家を出ると、朝の光はまだ柔らかく地面に落ちている。空気はまだ涼しくて、日陰に入るとだいぶ楽だった。通勤の波は終わったあとで、駅前もどこか空いていた。
駅に入る手前、コンビニで一度足が止まった。まだ待ち合わせの時間には早いし、水筒も持っていない。飲み物を買っておこうかと自動ドアをくぐると、冷たい空気が肌に触れた。水以外に買うものもないので、冷蔵庫からまっすぐレジへ向かう。
「袋、いりますか?」
店員の声に一瞬だけ反応が遅れた。ほんの一言なのに、声の出し方が分からなくなって、いらないと言えばいいだけなのに固まってしまう。
俺は一拍遅れて首を横に振った。店員は気にした様子もなく会計を進める。自分の胸だけに小さな引っかかりだけが残って、俺はマスクごしに口元を手で覆った。
待ち合わせの五分前に駅に行ったが、高瀬はもう来ていた。今日は私服姿だったけど、改めて見てもやっぱり目立つ外見をしていて、悪気のない視線が引っかかっては通り過ぎていく。人の流れがまばらで視線が止まりやすい時間だからかもしれない。
ただ、当の本人は見られていることを気にする様子もなく、スマホを一定のリズムで触っている。気にしていないのか、本当に気づいていないのかは分からない。
離れたところからそれを眺めていると、高瀬は俺に気づいて手を振った。
「おはよう。夏休みなのにごめんね」
「夏休みだからいいんだよ。宿題やる以外の用事も別にないし」
挨拶もそこそこに俺たちは改札をくぐり、電車に乗った。
夏休みの午前、意外と電車の中は空いている。俺と高瀬は体半分くらいを空けて、隣り合って座った。電車が動き出し、レールの継ぎ目を踏むたびにがたんごとんと音が続く。
「……今日は私服なんだな」
「? 夏休みだから、そりゃ私服だよ」
「だって家に来たとき制服だったじゃん」
「ああ……あれは」
高瀬は一度言葉を切ってから言った。
「身分証みたいになるかなと思って。悪い人じゃないって分かりやすいだろうし」
「……なるほど」
確かに学生証も出してたし、説得力はあるかもしれない。律儀というか真面目というか、悪い人じゃないのは間違いないけど、逆に危ないのでは。
そんなことを思いながらマスクをずらして水を飲み、またすぐに戻した。車内は涼しくても、喋るとそれなりに暑いし息苦しい。気づけば高瀬が心配そうにこちらを見ている。
「マスク暑くない? ……もしかして、体調悪かったりする?」
「違う。暑いのも平気」
首を振ったが、高瀬は納得しきっていない。俺は仕方なく理由を口にした。
「喋ってるの、分かりにくくしたくて……声が変でコンプレックスだから。マスクしてたらパッと見俺が喋ってるって分からないだろ」
顔を隠していると、心がほんの少し楽になる。伊織は何も言わず、俺を見て小さく首を傾げた。
「変? そうかな。綺麗な声だと思うけど」
「嘘。高瀬だって最初びっくりしてたくせに」
「そりゃ最初はインターホン越しで勝手に女の人かと思い込んでたからだよ。それは否定しない。でも、凪の声は高いけど女の人のじゃない、不思議で綺麗な声してる」
思ってもいなかった言葉に顔を上げると、高瀬は苦笑いを浮かべる。否定しようとしたのに、うまく言葉が出てこなかった。
「でも、俺もちょっとだけ、気持ちは分かるかも」
「変な慰めならいらないよ」
「そんなつもりじゃないって。俺の名前……伊織って女の子みたいで変じゃない? 小さい頃よくからかわれたから、自分にどうしようもないことが、気になる気持ちはちょっと分かるよ」
俺は「高瀬伊織」と名前を頭の中でなぞる。変ではないと思うけど、確かに名前を聞いただけなら、男か女かどっちか分からないかもしれない。
「姉さんは沙織っていうんだけど、俺、産まれる直前まで女の子だと思うって言われてたらしくて。どっちが生まれてもいいように、この名前に決めてたんだって」
「……そうなんだ。伊織って名前、似合ってるけどな」
素直な感想を口にすると、伊織は目をぱちぱちさせ、そっと笑った。
「じゃあ、凪が俺の名前にそう思ったのと、俺が凪の声に思ったことは、多分同じだよ」
「……そっか」
眩しい日差しの中、電車が揺れて、窓の外の景色が流れていく。
言葉が静かに落ちて、さっきまであった小さな反発はすっかりなくなっていた。どうしようもないことでも、気になるかどうかは自分で決められない。
電車が揺れるたび、肩が触れそうで触れない。
体半分の隙間の距離は変わらないはずなのに、近づいたのか遠くなったのか、うまく判断できなかった。
駅に入る手前、コンビニで一度足が止まった。まだ待ち合わせの時間には早いし、水筒も持っていない。飲み物を買っておこうかと自動ドアをくぐると、冷たい空気が肌に触れた。水以外に買うものもないので、冷蔵庫からまっすぐレジへ向かう。
「袋、いりますか?」
店員の声に一瞬だけ反応が遅れた。ほんの一言なのに、声の出し方が分からなくなって、いらないと言えばいいだけなのに固まってしまう。
俺は一拍遅れて首を横に振った。店員は気にした様子もなく会計を進める。自分の胸だけに小さな引っかかりだけが残って、俺はマスクごしに口元を手で覆った。
待ち合わせの五分前に駅に行ったが、高瀬はもう来ていた。今日は私服姿だったけど、改めて見てもやっぱり目立つ外見をしていて、悪気のない視線が引っかかっては通り過ぎていく。人の流れがまばらで視線が止まりやすい時間だからかもしれない。
ただ、当の本人は見られていることを気にする様子もなく、スマホを一定のリズムで触っている。気にしていないのか、本当に気づいていないのかは分からない。
離れたところからそれを眺めていると、高瀬は俺に気づいて手を振った。
「おはよう。夏休みなのにごめんね」
「夏休みだからいいんだよ。宿題やる以外の用事も別にないし」
挨拶もそこそこに俺たちは改札をくぐり、電車に乗った。
夏休みの午前、意外と電車の中は空いている。俺と高瀬は体半分くらいを空けて、隣り合って座った。電車が動き出し、レールの継ぎ目を踏むたびにがたんごとんと音が続く。
「……今日は私服なんだな」
「? 夏休みだから、そりゃ私服だよ」
「だって家に来たとき制服だったじゃん」
「ああ……あれは」
高瀬は一度言葉を切ってから言った。
「身分証みたいになるかなと思って。悪い人じゃないって分かりやすいだろうし」
「……なるほど」
確かに学生証も出してたし、説得力はあるかもしれない。律儀というか真面目というか、悪い人じゃないのは間違いないけど、逆に危ないのでは。
そんなことを思いながらマスクをずらして水を飲み、またすぐに戻した。車内は涼しくても、喋るとそれなりに暑いし息苦しい。気づけば高瀬が心配そうにこちらを見ている。
「マスク暑くない? ……もしかして、体調悪かったりする?」
「違う。暑いのも平気」
首を振ったが、高瀬は納得しきっていない。俺は仕方なく理由を口にした。
「喋ってるの、分かりにくくしたくて……声が変でコンプレックスだから。マスクしてたらパッと見俺が喋ってるって分からないだろ」
顔を隠していると、心がほんの少し楽になる。伊織は何も言わず、俺を見て小さく首を傾げた。
「変? そうかな。綺麗な声だと思うけど」
「嘘。高瀬だって最初びっくりしてたくせに」
「そりゃ最初はインターホン越しで勝手に女の人かと思い込んでたからだよ。それは否定しない。でも、凪の声は高いけど女の人のじゃない、不思議で綺麗な声してる」
思ってもいなかった言葉に顔を上げると、高瀬は苦笑いを浮かべる。否定しようとしたのに、うまく言葉が出てこなかった。
「でも、俺もちょっとだけ、気持ちは分かるかも」
「変な慰めならいらないよ」
「そんなつもりじゃないって。俺の名前……伊織って女の子みたいで変じゃない? 小さい頃よくからかわれたから、自分にどうしようもないことが、気になる気持ちはちょっと分かるよ」
俺は「高瀬伊織」と名前を頭の中でなぞる。変ではないと思うけど、確かに名前を聞いただけなら、男か女かどっちか分からないかもしれない。
「姉さんは沙織っていうんだけど、俺、産まれる直前まで女の子だと思うって言われてたらしくて。どっちが生まれてもいいように、この名前に決めてたんだって」
「……そうなんだ。伊織って名前、似合ってるけどな」
素直な感想を口にすると、伊織は目をぱちぱちさせ、そっと笑った。
「じゃあ、凪が俺の名前にそう思ったのと、俺が凪の声に思ったことは、多分同じだよ」
「……そっか」
眩しい日差しの中、電車が揺れて、窓の外の景色が流れていく。
言葉が静かに落ちて、さっきまであった小さな反発はすっかりなくなっていた。どうしようもないことでも、気になるかどうかは自分で決められない。
電車が揺れるたび、肩が触れそうで触れない。
体半分の隙間の距離は変わらないはずなのに、近づいたのか遠くなったのか、うまく判断できなかった。
