怪異、お持ち帰り注意

 その日の神社は、澄んだ空気に包まれていた。 朝の光が石畳を白く照らし、手水舎の水面にも静かな明るさが落ちている。 境内はきちんと整えられ、木々の影さえ端正に見えた。
 それでも、そこへ集まった四人の胸の内だけは少しも穏やかではなかった。

 昂夜たちが社務所の前に揃った時、宮司はすでに待っていた。年配の、物腰の柔らかい人だが、目だけは静かに鋭い。その傍らには、白布に幾重にも包まれた鏡が置かれていた。
 昨夜から一晩、神社の暗所で封じられていた鏡だ。
「おはようございます」
 昂夜が頭を下げる。
 司も壱太もそれに続き、朔也は少し遅れて軽く会釈した。
 涼花は司の隣に立っていた。顔色は昨日よりましに見えるが、それでもどこか眠れていない気配が残っている。神社へ来るまで、車の窓にもスマホの画面にもなるべく目を向けないようにしていたのを、昂夜は横目で見ていた。
「昨夜は、なるべく反射するものを避けて過ごしていただきました」
 宮司が穏やかに言う。
「そのおかげで、ひとまず像の広がりは抑えられています」
「広がり」
 司が低く聞き返す。
「はい。あの鏡は、見た者の中に偽の像を作るものです」
 朝の空気の中で、その言葉はひどく冷たく聞こえた。
「鏡そのものに何かが映るというより、見た側の自己像を少しずつ侵していく。ですから、最初は違和感程度でも、周囲のガラスや水面にまで影響が滲んでいくのです」
 涼花が無意識に司の袖を掴む。
 司はそれにすぐ気付いて、何も言わず少しだけ体を寄せた。
「涼花さんのように、鏡を通じて直接見ていない者にまで影響が及ぶのは珍しいことではありますが」
 宮司は続ける。
「完全にあり得ぬ話ではありません。強く意識を向けたもの、近しい者、繋がりの深い者へ滲む場合があります」
 司の顎がわずかに強張る。
 自分が見たせいで、涼花にまで及んだのではないか。  その考えが、まだ胸の奥に棘みたいに残っているのだろう。
 昂夜はそれを横目に見ながら、宮司へ問うた。
「昨日お聞きした、最後の干渉のことですが」
「ええ」
 宮司の視線が、ゆっくりと朔也へ向く。
「鏡は像を欲します。人の輪郭、自我、己というかたちを映し、その写しを足場にして侵す」
 朔也は特に身構えた様子もなく、その視線を受けている。
「ですが」
 宮司は少しだけ間を置いた。
「この方は、鏡に映りにくい」
 その一言に、司と壱太が同時に朔也を見る。
「映りにくい、ですか」
 昂夜が問う。
「映らぬわけではありません」
 宮司は穏やかに首を振る。
「ただ、像が定まりにくいのです。普通の人は鏡に己を見ます。ですがこの方は、鏡に空きを見せる」
 壱太が小さく眉をひそめる。
「空きって」
「輪郭が薄い、と言ってもよいでしょう」
 宮司の声は静かだった。
「恐れや執着、己という手触りが薄い者は、呪物にとって足場が定まりにくい。だから侵されにくい」
 そこで昂夜だけが、ほんの少しだけ目を伏せた。
 侵されにくい。  だがその代わりに、朔也は別の形で削れていく。  そのことを知っているのは、この場ではたぶん自分だけだ。
「ただし」
 宮司は言葉を継いだ。
「侵されぬから無傷というわけではありません。像が定まらぬ者は、その空きを別の何かで埋めて均衡を取ることがある」
 朔也の表情は変わらなかった。
 けれど、昂夜の胸の内ではその言葉が静かに落ちていく。
 やはり、この人も分かっている。
「今回の鏡は、像を増やすものです」
 宮司の目が再び鏡へ向く。
「ならば最後に必要なのは、像を返すこと。何も映さぬところへ戻すこと」
「それを、朔也がやる」
 昂夜が確認するように言うと、宮司は頷いた。
「ほかの方では、鏡がまた何かを写してしまうでしょう。けれどこの方なら、写さずに済むかもしれない」
 かもしれない、という言い方がやけに現実的だった。
 絶対じゃない。  だからこそ余計に緊張が増す。
「……分かりました」
 昂夜が静かに返す。
 司はまだどこか納得しきれない顔をしていたが、それでも何も言わなかった。涼花を助けるために必要な役目だと、もう理解しているのだろう。
「では、始めましょう」
 宮司に導かれて、全員が拝殿の脇に設けられた小さな清めの場へ移動する。
 白布を敷いた台の上に、布に包まれた鏡が置かれた。  周囲には塩、榊、白い紙垂。朝の光がそこだけ少し冷たく見える。
「まず、見た方々の縁を断ちます」
 宮司の声に従い、司、昂夜、壱太、そして涼花が順に前へ出る。
 鏡面はまだ覆われたままだ。  今は覗き込まない。ただ、鏡の前に立ち、自分の名前と、自分の帰る場所と、自分の大事なものを口にする。
 壱太が最初だった。
「壱太。帰る場所は、俺の家。大事なものは……みんな、かな」
 最後だけ少し照れたように笑う。
 宮司が短く祝詞を唱える。
 次に司。
 声は落ち着いていたが、昨日よりわずかに硬い。
「水城司。帰る場所は、自分の部屋。大事なものは……家族です」
 そこでほんの一瞬だけ、涼花を見る。
 その目の強さに、司がどれだけ必死かが滲んでいた。
 昂夜は自分の番で、はっきりと名を告げる。
「昂夜。帰る場所は、俺の部屋。大事なものは……」
 そこでわずかに言葉を切る。  答えは簡単なはずなのに、なぜか胸の奥で引っかかる。
「……ここにいる連中だ」
 自分で言ってから、少しだけ苦く笑う。
 最後に涼花が前へ出る。
 細い指先が少し震えていた。
「水城涼花。帰る場所は、私の部屋。大事なものは……」
 そこで司の袖をちらりと見てから、涼花は小さく息を吸った。
「お兄ちゃん、です」
 司がわずかに目を見開く。
 壱太がその横で、少しだけ目を細めた。
 宮司の祝詞が、静かにその場を包む。  朝の風がひと筋だけ、白布の端を揺らした。
「ここから先です」
 宮司が言う。
「像を断つだけでは足りません。残っているものを返さねばならない」
 白布がゆっくりと外される。
 現れた鏡面は、昨日と同じように曇った金属の光を返していた。  何も映していないようでいて、何かを待っている気配だけがある。
「朔也さん」
 宮司が呼ぶ。
 朔也は一歩前へ出た。
「これに触れたら、何か見えるんですか」
 司が低く問う。
 朔也は少しだけ考えるようにしてから、「分かんね」と答えた。
「でも、何も映さなくていいって言えばいいんだろ」
 軽く聞こえるのに、その奥の集中は昨日までと違っていた。
 昂夜はその横顔を見つめる。
 大丈夫か、という問いを飲み込む。  大丈夫なはずがない。  それでも、この役目は朔也にしかできないのだ。
 宮司が塩と灰を混ぜたものを鏡の周囲へ撒き、短い詞を唱える。  その気配に合わせるように、朔也が鏡へ手を伸ばした。
 触れた瞬間、空気がほんのわずかに変わった。
 誰も声を出さない。
 朔也の指先が、鏡の縁をなぞる。  鏡面にはうっすらと、自分の輪郭が映っているはずなのに、どこか曖昧だった。
「……」
 朔也は少しだけ眉を寄せる。
「何か見えるのか」
 昂夜が低く問う。
「いや」
 返事は短い。
「でも、いるな」
 その一言に、司の肩がぴくりと揺れた。  涼花は息を止める。
「何が」
「像」
 朔也は鏡面から目を離さない。
「増えたやつが、残ってる」
 その言い方は、昨日までの軽さと違っていた。  本当に“見えている”わけではなく、そこに残っているものの手触りだけを掴んでいるような声。
「……返せるか」
 昂夜が聞く。
 朔也は少しだけ口を閉じたあと、鏡へ向かって静かに言った。
「もういい」
 朝の静かな境内に、その声だけがやけに近く落ちる。
「映さなくていい」
 もう一度、指先で鏡面をなぞる。
「返せ」
 その瞬間だった。
 涼花が小さく息を呑む。
「……っ」
 鏡面の奥で、何か黒い膜みたいなものが揺らいだ気がした。  煙でも、水でもない、形になりきらないもの。
 司が反射的に涼花の肩を抱く。
 壱太も息を詰めて見ていた。
 昂夜だけが、朔也から目を離さない。
 朔也の表情はほとんど変わらない。  けれど、その指先だけがわずかに強ばっていた。
「何もいらない」
 低く、今度は少しだけ強く言う。
「お前、映すな」
 鏡面が、ほんの一瞬だけ深く曇る。
 そこで宮司が祝詞を重ねた。  榊が振られ、白い紙垂が鳴る。
 空気がひとつ、きれいに切り替わった気がした。
 次の瞬間、鏡の曇りがすっと薄くなる。
 ただの古い銅鏡みたいな、鈍い光だけが残った。
「……」
 誰もすぐには喋らなかった。
 朔也がゆっくり手を離す。
 そこで初めて、肩がわずかに上下しているのに昂夜は気付いた。
「終わった、のか」
 壱太が小さく聞く。
 宮司は鏡面を見つめたまま、しばらくして頷いた。
「少なくとも、像は返りました」
 司が涼花を見る。
「どう?」
 涼花は少しだけ瞬きをして、それから恐る恐る近くの金具に目を向けた。  小さく自分の顔が映る。
 少し、間。
「……大丈夫、かも」
 かすれた声だった。
「今は、見返してこない」
 司の顔から、張りつめていたものが少しだけほどける。  昂夜も胸の奥で、ようやく息を吐いた。
 朔也は何も言わず、少しだけ首を回した。
 その姿を見た昂夜は、ひどく静かな気持ちで思う。
 この人は、やっぱり平気なわけじゃない。
 ただ、平気に見えるだけで。  その代わりに、別の何かを払っている。
 宮司は最後に鏡を再び白布で包み、静かに告げた。
「これは神社で封じます。もう、誰にも映さぬように」
 誰も異論はなかった。
 朝の光は変わらず明るい。  それなのに、全員がほんの少しだけ疲れていた。
 それでも。
 涼花がようやくまともに息をしているのを見て、司は目を伏せたまま小さく言う。
「……助かりました」
 それが誰に向けた言葉なのか、曖昧なままだった。
 昂夜は隣に立つ朔也を見た。
 朔也はいつもの無頓着そうな顔に戻りかけていたが、ほんの少しだけ目の焦点が遠い。
「おい」
 低く呼ぶと、朔也は「ん」と返した。
「帰ったら少し休め」
「なんで」
「いいから」
 そこでようやく、朔也は少しだけ笑った。
「……分かったよ」
 その返事を聞いて、昂夜もほんのわずかに肩の力を抜いた。