怪異、お持ち帰り注意

 翌朝、司はコンビニへ向かった。  通勤客で落ち着かない店内の入口脇に立つ司だけが、妙に硬かった。
 レジ奥から出てきた朔也が気づく。
「……何」
「少し、話がある」
「今?」
「今」
 先輩店員が気を利かせ、二人はバックヤード横の狭い通路へ入った。薄い壁の向こうでは店内放送と電子音が流れている。
「で。何の話」
 司は一度だけ黙ってから言った。
「……妹に異変が出てる」
 朔也の顔から少しだけ軽さが消える。
「鏡を見た日からです。ガラスとか水面とか、映り込みに映る自分に見られてる感じがするって。昨日、事故にも遭いかけた」
「怪我したのか」
「軽傷です」
 その言い方に、自分でもまた腹が立つ。  軽傷で済んだから何だ。そういう話じゃない。
「で」  朔也が短く聞く。 「それが鏡のせいだって?」
「そうです。他に何があるんですか」
「いや、でも」
 その一言で司の声が鋭くなった。
「でも、何です。面白がって持ち込んで、配信で見せて、それで何か起きても“でも”で済ませるつもりですか」
 朔也は少し黙ってから返す。
「俺だけのせいみたいに言うなよ」
「……分かってますよ」
 押し殺した声だった。
「止めなかったのは俺です。最初に見た時点で少しおかしかった。なのに仕事を優先して、そのまま配信を続けた。気付くべきだったんです。あの時点で」  喉が少し詰まる。 「分かってるから余計に腹が立つんですよ」
 朔也はすぐには返さなかった。
「今日は仕事が終わったら来てください」  司はきっぱり言う。 「配信部屋です。昂夜さんと壱太にも話します。あの鏡をどうにかする方法を探る。逃げないでくださいね」
 通告みたいな言い方だった。  朔也は数秒だけ司を見てから、小さく息を吐く。
「逃げねぇよ」
 もう軽さはなかった。  司はそれ以上何も言わず、店を出た。
 夕方、配信部屋の空気は最初から重かった。  昂夜はもう来ていて、パソコンの前に座っていた。遅れて入った司の顔を見て、壱太もさすがに冗談を言わない。
「……司、大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
 即答だった。
「涼花ちゃんのこと?」  壱太が聞く。
 司は頷く。
「鏡を見た日から、映り込みに見られてる感じがするそうです。昨日、事故にも遭いかけた」
 部屋が静まる。  昂夜は視線を落とした。
「……やっぱりか」
「俺もそう思いました。だから今日、朝のうちに朔也に話をしました」
「話したって」
「かなり、きつめに」
 その言い方でだいたい伝わったらしい。壱太は「そっか」とだけ言った。
 そこへドアが開く。  朔也が入ってきた。バイト帰りのラフな格好。見た目はいつも通りなのに、部屋の空気だけが違う。
「来た」  壱太が言う。
 司はその姿を見た瞬間、朝押し込めたものがまた胸の奥でざらつくのを感じた。
「……朔也」
 呼ぶ声が低い。
「涼花のことは聞いたよな」
「聞いた」
「それで何も思わないんですか」
「思ってる」
「そうは見えませんけど」
 声が少し上ずる。  昂夜が椅子から立ち上がる気配がした。壱太も二人の間を見る。
「あなたが平気でも、周りは平気じゃないんですよ」  司ははっきり言い切った。 「自分に何も起きないからって、軽く見ないでください」
 朔也が口を開きかける。けれど、言葉が続かない。  その反応がまた司の熱を押し上げた。
「最初からそうだったじゃないですか。何が起きても、自分には関係ないみたいな顔して」
「司」  昂夜が低く呼ぶ。
 でも止まれなかった。  胸ぐらに手を伸ばしかけた、その瞬間。
「待って!」
 壱太が間に割って入った。  両手で司を止める。
「司、だめ」
「どいて、壱太」
「今それやっても意味ないって!」
「分かってます」
「分かってない顔してる」  壱太は珍しくまっすぐだった。 「司が怒るのも分かるよ。でも今は責めるより先に、涼花ちゃんをどうするか考えよ」
 涼花の名前が出た瞬間、司の肩から少しだけ力が抜けた。
 その隙に、昂夜が口を開く。
「今回だけは、司の言う通りだ」
 短い一言だったが、はっきりしていた。
「鏡を持ち込んだのはお前だ。止めきれなかった俺たちにも責任はある。でも、最初に軽く見たのは確かだろ。今回は、さすがに責任あると思え」
 朔也はしばらく黙ったまま立っていた。  やがて、小さく息を吐く。
「……悪かった」
 思っていたよりずっと小さい声だった。
 司の怒りは消えていない。けれど、さっきみたいに手が出そうな熱は少しだけ引いた。
「じゃあ」  壱太が空気を繋ぐ。 「ここからは、どうやって止めるか考えよ」
 昂夜が頷く。
「司、涼花ちゃんの症状を整理してくれ。いつから、どこで、何に対して強く出るのか」
「……分かりました」
「壱太は、涼花ちゃんの相手を頼めるか」
「できるよ」  壱太はすぐ答えた。 「司が行くと、たぶん涼花ちゃん無理して元気なふりしそうだし」
 司は一瞬何か言いかけて、結局黙る。否定できなかった。
「朔也は」  昂夜の声が少し低くなる。 「鏡の入手経路、譲ってきたやつ、その家の話。思い出せる限り全部出せ」
「了解」
 今度の朔也は素直だった。
 やることが決まると、部屋の空気が少しずつ動き出す。  険悪さが消えたわけではない。司の怒りも自己嫌悪もまだ残っている。それでも今は、別の方向へ使うしかなかった。
 部屋の隅の鏡は、布をかけられたまま黙っている。  その存在だけが、全員の意識を引っ張っていた。
「……絶対、なんとかする」
 司がぽつりと呟く。  それは誰に聞かせるでもない、自分への言葉だった。
 昂夜はそれを聞きながら静かに頷いた。  まだ間に合う。そう信じるしかなかった。