古びた木箱の蓋が、ぎ、と鈍い音を立てて開いた。
室内は湿っていた。壁紙はところどころ剥がれ、窓は割れ、昼間だというのに光が奥まで届かない。空気が淀んでいるというより、沈殿している。
その中心に、箱は置かれていた。
「開けるぞ」
そう言ったのは、カメラの向こう側にいる青年だった。黒い服に、細い指。レンズ越しでも分かるくらいに整った顔立ちをしている。
昂夜は、視線を外さずに頷いた。
「……一応、言っとくけど。それ、やばそうならすぐ離せよ」
「分かってるって」
軽い調子の返答。けれど、その声音にはどこか張り詰めたものが混じっている。
配信は回っていた。
コメント欄は静かだった。普段なら冗談や茶化しで流れるのに、今は誰も軽口を叩かない。画面越しにも、この場の空気は伝わっているらしい。
木箱の中には、布に包まれた何かがあった。朔也は迷いなくそれを取り出す。
古い布だ。何重にも巻かれて、湿気を吸って重くなっている。結び目をほどくたびに、指先に冷たさが移る。
「……感じるか?」
昴夜の問いに、朔也は少しだけ首を傾げた。
「別に」
それだけ言って、最後の布を外す。
現れたのは、小さな人形だった。
土で出来ているのか、あるいは木か。ひび割れた表面に、雑に描かれた顔。目の部分だけが妙に濃く、こちらを見ているように錯覚する。
その瞬間だった。
背筋に、ぞわ、と何かが這い上がる。空気が変わった。昴夜は反射的に一歩下がる。
「朔也、それ——」
「これか?」
朔也は、人形を軽く持ち上げた。何でもないものを扱うみたいに。
その無造作さが、余計におかしい。
普通なら、触れた瞬間に分かる。嫌な感じがするとか、重いとか、そういう“兆し”がある。けれど、朔也にはそれがない。まるで、何も感じていないみたいに。
「……おい、それ」
言いかけた言葉は、途中で途切れた。
視界が、ぶれる。一瞬、意識が遅れたような感覚。瞬きをする。すると、違和感だけが残った。
何かがおかしい。
目の前に、誰かがいる。黒い服の、青年。人形を持っている。
——誰だ?
「……なあ」
口から、言葉がこぼれる。
「お前、誰だっけ」
沈黙が落ちた。
配信のコメント欄が、一気に流れ出す。昴夜の心臓が、強く打つ。
「……は?」
思わず、声が低くなる。
朔也は本気で分からない顔をしていた。冗談じゃない。そういう顔じゃない。
「いや、さっきから一緒にいるけどさ」
人形を持ったまま、朔也は首を傾げる。
「なんで一緒にいるんだっけ」
軽い調子のまま。けれど、その中身だけが決定的におかしい。
昴夜は、言葉を失った。
配信の向こうで、誰かが何かを打ち込んでいる気配がする。けれど、それを読む余裕はない。ただ、目の前の現実だけがずれている。
「……ふざけてるならやめろ」
「ふざけてねぇよ」
即答だった。迷いも、含みもない。本当に、分かっていない。それが、分かる。だからこそ、背筋が冷える。
「お前——」
言いかけて、言葉が詰まる。何から言えばいいのか分からない。自分とこいつの関係を、どう説明すればいいのか。
その一瞬の迷いが、致命的だった。
朔也は、もう興味を失ったように視線を外している。
「まあいいか」
ぽつりと、そう言った。
「別に知らなくても困らないだろ」
その言葉が、やけに静かに響いた。その通りだ、と言われた気がした。けれど、違う、とも思う。何かが決定的に、違う。
「……困るだろ」
気付けば、そう返していた。
朔也が、もう一度こちらを見る。
「何が」
「何がって——」
言葉が、出ない。説明できるはずなのに、うまく言葉にならない。喉の奥で引っかかる。
代わりに出たのは、もっと単純なものだった。
「俺がいなくなってもいいのかよ」
言った瞬間、後悔した。何を言っているんだ、と思う。けれど、もう遅い。
朔也は少しだけ黙った。ほんの一瞬。それだけなのに、やけに長く感じる。視線が、まっすぐこちらに向けられる。何かを探るみたいに。
それから、ぽつりと。
「……それは」
言いかけて、止まる。自分でも分からない、という顔。けれど、次の瞬間には、はっきりと口にした。
「困るな」
その一言が、妙に重く落ちた。
理由は、ないはずなのに。関係も、分からないはずなのに。それでも、否定だけはしない。
昴夜は、息を呑んだ。
——なんだ、それ。
胸の奥で、何かが強く鳴る。安堵とも違う、怒りとも違う、説明のつかない感情。
朔也はそんなことに構わず、人形に視線を落とした。
「これが原因か」
軽くそう言って、指先でひびをなぞる。
その瞬間、人形の目が、わずかに歪んだ気がした。
空気が、軋む。何かが、まだ終わっていない。むしろ——始まったばかりだ。
昴夜は、ゆっくりと息を吐いた。視線は、朔也から外さない。
忘れられている。それでも、離れる気はなかった。
室内は湿っていた。壁紙はところどころ剥がれ、窓は割れ、昼間だというのに光が奥まで届かない。空気が淀んでいるというより、沈殿している。
その中心に、箱は置かれていた。
「開けるぞ」
そう言ったのは、カメラの向こう側にいる青年だった。黒い服に、細い指。レンズ越しでも分かるくらいに整った顔立ちをしている。
昂夜は、視線を外さずに頷いた。
「……一応、言っとくけど。それ、やばそうならすぐ離せよ」
「分かってるって」
軽い調子の返答。けれど、その声音にはどこか張り詰めたものが混じっている。
配信は回っていた。
コメント欄は静かだった。普段なら冗談や茶化しで流れるのに、今は誰も軽口を叩かない。画面越しにも、この場の空気は伝わっているらしい。
木箱の中には、布に包まれた何かがあった。朔也は迷いなくそれを取り出す。
古い布だ。何重にも巻かれて、湿気を吸って重くなっている。結び目をほどくたびに、指先に冷たさが移る。
「……感じるか?」
昴夜の問いに、朔也は少しだけ首を傾げた。
「別に」
それだけ言って、最後の布を外す。
現れたのは、小さな人形だった。
土で出来ているのか、あるいは木か。ひび割れた表面に、雑に描かれた顔。目の部分だけが妙に濃く、こちらを見ているように錯覚する。
その瞬間だった。
背筋に、ぞわ、と何かが這い上がる。空気が変わった。昴夜は反射的に一歩下がる。
「朔也、それ——」
「これか?」
朔也は、人形を軽く持ち上げた。何でもないものを扱うみたいに。
その無造作さが、余計におかしい。
普通なら、触れた瞬間に分かる。嫌な感じがするとか、重いとか、そういう“兆し”がある。けれど、朔也にはそれがない。まるで、何も感じていないみたいに。
「……おい、それ」
言いかけた言葉は、途中で途切れた。
視界が、ぶれる。一瞬、意識が遅れたような感覚。瞬きをする。すると、違和感だけが残った。
何かがおかしい。
目の前に、誰かがいる。黒い服の、青年。人形を持っている。
——誰だ?
「……なあ」
口から、言葉がこぼれる。
「お前、誰だっけ」
沈黙が落ちた。
配信のコメント欄が、一気に流れ出す。昴夜の心臓が、強く打つ。
「……は?」
思わず、声が低くなる。
朔也は本気で分からない顔をしていた。冗談じゃない。そういう顔じゃない。
「いや、さっきから一緒にいるけどさ」
人形を持ったまま、朔也は首を傾げる。
「なんで一緒にいるんだっけ」
軽い調子のまま。けれど、その中身だけが決定的におかしい。
昴夜は、言葉を失った。
配信の向こうで、誰かが何かを打ち込んでいる気配がする。けれど、それを読む余裕はない。ただ、目の前の現実だけがずれている。
「……ふざけてるならやめろ」
「ふざけてねぇよ」
即答だった。迷いも、含みもない。本当に、分かっていない。それが、分かる。だからこそ、背筋が冷える。
「お前——」
言いかけて、言葉が詰まる。何から言えばいいのか分からない。自分とこいつの関係を、どう説明すればいいのか。
その一瞬の迷いが、致命的だった。
朔也は、もう興味を失ったように視線を外している。
「まあいいか」
ぽつりと、そう言った。
「別に知らなくても困らないだろ」
その言葉が、やけに静かに響いた。その通りだ、と言われた気がした。けれど、違う、とも思う。何かが決定的に、違う。
「……困るだろ」
気付けば、そう返していた。
朔也が、もう一度こちらを見る。
「何が」
「何がって——」
言葉が、出ない。説明できるはずなのに、うまく言葉にならない。喉の奥で引っかかる。
代わりに出たのは、もっと単純なものだった。
「俺がいなくなってもいいのかよ」
言った瞬間、後悔した。何を言っているんだ、と思う。けれど、もう遅い。
朔也は少しだけ黙った。ほんの一瞬。それだけなのに、やけに長く感じる。視線が、まっすぐこちらに向けられる。何かを探るみたいに。
それから、ぽつりと。
「……それは」
言いかけて、止まる。自分でも分からない、という顔。けれど、次の瞬間には、はっきりと口にした。
「困るな」
その一言が、妙に重く落ちた。
理由は、ないはずなのに。関係も、分からないはずなのに。それでも、否定だけはしない。
昴夜は、息を呑んだ。
——なんだ、それ。
胸の奥で、何かが強く鳴る。安堵とも違う、怒りとも違う、説明のつかない感情。
朔也はそんなことに構わず、人形に視線を落とした。
「これが原因か」
軽くそう言って、指先でひびをなぞる。
その瞬間、人形の目が、わずかに歪んだ気がした。
空気が、軋む。何かが、まだ終わっていない。むしろ——始まったばかりだ。
昴夜は、ゆっくりと息を吐いた。視線は、朔也から外さない。
忘れられている。それでも、離れる気はなかった。
