セイレーンは朝を歌う

「若いなぁ」
 写真には、今よりずっと若い父さんと母さんが写っている。集合写真では、母さんは端の方で困ったように笑っていた。
「これ、大学の頃?」
「そう。出会った頃だな」
「……父さんは母さんの歌、聞いたことある?」
「いいや。新歓で歌えって囃し立てられて、困ってたのを庇ったのがきっかけだからな」
 父さんは、ぽつりぽつりと話してくれた。
 新歓の二次会で、母さんがしつこく歌うよう言われて、断りきれずに困っていたこと。
 父さんは話を逸らして、そのまま帰らせたこと。
「次の日謝られたよ。『迷惑かけてごめんなさい』って」
 父さんは愛おしむように笑った。
「無理に歌わせるのはよくないから気にするなって言ったら、変な顔してた」
 歌えなくなった理由は、父さんも知らないらしい。聞かなかったのか、聞けなかったのかは分からない。俺が小さい頃に歌っている時はそういう顔をしていなくて嬉しそうに聴いてくれていた記憶しかない。
 ただ、それ以外では、母さんが歌の話題にどこかもの悲しそうな顔をして触れなかったことは、おぼろげだけど俺も思い出してきた。
 母さんは、穏やかで優しい人だった。それは俺が一番よく知っている。
 でも、歌っていた頃の母さんも、歌えなくなった母さんのことも、俺は何も知らない。
 写真の中の母さんは、やっぱり困ったように笑っていた。
「んん……もうこれ以上は、ないかなぁ……」
 押し入れに潜っていた父さんが苦笑いしながら出てきて、高瀬が肩を落とす。部屋が残念な空気になりかけたその時だった。
「……ノート?」
 縛られた小説や楽譜の間に、ノートが一冊混ざっている。俺は吸い寄せられるようにそれを引き抜いた。
「……日記?」
 表紙の日付は俺が生まれるより前、紙は表紙ごと波打っている。日付が書いてあるので日記のようにも見えるが、中身に統一性がない。
「これも……母さんの字だけど……何これ」
 短い言葉の並びを見ていると、胸の奥がどこかざわつく。
「歌詞を書いてるんじゃないかな」
「……確かに、そうかも」
 ノートの内容の大半は詩のようだった。中身は綺麗だけど、暗くて切ない歌詞ばかり。エモとか病みとかの分類になるんだろうか。母さんの字なのに、言葉は知らないものみたいに見える。それが歌の欠片だと分かるまで、少し時間がかかった。
「美波の……凪のおばあちゃんは、母さんが高校の時に亡くなったから、その頃書いたものだな」
「――水の中の泡沫(あぶく)は言葉のかたち」
 ページをめくっているはずなのに、その一行だけが妙に残って、他の言葉が遠くに引いていく。きれいに整っているわけでもない。ただ、そのまま置かれているだけみたいで目が離せなくなかった。
 高瀬も俺の手元のノートを覗き込む。しばらく黙って眺めていたが、じわじわ目が見開いていく。
「……これ」
 ずっと黙っていた高瀬が掠れた声を出した。
「どうしたの?」
 高瀬は返事をせず、代わりに鞄から使い込まれた革の手帳を取り出しページをめくった。
「姉さん、気に入ったフレーズを手帳に書く癖があるって言ったと思うんだけど」
「うん」
 高瀬は焦ったように手帳を開き、ノートと並べた。
「これ、姉さんの手帳に書かれてる」
 差し出された手帳を指さした箇所。書かれていたのは、さっきノートで見たのと同じ並びの同じ言葉。
 丸みを帯びた走り書きには、「きれいな女の人の声」「NO TITLE?」「なんの曲だろう」「水の中のあぶくは言葉のかたち」と書かれていた。
「……姉さん、この歌を聞いてたんだ」
「……マジで母さんなんだ……」
 この歌詞はかなり特徴的だ。さすがに何かの間違いだとはもう言えない。探さなければという気持ちが強くなる。
 しかし――
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「あんまり力になれなくてごめんね」
「いえ……歌が特定できただけでも、よかったです」
 隅々まで探したものの、結局目当てのCDは見つからず。もう遅いからと、遠慮する高瀬をそのまま車で送って行くことになった。何かに近づいたはずなのに、肝心のものが手に入らない。
 階段を軋ませながら降りると店の中は相変わらず薄暗かった。レジ横のシーグラスの瓶だけが、差し込んだ西日を受けてぼんやり光っている。
 海を漂うとこんな風に丸くなるんだよって、昔教えてくれたっけな。しばらくそれを眺めてから、何の気なしに手に取った。
「それ、持って帰る?」
 父さんの言葉に、俺は一瞬迷ってから頷いた。
 高瀬は家を出たあとも往生際悪く遠慮していた。しかしCDがなかったショックもあるのだろう。父の押しに負けて車に乗ったあとは、鞄を膝の上に乗せ、背もたれに深く沈み込んで、指で小さく鞄を叩いている。さっきまでいた部屋の空気がまだ抜けきっていないみたいで、時折窓の外を流れる街並みに視線を向けているが、多分何も見ていない。
 俯いては思い出したように小さく溜息を吐いて、口をきゅっと結び直している。スマホは手に持ったまま。何かを確認しているわけでもなく、ただ手放したくないみたいに握っている。俺も、気づけばシーグラスの瓶を握っていた。
「ねえ、父さん……」
「……高瀬くん。おじさんが岸さんに連絡取ってみてあげるよ」
 そんな姿を見かねたのか、父さんが突然そんなことを言い始めた。するとしょんぼり萎れていた高瀬が、一瞬遅れて勢いを取り戻し始める。
「……いいんですか……!?」
「ああ。だから今日のところは大人しく家に帰りなさい。あと、君がこういうことをしているの、ご家族は知ってる?」
「……いえ」
「協力はするけど、ご家族に今君がしていることを言うのが条件だよ」
「……はい。分かりました」
 父さんが高瀬の道案内に従ってコンビニの駐車場に車を寄せると、高瀬は慌ててシートベルトを外した。降りる前に、思い出したようにスマートフォンを触り始めた。
「連絡先、交換してもらってもいい……ですか?」
 父さんと俺の顔を交互に見て、遠慮がちに言った。
「ああ、もちろん」
 父さんがスマホを出すと、高瀬は手早くQRコードを表示させた。車内に短い電子音が続く。俺とも交換し終えると、高瀬は何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
「気を付けて。あまり無茶はしないようにね」
「はい。あの……凪も、本当にありがとう」
「うん」
 父さんの言葉に高瀬は強く頷き、車を降りる直前一度だけ振り返る。何か言いかけて、結局何も言わないままドアを開けた。
 むわっと熱気が入り込み、高瀬はドアを閉める前にもう一度礼をした。鞄の紐を握り直して小さく会釈すると、住宅街の方へ足早に歩いていった。背中はまだ頼りないが、さっきまでよりもまっすぐ伸びている。
 父さんはそれをしばらく見送ってから、ゆっくり車を発進させた。