怪異、お持ち帰り注意

 言葉が落ちたあと、部屋の音だけが妙に遠くなった。
 司が先に動き、ノートパソコンを閉じて昂夜の前に立つ。
「いつからですか」
 仕事の時の声だった。抑えているのが分かる。
「昨日の収録の途中から少し。最初は詰まる感じだけだった。今は時々、高い音がする」
「鈴みたいな?」
 壱太が小さく聞く。
 昂夜は頷いた。
「たぶん」
「言ってよ、そういうの」
「疲れてるだけかと思ってた」
「疲れてるだけで、視聴者と同じ反応出るのは嫌すぎるでしょ」
 もっともだった。
「片側だけですか」
「今のところは」
「聞こえにくい?」
「そこまでじゃない。でも少し遠くなる瞬間がある」
「耳鳴りはずっと?」
「断続的」
 答えるたび、現実味が増していく。ちり、とまた鳴った。小さいのに妙に神経に引っかかる。
 司が振り返る。
「……朔也。今回も、何も感じないんですか」
 前みたいな刺はなかった。確認が先の声だ。
「……聞こえるっちゃ聞こえる」
「は?」
 昂夜も壱太も同時に顔を上げる。
「何が」
 朔也は猫の置物を顎で示した。
「鳴いてるみたいな感じ」
 部屋の空気が変わる。
「今さら言うなよ」
「ずっとじゃないし」
「どういう音ですか」
「鈴っていうか、金属擦るみたいな高い音。置物の近く行くと少し」
 やはり何かが起きている。
「……お前、昨日の時点でそれ言えよ」
「言うほどでもないかと思ってた」
「言うほどだろ」
 昂夜の声が強くなる。だが朔也は珍しく反発せず、少し視線を逸らした。
「悪い」
 その一言で、昂夜もそれ以上は続けなかった。
 司がすぐに話を切り替える。
「まず、これ以上悪化させないのが先です」
「どうする?」
「両方です」
 壱太の問いに、司は即答した。
「呪物由来だとしても、身体に出ている以上は普通の検査もした方がいい」
「今から行けるか?」
「この時間だと耳鼻科は厳しいです。明日の朝一で行ってください」
「了解」
「その上で、今日はもう録音も配信もやめます」
「だな」
「猫も布か何かかけとくか」
「もう遅いかもしれないですけど、何もしないよりはマシです」
 その時、壱太が声を上げた。
「涼花ちゃんの時みたいに、広がる前に抑える方向で考えた方がいいんじゃない?」
「音を断つ、か」
 昂夜が低く呟く。
「完全に切るのは無理ですけど、少なくとも余計な音に晒さない方がいい。イヤホン、ヘッドホン、配信音声の確認、そういうのは全部やめるべきです」
「音の少ない場所にいた方がいいってこと?」
「それもあります。でも、静かすぎるのもよくない気がします。何か別の音を拾い始めるかもしれない」
「やだな、それ」
 壱太が顔をしかめる。
 昂夜は右耳の違和感を抱えたまま、小さく息を吐いた。
「……神社か」
「だと思います」
 司が頷く。
「猫の置物の由来も、被害の出方も普通じゃない。前みたいに相談した方がいい」
 そこまで話した時だった。
 ちり。
 部屋の隅の猫の置物から、かすかな音がした気がした。
 全員がそちらを見る。
「……今、鳴った?」
 壱太が小声で言う。
「いや……実際に鳴ったというより」
「聞こえた」
 昂夜が言った。
 右耳の奥だけで鳴ったのか、部屋で鳴ったのか分からない。その曖昧さがいちばん気持ち悪い。
「俺も」
 朔也がぽつりと言う。
「置物の近く、やっぱ少し変」
 司が即座に動いた。棚から厚手のタオルを引っ張り出し、猫の置物へかぶせる。
「とりあえず覆います」
「雑だな」
「応急処置です」
 言い切る声が少し強い。こういう時の司は本当に躊躇がない。
 だが次の瞬間、右耳の奥でまたちり、と鳴る。今度はさっきより少し長かった。
「……っ」
 昂夜が顔をしかめる。
「大丈夫?」
 壱太がすぐ近づく。
「大丈夫じゃねえな、たぶん」
 正直に返すと、壱太の顔が固くなる。
「明日、神社は俺も行く」
「俺もです」
 司もすぐに続けた。
「今回は最初から全員で動いた方がいい」
 ありがたい、と思う。同時に少し申し訳なくもなる。
「……悪いな」
「今さら」
「こっちだって、前の鏡の時さんざん巻き込んでもらったし」
「それ、言い方どうなんだ」
「間違ってないじゃん」
 少しだけ空気が緩む。
 その隙に、朔也が低く言った。
「俺も行く」
 全員の視線が向く。
「当然だろ。持ち込んだのお前なんだから」
「いや、それもあるけど」
 朔也は少し黙ってから続けた。
「たぶん、これ俺も近くにいた方がいい気がする」
「なんで?」
「分かんねえ。でも、鏡の時みたいに最後なんか必要になるかも」
 司はまだ完全には信用しきれていない顔をしたが、否定はしなかった。
「……分かりました。でも今回は最初から勝手に触らないでください」
「はいはい」
「返事が軽い」
「分かったって」
 その言い方に、やっと少しだけいつもの朔也が戻る。
 昂夜はタオルのかかった猫の置物を見た。布の下の輪郭は小さいのに、気配だけが妙に濃い。
「今日は帰るか。神社は明日、全員で行く」
「その前に」
 司がすぐに言う。
「昂夜さんは明日の朝、耳鼻科に行ってください」
「ひとりで?」
「耳の検査です。そこに全員でついて行っても仕方ないでしょう」
 もっともだった。
「でもさ」
 壱太が少し心配そうに言う。
「一人で大丈夫?」
「病院くらい行けるだろ。そこまで子どもじゃねえよ」
「そういう意味じゃなくて」
「分かってる」
 そう返しながらも、右耳の奥でまたちり、と鳴る。その小さな音が妙に胸に残る。
「検査の結果、すぐ連絡してください」
 司の声はきっちりしていた。
「何もなければそれでいい。何かあったら、神社に行く前に情報を揃えたい」
「了解」
「絶対ですよ」
「はいはい」
「返事が軽いのは昂夜さんも同じですね」
 ぴしゃりと言われて、壱太が横で吹き出す。
「司、今日ちょっと余裕ないね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
 その返しにも、いつもより疲れが滲んでいた。
 昂夜は立ち上がる。帰って休む。明日の朝、ひとりで耳鼻科へ行く。そのあと、みんなで神社へ向かう。
 流れは決まったはずなのに、ドアの方へ歩き出した瞬間、右耳の奥で誰かが小さく呼んだ気がした。
 にゃあ、というより、もっと掠れたかすかな音。
 振り返る。タオルのかかった猫の置物は、もちろんそのままだった。
「……昂夜?」
 壱太の声がする。
「どうした?」
「いや」
 昂夜は視線を逸らした。
「何でもない」
 何でもないはずがないのに、そう言うしかなかった。
 部屋を出る時、昂夜は自分でも分かるくらい静かに息を吐いた。聞こえてはいけない音が、少しずつ自分の中へ入り込んできている。そんな嫌な確信だけが、右耳の奥に残っていた。