チャーミーの一件から、四日が経った。
表向きには、何も変わっていなかった。
昂夜のチャンネルは相変わらず回っているし、壱太もいつも通り明るい。司は編集と撮影の段取りをきっちりこなし、朔也は朔也で、何事もなかったみたいにコンビニのシフトに入っていた。
ただ、昂夜だけは動画のコメント欄を見るたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えていた。
チャーミーを可愛いと褒める声。 うちに来てほしいと呼ぶ声。 戻ってきて、と繰り返す声。
投稿から時間が経っているのに、熱が引かない。 むしろ、じわじわと濃くなっているようにさえ見える。
だからといって、もう一度その件を蒸し返す気にもなれなかった。 壱太はあの夜のことを、どこか曖昧にしか覚えていないらしかったし、司も必要以上には触れようとしない。朔也に至っては、本当に終わったと思っている節がある。
あれ以来、昂夜は一人で何度もアーカイブを見返した。 問題の場面で画面を止め、コメント欄を追い、炎の中を凝視した。
それでも、確信は持てないままだった。
終わっていない気がする。 でも、何がどう終わっていないのかは掴めない。
そんな宙ぶらりんな違和感だけが、ずっと残っている。
その日の夕方も、昂夜は撮影用に借りている部屋で一人、パソコンの画面を睨んでいた。
編集途中の動画データ。 未読のコメント通知。 メッセージアプリの赤い数字。
そこに、新着のトークが一つ増えた。
朔也だった。
今から行っていい?
短い。 いつものことだ。
昂夜は一度だけ目を閉じてから、返信を打つ。
勝手に来るだろ
送った瞬間に既読がつく。 返事はない。
どうせ本当に来る。
そう思っていると、案の定、十分もしないうちにドアが開いた。
「いた」
「いるって送っただろ」
昂夜は椅子に座ったまま振り返る。
朔也は片手にコンビニの袋を提げていた。ラフな黒のパーカーに、少し擦れたスニーカー。バイト帰りらしい気の抜けた格好のまま、部屋の中を見回す。
「壱太と司は?」
「今日はまだ来てない」
「ふうん」
それだけ言って、朔也は勝手にソファへ腰を下ろした。コンビニ袋をテーブルに置き、中から缶コーヒーを一本取り出す。
「で」
昂夜が先に口を開く。
「また呪物か」
「またって言い方ひどくね」
「違うのかよ」
「違わない」
朔也はあっさり認めた。
そこでようやく、ほんの少しだけ口元が上がる。
「次、ちょっと面白いのある」
「その言い方で面白かった試し、そんなにないんだけどな」
「今回は鏡」
その一言で、昂夜の眉がわずかに動いた。
「鏡?」
「うん」
朔也はコンビニ袋の奥から、さらに何かを取り出そうとする。古びた風呂敷に包まれた、平たい物体だった。
「待て」
思わず声が強くなる。
朔也が手を止める。
「何」
「いきなり出すな」
「見るために持ってきたんだけど」
「だからって準備ってもんがあるだろ」
「準備って?」
「……」
昂夜は一瞬だけ言葉に詰まる。
自分でも、何をどう準備したいのかうまく説明できない。 ただ、鏡という言葉に妙な引っかかりがあった。
見る、という行為そのものが嫌な気配を帯びる。
「お前、それどこで手に入れた」
代わりにそう問う。
「バイト先の常連のじいさん」
朔也は気軽に答えた。
「正確には、そのじいさんの親戚から回ってきたやつらしいけど」
「回ってきた?」
「遺品整理だって」
風呂敷の端を指先でいじりながら続ける。
「その家で何人か続けて死んでるらしくて。で、家のもん整理してたら、これが出てきた」
「……それをなんでお前に」
「俺がそういうの集めてるって、先輩が喋ったんじゃね」
他人事みたいに言う。
「で、昨日そのじいさんが店来てさ。これ、あんたなら面白がるだろって」
「最低だな」
「まあな」
否定しない。
「で、その鏡が?」
「何人も死んだ家にあったやつ」
朔也はあくまで軽い口調のままだった。
「見たやつが、ちょっとずつおかしくなるって」
「ちょっとずつ、って」
「自分の顔が変に見えるとか。鏡の中の方がしっくりくるとか」
その説明を聞いた瞬間、昂夜は背もたれに寄りかかっていた体を少し起こした。
「……それ、誰が言ってた」
「譲ってきたやつ」
「本人が?」
「いや、その家の話」
朔也は肩をすくめる。
「何代か前からある鏡らしくて、昔からあんま評判よくなかったみたい」
妙に部屋が静かだった。
エアコンの低い音だけが、遠くで鳴っている。
昂夜は無意識に、テーブルの上の黒いモニター画面を伏せるように指で押した。 そこに自分の顔が映るのが、少しだけ気になったからだ。
「で?」
低く問う。
「まさかまた動画にする気か」
「するだろ」
朔也は当然みたいに答える。
「いや、でも今回はかなり見やすいと思う。鏡だし」
「見やすいとかそういう話じゃない」
「昂夜」
朔也が少しだけ真面目な声で名前を呼ぶ。
「お前、最近びびりすぎ」
「……」
その言葉に、昂夜はすぐに返せなかった。
チャーミーの件以来、自分が少し神経質になっている自覚はある。 だが、だからといって「気にしすぎ」で片づけていい感じでもなかった。
「一回見てから決めればいいじゃん」
朔也は言う。
「変だったらやめりゃいい」
「それで済まないことがあったばっかだろ」
「でも終わった」
「終わってねえかもしれないって言ってんだよ」
気付けば、声が強くなっていた。
朔也は黙ってこちらを見る。 怒っているわけでも、怯んでいるわけでもない。ただ、少しだけ不思議そうな顔だった。
「……そんなに気になるなら」
朔也はやがて、ソファに深く腰を預けたまま言った。
「司と壱太来てからにする?」
昂夜はすぐには答えなかった。
誰かがいた方がいい。 そう思う一方で、巻き込みたくない気持ちもある。
けれど、結局こういう時、完全に一人で抱えるのは無理なのだと、もう何度も思い知らされている。
「……来てからにしろ」
短く答える。
「勝手に先に開けるなよ」
「はいはい」
そう返しながら、朔也は風呂敷を膝の上に置いたままだった。
その輪郭は平たく、鈍い。
まだ中身は見えていないのに、なぜかその存在だけが部屋の空気に馴染まない。
鏡。
ただそれだけの言葉が、奇妙に重く残る。
やがて、廊下の向こうで足音がした。
軽い方が壱太。 少し速くて迷いのない方が司。
聞き慣れた足音に、昂夜は小さく息を吐く。
この先、たぶんまた面倒なことになる。
そんな予感だけは、もう十分すぎるほどあった。
表向きには、何も変わっていなかった。
昂夜のチャンネルは相変わらず回っているし、壱太もいつも通り明るい。司は編集と撮影の段取りをきっちりこなし、朔也は朔也で、何事もなかったみたいにコンビニのシフトに入っていた。
ただ、昂夜だけは動画のコメント欄を見るたび、胸の奥に小さな棘が刺さるような感覚を覚えていた。
チャーミーを可愛いと褒める声。 うちに来てほしいと呼ぶ声。 戻ってきて、と繰り返す声。
投稿から時間が経っているのに、熱が引かない。 むしろ、じわじわと濃くなっているようにさえ見える。
だからといって、もう一度その件を蒸し返す気にもなれなかった。 壱太はあの夜のことを、どこか曖昧にしか覚えていないらしかったし、司も必要以上には触れようとしない。朔也に至っては、本当に終わったと思っている節がある。
あれ以来、昂夜は一人で何度もアーカイブを見返した。 問題の場面で画面を止め、コメント欄を追い、炎の中を凝視した。
それでも、確信は持てないままだった。
終わっていない気がする。 でも、何がどう終わっていないのかは掴めない。
そんな宙ぶらりんな違和感だけが、ずっと残っている。
その日の夕方も、昂夜は撮影用に借りている部屋で一人、パソコンの画面を睨んでいた。
編集途中の動画データ。 未読のコメント通知。 メッセージアプリの赤い数字。
そこに、新着のトークが一つ増えた。
朔也だった。
今から行っていい?
短い。 いつものことだ。
昂夜は一度だけ目を閉じてから、返信を打つ。
勝手に来るだろ
送った瞬間に既読がつく。 返事はない。
どうせ本当に来る。
そう思っていると、案の定、十分もしないうちにドアが開いた。
「いた」
「いるって送っただろ」
昂夜は椅子に座ったまま振り返る。
朔也は片手にコンビニの袋を提げていた。ラフな黒のパーカーに、少し擦れたスニーカー。バイト帰りらしい気の抜けた格好のまま、部屋の中を見回す。
「壱太と司は?」
「今日はまだ来てない」
「ふうん」
それだけ言って、朔也は勝手にソファへ腰を下ろした。コンビニ袋をテーブルに置き、中から缶コーヒーを一本取り出す。
「で」
昂夜が先に口を開く。
「また呪物か」
「またって言い方ひどくね」
「違うのかよ」
「違わない」
朔也はあっさり認めた。
そこでようやく、ほんの少しだけ口元が上がる。
「次、ちょっと面白いのある」
「その言い方で面白かった試し、そんなにないんだけどな」
「今回は鏡」
その一言で、昂夜の眉がわずかに動いた。
「鏡?」
「うん」
朔也はコンビニ袋の奥から、さらに何かを取り出そうとする。古びた風呂敷に包まれた、平たい物体だった。
「待て」
思わず声が強くなる。
朔也が手を止める。
「何」
「いきなり出すな」
「見るために持ってきたんだけど」
「だからって準備ってもんがあるだろ」
「準備って?」
「……」
昂夜は一瞬だけ言葉に詰まる。
自分でも、何をどう準備したいのかうまく説明できない。 ただ、鏡という言葉に妙な引っかかりがあった。
見る、という行為そのものが嫌な気配を帯びる。
「お前、それどこで手に入れた」
代わりにそう問う。
「バイト先の常連のじいさん」
朔也は気軽に答えた。
「正確には、そのじいさんの親戚から回ってきたやつらしいけど」
「回ってきた?」
「遺品整理だって」
風呂敷の端を指先でいじりながら続ける。
「その家で何人か続けて死んでるらしくて。で、家のもん整理してたら、これが出てきた」
「……それをなんでお前に」
「俺がそういうの集めてるって、先輩が喋ったんじゃね」
他人事みたいに言う。
「で、昨日そのじいさんが店来てさ。これ、あんたなら面白がるだろって」
「最低だな」
「まあな」
否定しない。
「で、その鏡が?」
「何人も死んだ家にあったやつ」
朔也はあくまで軽い口調のままだった。
「見たやつが、ちょっとずつおかしくなるって」
「ちょっとずつ、って」
「自分の顔が変に見えるとか。鏡の中の方がしっくりくるとか」
その説明を聞いた瞬間、昂夜は背もたれに寄りかかっていた体を少し起こした。
「……それ、誰が言ってた」
「譲ってきたやつ」
「本人が?」
「いや、その家の話」
朔也は肩をすくめる。
「何代か前からある鏡らしくて、昔からあんま評判よくなかったみたい」
妙に部屋が静かだった。
エアコンの低い音だけが、遠くで鳴っている。
昂夜は無意識に、テーブルの上の黒いモニター画面を伏せるように指で押した。 そこに自分の顔が映るのが、少しだけ気になったからだ。
「で?」
低く問う。
「まさかまた動画にする気か」
「するだろ」
朔也は当然みたいに答える。
「いや、でも今回はかなり見やすいと思う。鏡だし」
「見やすいとかそういう話じゃない」
「昂夜」
朔也が少しだけ真面目な声で名前を呼ぶ。
「お前、最近びびりすぎ」
「……」
その言葉に、昂夜はすぐに返せなかった。
チャーミーの件以来、自分が少し神経質になっている自覚はある。 だが、だからといって「気にしすぎ」で片づけていい感じでもなかった。
「一回見てから決めればいいじゃん」
朔也は言う。
「変だったらやめりゃいい」
「それで済まないことがあったばっかだろ」
「でも終わった」
「終わってねえかもしれないって言ってんだよ」
気付けば、声が強くなっていた。
朔也は黙ってこちらを見る。 怒っているわけでも、怯んでいるわけでもない。ただ、少しだけ不思議そうな顔だった。
「……そんなに気になるなら」
朔也はやがて、ソファに深く腰を預けたまま言った。
「司と壱太来てからにする?」
昂夜はすぐには答えなかった。
誰かがいた方がいい。 そう思う一方で、巻き込みたくない気持ちもある。
けれど、結局こういう時、完全に一人で抱えるのは無理なのだと、もう何度も思い知らされている。
「……来てからにしろ」
短く答える。
「勝手に先に開けるなよ」
「はいはい」
そう返しながら、朔也は風呂敷を膝の上に置いたままだった。
その輪郭は平たく、鈍い。
まだ中身は見えていないのに、なぜかその存在だけが部屋の空気に馴染まない。
鏡。
ただそれだけの言葉が、奇妙に重く残る。
やがて、廊下の向こうで足音がした。
軽い方が壱太。 少し速くて迷いのない方が司。
聞き慣れた足音に、昂夜は小さく息を吐く。
この先、たぶんまた面倒なことになる。
そんな予感だけは、もう十分すぎるほどあった。
