配信の準備は、妙に静かに進んだ。
司がカメラの位置を細かく調整し、壱太がライトの角度を確認する。いつもならもっと軽口が飛ぶはずなのに、今日は誰も無駄に声を張らない。
テーブルの中央には、古い銅鏡が置かれていた。
照明を受けても、表面は鈍く光るだけだ。 現代の鏡みたいに、くっきりとは映らない。
「角度、そこだと反射きついです」
司がカメラ横から言う。
「もう少しだけ下げてください」
壱太が「あいよー」と軽く返してライトをずらす。 朔也はソファから半身を起こしただけで、特に手を貸す様子もない。
「お前も少しは動けよ」
昂夜が低く言う。
「俺、持ち込み担当だし」
「担当の線引きが雑すぎるだろ」
「まあまあ」
壱太が間に入るように笑う。
「空気悪くすると、余計変なもん寄ってきそうじゃん」
冗談めかした言い方だったが、誰もすぐには笑わなかった。
「……いきますよ」
司がイヤホンを片耳に押し込みながら言う。
「配信回します」
昂夜は一度だけ深く息を吸った。
やめるなら今だ。 そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、もう全員が動いている。 ここで止めても、中途半端に不安だけが残る気がした。
「……始める」
短く言って、配信開始のボタンを押す。
画面が切り替わる。
視聴者数は、すぐにじわじわと増え始めた。
「はい、どうも」
昂夜はカメラに向かって声を出す。
「今日は急だけど、生配信で少しだけやる。長くはやらない」
横で壱太がいつもの調子で手を振る。
「こんばんはー。ちょっと変わり種です」
「変わり種っていうか、だいぶ嫌なやつだけどな」
昂夜が返す。
コメント欄が流れ始める。
“生だ” “こんばんは” “何やるの?” “壱太くん元気そう”
ごく普通の反応。 それだけで、少しだけ気が緩みそうになる。
「今回のは、古い鏡」
昂夜はテーブルの上に視線を落とした。
「江戸期のものらしい銅鏡で、見た人間がおかしくなるって曰くがある」
コメントが一気に速くなる。
“鏡やば” “また怖いやつ” “こういうの好き” “見た人間ってどうなるの?”
「自分の顔が変に見えるとか、鏡の中の方が自然に感じるとか、そういう話だ」
言いながら、自分の声が少しだけ固いのが分かった。
「ただ、今のところ俺たちが見た限りでは、特に何かが映ったりはしてない」
「見た感じは普通なんだよねー」
壱太が明るく続ける。
「普通っぽいのが逆にやなんだけど」
「そこで油断すんな」
昂夜が小さく釘を刺す。
コメント欄はまだ軽い。 いつもと大差ない。
司がカメラの向こうで、小さく親指を立てた。 進めていい、という合図だ。
「……今から、鏡面をカメラに向ける」
昂夜は言った。
「嫌な人は見ないでくれ。十秒だけ」
その言葉に、コメント欄がざわつく。
“きた” “十秒だけ?” “見ちゃだめって言われると見たくなる” “自己責任ね” “怖”
朔也が鏡を手に取った。
「数える?」
「俺が数える」
昂夜は低く言う。
視線は鏡から逸らさない。
「十」
朔也が鏡を持ち上げる。
「九」
鈍く曇った鏡面に、部屋の光が浮く。
「八」
自分たちの輪郭が、ぼやけて映る。
「七」
壱太が、いつもより少しだけ黙っている。
「六」
司がカメラの向こうでモニターを凝視している。
「五」
鏡面が、カメラへ向けられる。
「四」
画面の中に、曖昧な反射が広がる。
「三」
自分の顔。 背後のライト。 部屋の輪郭。
「二」
何もない。 少なくとも、そう見える。
「一」
昂夜は息を止めた。
「——終わり」
朔也が鏡を下ろす。
その瞬間、部屋の空気がわずかに緩んだ。
「……何もなくない?」
壱太が最初に言う。
「普通だったね」
コメント欄も一気に流れ始める。
“普通の鏡じゃん” “思ったより何もない” “綺麗” “ちょっと怖かった” “普通すぎる” “見えた人いる?”
そこまではよかった。
昂夜は何気なく、流れていく文字を追った。 そして、一つのコメントに目が止まる。
“今、黒いの上がらなかった?”
次の瞬間には流れて消える。
そのあとに重なるように、
“え、何も見えないけど” “ノイズ?” “普通だったよ” “黒いモヤみたいなの一瞬見えた” “気のせい?”
少数だ。 圧倒的に少ない。 けれど、確かにある。
「……」
昂夜は黙ったまま、画面を見つめる。
「どうした?」
壱太が聞く。
「いや」
すぐには答えなかった。
視線をコメントに向けたまま、低く言う。
「少しだけ、変なのが混ざってる」
「変なの?」
壱太がモニターを覗き込もうとする。
その横で、司がわずかに身を乗り出した。
「……黒いモヤ、ですか」
読み上げるみたいに呟く。
「でもほとんどの人は何も見てない」
「だろ」
朔也はあっさり言った。
「じゃあ気のせいじゃん」
「そうとも言い切れない」
昂夜はすぐに返す。
コメント欄はなおも流れている。
“きれいな鏡” “思ったより普通” “でもなんか見ちゃう” “目離せない” “もう一回見せて”
最後の一文に、嫌な棘が引っかかった。
もう一回見せて。
それはただの好奇心にも見える。 だが、どこか熱がありすぎた。
「……今日はここまでだ」
昂夜はすぐに言った。
「短いけど終わる」
「えー、もう?」
壱太が反射的に言う。
「十分だ」
配信を閉じる。
画面が通常表示に戻ると、部屋の静けさが急に濃くなる。
「何もなかったのに?」
朔也が鏡をテーブルに戻しながら言う。
「何もなかった、とは言えねぇよ」
昂夜は短く返した。
「少なくとも、見えたって言ってるやつがいる」
「少数だろ」
「少数でもだ」
そこまで言って、ふと視線を上げる。
司が、モニターの黒い縁をじっと見ていた。
「司」
呼ぶと、司は一拍遅れて顔を上げた。
「……はい」
「何か見えたか」
「いえ」
即答。
けれど、そのあとに小さく続ける。
「ただ……少し、目が変な感じします」
部屋がまた静かになる。
「変って?」
壱太が聞く。
司は眉間を押さえた。
「ピントが合いにくいというか」
少しだけ言葉を探す。
「画面見たあと、鏡じゃないところにも映り込みが残る感じがして」
「……おい」
昂夜の声が低くなる。
「大丈夫なのか」
「たぶん、疲れ目です」
司はそう言って笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「ライトも強いですし」
その言葉はもっともだ。 もっともだが、妙に引っかかる。
朔也だけが本当に何事もない顔をしている。
「俺はなんもないけど」
その一言が、逆に嫌だった。
「お前はそうだろうな」
昂夜は思わず返した。
司は小さく瞬きを繰り返している。 壱太はそれを見て、さっきまでの軽さを少しだけ引っ込めた。
「……司、今日はもう帰って休んだ方がいいんじゃない?」
「いえ、編集データだけまとめます」
「今やらなくていいだろ」
昂夜が言うと、司は一度だけ目を閉じた。
「……すみません」
素直な返事だった。 それがむしろ珍しい。
テーブルの上の鏡は、変わらずそこにある。
曇った鏡面は、もう誰も覗いていないのに、どこかこちらを向いているように見えた。
その頃。
司の妹の涼花は、花屋のアルバイトを終えて帰宅したところだった。
専門の課題をやる前に、なんとなくスマホを開く。 通知に混ざって、兄が関わっているチャンネルの生配信アーカイブが上がっているのが目に入った。
「また怖いのやってる……」
苦笑しながら、何気なく再生する。
兄がカメラの向こうで真面目な顔をしていて、昂夜と壱太がいつも通り喋っている。 それだけなら、見慣れた光景だ。
けれど、あの鏡の場面になった瞬間。
涼花は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……あれ?」
画面の中の鏡面。 曇った金属のような反射。
一瞬だけ、その表面の奥から黒いものが立ちのぼった気がした。
煙、というより。 影、というより。
何か、輪郭のないもの。
「気のせい……?」
巻き戻して、もう一度見る。
今度は、何も見えない。
画面の中では、みんな普通にしている。 コメント欄も流れているだけだ。
それでも。
再生を止めた黒い画面の向こうで、ふと自分の顔が映った瞬間。
涼花は小さく肩を震わせた。
今のは、ただの反射だ。 そう分かっているのに。
映った自分が、先にこっちを見ていたような気がした。
司がカメラの位置を細かく調整し、壱太がライトの角度を確認する。いつもならもっと軽口が飛ぶはずなのに、今日は誰も無駄に声を張らない。
テーブルの中央には、古い銅鏡が置かれていた。
照明を受けても、表面は鈍く光るだけだ。 現代の鏡みたいに、くっきりとは映らない。
「角度、そこだと反射きついです」
司がカメラ横から言う。
「もう少しだけ下げてください」
壱太が「あいよー」と軽く返してライトをずらす。 朔也はソファから半身を起こしただけで、特に手を貸す様子もない。
「お前も少しは動けよ」
昂夜が低く言う。
「俺、持ち込み担当だし」
「担当の線引きが雑すぎるだろ」
「まあまあ」
壱太が間に入るように笑う。
「空気悪くすると、余計変なもん寄ってきそうじゃん」
冗談めかした言い方だったが、誰もすぐには笑わなかった。
「……いきますよ」
司がイヤホンを片耳に押し込みながら言う。
「配信回します」
昂夜は一度だけ深く息を吸った。
やめるなら今だ。 そんな考えが、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。
けれど、もう全員が動いている。 ここで止めても、中途半端に不安だけが残る気がした。
「……始める」
短く言って、配信開始のボタンを押す。
画面が切り替わる。
視聴者数は、すぐにじわじわと増え始めた。
「はい、どうも」
昂夜はカメラに向かって声を出す。
「今日は急だけど、生配信で少しだけやる。長くはやらない」
横で壱太がいつもの調子で手を振る。
「こんばんはー。ちょっと変わり種です」
「変わり種っていうか、だいぶ嫌なやつだけどな」
昂夜が返す。
コメント欄が流れ始める。
“生だ” “こんばんは” “何やるの?” “壱太くん元気そう”
ごく普通の反応。 それだけで、少しだけ気が緩みそうになる。
「今回のは、古い鏡」
昂夜はテーブルの上に視線を落とした。
「江戸期のものらしい銅鏡で、見た人間がおかしくなるって曰くがある」
コメントが一気に速くなる。
“鏡やば” “また怖いやつ” “こういうの好き” “見た人間ってどうなるの?”
「自分の顔が変に見えるとか、鏡の中の方が自然に感じるとか、そういう話だ」
言いながら、自分の声が少しだけ固いのが分かった。
「ただ、今のところ俺たちが見た限りでは、特に何かが映ったりはしてない」
「見た感じは普通なんだよねー」
壱太が明るく続ける。
「普通っぽいのが逆にやなんだけど」
「そこで油断すんな」
昂夜が小さく釘を刺す。
コメント欄はまだ軽い。 いつもと大差ない。
司がカメラの向こうで、小さく親指を立てた。 進めていい、という合図だ。
「……今から、鏡面をカメラに向ける」
昂夜は言った。
「嫌な人は見ないでくれ。十秒だけ」
その言葉に、コメント欄がざわつく。
“きた” “十秒だけ?” “見ちゃだめって言われると見たくなる” “自己責任ね” “怖”
朔也が鏡を手に取った。
「数える?」
「俺が数える」
昂夜は低く言う。
視線は鏡から逸らさない。
「十」
朔也が鏡を持ち上げる。
「九」
鈍く曇った鏡面に、部屋の光が浮く。
「八」
自分たちの輪郭が、ぼやけて映る。
「七」
壱太が、いつもより少しだけ黙っている。
「六」
司がカメラの向こうでモニターを凝視している。
「五」
鏡面が、カメラへ向けられる。
「四」
画面の中に、曖昧な反射が広がる。
「三」
自分の顔。 背後のライト。 部屋の輪郭。
「二」
何もない。 少なくとも、そう見える。
「一」
昂夜は息を止めた。
「——終わり」
朔也が鏡を下ろす。
その瞬間、部屋の空気がわずかに緩んだ。
「……何もなくない?」
壱太が最初に言う。
「普通だったね」
コメント欄も一気に流れ始める。
“普通の鏡じゃん” “思ったより何もない” “綺麗” “ちょっと怖かった” “普通すぎる” “見えた人いる?”
そこまではよかった。
昂夜は何気なく、流れていく文字を追った。 そして、一つのコメントに目が止まる。
“今、黒いの上がらなかった?”
次の瞬間には流れて消える。
そのあとに重なるように、
“え、何も見えないけど” “ノイズ?” “普通だったよ” “黒いモヤみたいなの一瞬見えた” “気のせい?”
少数だ。 圧倒的に少ない。 けれど、確かにある。
「……」
昂夜は黙ったまま、画面を見つめる。
「どうした?」
壱太が聞く。
「いや」
すぐには答えなかった。
視線をコメントに向けたまま、低く言う。
「少しだけ、変なのが混ざってる」
「変なの?」
壱太がモニターを覗き込もうとする。
その横で、司がわずかに身を乗り出した。
「……黒いモヤ、ですか」
読み上げるみたいに呟く。
「でもほとんどの人は何も見てない」
「だろ」
朔也はあっさり言った。
「じゃあ気のせいじゃん」
「そうとも言い切れない」
昂夜はすぐに返す。
コメント欄はなおも流れている。
“きれいな鏡” “思ったより普通” “でもなんか見ちゃう” “目離せない” “もう一回見せて”
最後の一文に、嫌な棘が引っかかった。
もう一回見せて。
それはただの好奇心にも見える。 だが、どこか熱がありすぎた。
「……今日はここまでだ」
昂夜はすぐに言った。
「短いけど終わる」
「えー、もう?」
壱太が反射的に言う。
「十分だ」
配信を閉じる。
画面が通常表示に戻ると、部屋の静けさが急に濃くなる。
「何もなかったのに?」
朔也が鏡をテーブルに戻しながら言う。
「何もなかった、とは言えねぇよ」
昂夜は短く返した。
「少なくとも、見えたって言ってるやつがいる」
「少数だろ」
「少数でもだ」
そこまで言って、ふと視線を上げる。
司が、モニターの黒い縁をじっと見ていた。
「司」
呼ぶと、司は一拍遅れて顔を上げた。
「……はい」
「何か見えたか」
「いえ」
即答。
けれど、そのあとに小さく続ける。
「ただ……少し、目が変な感じします」
部屋がまた静かになる。
「変って?」
壱太が聞く。
司は眉間を押さえた。
「ピントが合いにくいというか」
少しだけ言葉を探す。
「画面見たあと、鏡じゃないところにも映り込みが残る感じがして」
「……おい」
昂夜の声が低くなる。
「大丈夫なのか」
「たぶん、疲れ目です」
司はそう言って笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「ライトも強いですし」
その言葉はもっともだ。 もっともだが、妙に引っかかる。
朔也だけが本当に何事もない顔をしている。
「俺はなんもないけど」
その一言が、逆に嫌だった。
「お前はそうだろうな」
昂夜は思わず返した。
司は小さく瞬きを繰り返している。 壱太はそれを見て、さっきまでの軽さを少しだけ引っ込めた。
「……司、今日はもう帰って休んだ方がいいんじゃない?」
「いえ、編集データだけまとめます」
「今やらなくていいだろ」
昂夜が言うと、司は一度だけ目を閉じた。
「……すみません」
素直な返事だった。 それがむしろ珍しい。
テーブルの上の鏡は、変わらずそこにある。
曇った鏡面は、もう誰も覗いていないのに、どこかこちらを向いているように見えた。
その頃。
司の妹の涼花は、花屋のアルバイトを終えて帰宅したところだった。
専門の課題をやる前に、なんとなくスマホを開く。 通知に混ざって、兄が関わっているチャンネルの生配信アーカイブが上がっているのが目に入った。
「また怖いのやってる……」
苦笑しながら、何気なく再生する。
兄がカメラの向こうで真面目な顔をしていて、昂夜と壱太がいつも通り喋っている。 それだけなら、見慣れた光景だ。
けれど、あの鏡の場面になった瞬間。
涼花は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……あれ?」
画面の中の鏡面。 曇った金属のような反射。
一瞬だけ、その表面の奥から黒いものが立ちのぼった気がした。
煙、というより。 影、というより。
何か、輪郭のないもの。
「気のせい……?」
巻き戻して、もう一度見る。
今度は、何も見えない。
画面の中では、みんな普通にしている。 コメント欄も流れているだけだ。
それでも。
再生を止めた黒い画面の向こうで、ふと自分の顔が映った瞬間。
涼花は小さく肩を震わせた。
今のは、ただの反射だ。 そう分かっているのに。
映った自分が、先にこっちを見ていたような気がした。
