怪異、お持ち帰り注意

 翌朝、昂夜はひとりで耳鼻科へ向かった。
 結果は、右耳にごく軽い聴力低下と違和感があるものの、重い異常と呼ぶほどではない、というものだった。鼓膜や炎症にも目立った問題はなく、疲労やストレスでも起こりうる範囲。ただ、原因ははっきりせず、悪化するようならすぐ再診するようにと言われた。
 大きな異常ではない。けれど、確実に大丈夫だとも言われなかった。
 病院を出ても、右耳の奥に残る薄い膜みたいな感覚は消えなかった。聞こえないわけではない。ただ、音が少し遠い。
 怪異が怖いわけじゃない。怖いのは、耳が仕事にならなくなることだった。
 怪談師として生きてきた。声の震え方、間、客の息を飲む気配。そういうものを聞き取って、自分の語りを作ってきた。片耳が少し聞こえにくいだけ。世間的にはその程度かもしれない。けれど昂夜にとっては、その程度が仕事の根を揺らしかねなかった。
「……最悪だな」
 小さく呟いてから、司へ短くメッセージを送る。
 重くはないらしい。軽い聴力低下と違和感。原因ははっきりしない。
 すぐに既読がつく。
 大丈夫ですか
 その四文字に少しだけ視線を止めてから、昂夜は返した。
 まだ分からない。少ししてから向かう
 昼を過ぎて、昂夜はようやく配信部屋へ向かった。神社へ行く前に、一度だけ寄る。朔也が先に来ていると聞いていた。今は、何となくでも誰かのいる場所に行かないと、自分の考えに沈みすぎる気がした。
 ドアを開けると、部屋の空気は昨日より少し重かった。机の上には白い布をかけられた猫の置物。窓際に立っていた朔也が振り向く。
「病院どうだった」
 昂夜はバッグを肩から外しながら息を吐く。
「重くはないってさ」
「じゃあ平気じゃん」
「そういう言い方すんな」
 思わず低く返すと、朔也はすぐに気づいたらしい。
「……悪い」
 素直に言うので、逆に勢いが削がれる。昂夜は椅子に腰を下ろした。右耳の奥は今も薄く詰まっている。
「で、司たちは」
「あと十分くらい」
「そうか」
 短いやり取りのあと、沈黙が落ちる。
 その中で、昂夜は何となく気づいた。朔也が自分の右側に来ないようにしている。聞こえやすい左側へ回り込むような、不器用な気遣いだった。
「なあ」
「ん」
「お前、毎回こうなるのに、なんでまた手出すんだよ」
 責めるつもり半分、確かめたい気持ち半分だった。
 朔也は少し考えてから、白布の方を見たまま言う。
「欲しいわけじゃないんだよな」
「は?」
「呪物。集めたいとか、自慢したいとか、そういうんじゃない」
「じゃあ何だよ」
「放っとく方が気持ち悪い」
 あまりにも自然な口調で言うので、昂夜は一瞬だけ言葉を失った。
「……気持ち悪い?」
「他人のとこにある方が嫌なんだよ。俺のとこにあった方がまだ静かっていうか」
「静か、って」
「うまく言えねえけど。外にあるとずっと引っかかる」
 冗談でも使命感でもない。ただ、本当にそう感じているだけの声だった。
「だから持ってくる」
「それで毎回面倒なことになってんだろ」
「なってるな。でも、持ってこなかったらもっと面倒になる気がする」
 昂夜は眉を寄せたまま朔也を見る。冗談で言っている顔ではなかった。ただ感覚でそう知ってしまっているような顔だった。
「……お前、自分が一番マシな置き場所だと思ってるだろ」
 朔也はほんのわずかに目を動かした。否定しない。
「たぶん」
「たぶん、じゃねえよ」
「でもそうなんじゃね。俺、平気なこと多いし」
 その一言に、昂夜は小さく息を止める。平気。たしかにそう見える。けれど、実際にはそうではないことを昂夜は知っている。
「……平気じゃねえよ、お前は」
 気づけばそう返していた。
「何が」
「全部」
 それ以上は言わなかった。白布の向こうの猫の置物は黙っているのに、その存在だけがじりじりと部屋を侵している気がした。
「俺にはよく分かんねえけど」
 朔也が小さく言う。
「他所で誰かに何かあるよりは、俺んとこで止まるならそっちの方がいい」
 その言い方が妙にまっすぐで、昂夜は返事に詰まった。この男は、自分で思っているよりずっと厄介で、厄介なまま妙に優しい。
「……それで今回みたいに俺がやられるのは勘弁なんだけどな」
 わざと軽く言うと、朔也はほんの少しだけ口元を緩めた。
「悪い」
「ほんとだよ」
「でも、終わらせるだろ」
「終わらせるよ」
 即答したものの、声は少し掠れた。それを朔也は聞き逃さなかった。
「昂夜」
「ん?」
「お前、仕事のこと考えてるだろ」
 その一言で、昂夜の肩がわずかに強張る。
「別に」
「嘘つけ」
 朔也は壁から離れ、今度ははっきり昂夜の左側へ回った。聞こえる方へ立つ、その不器用な動きに昂夜は何も言えない。
「病院出たあとから顔違う」
「顔でそんな分かるかよ」
「分かる」
 短く言い切られて、昂夜は視線を逸らした。
「……片耳くらいって思うだろ」
 ぽつりと零れた。
「でも俺、声聞いて、空気拾って、それでやってきたんだよ。そこ狂ったら、何が残るんだって思う」
 言葉にした瞬間、自分でも驚くくらいそのまま本音だった。怪異が怖いわけじゃない。聞こえなくなることが怖い。怪談師としての自分が削れることが怖い。
 朔也は少しだけ黙ってから、低く言った。
「じゃあ、聞こえなくなる前に終わらせればいい」
 あまりにも朔也らしい、まっすぐすぎる返答だった。
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃねえよ」
 珍しく、言い切る声に揺らぎがなかった。
「でも、お前がそれで終わるやつなら、もうとっくに終わってるだろ」
「……」
「片耳でも、お前の話聞くやつは聞くだろ」
 慰めとしては不器用だ。でも、変に綺麗ごとじゃない分だけ妙に刺さった。
「何だよ、それ」
「そのまんま」
 朔也は小さく肩をすくめる。
「お前、聞こえ方ひとつで空っぽになるほど薄くないだろ」
 昂夜はしばらく何も言えなかった。空っぽ、という言葉にかすかに引っかかる。それは本来、朔也の側にある言葉のはずなのに。
「……お前に言われると腹立つな」
 ようやくそう返すと、朔也は少しだけ笑った。
「だろうな」
 その時、廊下の向こうで足音がした。壱太の軽い足取りと、司の迷いのない靴音。
 昂夜は深く息を吸って、少しだけ背筋を伸ばす。まだ終わっていない。でも、さっきまで胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ形を変えた気がした。
 朔也は何も言わず、昂夜の左側に立ったままだった。