜は小さく息を吐いた。今回は違う。誰かを守るために、自分から帰す方を選んだ。
「覚えとけよ」
 もう一度、少しだけ柔らかく言う。
「何でも抱えりゃいいってもんじゃねえ」
「……分かってる」
 返事は、今までよりずっと素直だった。
 そこでようやく、壱太が空気を少し緩めるみたいに口を開く。
「じゃあさ、帰りなんか食べてかない? こういう後、甘いもんほしいんだけど」
「お前はすぐそれだな」
 昂夜が苦笑すると、壱太は「必要でしょ、こういうの」と笑う。司も小さくため息をついたが、強くは否定しなかった。
 そのやり取りの声も、今はちゃんと届く。
 昂夜はもう一度だけ耳の奥の静けさを確かめた。届く声がある。それを受け取れる。怪談師としての自分が完全に戻ったわけじゃない。けれど、失われきってはいない。
 そのことが、今は何よりありがたかった。