「もう遅いから、何か買うか、食べて帰ろうか」
「昼、素麺だったから麺以外がいい」
晩御飯を決めながら走り出して十分ほど経ったころ、車のスピーカーから着信音が鳴った。父さんのスマホの方だ。
「――はい、篠原です」
『――あの、突然すみません。高瀬伊織の母です。息子が大変なご迷惑をおかけしたと聞きまして……』
父さんが応じると、受話口の向こうから慌てた女性の声が聞こえる。ちゃんとすぐに親に言ったんだ。父さんが俺をちらりと見て肩を竦めて笑った。
「いえいえ」
電話の向こうで、深く頭を下げている気配が伝わってくる。
『よそのお宅に突然押しかけるなんてことをして。しかも送っていただいたなんて、本当にご迷惑を――』
「迷惑なんて、とんでもない」
父さんは穏やかな声で言った。
「事情は聞きました。お姉さんのこと、心配なんですよね」
短い沈黙のあと、向こうから小さな息が聞こえる。
『……はい。娘のことで、あの子なりに必死なんだとは思うんですが……』
高瀬のお母さんの声は小さく震えている。疑ってた訳じゃないけど、お姉さんが眠ってしまっているのは本当のようだ。
「こちらでできることがあれば協力します」
『これ以上ご迷惑は……』
「うちも基本的には息子がご一緒することになりますから、お気になさらず。無理なことはさせませんから、その点は安心してください」
『……ありがとうございます』
今度の声は、さっきより落ち着いていた。
『本当に、ありがとうございます』
通話が終わると、車内に静けさだけが残った。窓の外を夕方の街が流れていく中、父さんがぽつりと言う。
「真面目で優しい子だね」
俺は頷いた。
「父さん」
母さんが歌手だったこと、なんで俺は知らないの。
そう言おうとして、悪意ある記事や面白おかしく書かれた掲示板の言葉たちが脳裏を過ぎる。母さんが傷ついて歌うのを辞めたのなら、それには触れない。父さんはそういう人だ。
「ん?」
「……協力してあげるの?」
色々浮かんだことを何とか飲み込んで、それだけを口にした。
「嫌かい? 凪も協力してあげたそうに見えたけど」
「そういうわけじゃない、とも、言い切れない……けど」
そう。連絡先なんか交換せずに、そのまま見送ることもできた。なのになぜかそれで終わりにしてはいけない。ここで手を離したら、この話はもう自分とは関係のないものになる気がしていた。
「美波の不名誉な噂というのもあるけど……家族のためにできることなら何でもしたいって気持ちは分かるし、あの子をあのまま放っておくとよくない方向にいきそうだなって思ってね」
それはそうだ。今回は対応したのが俺や父さんだからよかったものの、訪ねた相手の方がヤバいやつの可能性だって、十分にある。
「それに……」
父さんは俺を一瞬だけ見て、すぐ運転に意識を戻してしまった。続けようと思えば続けられるのに、あえてそこを選ばなかったみたいだった。
「……何」
「何でもない。それより、父さん、今日急に休んだから平日はしばらく休めない。岸さんが平日に来てくれって言ったら、凪が高瀬くんについて行ってあげな」
「……うん」
俺も母さんのことは気になる。あと、高瀬のことも。だから父さんの言葉に素直に頷いた。
今日は色んなことがありすぎだ。ちょっと嫌だった終業式とホームルームの記憶はすっかり消え失せ、頭の中は高瀬と母のことで埋め尽くされていた。箸を動かしながら夕飯を食べている間も、風呂に入って体を洗っている間も、ずっとそのことばかりだった。一応部屋で宿題を広げてみたものの、全く集中することができなくて、数学のプリントを二枚終わらせるのがやっと。今日はもう終わりだと、消しゴムのかすを手で集めてゴミ箱に払い落とした。
寝るには早いけど、窓の外はもう暗い。シーグラスの瓶を窓辺に置いてそのままベッドに寝転び、スマホで母のことを調べてみるが、高瀬が見せてくれたほどの情報は出てこない。あれはやっぱりお姉さんを救いたいという執念の賜物なんだろう。
俺はスマホを置いて、じいちゃんの家から持って帰ってきた母のノートをぱらぱらめくった。
水の中の泡沫は言葉のかたち
手を伸ばせば 声はほどけて
静かな部屋で、ページをめくる音がやけに近く聞こえた。
「歌詞が書けるんだ……母さんすごいな」
学校の課題の短い詩ですら悪戦苦闘していた俺とは大違いである。でも思い返せば、母さんは国語が得意だった。図書館でよく本を借りていたし教え方も上手だった。読書感想文で詰まると母さんはすぐ答えを言わずに「どこが残った?」とだけ聞いて、書く方向を示して導いてくれた。
波の彼方で 誰か呼んでる
振り向くほどに遠くなる
自分の涙で できた海へ
小さな舟を そっと浮かべて
水の中の泡沫は言葉のかたち
誰にも空にも 届かないまま
海に混じって 溶けていく
母さんの書いた詩は綺麗だけど、あまり明るいものはない。
綺麗なのに落ち着かない。なのにどこか安心してしまいそうで、それが怖い。日陰や暗い部屋からきらきらしたものを見ているように、心がさざなみ立つ。
このまま沈んでいけたら楽なのかもしれないと、思ってしまうような。
高瀬がこれだと言っていた歌詞も、ゆっくり海の底へ沈みながら、ぼんやりと光を見ているような、そんな雰囲気の曲だった。何かが分かるわけでもないのに、気づくとまた同じページを開いていた。
ノートを閉じても、頭に言葉だけが残っている。読んでいるというより、そこに戻されているみたいに、そのまましばらく動けない。
時間だけが過ぎていき――数日後、岸さんから父さんに連絡があった。週末は店が忙しいから平日に来てくれ、ということだった。
父さんは当然仕事なので、俺と高瀬のふたりで岸さんの店へ向かうことになる。
通話とメッセージの画面を、行き来する。何も押さないまま指を止め、画面を消しかけて、もう一度開く。ただの待ち合わせなのに、変に構えてしまう。
掛けるには声がいるし、送るには言葉がいる。俺にはどっちもが足りない。結局最寄り駅を検索して、そのまま共有を押した。
「明日九時に、ここで」とだけ打って勢いのまま送ると、送信音が小さく鳴る。緊張から少しだけ解放されたものの、まだドキドキしている。とりあえず送るだけは送ったからと、俺は画面をオフにする。
指先にだけ、やり取りの感触が残っていた。
「昼、素麺だったから麺以外がいい」
晩御飯を決めながら走り出して十分ほど経ったころ、車のスピーカーから着信音が鳴った。父さんのスマホの方だ。
「――はい、篠原です」
『――あの、突然すみません。高瀬伊織の母です。息子が大変なご迷惑をおかけしたと聞きまして……』
父さんが応じると、受話口の向こうから慌てた女性の声が聞こえる。ちゃんとすぐに親に言ったんだ。父さんが俺をちらりと見て肩を竦めて笑った。
「いえいえ」
電話の向こうで、深く頭を下げている気配が伝わってくる。
『よそのお宅に突然押しかけるなんてことをして。しかも送っていただいたなんて、本当にご迷惑を――』
「迷惑なんて、とんでもない」
父さんは穏やかな声で言った。
「事情は聞きました。お姉さんのこと、心配なんですよね」
短い沈黙のあと、向こうから小さな息が聞こえる。
『……はい。娘のことで、あの子なりに必死なんだとは思うんですが……』
高瀬のお母さんの声は小さく震えている。疑ってた訳じゃないけど、お姉さんが眠ってしまっているのは本当のようだ。
「こちらでできることがあれば協力します」
『これ以上ご迷惑は……』
「うちも基本的には息子がご一緒することになりますから、お気になさらず。無理なことはさせませんから、その点は安心してください」
『……ありがとうございます』
今度の声は、さっきより落ち着いていた。
『本当に、ありがとうございます』
通話が終わると、車内に静けさだけが残った。窓の外を夕方の街が流れていく中、父さんがぽつりと言う。
「真面目で優しい子だね」
俺は頷いた。
「父さん」
母さんが歌手だったこと、なんで俺は知らないの。
そう言おうとして、悪意ある記事や面白おかしく書かれた掲示板の言葉たちが脳裏を過ぎる。母さんが傷ついて歌うのを辞めたのなら、それには触れない。父さんはそういう人だ。
「ん?」
「……協力してあげるの?」
色々浮かんだことを何とか飲み込んで、それだけを口にした。
「嫌かい? 凪も協力してあげたそうに見えたけど」
「そういうわけじゃない、とも、言い切れない……けど」
そう。連絡先なんか交換せずに、そのまま見送ることもできた。なのになぜかそれで終わりにしてはいけない。ここで手を離したら、この話はもう自分とは関係のないものになる気がしていた。
「美波の不名誉な噂というのもあるけど……家族のためにできることなら何でもしたいって気持ちは分かるし、あの子をあのまま放っておくとよくない方向にいきそうだなって思ってね」
それはそうだ。今回は対応したのが俺や父さんだからよかったものの、訪ねた相手の方がヤバいやつの可能性だって、十分にある。
「それに……」
父さんは俺を一瞬だけ見て、すぐ運転に意識を戻してしまった。続けようと思えば続けられるのに、あえてそこを選ばなかったみたいだった。
「……何」
「何でもない。それより、父さん、今日急に休んだから平日はしばらく休めない。岸さんが平日に来てくれって言ったら、凪が高瀬くんについて行ってあげな」
「……うん」
俺も母さんのことは気になる。あと、高瀬のことも。だから父さんの言葉に素直に頷いた。
今日は色んなことがありすぎだ。ちょっと嫌だった終業式とホームルームの記憶はすっかり消え失せ、頭の中は高瀬と母のことで埋め尽くされていた。箸を動かしながら夕飯を食べている間も、風呂に入って体を洗っている間も、ずっとそのことばかりだった。一応部屋で宿題を広げてみたものの、全く集中することができなくて、数学のプリントを二枚終わらせるのがやっと。今日はもう終わりだと、消しゴムのかすを手で集めてゴミ箱に払い落とした。
寝るには早いけど、窓の外はもう暗い。シーグラスの瓶を窓辺に置いてそのままベッドに寝転び、スマホで母のことを調べてみるが、高瀬が見せてくれたほどの情報は出てこない。あれはやっぱりお姉さんを救いたいという執念の賜物なんだろう。
俺はスマホを置いて、じいちゃんの家から持って帰ってきた母のノートをぱらぱらめくった。
水の中の泡沫は言葉のかたち
手を伸ばせば 声はほどけて
静かな部屋で、ページをめくる音がやけに近く聞こえた。
「歌詞が書けるんだ……母さんすごいな」
学校の課題の短い詩ですら悪戦苦闘していた俺とは大違いである。でも思い返せば、母さんは国語が得意だった。図書館でよく本を借りていたし教え方も上手だった。読書感想文で詰まると母さんはすぐ答えを言わずに「どこが残った?」とだけ聞いて、書く方向を示して導いてくれた。
波の彼方で 誰か呼んでる
振り向くほどに遠くなる
自分の涙で できた海へ
小さな舟を そっと浮かべて
水の中の泡沫は言葉のかたち
誰にも空にも 届かないまま
海に混じって 溶けていく
母さんの書いた詩は綺麗だけど、あまり明るいものはない。
綺麗なのに落ち着かない。なのにどこか安心してしまいそうで、それが怖い。日陰や暗い部屋からきらきらしたものを見ているように、心がさざなみ立つ。
このまま沈んでいけたら楽なのかもしれないと、思ってしまうような。
高瀬がこれだと言っていた歌詞も、ゆっくり海の底へ沈みながら、ぼんやりと光を見ているような、そんな雰囲気の曲だった。何かが分かるわけでもないのに、気づくとまた同じページを開いていた。
ノートを閉じても、頭に言葉だけが残っている。読んでいるというより、そこに戻されているみたいに、そのまましばらく動けない。
時間だけが過ぎていき――数日後、岸さんから父さんに連絡があった。週末は店が忙しいから平日に来てくれ、ということだった。
父さんは当然仕事なので、俺と高瀬のふたりで岸さんの店へ向かうことになる。
通話とメッセージの画面を、行き来する。何も押さないまま指を止め、画面を消しかけて、もう一度開く。ただの待ち合わせなのに、変に構えてしまう。
掛けるには声がいるし、送るには言葉がいる。俺にはどっちもが足りない。結局最寄り駅を検索して、そのまま共有を押した。
「明日九時に、ここで」とだけ打って勢いのまま送ると、送信音が小さく鳴る。緊張から少しだけ解放されたものの、まだドキドキしている。とりあえず送るだけは送ったからと、俺は画面をオフにする。
指先にだけ、やり取りの感触が残っていた。
