その日からだった。
最初はほんの小さな違和感だった。花屋で水替えをしていた時、水面に映る自分を見て涼花はふと手を止めた。
見られている気がした。
もちろん映っているのは自分だ。そんなことは分かっている。けれど、水面の向こうの自分が、こっちを先に見ていたような気がした。
「……やだな」
そう呟いて首を振る。寝不足かもしれない。嫌な配信を見たせいかもしれない。そう思って流した。
けれど違和感は消えなかった。
ショーウィンドウ。ガラスケース。透明フィルム。スマホの黒い画面。 ふと映る自分が、どうにも落ち着かない。
目が合った気がする。 見返した瞬間にはただの自分に戻るのに、一瞬だけ向こうが先に気づいていたような感覚だけが残る。
涼花は誰にも言わなかった。疲れているだけだと思いたかったし、司に言えば心配されるのも分かっていた。
だから気のせいだと片づけようとした。
でも、気にしないと決めたものほど気になる。
ガラスを避け、水面を見ないようにしながら仕事をしていたせいで、ぼんやりする時間が増えた。花束のリボンを結ぶ手が遅れ、会計の反応も少し鈍る。先輩に「疲れてる?」と聞かれて、「ちょっとだけ」と笑ってごまかした。
事故に遭いかけたのは、その三日後だった。
バイト帰り、駅前の横断歩道で信号待ちをしていた時。ガラス張りのビルに映った自分が、ふっと口元だけで笑ったように見えた。
「……っ」
足が止まる。 信号が変わって人の流れが動き出す。なのに涼花だけ、一歩が出なかった。
その瞬間、横からすり抜けてきた自転車が肩をかすめた。
「危ない!」
視界が揺れ、そのまま膝をつく。
大きな事故にはならなかった。腕と膝を少し擦りむいた程度で済んだ。 けれど立ち上がった時には足が震えていた。
怖かった。 何を見ていたのか、自分でも分からないのに、分かっている気がするのが一番嫌だった。
その日の夜、涼花は司にメッセージを送った。
ちょっと相談したいんだけど、今度会える?
返事はすぐに来た。
明日の仕事終わりなら動ける 何かあった?
何もないよ、と打ちかけてやめる。
会って話す
それだけ返した。
翌日、待ち合わせたのは駅前のカフェだった。明るくて人もいて、ひとりでいるにはちょうどいい。なのに落ち着かない。
入口のガラス。メニューのラミネート。金属のカトラリー。窓際の反射。 どこにでも自分の輪郭がいる。
涼花は窓から離れた席に座ったが、それでも映り込みが目に入るたび肩が強張った。カップの縁に目を落とした時も、一瞬だけ自分の顔が滲んで見えて、思わず視線をそらす。
「……やだ」
小さく呟いたところで、聞き慣れた声がした。
「涼花」
顔を上げると、司が立っていた。
「お兄ちゃん」
「ごめん、急に呼び出して」
「それはいいけど」
司は席に着く前に涼花の顔を見て、それから腕の擦り傷に目を止めた。
「顔色悪いよ。……それ、どうしたの」
「ちょっと転びそうになっただけ。軽く擦りむいただけだから」
「何に」
「自転車」
その一言で、司の眉がぴくりと動く。
「怪我、腕だけ?」
「うん、大丈夫」
「膝は」
「ちょっとだけ」
司はすぐに店員を呼んだ。
「季節のフルーツのパンケーキと、温かい紅茶。あとアイスティーで」
「お兄ちゃん」
「今日は奢るから」
「そんな子ども扱いしなくても」
「怪我してる時くらい甘やかされて」
さらりと言われて、涼花は少しだけ笑いそうになった。
注文を終えた司は、ようやく真正面から涼花を見た。
「で。何があったの」
責めるような聞き方ではなかった。むしろ、話しやすいように静かに差し出される問いだった。
涼花はカップの縁を指でなぞり、そこに映る指先を見て反射的に手を引っ込める。 その小さな動きに、司の目が細くなった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
ようやく顔を上げる。
「笑わない?」
「笑わないよ」
「絶対?」
「絶対」
あまりにも即答で、少し胸が痛くなった。
「なんかね」
声が少しかすれる。
「あの日から、変なんだ」
「……あの日?」
「お兄ちゃんが関わってた配信、見た日。鏡のやつ」
司の表情が、そこでわずかに止まる。
「最初は気のせいだと思ってたんだけど。鏡とか、ガラスとか、水とか。そういうのに映る自分が、ずっとこっち見てる気がするの」
言葉にしてしまうと、ひどく馬鹿らしく聞こえる気がした。 なのに司は一度も笑わなかった。むしろ、目の奥が一瞬で冷えたのが分かった。
「どういうふうに」
「分かんない。ただ、先に気づいてる感じ。私が見る前に、向こうの私が見てるみたいな」
司は黙って聞いている。
「それで、ぼーっとすることが増えて。昨日、道路でもちょっと……映り込み見ちゃって」
そこまで聞いて、司が短く息を吐いた。テーブルの下で拳を握っているのが見える。
「……どうしてもっと早く言わないの」
怒っているというより、自分に腹を立てている声だった。
「だって、気のせいかもって思ったし……」
「気のせいで怪我するなら十分おかしいでしょ」
そう言ってから、司は一度だけ目を閉じた。次に開いた時には、さっきよりずっと優しい顔になっていた。
「もう一回、最初から話して。何を見たのか。いつからなのか。どこで強く感じるのか」
涼花は小さく頷いた。目の奥が少し熱くなる。
運ばれてきたパンケーキの甘い匂いが広がる。 司は皿をこちらへ寄せ、紅茶のカップも手元に置いた。
「……食べながらでいいよ。これ、涼花好きだったでしょ」
「……覚えてたんだ」
「当たり前でしょ」
その手つきは、別人みたいに丁寧だった。
涼花はフォークを持つ。けれど一口目を食べる前に、窓ガラスの方へ視線が吸われそうになって、慌てて目を逸らした。
「……まだ見えるんだね」
「見えるっていうか」 涼花は小さく息を吐く。 「見てない時も、見られてる感じがする」
司の表情が、はっきり強張った。
そこで初めて、涼花は兄が本気で何かを疑っている顔をしたのを見た。 ただの疲れでも、ただの気のせいでもない。 その可能性に、司はもう辿り着きかけている。
そして、その原因に心当たりがあるのだと、涼花にも分かった。
最初はほんの小さな違和感だった。花屋で水替えをしていた時、水面に映る自分を見て涼花はふと手を止めた。
見られている気がした。
もちろん映っているのは自分だ。そんなことは分かっている。けれど、水面の向こうの自分が、こっちを先に見ていたような気がした。
「……やだな」
そう呟いて首を振る。寝不足かもしれない。嫌な配信を見たせいかもしれない。そう思って流した。
けれど違和感は消えなかった。
ショーウィンドウ。ガラスケース。透明フィルム。スマホの黒い画面。 ふと映る自分が、どうにも落ち着かない。
目が合った気がする。 見返した瞬間にはただの自分に戻るのに、一瞬だけ向こうが先に気づいていたような感覚だけが残る。
涼花は誰にも言わなかった。疲れているだけだと思いたかったし、司に言えば心配されるのも分かっていた。
だから気のせいだと片づけようとした。
でも、気にしないと決めたものほど気になる。
ガラスを避け、水面を見ないようにしながら仕事をしていたせいで、ぼんやりする時間が増えた。花束のリボンを結ぶ手が遅れ、会計の反応も少し鈍る。先輩に「疲れてる?」と聞かれて、「ちょっとだけ」と笑ってごまかした。
事故に遭いかけたのは、その三日後だった。
バイト帰り、駅前の横断歩道で信号待ちをしていた時。ガラス張りのビルに映った自分が、ふっと口元だけで笑ったように見えた。
「……っ」
足が止まる。 信号が変わって人の流れが動き出す。なのに涼花だけ、一歩が出なかった。
その瞬間、横からすり抜けてきた自転車が肩をかすめた。
「危ない!」
視界が揺れ、そのまま膝をつく。
大きな事故にはならなかった。腕と膝を少し擦りむいた程度で済んだ。 けれど立ち上がった時には足が震えていた。
怖かった。 何を見ていたのか、自分でも分からないのに、分かっている気がするのが一番嫌だった。
その日の夜、涼花は司にメッセージを送った。
ちょっと相談したいんだけど、今度会える?
返事はすぐに来た。
明日の仕事終わりなら動ける 何かあった?
何もないよ、と打ちかけてやめる。
会って話す
それだけ返した。
翌日、待ち合わせたのは駅前のカフェだった。明るくて人もいて、ひとりでいるにはちょうどいい。なのに落ち着かない。
入口のガラス。メニューのラミネート。金属のカトラリー。窓際の反射。 どこにでも自分の輪郭がいる。
涼花は窓から離れた席に座ったが、それでも映り込みが目に入るたび肩が強張った。カップの縁に目を落とした時も、一瞬だけ自分の顔が滲んで見えて、思わず視線をそらす。
「……やだ」
小さく呟いたところで、聞き慣れた声がした。
「涼花」
顔を上げると、司が立っていた。
「お兄ちゃん」
「ごめん、急に呼び出して」
「それはいいけど」
司は席に着く前に涼花の顔を見て、それから腕の擦り傷に目を止めた。
「顔色悪いよ。……それ、どうしたの」
「ちょっと転びそうになっただけ。軽く擦りむいただけだから」
「何に」
「自転車」
その一言で、司の眉がぴくりと動く。
「怪我、腕だけ?」
「うん、大丈夫」
「膝は」
「ちょっとだけ」
司はすぐに店員を呼んだ。
「季節のフルーツのパンケーキと、温かい紅茶。あとアイスティーで」
「お兄ちゃん」
「今日は奢るから」
「そんな子ども扱いしなくても」
「怪我してる時くらい甘やかされて」
さらりと言われて、涼花は少しだけ笑いそうになった。
注文を終えた司は、ようやく真正面から涼花を見た。
「で。何があったの」
責めるような聞き方ではなかった。むしろ、話しやすいように静かに差し出される問いだった。
涼花はカップの縁を指でなぞり、そこに映る指先を見て反射的に手を引っ込める。 その小さな動きに、司の目が細くなった。
「……ねえ、お兄ちゃん」
ようやく顔を上げる。
「笑わない?」
「笑わないよ」
「絶対?」
「絶対」
あまりにも即答で、少し胸が痛くなった。
「なんかね」
声が少しかすれる。
「あの日から、変なんだ」
「……あの日?」
「お兄ちゃんが関わってた配信、見た日。鏡のやつ」
司の表情が、そこでわずかに止まる。
「最初は気のせいだと思ってたんだけど。鏡とか、ガラスとか、水とか。そういうのに映る自分が、ずっとこっち見てる気がするの」
言葉にしてしまうと、ひどく馬鹿らしく聞こえる気がした。 なのに司は一度も笑わなかった。むしろ、目の奥が一瞬で冷えたのが分かった。
「どういうふうに」
「分かんない。ただ、先に気づいてる感じ。私が見る前に、向こうの私が見てるみたいな」
司は黙って聞いている。
「それで、ぼーっとすることが増えて。昨日、道路でもちょっと……映り込み見ちゃって」
そこまで聞いて、司が短く息を吐いた。テーブルの下で拳を握っているのが見える。
「……どうしてもっと早く言わないの」
怒っているというより、自分に腹を立てている声だった。
「だって、気のせいかもって思ったし……」
「気のせいで怪我するなら十分おかしいでしょ」
そう言ってから、司は一度だけ目を閉じた。次に開いた時には、さっきよりずっと優しい顔になっていた。
「もう一回、最初から話して。何を見たのか。いつからなのか。どこで強く感じるのか」
涼花は小さく頷いた。目の奥が少し熱くなる。
運ばれてきたパンケーキの甘い匂いが広がる。 司は皿をこちらへ寄せ、紅茶のカップも手元に置いた。
「……食べながらでいいよ。これ、涼花好きだったでしょ」
「……覚えてたんだ」
「当たり前でしょ」
その手つきは、別人みたいに丁寧だった。
涼花はフォークを持つ。けれど一口目を食べる前に、窓ガラスの方へ視線が吸われそうになって、慌てて目を逸らした。
「……まだ見えるんだね」
「見えるっていうか」 涼花は小さく息を吐く。 「見てない時も、見られてる感じがする」
司の表情が、はっきり強張った。
そこで初めて、涼花は兄が本気で何かを疑っている顔をしたのを見た。 ただの疲れでも、ただの気のせいでもない。 その可能性に、司はもう辿り着きかけている。
そして、その原因に心当たりがあるのだと、涼花にも分かった。



