鏡の件が片付いてから、数日が経った。
撮影用に借りている部屋には、久しぶりにいつもの空気が戻っていた。
ライトの位置を確認する司。 台本代わりのメモを見ながら、話す順番をなんとなく決めている昂夜。 ソファの背にもたれて、まだ始まってもいないのにくつろいでいる壱太。
今日は怪談を話す回だった。 呪物そのものを扱うのではなく、各自が集めた話や体験談を持ち寄って語るだけの、比較的穏やかな撮影。
「やっぱこういう回の方が安心するなあ」
壱太がしみじみと言う。
「もうしばらく鏡とか人形とか見たくないもん」
「お前、この前まで面白がってただろ」
昂夜が呆れたように返す。
「いや、だってさ。結果論で言えばほんとに危なかったじゃん」
壱太は肩をすくめる。
「今回は素直に怪談だけでいいよ。映るとか戻るとか、そういうの抜きで」
「それが一番です」
司が機材から目を離さないまま言った。
「少なくとも、今回は変なものを持ち込む人はいませんし」
その言い方に、昂夜は少しだけ苦笑する。
朔也は今日、この場にはいなかった。 別に呼ばなかったわけではないが、呼んでもたぶん来ないだろうという妙な確信が全員の中にあった。
鏡の件が終わったあと、少しだけ距離を置いている。 喧嘩したわけではない。ただ、お互いに少し考える時間が必要な感じだった。
「そういえば」
壱太が思い出したように言う。
「鏡のアーカイブ、消したんだよね」
司の手が一瞬だけ止まる。
「消しました」
「あれ、コメント欄でめっちゃ言われてたよね」
壱太はスマホをいじる真似をしながら笑う。
「“なんで消したの?” “怖くなった?” “あの後何かあった?” みたいな」
「実際あったんだから仕方ないだろ」
昂夜が低く返す。
「むしろあれ残しておく方がまずい」
「まあねえ」
壱太もすぐに真面目な顔で頷く。
「あんなことあったんだから、仕方ないよね」
その言い方は軽いのに、そこに変な無責任さはなかった。 ちゃんと分かっていて言っている声音だった。
司は何も言わず、代わりに保存済みのデータを整理するみたいにマウスを動かす。
あの映像はもう消した。 少なくとも、表に出る形では残していない。 それでも司の中には、鏡面を見た時の鈍い感覚が、まだ少しだけ引っかかっていた。
完全に何もなかったことには、まだできない。
「司」
昂夜が声をかける。
「今日は大丈夫か」
「何がですか」
「顔色」
司はそこでようやく視線を上げた。
「大丈夫です。今日は普通です」
「今日は、って」
壱太が吹き出す。
「まだちょっと引きずってる言い方じゃん」
「引きずるでしょう、普通は」
司は淡々と言う。
「誰かさんたちと一緒にしないでください」
「誰かさんって俺?」
「自覚あるならそうです」
壱太が楽しそうに笑う。 そのやり取りを見て、昂夜も少しだけ肩の力を抜いた。
ようやく、こういう会話ができるところまで戻ってきたのかもしれない。
その時だった。
「そうだ」
司が思い出したようにバッグを開く。
中から、小さな包みを取り出した。
きれいにラッピングされた、手のひらサイズの小包。 落ち着いた色の包装紙に細いリボンがかかっていて、いかにも丁寧に選ばれた感じがある。
「昂夜さん」
「ん?」
「これ、朔也に会ったら渡しておいてください」
差し出されて、昂夜は一瞬だけ目を瞬く。
「……朔也に?」
「はい」
昂夜は小包を受け取りながら、まじまじとそれを見る。
「お礼か?」
「別にそういうわけでは」
司は微妙に視線を逸らした。
「鏡の件で、結果的に助かった部分もありますし」
「朔也にお礼……?」
昂夜は小さく吹き出す。
「直接渡せばいいのに。素直じゃないな」
「勘違いしないでください」
司は即座に切り返した。
「これは妹からです」
「涼花ちゃんから?」
「そうです」
言い切るのが早すぎた。
昂夜は小包を持ったまま、じっと司の顔を見る。 司は平然としているつもりらしいが、耳がほんの少しだけ赤い。
そこで、横から壱太が覗き込んだ。
「あー」
一瞬で分かったらしい声だった。
「これ、司のセンスじゃん」
「は?」
「いや、包装の色味とか。お菓子屋さんの選び方とか、絶対司っぽい」
壱太は吹き出す。
「本当は司が買ってきたくせに」
「違います」
「いやでも、涼花ちゃんこういう感じよりもっと可愛い系選びそうだし」
「壱太」
司の声が低くなる。
「なんですか」
「余計なこと言わなくていい」
壱太はもう隠しきれずに笑っていた。
「だって分かりやすすぎるんだもん」
「違います」
「二回言った」
「違うものは違います」
司はきっぱりと言い張る。 だが、その丁寧なラッピング自体がもうだいぶ雄弁だった。
昂夜は苦笑しながら小包を見下ろした。
中身はたぶん、ちょっとした菓子だろう。 高価すぎず、でも雑でもない。 そういう“ちょうどいい線”を選ぶのは、いかにも司らしい。
「まあ、分かったよ」
昂夜が言う。
「渡しとく」
「お願いします」
「妹から、な」
わざと少し間を置いて言うと、司は露骨に嫌そうな顔をした。
「……その言い方やめてもらえますか」
「じゃあ司からって言っとくか?」
「それはもっとやめてください」
即答だった。
壱太がまた笑い出す。
「やっぱ司じゃん」
「壱太」
「はいはい」
軽く流しながらも、壱太の顔はどこか楽しそうだった。 この数日で張り詰めていたものが、ようやく少しだけほどけてきたのかもしれない。
昂夜は小包をバッグにしまいながら、ほんの少しだけ視線を和らげる。
朔也がこれを受け取った時、どんな顔をするのか。 想像すると、少しだけ可笑しかった。
「で」
壱太がぱんと手を叩く。
「そろそろ撮る?今日は普通に怪談だけだからね。なんか平和」
「その“平和”を大事にしろよ」
昂夜が返す。
「もちろん」
壱太は大きく頷く。
「しばらくは、鏡も人形もなしで」
「……本当にそうしてください」
司が小さくため息をついた。
その声には、まだ完全には抜けきらない疲れが残っていたけれど。 それでも少しだけ、前より柔らかかった。
撮影用に借りている部屋には、久しぶりにいつもの空気が戻っていた。
ライトの位置を確認する司。 台本代わりのメモを見ながら、話す順番をなんとなく決めている昂夜。 ソファの背にもたれて、まだ始まってもいないのにくつろいでいる壱太。
今日は怪談を話す回だった。 呪物そのものを扱うのではなく、各自が集めた話や体験談を持ち寄って語るだけの、比較的穏やかな撮影。
「やっぱこういう回の方が安心するなあ」
壱太がしみじみと言う。
「もうしばらく鏡とか人形とか見たくないもん」
「お前、この前まで面白がってただろ」
昂夜が呆れたように返す。
「いや、だってさ。結果論で言えばほんとに危なかったじゃん」
壱太は肩をすくめる。
「今回は素直に怪談だけでいいよ。映るとか戻るとか、そういうの抜きで」
「それが一番です」
司が機材から目を離さないまま言った。
「少なくとも、今回は変なものを持ち込む人はいませんし」
その言い方に、昂夜は少しだけ苦笑する。
朔也は今日、この場にはいなかった。 別に呼ばなかったわけではないが、呼んでもたぶん来ないだろうという妙な確信が全員の中にあった。
鏡の件が終わったあと、少しだけ距離を置いている。 喧嘩したわけではない。ただ、お互いに少し考える時間が必要な感じだった。
「そういえば」
壱太が思い出したように言う。
「鏡のアーカイブ、消したんだよね」
司の手が一瞬だけ止まる。
「消しました」
「あれ、コメント欄でめっちゃ言われてたよね」
壱太はスマホをいじる真似をしながら笑う。
「“なんで消したの?” “怖くなった?” “あの後何かあった?” みたいな」
「実際あったんだから仕方ないだろ」
昂夜が低く返す。
「むしろあれ残しておく方がまずい」
「まあねえ」
壱太もすぐに真面目な顔で頷く。
「あんなことあったんだから、仕方ないよね」
その言い方は軽いのに、そこに変な無責任さはなかった。 ちゃんと分かっていて言っている声音だった。
司は何も言わず、代わりに保存済みのデータを整理するみたいにマウスを動かす。
あの映像はもう消した。 少なくとも、表に出る形では残していない。 それでも司の中には、鏡面を見た時の鈍い感覚が、まだ少しだけ引っかかっていた。
完全に何もなかったことには、まだできない。
「司」
昂夜が声をかける。
「今日は大丈夫か」
「何がですか」
「顔色」
司はそこでようやく視線を上げた。
「大丈夫です。今日は普通です」
「今日は、って」
壱太が吹き出す。
「まだちょっと引きずってる言い方じゃん」
「引きずるでしょう、普通は」
司は淡々と言う。
「誰かさんたちと一緒にしないでください」
「誰かさんって俺?」
「自覚あるならそうです」
壱太が楽しそうに笑う。 そのやり取りを見て、昂夜も少しだけ肩の力を抜いた。
ようやく、こういう会話ができるところまで戻ってきたのかもしれない。
その時だった。
「そうだ」
司が思い出したようにバッグを開く。
中から、小さな包みを取り出した。
きれいにラッピングされた、手のひらサイズの小包。 落ち着いた色の包装紙に細いリボンがかかっていて、いかにも丁寧に選ばれた感じがある。
「昂夜さん」
「ん?」
「これ、朔也に会ったら渡しておいてください」
差し出されて、昂夜は一瞬だけ目を瞬く。
「……朔也に?」
「はい」
昂夜は小包を受け取りながら、まじまじとそれを見る。
「お礼か?」
「別にそういうわけでは」
司は微妙に視線を逸らした。
「鏡の件で、結果的に助かった部分もありますし」
「朔也にお礼……?」
昂夜は小さく吹き出す。
「直接渡せばいいのに。素直じゃないな」
「勘違いしないでください」
司は即座に切り返した。
「これは妹からです」
「涼花ちゃんから?」
「そうです」
言い切るのが早すぎた。
昂夜は小包を持ったまま、じっと司の顔を見る。 司は平然としているつもりらしいが、耳がほんの少しだけ赤い。
そこで、横から壱太が覗き込んだ。
「あー」
一瞬で分かったらしい声だった。
「これ、司のセンスじゃん」
「は?」
「いや、包装の色味とか。お菓子屋さんの選び方とか、絶対司っぽい」
壱太は吹き出す。
「本当は司が買ってきたくせに」
「違います」
「いやでも、涼花ちゃんこういう感じよりもっと可愛い系選びそうだし」
「壱太」
司の声が低くなる。
「なんですか」
「余計なこと言わなくていい」
壱太はもう隠しきれずに笑っていた。
「だって分かりやすすぎるんだもん」
「違います」
「二回言った」
「違うものは違います」
司はきっぱりと言い張る。 だが、その丁寧なラッピング自体がもうだいぶ雄弁だった。
昂夜は苦笑しながら小包を見下ろした。
中身はたぶん、ちょっとした菓子だろう。 高価すぎず、でも雑でもない。 そういう“ちょうどいい線”を選ぶのは、いかにも司らしい。
「まあ、分かったよ」
昂夜が言う。
「渡しとく」
「お願いします」
「妹から、な」
わざと少し間を置いて言うと、司は露骨に嫌そうな顔をした。
「……その言い方やめてもらえますか」
「じゃあ司からって言っとくか?」
「それはもっとやめてください」
即答だった。
壱太がまた笑い出す。
「やっぱ司じゃん」
「壱太」
「はいはい」
軽く流しながらも、壱太の顔はどこか楽しそうだった。 この数日で張り詰めていたものが、ようやく少しだけほどけてきたのかもしれない。
昂夜は小包をバッグにしまいながら、ほんの少しだけ視線を和らげる。
朔也がこれを受け取った時、どんな顔をするのか。 想像すると、少しだけ可笑しかった。
「で」
壱太がぱんと手を叩く。
「そろそろ撮る?今日は普通に怪談だけだからね。なんか平和」
「その“平和”を大事にしろよ」
昂夜が返す。
「もちろん」
壱太は大きく頷く。
「しばらくは、鏡も人形もなしで」
「……本当にそうしてください」
司が小さくため息をついた。
その声には、まだ完全には抜けきらない疲れが残っていたけれど。 それでも少しだけ、前より柔らかかった。
