翌朝の光が、コンビニのガラスに白く反射していた。
まだ通勤客の流れが途切れきらない時間帯で、店内には入れ替わるように人が出入りしている。レジ前にはコーヒーを買う会社員、雑誌棚の前には学生、奥では配送のケースを引きずる音。
その中に立つ司だけが、妙に浮いて見えた。
仕事に向かう前の整った服装のまま、入口脇のガラスから少し距離を取るようにして立っている。いつも通り背筋は伸びているのに、目だけが明らかに硬かった。
レジの奥から出てきた朔也が、最初にそれに気付いた。
「……何」
声はいつも通りだった。
司はすぐには答えない。 数秒だけ、その顔を見る。
平気そうな顔。 何事もなかったみたいな顔。
それを見た瞬間、胸の奥で何かがまたざらりと逆撫でされた。
「少し、話がある」
低く言う。
朔也はわずかに首を傾げた。
「今?」
「今」
その返答に揺らぎはない。
レジにいた先輩らしい店員が「朔也くん、五分だけならいいよ」と気を利かせたのか、奥を指した。朔也は小さく息を吐いてから、「すぐ戻る」とだけ言ってバックヤード横の狭い通路へ向かった。
司もそのあとを追う。
薄い壁一枚向こうでは、電子音と店内放送がいつも通りに流れていた。 それがかえって、この場所の温度をおかしくしている。
「で」
先に口を開いたのは朔也だった。
「何の話」
司は一瞬だけ黙る。
頭の中には、昨夜の涼花の顔が浮かんでいた。 無理やり笑っていた口元。 窓ガラスを見ないようにしていた視線。 腕の擦り傷。
それと同時に、自分が鏡を覗き込んだ時の感覚も蘇る。
少し目が疲れただけ。 そう片づけた自分。 そのまま撮影を続けた自分。
あの時点で、おかしいと気付けたはずだった。 止められたかもしれなかった。
分かっている。 本当は、朔也だけが悪いわけじゃない。
それでも。
「……妹に異変が出てる」
言葉は、思っていたより低く出た。
朔也が少しだけ目を細める。
「鏡を見た日からです。ガラスとか水面とか、映り込みに映る自分に見られてる感じがするって」
「……」
「それで、事故にも遭いかけた」
そこで初めて、朔也の表情からほんのわずかに軽さが消えた。
「怪我したのか」
「軽傷です」
すぐに返す。
軽傷。 そう言った瞬間、自分の中にまた苛立ちが走る。 軽傷で済んだから何だ。そういう問題じゃない。
「で」
朔也が短く問う。
「それが、鏡のせいだって?」
「そうです」
今度は迷わなかった。
「他に何があるんですか」
「いや、でも」
その「でも」が、司の理性をまた削った。
「でも、何です」
声が鋭くなる。
「面白がって持ち込んで、配信で見せて、それで何か起きても“でも”で済ませるつもりですか」
朔也は少しだけ黙った。
それでも、すぐに反発するように口を開く。
「俺だけのせいみたいに言うなよ」
その一言が、胸の奥に真っ直ぐ刺さる。
司の表情が、一瞬で固くなった。
「……分かってますよ」
押し殺した声だった。
「分かってます」
自分でも、驚くくらい低い。
「止めなかったのは俺です」
朔也がわずかに目を動かす。
「最初に見た時点で、少しおかしかった。なのに仕事を優先して、そのまま配信を続けた」
そこまで言って、喉が少しだけ詰まる。
「気付くべきだったんです。あの時点で」
怒りと自己嫌悪が、きれいに分かれてくれない。 どちらも同じ熱を持って、胸の内側で混ざっている。
「分かってるから余計に腹が立つんですよ」
朔也は珍しく、すぐには返さなかった。
司はその沈黙に畳みかけるみたいに言う。
「今日は仕事が終わったら来てください」
「……どこに」
「配信部屋です」
きっぱりと告げる。
「昂夜さんと壱太にも話します。あの鏡をどうにかする方法を探る」
「逃げないでくださいね」
最後の一言は、ほとんど通告だった。
朔也は数秒だけ司を見たあと、小さく息を吐いた。
「逃げねぇよ」
それだけ言う。
軽さは、もうあまりなかった。
司はそれ以上何も言わなかった。 言えばたぶん、また余計なものまで出る。
そのまま踵を返す。
店内へ戻る直前、朔也が背中に向かって声を投げた。
「……妹、大丈夫なのか」
司は振り返らない。
「大丈夫にするために来たんです」
それだけ残して、コンビニを出た。
朝の外気は冷たく、ガラスの反射はやけに眩しかった。
夕方、配信部屋に集まった時には、空気の重さが最初から違っていた。
昂夜はすでに来ていて、パソコンの前に座っていた。壱太は少し遅れて入ってきた司の顔を見て、珍しく冗談を言わなかった。
「……司、大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
即答だった。
それだけで、壱太ももう軽く流せないと察したらしい。
「涼花ちゃんのこと?」
司は短く頷く。
「鏡を見た日から、映り込みに見られてる感じがするそうです。昨日、事故にも遭いかけた」
部屋が静まる。
昂夜はすぐに視線を落とした。 それが驚きではなく、予感の確認に近い表情だったのが、司には分かった。
「……やっぱりか」
低く言う。
「俺もそう思いました」
司は返した。
「だから今日、朝のうちに朔也に話をしました」
「話したって」
壱太が聞き返す。
「かなり、きつめに」
その言い方でだいたい伝わったらしい。 壱太は「そっか」とだけ言って、少しだけ眉を寄せた。
そのタイミングで、ドアが開く。
朔也だった。
バイト帰りのままらしいラフな格好。いつもと同じように見えるのに、部屋の空気だけが明らかに違う。
「来た」
壱太が言う。
朔也は「見れば分かる」とでも言いたげな顔で中へ入った。
司はその姿を見た瞬間、朝押し込めたものがまた胸の奥でざらつくのを感じた。
「……朔也」
呼ぶ声が低い。
朔也は答えない。
ただ、司の正面に立つ。
「涼花のことは聞いたよな」
「聞いた」
「それで何も思わないんですか」
「思ってる」
「そうは見えませんけど」
声が少しだけ上ずる。
昂夜が椅子から立ち上がる気配がした。壱太も二人の間を見ている。
「あなたが平気でも、周りは平気じゃないんですよ」
司は、はっきりと言い切った。
「自分に何も起きないからって、軽く見ないでください」
朔也が口を開きかける。 けれど、言葉が続かない。
その反応がまた、司の中の熱を押し上げた。
「最初からそうだったじゃないですか」
一歩、近づく。
「何が起きても、自分には関係ないみたいな顔して」
「司」
昂夜が低く呼ぶ。
でも止まれなかった。
「……っ」
胸ぐらに手を伸ばしかけた、その瞬間。
「待って!」
壱太が間に割って入った。
両手で司を押しとどめるようにして立つ。
「司、だめ」
「どいて、壱太」
声が自分でも驚くほど冷たかった。
「今それやっても意味ないって!」
「分かってます」
「分かってない顔してる」
壱太の言い方はやわらかいのに、珍しくまっすぐだった。
「司が怒るのも分かるよ。でも今は責めるより先に、涼花ちゃんをどうするか考えよ」
涼花の名前が出た瞬間、司の肩から少しだけ力が抜けた。
その隙に、昂夜が静かに口を開く。
「今回だけは」
視線は朔也へ向いたままだった。
「司の言う通りだ」
短い一言。 けれど、はっきりしていた。
朔也は黙る。
いつもなら何か返すはずなのに、今回は返せない。
「鏡を持ち込んだのはお前だ」
昂夜が続ける。
「止めきれなかった俺たちにも責任はある。でも、最初に軽く見たのは確かだろ」
「……」
「今回は、さすがに責任あると思え」
朔也はしばらく黙ったまま立っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……悪かった」
その声は、思っていたよりずっと小さかった。
司はまだ怒りを完全には引っ込められなかったが、それでもさっきみたいに手が出そうになる熱は少しだけ引いた。
「じゃあ」
壱太が空気を繋ぐように言う。
「ここからは、どうやって止めるか考えよ」
昂夜が頷く。
「司、涼花ちゃんの症状を整理してくれ。いつから、どこで、何に対して強く出るのか」
「……分かりました」
「壱太は、涼花ちゃんの相手を頼めるか」
「できるよ」
壱太はすぐに答えた。
「司が行くと、たぶん涼花ちゃん無理して元気なふりしそうだし」
司は一瞬何か言いかけて、結局黙る。 否定できなかった。
「朔也は」
昂夜の声が少しだけ低くなる。
「鏡の入手経路、譲ってきたやつ、その家の話。思い出せる限り全部出せ」
「了解」
今度の朔也は、素直だった。
やることが決まると、部屋の空気が少しずつ変わる。
険悪さが消えたわけではない。 司の中の怒りも、自己嫌悪も、まだ残っている。
それでも今は、それを別の方向へ使うしかない。
部屋の隅に置かれた鏡は、布をかけられたまま黙ってそこにある。
その存在だけが、全員の意識を引っ張っていた。
「……絶対、なんとかする」
司がぽつりと呟く。
それは誰に聞かせるでもない、自分への言葉だった。
昂夜はそれを聞きながら、静かに頷いた。
まだ間に合う。 そう信じるしかなかった。
まだ通勤客の流れが途切れきらない時間帯で、店内には入れ替わるように人が出入りしている。レジ前にはコーヒーを買う会社員、雑誌棚の前には学生、奥では配送のケースを引きずる音。
その中に立つ司だけが、妙に浮いて見えた。
仕事に向かう前の整った服装のまま、入口脇のガラスから少し距離を取るようにして立っている。いつも通り背筋は伸びているのに、目だけが明らかに硬かった。
レジの奥から出てきた朔也が、最初にそれに気付いた。
「……何」
声はいつも通りだった。
司はすぐには答えない。 数秒だけ、その顔を見る。
平気そうな顔。 何事もなかったみたいな顔。
それを見た瞬間、胸の奥で何かがまたざらりと逆撫でされた。
「少し、話がある」
低く言う。
朔也はわずかに首を傾げた。
「今?」
「今」
その返答に揺らぎはない。
レジにいた先輩らしい店員が「朔也くん、五分だけならいいよ」と気を利かせたのか、奥を指した。朔也は小さく息を吐いてから、「すぐ戻る」とだけ言ってバックヤード横の狭い通路へ向かった。
司もそのあとを追う。
薄い壁一枚向こうでは、電子音と店内放送がいつも通りに流れていた。 それがかえって、この場所の温度をおかしくしている。
「で」
先に口を開いたのは朔也だった。
「何の話」
司は一瞬だけ黙る。
頭の中には、昨夜の涼花の顔が浮かんでいた。 無理やり笑っていた口元。 窓ガラスを見ないようにしていた視線。 腕の擦り傷。
それと同時に、自分が鏡を覗き込んだ時の感覚も蘇る。
少し目が疲れただけ。 そう片づけた自分。 そのまま撮影を続けた自分。
あの時点で、おかしいと気付けたはずだった。 止められたかもしれなかった。
分かっている。 本当は、朔也だけが悪いわけじゃない。
それでも。
「……妹に異変が出てる」
言葉は、思っていたより低く出た。
朔也が少しだけ目を細める。
「鏡を見た日からです。ガラスとか水面とか、映り込みに映る自分に見られてる感じがするって」
「……」
「それで、事故にも遭いかけた」
そこで初めて、朔也の表情からほんのわずかに軽さが消えた。
「怪我したのか」
「軽傷です」
すぐに返す。
軽傷。 そう言った瞬間、自分の中にまた苛立ちが走る。 軽傷で済んだから何だ。そういう問題じゃない。
「で」
朔也が短く問う。
「それが、鏡のせいだって?」
「そうです」
今度は迷わなかった。
「他に何があるんですか」
「いや、でも」
その「でも」が、司の理性をまた削った。
「でも、何です」
声が鋭くなる。
「面白がって持ち込んで、配信で見せて、それで何か起きても“でも”で済ませるつもりですか」
朔也は少しだけ黙った。
それでも、すぐに反発するように口を開く。
「俺だけのせいみたいに言うなよ」
その一言が、胸の奥に真っ直ぐ刺さる。
司の表情が、一瞬で固くなった。
「……分かってますよ」
押し殺した声だった。
「分かってます」
自分でも、驚くくらい低い。
「止めなかったのは俺です」
朔也がわずかに目を動かす。
「最初に見た時点で、少しおかしかった。なのに仕事を優先して、そのまま配信を続けた」
そこまで言って、喉が少しだけ詰まる。
「気付くべきだったんです。あの時点で」
怒りと自己嫌悪が、きれいに分かれてくれない。 どちらも同じ熱を持って、胸の内側で混ざっている。
「分かってるから余計に腹が立つんですよ」
朔也は珍しく、すぐには返さなかった。
司はその沈黙に畳みかけるみたいに言う。
「今日は仕事が終わったら来てください」
「……どこに」
「配信部屋です」
きっぱりと告げる。
「昂夜さんと壱太にも話します。あの鏡をどうにかする方法を探る」
「逃げないでくださいね」
最後の一言は、ほとんど通告だった。
朔也は数秒だけ司を見たあと、小さく息を吐いた。
「逃げねぇよ」
それだけ言う。
軽さは、もうあまりなかった。
司はそれ以上何も言わなかった。 言えばたぶん、また余計なものまで出る。
そのまま踵を返す。
店内へ戻る直前、朔也が背中に向かって声を投げた。
「……妹、大丈夫なのか」
司は振り返らない。
「大丈夫にするために来たんです」
それだけ残して、コンビニを出た。
朝の外気は冷たく、ガラスの反射はやけに眩しかった。
夕方、配信部屋に集まった時には、空気の重さが最初から違っていた。
昂夜はすでに来ていて、パソコンの前に座っていた。壱太は少し遅れて入ってきた司の顔を見て、珍しく冗談を言わなかった。
「……司、大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
即答だった。
それだけで、壱太ももう軽く流せないと察したらしい。
「涼花ちゃんのこと?」
司は短く頷く。
「鏡を見た日から、映り込みに見られてる感じがするそうです。昨日、事故にも遭いかけた」
部屋が静まる。
昂夜はすぐに視線を落とした。 それが驚きではなく、予感の確認に近い表情だったのが、司には分かった。
「……やっぱりか」
低く言う。
「俺もそう思いました」
司は返した。
「だから今日、朝のうちに朔也に話をしました」
「話したって」
壱太が聞き返す。
「かなり、きつめに」
その言い方でだいたい伝わったらしい。 壱太は「そっか」とだけ言って、少しだけ眉を寄せた。
そのタイミングで、ドアが開く。
朔也だった。
バイト帰りのままらしいラフな格好。いつもと同じように見えるのに、部屋の空気だけが明らかに違う。
「来た」
壱太が言う。
朔也は「見れば分かる」とでも言いたげな顔で中へ入った。
司はその姿を見た瞬間、朝押し込めたものがまた胸の奥でざらつくのを感じた。
「……朔也」
呼ぶ声が低い。
朔也は答えない。
ただ、司の正面に立つ。
「涼花のことは聞いたよな」
「聞いた」
「それで何も思わないんですか」
「思ってる」
「そうは見えませんけど」
声が少しだけ上ずる。
昂夜が椅子から立ち上がる気配がした。壱太も二人の間を見ている。
「あなたが平気でも、周りは平気じゃないんですよ」
司は、はっきりと言い切った。
「自分に何も起きないからって、軽く見ないでください」
朔也が口を開きかける。 けれど、言葉が続かない。
その反応がまた、司の中の熱を押し上げた。
「最初からそうだったじゃないですか」
一歩、近づく。
「何が起きても、自分には関係ないみたいな顔して」
「司」
昂夜が低く呼ぶ。
でも止まれなかった。
「……っ」
胸ぐらに手を伸ばしかけた、その瞬間。
「待って!」
壱太が間に割って入った。
両手で司を押しとどめるようにして立つ。
「司、だめ」
「どいて、壱太」
声が自分でも驚くほど冷たかった。
「今それやっても意味ないって!」
「分かってます」
「分かってない顔してる」
壱太の言い方はやわらかいのに、珍しくまっすぐだった。
「司が怒るのも分かるよ。でも今は責めるより先に、涼花ちゃんをどうするか考えよ」
涼花の名前が出た瞬間、司の肩から少しだけ力が抜けた。
その隙に、昂夜が静かに口を開く。
「今回だけは」
視線は朔也へ向いたままだった。
「司の言う通りだ」
短い一言。 けれど、はっきりしていた。
朔也は黙る。
いつもなら何か返すはずなのに、今回は返せない。
「鏡を持ち込んだのはお前だ」
昂夜が続ける。
「止めきれなかった俺たちにも責任はある。でも、最初に軽く見たのは確かだろ」
「……」
「今回は、さすがに責任あると思え」
朔也はしばらく黙ったまま立っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……悪かった」
その声は、思っていたよりずっと小さかった。
司はまだ怒りを完全には引っ込められなかったが、それでもさっきみたいに手が出そうになる熱は少しだけ引いた。
「じゃあ」
壱太が空気を繋ぐように言う。
「ここからは、どうやって止めるか考えよ」
昂夜が頷く。
「司、涼花ちゃんの症状を整理してくれ。いつから、どこで、何に対して強く出るのか」
「……分かりました」
「壱太は、涼花ちゃんの相手を頼めるか」
「できるよ」
壱太はすぐに答えた。
「司が行くと、たぶん涼花ちゃん無理して元気なふりしそうだし」
司は一瞬何か言いかけて、結局黙る。 否定できなかった。
「朔也は」
昂夜の声が少しだけ低くなる。
「鏡の入手経路、譲ってきたやつ、その家の話。思い出せる限り全部出せ」
「了解」
今度の朔也は、素直だった。
やることが決まると、部屋の空気が少しずつ変わる。
険悪さが消えたわけではない。 司の中の怒りも、自己嫌悪も、まだ残っている。
それでも今は、それを別の方向へ使うしかない。
部屋の隅に置かれた鏡は、布をかけられたまま黙ってそこにある。
その存在だけが、全員の意識を引っ張っていた。
「……絶対、なんとかする」
司がぽつりと呟く。
それは誰に聞かせるでもない、自分への言葉だった。
昂夜はそれを聞きながら、静かに頷いた。
まだ間に合う。 そう信じるしかなかった。
