怪異、お持ち帰り注意

 その日からだった。
 最初は、本当に些細な違和感だった。
 バイト先の花屋で、朝一番に水替えをしていた時。銀色のバケツに張った水の表面に、自分の顔が揺れて映った。ただそれだけなのに、涼花は思わず手を止めた。
 なんだか、見られている気がした。
 もちろん、水面に映っているのは自分だ。そんなことは分かっている。けれど、しゃがみ込んだ自分よりも先に、水面の向こうの自分がこちらを見上げたような気がしたのだ。
「……やだな」
 小さく呟いて、すぐに首を振る。
 寝不足かもしれない。  昨日ちょっと嫌な配信を見たから、そのせいかもしれない。
 そう思って流した。
 だが、その違和感は消えなかった。
 店のショーウィンドウに映る自分。  レジ横のガラスケースにぼんやり重なる横顔。  ラッピング用の透明フィルムに滲む輪郭。  スマホの黒い画面。
 ふとした瞬間に映り込む自分が、どうにも落ち着かない。
 目が合った気がする。
 見返した途端には、ただの自分に戻る。  それなのに、一瞬だけ向こうが先に気付いていたような妙な感覚だけが残る。
 涼花は最初、それを誰にも言わなかった。
 自分でも変だと思ったし、疲れているだけだと思いたかった。  司に言えば心配されるに決まっているし、バイト先で話しても、きっと笑われる。
 だから気のせいだと片づけようとした。
 けれど、人は「気にしない」と決めたものほど気にしてしまう。
 店のガラスをなるべく見ないように歩く。  水面を覗き込まないようにする。  閉店後の薄暗い店内で、自分の姿がどこかに映るたびに、心臓がひゅっと縮む。
 そのせいで、ぼんやりする時間が増えた。
 客に渡す花束のリボンを結ぶ手元が少し遅れる。  会計の時に一瞬反応が遅れる。  先輩に「疲れてる?」と聞かれて、涼花は「ちょっとだけ」と笑ってごまかした。
 笑顔も、少し無理をしていた。
 事故に遭いかけたのは、その三日後だった。
 バイト帰り、駅前の横断歩道で信号待ちをしていた時だ。
 日が落ちたあとのガラス張りのビルは、街灯を反射してどこも白っぽく光っていた。その中のひとつに、自分の姿が映っているのが見えた。
 肩掛けバッグを下げて、花屋のエプロンを外したばかりの自分。  疲れた顔。  少し乱れた前髪。
 それだけのはずなのに。
 ガラスの向こうの自分が、ふっと口元だけで笑ったように見えた。
「……っ」
 足が止まる。
 信号が変わって、人の流れが動き出す。  なのに涼花だけ、一歩が出なかった。
 その瞬間、横からすり抜けてきた自転車が肩をかすめた。
「危ない!」
 知らない誰かの声。  衝撃。  ぐらりと視界が揺れて、涼花はそのまま膝をついた。
 大きな事故にはならなかった。  自転車も急ブレーキで止まり、相手も軽く謝って去っていった。涼花の方も腕と膝を少し擦りむいた程度で済んだ。
 けれど、立ち上がった時には足が震えていた。
 痛みより、怖さが遅れて押し寄せてくる。
 あの一瞬、自分は何を見ていたのか。
 何がそんなに気になったのか。
 分からないのに、分かっている気がするのが一番嫌だった。
 その日の夜、涼花は久しぶりに司へメッセージを送った。
 ちょっと相談したいんだけど、今度会える?
 返事は、すぐに来た。
 明日の仕事終わりなら動ける  何かあった?
 何もないよ、と打ちかけて、やめる。  少しだけ迷ってから、
 会って話す
 とだけ返した。
 翌日、待ち合わせ場所に選んだのは駅前のカフェだった。
 夕方の店内は明るく、甘い匂いがして、人の声も適度にある。ひとりでいるには少し騒がしいくらいの方が、今の涼花には都合がよかった。
 なのに、落ち着かない。
 入口のガラス。  メニューのラミネート。  カトラリーの金属。  窓際の光る反射。
 どこにでも、自分の輪郭がいる。
 涼花はできるだけ窓から離れた席を選んで座ったが、それでも目の端に映り込みが入るたび、肩が強張った。
 カップの縁に目を落とした時も、一瞬だけ自分の顔が滲んで見えて、思わず視線をそらす。
「……やだ」
 小さく呟く。
 大丈夫。  気のせい。  変な夢でも見て、まだ引きずってるだけ。
 何度そう言い聞かせても、胸の奥のざわつきは消えてくれない。
「涼花」
 聞き慣れた声に顔を上げる。
 司が立っていた。
 仕事帰りらしい落ち着いた服装に、肩掛けのバッグ。疲れているはずなのに、涼花の顔を見た瞬間、その目だけがすぐにこちらへ向く。いつも通り整った顔なのに、その視線は最初から少し心配そうだった。
「お兄ちゃん」
 涼花は無理やり口元を上げる。
「ごめん、急に呼び出して」
「それはいいけど」
 司は席に着く前に、涼花の顔をじっと見た。
「顔色悪いよ」
「そう?」
「そう」
 迷いなく言い切る。
 それから、視線がふと涼花の腕に落ちる。
「……それ、どうしたの」
 細い腕の外側に、浅い擦り傷がある。絆創膏を貼るほどでもないと思ってそのままにしていたが、司の目は誤魔化せなかった。
「あ、これ?」
 涼花は反射的に袖口を引いた。
「ちょっと転びそうになっただけ。軽く擦りむいただけだから」
「転んだの?」
「転んだっていうか、ちょっとぶつかりそうになって」
「何に」
「自転車」
 その一言で、司の眉がぴくりと動く。
「……怪我、腕だけ?」
「うん、大丈夫だよ」
「膝は」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、じゃないでしょ」
 声は強くない。けれど、普段よりずっと低かった。
 涼花は慌てて笑う。
「ほんとに大したことないって。ほら、普通に歩けるし」
 そう言ってみせるが、自分でも無理をしているのが分かった。
 司はそれを見逃さない。
「ちゃんと座って」
「もう座ってるけど」
「そういう返ししなくていいから」
 いつものやり取りのはずなのに、司の声が妙に優しい。  咎めるようでいて、完全に甘やかす側の口調だ。
 涼花は少しだけ肩の力を抜いた。
「……なんか食べる?」
「え?」
「甘いもの」
 司はメニューを手に取る。
「パンケーキあるよ」
「いや、別にそこまで」
「好きでしょ」
「……好きだけど」
「じゃあ決まり」
 涼花が何か言う前に、司は店員を呼んでしまった。
「季節のフルーツのパンケーキと、温かい紅茶。あとアイスティーで」
「お兄ちゃん」
「今日は奢るから」
「そんな子ども扱いしなくても」
「怪我してる時くらい甘やかされて」
 さらりと言ってのける。
 その言葉に、涼花は思わず笑いそうになった。  けれど、その笑いも途中で弱くなる。
 司は注文を終えると、ようやく真正面から涼花を見た。
「で」
 声の調子が少しだけ変わる。
「何があったの」
 逃げ道を塞ぐみたいな聞き方ではない。  むしろ、話しやすいようにゆっくりと開かれた問いだった。
 涼花はカップの縁を指でなぞった。
 そこにも、ぼんやりと自分の指先が映る。  反射的に手を引っ込めると、その仕草に司の目が細くなった。
「……涼花」
「……ねえ、お兄ちゃん」
 ようやく顔を上げる。
「笑わない?」
「笑わないよ」
「絶対?」
「絶対」
 あまりにも即答で、少しだけ胸が痛くなった。
 涼花は息を吸う。
「なんかね」
 声が少しかすれる。
「あの日から、変なんだ」
「……あの日?」
「お兄ちゃんが関わってた配信、見た日」
 司の表情が、そこでわずかに止まる。
「鏡のやつ」
「……」
「最初は気のせいだと思ってたんだけど」
 涼花は視線を落とした。
「鏡とか、ガラスとか、水とか。そういうのに映る自分が、ずっとこっち見てる気がするの」
 言葉にしてしまうと、ひどく馬鹿らしく聞こえる気がした。
 なのに、司は一度も笑わなかった。
 それどころか、目の奥が一瞬で冷えたのが分かった。
「見てるって」
 司が静かに聞き返す。
「どういうふうに」
「……分かんない」
 涼花は首を振る。
「ただ、先に気付いてる感じ。私が見る前に、向こうの私が見てるみたいな」
 司は何も言わない。
「それで、ぼーっとすることが増えて」
 無理やり笑おうとして、失敗する。
「昨日、道路でもちょっと……その、映り込み見ちゃって」
 そこまで言ったところで、司が深く息を吐いた。
 短く、押し殺すように。
 テーブルの下で、拳を握りしめているのが見えた。
「……どうしてもっと早く言わないの」
 怒っている声ではなかった。  責めるというより、自分に向けた苛立ちに近い。
「だって、気のせいかもって思ったし……」
「気のせいで怪我するなら十分おかしいでしょ」
 そう言ってから、司は一度だけ目を閉じた。
 次に開いた時には、さっきよりもっと優しい顔になっていた。
「もう一回、最初から話して」
 低く、穏やかに言う。
「何を見たのか。いつからなのか。どこで強く感じるのか」
 涼花は小さく頷く。
 目の奥が、少し熱くなる。
 兄は昔からこうだった。  自分のことには妙に雑なのに、涼花のことになると過保護なくらい細かい。
 運ばれてきたパンケーキの甘い匂いが広がる。  涼花はそれを見て、少しだけ本当に泣きそうになった。
「……食べながらでいいよ」
 司が皿をこちらに寄せる。
「これ、涼花好きだったでしょ」
「……覚えてたんだ」
「当たり前でしょ」
 そう言って、紅茶のカップも涼花の手元に置く。
 その手つきは、別人みたいに丁寧だった。
 涼花はフォークを持つ。
 けれど一口目を食べる前に、窓ガラスの方へ視線が吸われそうになって、慌てて目を逸らす。
 その小さな動きに、司はすぐ気付いた。
「……まだ見えるんだね」
「見えるっていうか」
 涼花は小さく息を吐く。
「見てない時も、見られてる感じがする」
 司の表情が、はっきりと強張った。
 そこではじめて、涼花は兄が本気で何かを疑っている顔をしたのを見た。
 ただの疲れでも、ただの気のせいでもない。
 その可能性に、司はもう辿り着きかけている。
 そして、その原因に心当たりがあるのだと、涼花にも分かった。