配信の準備は、妙に静かに進んだ。
司がカメラを調整し、壱太がライトの角度を見る。いつもなら軽口が飛ぶのに、今日は誰も無駄に声を張らない。 テーブルの中央には古い銅鏡が置かれていた。照明を受けても、表面は鈍く光るだけだ。
「角度、そこだと反射きついです」 司が言う。
「もう少し下げてください」
「あいよー」 壱太がライトをずらす。
朔也はソファから半身を起こしただけだった。
「お前も少しは動けよ」 昂夜が低く言う。
「俺、持ち込み担当だし」
「担当の線引きが雑すぎるだろ」
「……いきますよ」 司がイヤホンを片耳に押し込みながら言う。 「配信回します」
昂夜は一度だけ息を吸った。 やめるなら今だ。そんな考えが一瞬よぎる。 けれど、もう全員が動いている。
「……始める」
配信開始のボタンを押す。 画面が切り替わり、視聴者数がじわじわ増え始めた。
「はい、どうも」 昂夜はカメラに向かう。 「今日は急だけど、生配信で少しだけやる。長くはやらない」
「こんばんはー。ちょっと変わり種です」 壱太が手を振る。
「変わり種っていうか、だいぶ嫌なやつだけどな」
コメント欄が流れ始める。
生だ こんばんは 何やるの? 壱太くん元気そう
ごく普通の反応だった。 それだけで少し気が緩みそうになる。
「今回のは古い鏡」 昂夜はテーブルへ視線を落とす。 「江戸期のものらしい銅鏡で、見た人間がおかしくなるって曰くがある」
コメントが少し速くなる。
鏡やば また怖いやつ 見た人間ってどうなるの?
「自分の顔が変に見えるとか、鏡の中の方が自然に感じるとか、そういう話だ」 言いながら、自分の声が少し固いのが分かった。
「見た感じは普通なんだよねー」 壱太が続ける。
「そこで油断すんな」
司がカメラの向こうで小さく親指を立てた。 進めていい、という合図だ。
「……今から鏡面をカメラに向ける」 昂夜は言う。 「嫌な人は見ないでくれ。十秒だけ」
コメント欄がざわつく。
きた 十秒だけ? 自己責任ね 怖
朔也が鏡を手に取った。
「数える?」
「俺が数える」
昂夜は鏡から目を逸らさず数え始める。
「十」
朔也が鏡を持ち上げる。
「九」
鈍く曇った鏡面に部屋の光が浮く。
「八」
自分たちの輪郭がぼやけて映る。
「七」
壱太が黙る。
「六」
司がモニターを凝視する。
「五」
鏡面がカメラへ向く。
「四」
画面の中に曖昧な反射が広がる。
「三」
自分の顔。背後のライト。部屋の輪郭。
「二」
何もない。少なくとも、そう見える。
「一」
昂夜は息を止めた。
「——終わり」
朔也が鏡を下ろす。 その瞬間、部屋の空気が少し緩んだ。
「……何もなくない?」 壱太が言う。 「普通だったね」
コメント欄も一気に流れ始める。
普通の鏡じゃん 思ったより何もない 綺麗 ちょっと怖かった 見えた人いる?
そこまではよかった。
昂夜は流れる文字を追い、その中の一つで止まる。
今、黒いの上がらなかった?
次の瞬間には流れて消える。 そのあとに重なるように、
え、何も見えないけど ノイズ? 黒いモヤみたいなの一瞬見えた 気のせい?
少数だ。圧倒的に少ない。けれど確かにある。
「……」
「どうした?」 壱太が聞く。
「少しだけ、変なのが混ざってる」
「変なの?」
壱太がモニターを覗き込む。 その横で、司が少し身を乗り出した。
「……黒いモヤ、ですか」
「でもほとんどの人は何も見てない」
「だろ」 朔也はあっさり言った。 「じゃあ気のせいじゃん」
「そうとも言い切れない」 昂夜はすぐ返す。
コメントはなおも流れる。
思ったより普通 でもなんか見ちゃう 目離せない もう一回見せて
最後の一文に、嫌な棘が引っかかった。
もう一回見せて。
ただの好奇心にも見える。だが、熱がありすぎた。
「……今日はここまでだ」 昂夜はすぐに言った。 「短いけど終わる」
「えー、もう?」 壱太が反射的に言う。
「十分だ」
配信を閉じる。 画面が通常表示に戻ると、部屋の静けさが急に濃くなった。
「何もなかったのに?」 朔也が鏡をテーブルに戻しながら言う。
「何もなかった、とは言えねぇよ」 昂夜は短く返した。 「少なくとも、見えたって言ってるやつがいる」
「少数だろ」
「少数でもだ」
そこで視線を上げる。 司がモニターの黒い縁をじっと見ていた。
「司」
呼ぶと、司は一拍遅れて顔を上げた。
「……はい」
「何か見えたか」
「いえ」 即答だった。 けれど、そのあと小さく続ける。 「ただ……少し、目が変な感じします」
部屋がまた静かになる。
「変って?」 壱太が聞く。
司は眉間を押さえた。
「ピントが合いにくいというか。画面見たあと、鏡じゃないところにも映り込みが残る感じがして」
「……おい」 昂夜の声が低くなる。 「大丈夫なのか」
「たぶん、疲れ目です。ライトも強いですし」
もっともな言葉だった。 けれど妙に引っかかる。
朔也だけが本当に何事もない顔をしている。
「俺はなんもないけど」
その一言が、逆に嫌だった。
「お前はそうだろうな」
司は小さく瞬きを繰り返している。壱太もさっきまでの軽さを少し引っ込めた。
「……司、今日はもう帰って休んだ方がいいんじゃない?」
「いえ、編集データだけまとめます」
「今やらなくていいだろ」 昂夜が言う。
司は一度だけ目を閉じた。
「……すみません」
珍しいくらい素直な返事だった。
テーブルの上の鏡は、変わらずそこにある。 曇った鏡面は、もう誰も覗いていないのに、どこかこちらを向いているように見えた。
その頃。 司の妹の涼花は、花屋のアルバイトを終えて帰宅したところだった。
課題に手をつける前に、なんとなくスマホを開く。 通知に混ざって、兄が関わっているチャンネルの生配信アーカイブが目に入った。
「また怖いのやってる……」
苦笑しながら再生する。 兄がカメラの向こうで真面目な顔をしていて、昂夜と壱太がいつも通り喋っている。それだけなら見慣れた光景だった。
けれど、鏡の場面になった瞬間、涼花は少しだけ眉を寄せた。
「……あれ?」
画面の中の曇った鏡面。 一瞬だけ、その奥から黒いものが立ちのぼった気がした。
「気のせい……?」
巻き戻して、もう一度見る。 今度は何も見えない。
再生を止めた黒い画面に、自分の顔が映る。 その瞬間、涼花は小さく肩を震わせた。
ただの反射だ。そう分かっているのに。
映った自分が、先にこっちを見ていた気がした。
司がカメラを調整し、壱太がライトの角度を見る。いつもなら軽口が飛ぶのに、今日は誰も無駄に声を張らない。 テーブルの中央には古い銅鏡が置かれていた。照明を受けても、表面は鈍く光るだけだ。
「角度、そこだと反射きついです」 司が言う。
「もう少し下げてください」
「あいよー」 壱太がライトをずらす。
朔也はソファから半身を起こしただけだった。
「お前も少しは動けよ」 昂夜が低く言う。
「俺、持ち込み担当だし」
「担当の線引きが雑すぎるだろ」
「……いきますよ」 司がイヤホンを片耳に押し込みながら言う。 「配信回します」
昂夜は一度だけ息を吸った。 やめるなら今だ。そんな考えが一瞬よぎる。 けれど、もう全員が動いている。
「……始める」
配信開始のボタンを押す。 画面が切り替わり、視聴者数がじわじわ増え始めた。
「はい、どうも」 昂夜はカメラに向かう。 「今日は急だけど、生配信で少しだけやる。長くはやらない」
「こんばんはー。ちょっと変わり種です」 壱太が手を振る。
「変わり種っていうか、だいぶ嫌なやつだけどな」
コメント欄が流れ始める。
生だ こんばんは 何やるの? 壱太くん元気そう
ごく普通の反応だった。 それだけで少し気が緩みそうになる。
「今回のは古い鏡」 昂夜はテーブルへ視線を落とす。 「江戸期のものらしい銅鏡で、見た人間がおかしくなるって曰くがある」
コメントが少し速くなる。
鏡やば また怖いやつ 見た人間ってどうなるの?
「自分の顔が変に見えるとか、鏡の中の方が自然に感じるとか、そういう話だ」 言いながら、自分の声が少し固いのが分かった。
「見た感じは普通なんだよねー」 壱太が続ける。
「そこで油断すんな」
司がカメラの向こうで小さく親指を立てた。 進めていい、という合図だ。
「……今から鏡面をカメラに向ける」 昂夜は言う。 「嫌な人は見ないでくれ。十秒だけ」
コメント欄がざわつく。
きた 十秒だけ? 自己責任ね 怖
朔也が鏡を手に取った。
「数える?」
「俺が数える」
昂夜は鏡から目を逸らさず数え始める。
「十」
朔也が鏡を持ち上げる。
「九」
鈍く曇った鏡面に部屋の光が浮く。
「八」
自分たちの輪郭がぼやけて映る。
「七」
壱太が黙る。
「六」
司がモニターを凝視する。
「五」
鏡面がカメラへ向く。
「四」
画面の中に曖昧な反射が広がる。
「三」
自分の顔。背後のライト。部屋の輪郭。
「二」
何もない。少なくとも、そう見える。
「一」
昂夜は息を止めた。
「——終わり」
朔也が鏡を下ろす。 その瞬間、部屋の空気が少し緩んだ。
「……何もなくない?」 壱太が言う。 「普通だったね」
コメント欄も一気に流れ始める。
普通の鏡じゃん 思ったより何もない 綺麗 ちょっと怖かった 見えた人いる?
そこまではよかった。
昂夜は流れる文字を追い、その中の一つで止まる。
今、黒いの上がらなかった?
次の瞬間には流れて消える。 そのあとに重なるように、
え、何も見えないけど ノイズ? 黒いモヤみたいなの一瞬見えた 気のせい?
少数だ。圧倒的に少ない。けれど確かにある。
「……」
「どうした?」 壱太が聞く。
「少しだけ、変なのが混ざってる」
「変なの?」
壱太がモニターを覗き込む。 その横で、司が少し身を乗り出した。
「……黒いモヤ、ですか」
「でもほとんどの人は何も見てない」
「だろ」 朔也はあっさり言った。 「じゃあ気のせいじゃん」
「そうとも言い切れない」 昂夜はすぐ返す。
コメントはなおも流れる。
思ったより普通 でもなんか見ちゃう 目離せない もう一回見せて
最後の一文に、嫌な棘が引っかかった。
もう一回見せて。
ただの好奇心にも見える。だが、熱がありすぎた。
「……今日はここまでだ」 昂夜はすぐに言った。 「短いけど終わる」
「えー、もう?」 壱太が反射的に言う。
「十分だ」
配信を閉じる。 画面が通常表示に戻ると、部屋の静けさが急に濃くなった。
「何もなかったのに?」 朔也が鏡をテーブルに戻しながら言う。
「何もなかった、とは言えねぇよ」 昂夜は短く返した。 「少なくとも、見えたって言ってるやつがいる」
「少数だろ」
「少数でもだ」
そこで視線を上げる。 司がモニターの黒い縁をじっと見ていた。
「司」
呼ぶと、司は一拍遅れて顔を上げた。
「……はい」
「何か見えたか」
「いえ」 即答だった。 けれど、そのあと小さく続ける。 「ただ……少し、目が変な感じします」
部屋がまた静かになる。
「変って?」 壱太が聞く。
司は眉間を押さえた。
「ピントが合いにくいというか。画面見たあと、鏡じゃないところにも映り込みが残る感じがして」
「……おい」 昂夜の声が低くなる。 「大丈夫なのか」
「たぶん、疲れ目です。ライトも強いですし」
もっともな言葉だった。 けれど妙に引っかかる。
朔也だけが本当に何事もない顔をしている。
「俺はなんもないけど」
その一言が、逆に嫌だった。
「お前はそうだろうな」
司は小さく瞬きを繰り返している。壱太もさっきまでの軽さを少し引っ込めた。
「……司、今日はもう帰って休んだ方がいいんじゃない?」
「いえ、編集データだけまとめます」
「今やらなくていいだろ」 昂夜が言う。
司は一度だけ目を閉じた。
「……すみません」
珍しいくらい素直な返事だった。
テーブルの上の鏡は、変わらずそこにある。 曇った鏡面は、もう誰も覗いていないのに、どこかこちらを向いているように見えた。
その頃。 司の妹の涼花は、花屋のアルバイトを終えて帰宅したところだった。
課題に手をつける前に、なんとなくスマホを開く。 通知に混ざって、兄が関わっているチャンネルの生配信アーカイブが目に入った。
「また怖いのやってる……」
苦笑しながら再生する。 兄がカメラの向こうで真面目な顔をしていて、昂夜と壱太がいつも通り喋っている。それだけなら見慣れた光景だった。
けれど、鏡の場面になった瞬間、涼花は少しだけ眉を寄せた。
「……あれ?」
画面の中の曇った鏡面。 一瞬だけ、その奥から黒いものが立ちのぼった気がした。
「気のせい……?」
巻き戻して、もう一度見る。 今度は何も見えない。
再生を止めた黒い画面に、自分の顔が映る。 その瞬間、涼花は小さく肩を震わせた。
ただの反射だ。そう分かっているのに。
映った自分が、先にこっちを見ていた気がした。



