鏡の一件からさらに数日が過ぎた。
夕方、昂夜は近くまで来たついでにと、朔也の借りているアパートへ足を向けた。用事は一つだけだった。本当にそれだけのつもりだったのに、階段を上がって古びた共用廊下を歩いているうちに、なぜか少しだけ妙な緊張が混じる。
インターホンを押すと、少し間を置いてドアが開いた。
「……昂夜?」
朔也はスウェット姿だった。くたびれたグレーの上下に、寝癖のついた髪。いかにも家の中にいたままそのまま出てきた、という顔をしている。
「近く通ったから」
昂夜はそう言って、小さく肩をすくめた。
「渡すもんあって」
「ふうん」
朔也は少しだけ目を細めたあと、あっさりと身を引いた。
「入れば」
断る理由もなく、昂夜は靴を脱いで中へ入る。
部屋は思っていたより片付いていた。必要最低限の家具だけが置かれていて、生活感はあるのに雑然としていない。床に散らかる物も少ない。呪物コレクターの部屋と聞いて想像するような禍々しさはなく、むしろ拍子抜けするくらい普通だった。
「座ってて」
朔也はそう言いながら、コンビニの袋を机に置く。
「ちょうど廃棄もらってきた」
「またそれか」
「助かるんだよ、普通に」
袋の中から取り出したのは、ナポリタンとロコモコ丼だった。ラベルをちらりと見て、「昂夜こっち」とロコモコ丼を投げてよこす。
「俺、ナポリタンでいい」
「いいっていうか、お前の好きな方だろ」
「そうとも言う」
軽く笑って、朔也はレンジの前に立つ。狭いキッチンに電子音が響き、温まったソースの匂いがじわりと広がっていく。
昂夜は適当に座布団へ腰を下ろしながら、その背中を見ていた。こうして見ると、本当にただの若い男だ。呪物だの怪異だのに触れている時の、妙な無頓着さだけが浮いている。
「なんだよ」
振り返らずに、朔也が言う。
「見すぎ」
「別に」
「嘘つけ」
ナポリタンの容器を持ったまま、朔也が振り向く。
「なんか言いたいことあんなら言えよ」
「……お前の部屋、思ったより普通だなって」
「失礼だな」
「もっとこう、やばいもん転がってるかと思ってた」
「そういうのは箱入れてる」
「あるんじゃねえか」
「あるけど出してないだけ」
それが冗談なのか本当なのか分からないまま、朔也は食べ物を机に並べた。
「はい」
「どうも」
割り箸を割る音が小さく重なる。
しばらくは、本当にただ食べるだけの時間だった。朔也はナポリタンを遠慮なく口へ運び、昂夜はロコモコ丼のハンバーグを崩しながら、妙に静かな部屋の空気を感じていた。別に気まずいわけではない。むしろ、何もないのに落ち着く。
「鏡の件さ」
先に切り出したのは朔也だった。
昂夜が顔を上げる。
「ん?」
「あの鏡、ちょっと追加で話聞いた」
ナポリタンを巻き取りながら、朔也は淡々と続ける。
「譲ってきたじいさん、あとからまた店来てさ。前より詳しく喋ってった」
「今さらかよ」
「今さらだな」
その言い方が妙に軽くて、昂夜は少しだけ眉を寄せた。
「何て?」
「元々あれ、ちょっと有名な家の持ち物だったらしい」
「有名な家?」
「昔から土地持ってて、そこそこ名の通った家系。そういうとこって、古い道具とかも残るだろ」
「……ああ」
「だから最初は、ただのちゃんとした鏡だったんじゃねえかって話」
昂夜は箸を止めた。
それは、どこかで思っていたことでもある。あの鏡には、最初からいかにも呪いの道具めいた作られ方は感じられなかった。むしろ名のある品に後から何かが染み込んだような、そういう手触りがあった。
「で」
朔也は続ける。
「その家が結構、人に恨まれてたっぽい」
「恨まれてた」
「疎まれてた、の方が近いかもな」
少しだけ考えるように言葉を選ぶ。
「家柄だの土地だの、そういうので妬まれてたのか、あるいは中の誰かがよっぽど感じ悪かったのかは知らねえけど。とにかく、よく思ってないやつがいた」
「それで鏡に呪いがかけられた」
「たぶん」
朔也は肩をすくめる。
「贈り物として渡されたんだってさ」
「……最悪だな」
「最悪だよな」
それは妙に実感のある相槌だった。
「もともと価値のある鏡だから、受け取る側も疑わない。で、家の中に入ったあとにじわじわ効く」
「洒落にならねえ」
「まあ、呪いってだいたい洒落にならないし」
あっさり言って、朔也はまたナポリタンを食べる。
昂夜はその横顔を見た。
「お前、よく平気だよな」
「何が」
「そういう話、普通に聞けるの」
「別に怖くないし」
いつもの返答だ。 けれど今は、その軽さの裏にあるものを少し知ってしまっている。
怖くないんじゃない。 怖さの入り込む場所が、少し違うだけだ。
「……そうかよ」
それ以上は言わなかった。
部屋に小さな沈黙が落ちる。外で誰かの足音がして、すぐに遠ざかっていく。電子レンジの余熱が切れる音だけが、やけに生活の中にある感じを残していた。
「あ」
昂夜がふと思い出して、持ってきたバッグに手を伸ばす。
「そうだ、これ」
小さなラッピングの包みを取り出して、机の上を滑らせる。
朔也の手が止まった。
「何」
「司から」
その一言で、朔也は一瞬だけ本当に意外そうな顔をした。
「……司?」
「正確には、涼花ちゃんかららしいけど」
「らしいって何だよ」
「俺もそう思った」
昂夜は少しだけ笑う。
「渡しといてくれってさ」
朔也は包みを見下ろす。 しばらく動かない。
こういう時に困ったような顔をするのか、と昂夜は少しだけ意外に思った。朔也はどんなものを渡されても、だいたいもっと無造作に受け取るイメージがあったからだ。
「……へえ」
やがて、小さくそう言って、包みを手に取る。
丁寧なラッピングを指先でなぞるようにしてから、ふっと口元を緩めた。
「ありがとな」
「俺に言うなよ」
「持ってきただろ」
「まあ、そうだけど」
昂夜は少し肩をすくめる。
「お前にお礼とか、直接渡せばいいのに。素直じゃねえよな」
「そうでもねえんじゃない」
朔也は小さく笑ったまま、包みを机の端へそっと置いた。
「別に、ああいうのはああいうので」
その言い方が、少しだけ柔らかい。 昂夜はそれを聞きながら、ロコモコ丼のスプーンを置いた。
「開けないのか」
「あとで」
「なんで」
「今だと、なんか」
少し言葉を探して、朔也は視線を逸らす。
「もったいない感じする」
その返答に、昂夜は一瞬だけ黙った。
それから、どうにもおかしくて小さく笑ってしまう。
「お前、そういう感覚あるんだな」
「失礼だな」
「いや、あるんだなと思って」
「あるだろ、そりゃ」
朔也はそう言ったが、その顔にはまだ少しだけ戸惑いみたいなものが残っていた。
たぶん、嬉しいのだ。 自分でも想像していなかったところから渡された善意が、少しだけ扱いに困るくらいには。
昂夜はその空気を、妙に好ましく感じた。
鏡の件も、人形の件も、完全に後味よく終わったわけじゃない。 呪いの気配はいつだって、思いがけないところからまた戻ってくる。
それでも、こういう小さなやり取りが残るなら、少しは悪くないと思えた。
「食ったら帰るか」
昂夜が言うと、朔也は「ああ」と気楽に頷いた。
机の端の小包は、そのままそこにある。 まだ開けられていないのに、部屋の中の空気を少しだけやわらかくしていた。
夕方、昂夜は近くまで来たついでにと、朔也の借りているアパートへ足を向けた。用事は一つだけだった。本当にそれだけのつもりだったのに、階段を上がって古びた共用廊下を歩いているうちに、なぜか少しだけ妙な緊張が混じる。
インターホンを押すと、少し間を置いてドアが開いた。
「……昂夜?」
朔也はスウェット姿だった。くたびれたグレーの上下に、寝癖のついた髪。いかにも家の中にいたままそのまま出てきた、という顔をしている。
「近く通ったから」
昂夜はそう言って、小さく肩をすくめた。
「渡すもんあって」
「ふうん」
朔也は少しだけ目を細めたあと、あっさりと身を引いた。
「入れば」
断る理由もなく、昂夜は靴を脱いで中へ入る。
部屋は思っていたより片付いていた。必要最低限の家具だけが置かれていて、生活感はあるのに雑然としていない。床に散らかる物も少ない。呪物コレクターの部屋と聞いて想像するような禍々しさはなく、むしろ拍子抜けするくらい普通だった。
「座ってて」
朔也はそう言いながら、コンビニの袋を机に置く。
「ちょうど廃棄もらってきた」
「またそれか」
「助かるんだよ、普通に」
袋の中から取り出したのは、ナポリタンとロコモコ丼だった。ラベルをちらりと見て、「昂夜こっち」とロコモコ丼を投げてよこす。
「俺、ナポリタンでいい」
「いいっていうか、お前の好きな方だろ」
「そうとも言う」
軽く笑って、朔也はレンジの前に立つ。狭いキッチンに電子音が響き、温まったソースの匂いがじわりと広がっていく。
昂夜は適当に座布団へ腰を下ろしながら、その背中を見ていた。こうして見ると、本当にただの若い男だ。呪物だの怪異だのに触れている時の、妙な無頓着さだけが浮いている。
「なんだよ」
振り返らずに、朔也が言う。
「見すぎ」
「別に」
「嘘つけ」
ナポリタンの容器を持ったまま、朔也が振り向く。
「なんか言いたいことあんなら言えよ」
「……お前の部屋、思ったより普通だなって」
「失礼だな」
「もっとこう、やばいもん転がってるかと思ってた」
「そういうのは箱入れてる」
「あるんじゃねえか」
「あるけど出してないだけ」
それが冗談なのか本当なのか分からないまま、朔也は食べ物を机に並べた。
「はい」
「どうも」
割り箸を割る音が小さく重なる。
しばらくは、本当にただ食べるだけの時間だった。朔也はナポリタンを遠慮なく口へ運び、昂夜はロコモコ丼のハンバーグを崩しながら、妙に静かな部屋の空気を感じていた。別に気まずいわけではない。むしろ、何もないのに落ち着く。
「鏡の件さ」
先に切り出したのは朔也だった。
昂夜が顔を上げる。
「ん?」
「あの鏡、ちょっと追加で話聞いた」
ナポリタンを巻き取りながら、朔也は淡々と続ける。
「譲ってきたじいさん、あとからまた店来てさ。前より詳しく喋ってった」
「今さらかよ」
「今さらだな」
その言い方が妙に軽くて、昂夜は少しだけ眉を寄せた。
「何て?」
「元々あれ、ちょっと有名な家の持ち物だったらしい」
「有名な家?」
「昔から土地持ってて、そこそこ名の通った家系。そういうとこって、古い道具とかも残るだろ」
「……ああ」
「だから最初は、ただのちゃんとした鏡だったんじゃねえかって話」
昂夜は箸を止めた。
それは、どこかで思っていたことでもある。あの鏡には、最初からいかにも呪いの道具めいた作られ方は感じられなかった。むしろ名のある品に後から何かが染み込んだような、そういう手触りがあった。
「で」
朔也は続ける。
「その家が結構、人に恨まれてたっぽい」
「恨まれてた」
「疎まれてた、の方が近いかもな」
少しだけ考えるように言葉を選ぶ。
「家柄だの土地だの、そういうので妬まれてたのか、あるいは中の誰かがよっぽど感じ悪かったのかは知らねえけど。とにかく、よく思ってないやつがいた」
「それで鏡に呪いがかけられた」
「たぶん」
朔也は肩をすくめる。
「贈り物として渡されたんだってさ」
「……最悪だな」
「最悪だよな」
それは妙に実感のある相槌だった。
「もともと価値のある鏡だから、受け取る側も疑わない。で、家の中に入ったあとにじわじわ効く」
「洒落にならねえ」
「まあ、呪いってだいたい洒落にならないし」
あっさり言って、朔也はまたナポリタンを食べる。
昂夜はその横顔を見た。
「お前、よく平気だよな」
「何が」
「そういう話、普通に聞けるの」
「別に怖くないし」
いつもの返答だ。 けれど今は、その軽さの裏にあるものを少し知ってしまっている。
怖くないんじゃない。 怖さの入り込む場所が、少し違うだけだ。
「……そうかよ」
それ以上は言わなかった。
部屋に小さな沈黙が落ちる。外で誰かの足音がして、すぐに遠ざかっていく。電子レンジの余熱が切れる音だけが、やけに生活の中にある感じを残していた。
「あ」
昂夜がふと思い出して、持ってきたバッグに手を伸ばす。
「そうだ、これ」
小さなラッピングの包みを取り出して、机の上を滑らせる。
朔也の手が止まった。
「何」
「司から」
その一言で、朔也は一瞬だけ本当に意外そうな顔をした。
「……司?」
「正確には、涼花ちゃんかららしいけど」
「らしいって何だよ」
「俺もそう思った」
昂夜は少しだけ笑う。
「渡しといてくれってさ」
朔也は包みを見下ろす。 しばらく動かない。
こういう時に困ったような顔をするのか、と昂夜は少しだけ意外に思った。朔也はどんなものを渡されても、だいたいもっと無造作に受け取るイメージがあったからだ。
「……へえ」
やがて、小さくそう言って、包みを手に取る。
丁寧なラッピングを指先でなぞるようにしてから、ふっと口元を緩めた。
「ありがとな」
「俺に言うなよ」
「持ってきただろ」
「まあ、そうだけど」
昂夜は少し肩をすくめる。
「お前にお礼とか、直接渡せばいいのに。素直じゃねえよな」
「そうでもねえんじゃない」
朔也は小さく笑ったまま、包みを机の端へそっと置いた。
「別に、ああいうのはああいうので」
その言い方が、少しだけ柔らかい。 昂夜はそれを聞きながら、ロコモコ丼のスプーンを置いた。
「開けないのか」
「あとで」
「なんで」
「今だと、なんか」
少し言葉を探して、朔也は視線を逸らす。
「もったいない感じする」
その返答に、昂夜は一瞬だけ黙った。
それから、どうにもおかしくて小さく笑ってしまう。
「お前、そういう感覚あるんだな」
「失礼だな」
「いや、あるんだなと思って」
「あるだろ、そりゃ」
朔也はそう言ったが、その顔にはまだ少しだけ戸惑いみたいなものが残っていた。
たぶん、嬉しいのだ。 自分でも想像していなかったところから渡された善意が、少しだけ扱いに困るくらいには。
昂夜はその空気を、妙に好ましく感じた。
鏡の件も、人形の件も、完全に後味よく終わったわけじゃない。 呪いの気配はいつだって、思いがけないところからまた戻ってくる。
それでも、こういう小さなやり取りが残るなら、少しは悪くないと思えた。
「食ったら帰るか」
昂夜が言うと、朔也は「ああ」と気楽に頷いた。
机の端の小包は、そのままそこにある。 まだ開けられていないのに、部屋の中の空気を少しだけやわらかくしていた。
