部屋を出てから、四人はすぐに別れた。
悠長に揃って動いている時間はない。 涼花の症状が進んでいる以上、できることをそれぞれ探すしかなかった。
昂夜は神社へ向かった。 壱太は涼花に連絡を入れ、会って話を聞く役を引き受けた。 司は鏡にまつわる情報を洗い直し、入手経路や過去の持ち主の話を整理する。 朔也は、昂夜に止められた通り勝手なことはせず、配信部屋で鏡と距離を取りながら待つことになった。
もっとも、その“待つ”という役目が、朔也にとって一番向いていないことは、全員が分かっていた。
壱太が涼花と会ったのは、その日の夜だった。
駅前の喧騒から少し離れた、小さな公園のベンチ。 司がいると涼花が余計に気を張るだろうということで、壱太がひとりで行くことになった。
涼花は昼間より少し落ち着いて見えたが、やはり目が休まっていなかった。 街灯の下でも、何度かガラス張りの自販機やスマホの黒い画面から視線を逸らしている。
「ごめんね、急に呼んじゃって」
「全然いいよー。むしろ司だとさ、今たぶん心配しすぎて逆に話しにくいでしょ」
壱太がそう言うと、涼花は少しだけ苦笑した。
「……うん、ちょっとだけ」
「だよね」
壱太はベンチに腰掛けながら、できるだけ普段通りの調子を崩さなかった。
「司、顔にはあんま出さないけど、涼花ちゃんのことだと急に過保護になるし」
「知ってる」
その返事は少しだけ柔らかかった。
「お兄ちゃん、昔からそうなんだよね」
「でも今回、ほんとに心配してるからさ」
壱太は続ける。
「だから、できるだけ詳しく聞きたい。怖がらせたいわけじゃなくて、止める方法探したいから」
涼花はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「最初は、水とかガラスに映る自分が変な感じするだけだったの」
ゆっくり話し始める。
「でも今は、見えた時だけじゃなくて、見てない時も気配があるっていうか……こっちが見られてる感じが残るの」
「どんな時が一番強い?」
「暗いガラスとか、水面とか……あと、スマホ切った時の画面」
壱太はその言葉を逃さず覚えていく。
「夢は?」
「まだ、はっきりしたのはない」
涼花は少しだけ眉を寄せる。
「でも、寝る前に洗面所の鏡見るのがすごく嫌」
「それは見ない方がいいかもね」
「うん……今はタオルかけてる」
その答えに、壱太は少しだけ息を吐いた。 少なくとも、自分で避けようとしているぶん、まだ呪いに完全に引き込まれてはいない。
「事故の時は?」
「ビルのガラス」
涼花の声が少し小さくなる。
「一瞬だけ、向こうの私が先に笑った気がして……それで足が止まっちゃった」
壱太は黙って聞いていた。
怖いね、と軽く返すこともできた。 けれど、それではたぶん駄目だと分かっていた。
「分かった」
壱太は静かに言う。
「じゃあ今は、映るものはなるべく見ない。ひとりにならない。特に夜、窓とか鏡のある場所に長くいない。これ守って」
「……うん」
「あと、司にはちゃんと怖いって言っていいからね」
涼花が目を丸くする。
「たぶん今、司は“なんとかしなきゃ”で頭いっぱいだから、涼花ちゃんが平気なふりすると逆に空回りする」
その言葉に、涼花は少しだけ視線を落とした。
「……迷惑かけたくないだけなんだけどな」
「それを言うと、あの人たぶんもっと面倒になるよ」
壱太が小さく笑う。
「でもまあ、そこも含めてお兄ちゃんなんでしょ」
涼花もつられるように笑った。 ほんの少しだけ、表情がやわらぐ。
「壱太さんって、思ったよりちゃんとしてるんだね」
「ひどくない?」
「いつもふわふわしてるから」
「ふわふわはしてるけど、してない時もあるんだよー」
その軽口で、涼花の肩の力が少し抜ける。 壱太はそれを見て、ようやく胸の内で小さく安心した。
その頃、昂夜は神社の社務所で神職と向き合っていた。
前回チャーミーの件で世話になった神主ではなく、今回は年配の宮司も同席している。 鏡の性質が、単純な供養だけでは済まないと判断したからだ。
「鏡そのものが呪われている、というより」
昂夜が慎重に言葉を選びながら話す。
「見た人間の認識に入り込んで、それが周囲の映り込みにも滲んでいる感じです」
宮司は静かに頷いた。
「鏡は古来、境界に触れやすいものですから」
「境界、ですか」
「こちらと向こう。現と影。己と己でないもの」
穏やかな口調のまま、言葉だけが芯を持って落ちる。
「それが曖昧になれば、覗いた者は自分の輪郭を少しずつ削られます」
昂夜は黙って聞いていた。
「なら、解除するにはどうすればいいんですか」
宮司は少しだけ間を置いた。
「まず、これ以上鏡とのつながりを深めないことです」
「映り込みを断つ」
「ええ」
宮司は頷く。
「鏡面そのものだけでなく、反射するもの全般を避ける。特に夜の水、暗いガラス、磨かれた金属。そうしたものに呪いが仮の姿を借りて現れる場合があります」
やはり、涼花の症状と一致する。
「その上で、鏡本体は一晩、何も映らぬ状態に置く」
「何も映らぬ状態?」
「白布で覆い、暗所に封じるのです」
宮司は続ける。
「鏡が見せる像は、見られることで力を持つ。ならば、まずは飢えさせる。断つ。反射を絶つ」
昂夜は頷いた。
「そのあとに儀式を?」
「見てしまった者が、己の名と己の在り処を名乗る」
宮司の声は淡々としている。
「鏡の中の像ではなく、こちら側の己が本物であると宣言するのです」
「……」
昂夜はその言葉を飲み込んだ。
それだけでは終わらない気がしたからだ。
「それでも、像が残る場合は?」
宮司はそこで初めて、わずかに昂夜の目を見た。
「その時は、鏡そのものに干渉せねばなりません」
「どうやって」
「像を映さぬものに戻す」
昂夜はゆっくり息を吐いた。
それが、朔也の役目になるのだと直感した。
夜が更ける頃、四人は再び配信部屋に集まっていた。
鏡は白い布にくるまれ、部屋の隅に置かれている。 ライトは落とされ、窓も厚いカーテンで閉ざされていた。映り込みを極力減らすためだ。
壱太は涼花から聞いた内容をまとめ、司に伝えていた。 司はそれをノートに落とし込みながらも、何度も拳を握り直している。
昂夜は神社で聞いてきた内容を全員に説明した。
「まず今夜は、鏡を一晩封じる」
低い声が部屋に落ちる。
「白布で覆って、何も映らない状態にする。見た人間は今夜から反射物を避ける」
「涼花ちゃんにも伝えるよ」
壱太が頷く。
「風呂場も洗面所も、なるべくひとりで使わないようにって言っとく」
「頼む」
昂夜は続ける。
「明日、神社で儀式をする。鏡を見たやつが順番に、自分の名前、自分の帰る場所、大事なものを口にする」
「……自分がこっち側だって、宣言するってことか」
司が低く言う。
「そういうことだ」
「じゃあ、それで終わるんですか」
司の問いは鋭い。
昂夜は少しだけ視線を動かし、最後に朔也を見た。
「終わらないかもしれない」
「……」
「最後に、鏡そのものを“何も映さないもの”に戻す必要がある」
朔也はソファの背に寄りかかったまま、静かに聞いていた。
「それ、俺?」
「たぶんお前しか無理だ」
昂夜ははっきり言った。
「この鏡は像を求める呪物だ。普通の人間が触れれば、また何かを映す。けどお前は違う」
司も壱太も、そこで黙る。
朔也の体質について、詳しいことを全部知っているわけではない。 それでも、呪物への効き方が違うことだけは全員分かっていた。
「鏡の中に残ってる偽の像を、お前が空に戻す」
昂夜の声は静かだった。
「何も映さなくていいって、鏡に認めさせる」
しばらく沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは、朔也だった。
「分かった」
驚くほど、素直な返事だった。
司がその横顔を見る。 責めたい気持ちはまだ残っている。 けれど今は、涼花を助ける方が先だ。
「……絶対に失敗しないでください」
低く言う。
「これ以上、涼花に何かあったら」
そこまで言って、言葉を切る。
脅しにするつもりはなかった。 ただ、本音だった。
朔也は小さく頷いた。
「分かってる」
それも、軽くはなかった。
部屋の隅の鏡は、布の下で黙っている。
何も映していないはずなのに、その存在だけがまだ濃い。
昂夜はその方角を見たまま、小さく息を吐いた。
「今夜を越えれば、少しは進む」
自分に言い聞かせるみたいに言う。
壱太が頷き、司はスマホを手に取って涼花へ連絡を入れ始める。 朔也だけがソファに座ったまま、白布に覆われた鏡をじっと見ていた。
その目には、いつもの無頓着さとは少し違う、静かな集中があった。
明日、あれを終わらせる。
全員がそれぞれ違う形で、その一点を見ていた。
悠長に揃って動いている時間はない。 涼花の症状が進んでいる以上、できることをそれぞれ探すしかなかった。
昂夜は神社へ向かった。 壱太は涼花に連絡を入れ、会って話を聞く役を引き受けた。 司は鏡にまつわる情報を洗い直し、入手経路や過去の持ち主の話を整理する。 朔也は、昂夜に止められた通り勝手なことはせず、配信部屋で鏡と距離を取りながら待つことになった。
もっとも、その“待つ”という役目が、朔也にとって一番向いていないことは、全員が分かっていた。
壱太が涼花と会ったのは、その日の夜だった。
駅前の喧騒から少し離れた、小さな公園のベンチ。 司がいると涼花が余計に気を張るだろうということで、壱太がひとりで行くことになった。
涼花は昼間より少し落ち着いて見えたが、やはり目が休まっていなかった。 街灯の下でも、何度かガラス張りの自販機やスマホの黒い画面から視線を逸らしている。
「ごめんね、急に呼んじゃって」
「全然いいよー。むしろ司だとさ、今たぶん心配しすぎて逆に話しにくいでしょ」
壱太がそう言うと、涼花は少しだけ苦笑した。
「……うん、ちょっとだけ」
「だよね」
壱太はベンチに腰掛けながら、できるだけ普段通りの調子を崩さなかった。
「司、顔にはあんま出さないけど、涼花ちゃんのことだと急に過保護になるし」
「知ってる」
その返事は少しだけ柔らかかった。
「お兄ちゃん、昔からそうなんだよね」
「でも今回、ほんとに心配してるからさ」
壱太は続ける。
「だから、できるだけ詳しく聞きたい。怖がらせたいわけじゃなくて、止める方法探したいから」
涼花はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「最初は、水とかガラスに映る自分が変な感じするだけだったの」
ゆっくり話し始める。
「でも今は、見えた時だけじゃなくて、見てない時も気配があるっていうか……こっちが見られてる感じが残るの」
「どんな時が一番強い?」
「暗いガラスとか、水面とか……あと、スマホ切った時の画面」
壱太はその言葉を逃さず覚えていく。
「夢は?」
「まだ、はっきりしたのはない」
涼花は少しだけ眉を寄せる。
「でも、寝る前に洗面所の鏡見るのがすごく嫌」
「それは見ない方がいいかもね」
「うん……今はタオルかけてる」
その答えに、壱太は少しだけ息を吐いた。 少なくとも、自分で避けようとしているぶん、まだ呪いに完全に引き込まれてはいない。
「事故の時は?」
「ビルのガラス」
涼花の声が少し小さくなる。
「一瞬だけ、向こうの私が先に笑った気がして……それで足が止まっちゃった」
壱太は黙って聞いていた。
怖いね、と軽く返すこともできた。 けれど、それではたぶん駄目だと分かっていた。
「分かった」
壱太は静かに言う。
「じゃあ今は、映るものはなるべく見ない。ひとりにならない。特に夜、窓とか鏡のある場所に長くいない。これ守って」
「……うん」
「あと、司にはちゃんと怖いって言っていいからね」
涼花が目を丸くする。
「たぶん今、司は“なんとかしなきゃ”で頭いっぱいだから、涼花ちゃんが平気なふりすると逆に空回りする」
その言葉に、涼花は少しだけ視線を落とした。
「……迷惑かけたくないだけなんだけどな」
「それを言うと、あの人たぶんもっと面倒になるよ」
壱太が小さく笑う。
「でもまあ、そこも含めてお兄ちゃんなんでしょ」
涼花もつられるように笑った。 ほんの少しだけ、表情がやわらぐ。
「壱太さんって、思ったよりちゃんとしてるんだね」
「ひどくない?」
「いつもふわふわしてるから」
「ふわふわはしてるけど、してない時もあるんだよー」
その軽口で、涼花の肩の力が少し抜ける。 壱太はそれを見て、ようやく胸の内で小さく安心した。
その頃、昂夜は神社の社務所で神職と向き合っていた。
前回チャーミーの件で世話になった神主ではなく、今回は年配の宮司も同席している。 鏡の性質が、単純な供養だけでは済まないと判断したからだ。
「鏡そのものが呪われている、というより」
昂夜が慎重に言葉を選びながら話す。
「見た人間の認識に入り込んで、それが周囲の映り込みにも滲んでいる感じです」
宮司は静かに頷いた。
「鏡は古来、境界に触れやすいものですから」
「境界、ですか」
「こちらと向こう。現と影。己と己でないもの」
穏やかな口調のまま、言葉だけが芯を持って落ちる。
「それが曖昧になれば、覗いた者は自分の輪郭を少しずつ削られます」
昂夜は黙って聞いていた。
「なら、解除するにはどうすればいいんですか」
宮司は少しだけ間を置いた。
「まず、これ以上鏡とのつながりを深めないことです」
「映り込みを断つ」
「ええ」
宮司は頷く。
「鏡面そのものだけでなく、反射するもの全般を避ける。特に夜の水、暗いガラス、磨かれた金属。そうしたものに呪いが仮の姿を借りて現れる場合があります」
やはり、涼花の症状と一致する。
「その上で、鏡本体は一晩、何も映らぬ状態に置く」
「何も映らぬ状態?」
「白布で覆い、暗所に封じるのです」
宮司は続ける。
「鏡が見せる像は、見られることで力を持つ。ならば、まずは飢えさせる。断つ。反射を絶つ」
昂夜は頷いた。
「そのあとに儀式を?」
「見てしまった者が、己の名と己の在り処を名乗る」
宮司の声は淡々としている。
「鏡の中の像ではなく、こちら側の己が本物であると宣言するのです」
「……」
昂夜はその言葉を飲み込んだ。
それだけでは終わらない気がしたからだ。
「それでも、像が残る場合は?」
宮司はそこで初めて、わずかに昂夜の目を見た。
「その時は、鏡そのものに干渉せねばなりません」
「どうやって」
「像を映さぬものに戻す」
昂夜はゆっくり息を吐いた。
それが、朔也の役目になるのだと直感した。
夜が更ける頃、四人は再び配信部屋に集まっていた。
鏡は白い布にくるまれ、部屋の隅に置かれている。 ライトは落とされ、窓も厚いカーテンで閉ざされていた。映り込みを極力減らすためだ。
壱太は涼花から聞いた内容をまとめ、司に伝えていた。 司はそれをノートに落とし込みながらも、何度も拳を握り直している。
昂夜は神社で聞いてきた内容を全員に説明した。
「まず今夜は、鏡を一晩封じる」
低い声が部屋に落ちる。
「白布で覆って、何も映らない状態にする。見た人間は今夜から反射物を避ける」
「涼花ちゃんにも伝えるよ」
壱太が頷く。
「風呂場も洗面所も、なるべくひとりで使わないようにって言っとく」
「頼む」
昂夜は続ける。
「明日、神社で儀式をする。鏡を見たやつが順番に、自分の名前、自分の帰る場所、大事なものを口にする」
「……自分がこっち側だって、宣言するってことか」
司が低く言う。
「そういうことだ」
「じゃあ、それで終わるんですか」
司の問いは鋭い。
昂夜は少しだけ視線を動かし、最後に朔也を見た。
「終わらないかもしれない」
「……」
「最後に、鏡そのものを“何も映さないもの”に戻す必要がある」
朔也はソファの背に寄りかかったまま、静かに聞いていた。
「それ、俺?」
「たぶんお前しか無理だ」
昂夜ははっきり言った。
「この鏡は像を求める呪物だ。普通の人間が触れれば、また何かを映す。けどお前は違う」
司も壱太も、そこで黙る。
朔也の体質について、詳しいことを全部知っているわけではない。 それでも、呪物への効き方が違うことだけは全員分かっていた。
「鏡の中に残ってる偽の像を、お前が空に戻す」
昂夜の声は静かだった。
「何も映さなくていいって、鏡に認めさせる」
しばらく沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは、朔也だった。
「分かった」
驚くほど、素直な返事だった。
司がその横顔を見る。 責めたい気持ちはまだ残っている。 けれど今は、涼花を助ける方が先だ。
「……絶対に失敗しないでください」
低く言う。
「これ以上、涼花に何かあったら」
そこまで言って、言葉を切る。
脅しにするつもりはなかった。 ただ、本音だった。
朔也は小さく頷いた。
「分かってる」
それも、軽くはなかった。
部屋の隅の鏡は、布の下で黙っている。
何も映していないはずなのに、その存在だけがまだ濃い。
昂夜はその方角を見たまま、小さく息を吐いた。
「今夜を越えれば、少しは進む」
自分に言い聞かせるみたいに言う。
壱太が頷き、司はスマホを手に取って涼花へ連絡を入れ始める。 朔也だけがソファに座ったまま、白布に覆われた鏡をじっと見ていた。
その目には、いつもの無頓着さとは少し違う、静かな集中があった。
明日、あれを終わらせる。
全員がそれぞれ違う形で、その一点を見ていた。
