怪異、お持ち帰り注意

 朝の神社は澄んでいた。石畳も手水舎も明るいのに、集まった四人の空気だけが張っている。
 社務所の前には宮司が立ち、その傍らに白布で幾重にも包まれた鏡が置かれていた。昨夜から神社で封じられていた鏡だ。
「おはようございます」
 昂夜が頭を下げ、司と壱太も続く。朔也は少し遅れて会釈した。涼花は司の隣に立っていた。昨日より顔色はましだが、まだ疲れは残っている。
 宮司が静かに言う。
「昨夜、反射するものを避けていただいたおかげで、像の広がりはひとまず抑えられています」
「広がり?」  司が低く聞く。
「あの鏡は、見た者の中に偽の像を作るものです。鏡そのものより、見た側の自己像を侵していく。だから違和感は、やがて周囲のガラスや水面にも滲みます」
 涼花が無意識に司の袖を掴む。司は何も言わず、少しだけ体を寄せた。
「近しい者へ影響が及ぶこともあります」
 司の表情がわずかに硬くなる。  昂夜が宮司へ問う。
「最後の干渉のことですが」
 宮司の視線が朔也へ向く。
「鏡は像を欲します。ですがこの方は、像が定まりにくい」
「映りにくい、ってことですか」  昂夜が聞く。
「ええ。己の輪郭が薄い者は、呪物にとって足場が定まりにくい。だから侵されにくい」
 昂夜だけが少し目を伏せた。  侵されにくい。だが、その代わりに別のものを払っている。
「ただし、無傷という意味ではありません」  宮司は続ける。 「今回必要なのは、像を返すことです。何も映さぬものへ戻す」
「それを、朔也がやる」  昂夜が確認するように言う。
「ほかの方では、また何かを写してしまうでしょう。この方なら、写さずに済むかもしれない」
 絶対ではない言い方が、かえって緊張を増した。
「……分かりました」  昂夜が答える。
 宮司に導かれ、全員は拝殿脇の清めの場へ移った。白布を敷いた台に鏡が置かれる。塩、榊、紙垂。朝の光の中でも、その一角だけ冷えて見えた。
「まず、見た方々の縁を断ちます」
 司、昂夜、壱太、涼花の順に前へ出る。鏡面はまだ覆われたままだ。ただ名前と、帰る場所と、大事なものを口にする。
「壱太。帰る場所は俺の家。大事なものは……みんな、かな」
 宮司が短く祝詞を唱える。
「水城司。帰る場所は自分の部屋。大事なものは……家族です」
 司の視線が一瞬だけ涼花へ向く。
「昂夜。帰る場所は俺の部屋。大事なものは……ここにいる連中だ」
 最後に涼花が前へ出る。声は少し震えていた。
「水城涼花。帰る場所は私の部屋。大事なものは……お兄ちゃん、です」
 司がわずかに目を見開く。壱太がその横で少し目を細めた。
「ここから先です」  宮司が言う。 「残っている像を返します」
 白布が外される。  現れた鏡面は曇った金属の光を返すだけで、なのに何かを待っているようだった。
「朔也さん」
 朔也が前へ出る。
「これに触れたら、何か見えるんですか」  司が聞く。
「分かんね。でも、何も映さなくていいって言えばいいんだろ」
 軽く聞こえるのに、昨日までとは違う声だった。
 宮司が塩と灰を撒き、短い詞を唱える。朔也が鏡へ手を伸ばした。
 触れた瞬間、空気が少し変わる。
「……」  朔也がわずかに眉を寄せる。
「何か見えるのか」  昂夜が問う。
「いや。でも、いるな」
 司の肩がぴくりと揺れ、涼花が息を止める。
「何が」
「像。増えたやつが残ってる」
 本当に見えているのではなく、そこにあるものの気配を掴んでいるような言い方だった。
「返せるか」
 朔也は鏡へ向かって静かに言う。
「もういい」 「映さなくていい」 「返せ」
 その瞬間、涼花が小さく息を呑んだ。
 鏡面の奥で、黒い膜のようなものが揺らいだ気がした。煙でも水でもない、形になりきらないもの。  司が反射的に涼花の肩を抱く。壱太も息を詰める。昂夜だけが朔也から目を離さない。
 朔也の指先だけが、わずかに強ばっていた。
「何もいらない」  今度は少し強く言う。 「お前、映すな」
 鏡面が一瞬深く曇る。
 そこへ宮司の祝詞が重なり、榊が振られ、紙垂が鳴る。  空気が切り替わった。
 次の瞬間、鏡の曇りがすっと薄くなる。  残ったのは、ただの古い銅鏡みたいな鈍い光だけだった。
 誰もすぐには喋らない。  朔也がゆっくり手を離し、昂夜はそこで初めて、その肩がわずかに上下しているのに気づいた。
「終わった、のか」  壱太が小さく聞く。
 宮司は鏡面を見つめたまま頷く。
「少なくとも、像は返りました」
 司が涼花を見る。
「どう?」
 涼花は近くの金具に恐る恐る目を向けた。小さく自分の顔が映る。  少し間があってから、かすれた声で言う。
「……大丈夫、かも。今は、見返してこない」
 司の張りつめたものがようやく緩む。昂夜も胸の奥で息を吐いた。
 朔也は何も言わず、少しだけ首を回した。  昂夜は思う。やはりこの人は平気なわけじゃない。ただ、平気に見えるだけだ。
 宮司は鏡を再び白布で包み、静かに告げた。
「これは神社で封じます。もう誰にも映さぬように」
 誰も異論はなかった。
 朝の光は明るいままなのに、全員が少し疲れていた。  それでも、涼花がようやくまともに息をしているのを見て、司は目を伏せたまま言う。
「……助かりました」
 誰に向けた言葉かは曖昧なままだった。
 昂夜は隣の朔也を見る。いつもの無頓着そうな顔に戻りかけているが、少しだけ焦点が遠い。
「おい」
「ん」
「帰ったら少し休め」
「なんで」
「いいから」
 そこでようやく、朔也は少しだけ笑った。
「……分かったよ」
 その返事を聞いて、昂夜もほんの少しだけ肩の力を抜いた。