セイレーンは朝を歌う

 しばらく走っていると、助手席の窓に町がゆっくり流れていく。建物と建物の間、路地の切れ目に一瞬だけ海が見えた。水平線まで続く青い海。
 海はすぐまた建物に隠れ、次の路地でまた見えた。今度はもう少し長く、白く光る海面とその向こうの空が、境界線もなく溶け合っている。子どもの頃から見ている海だし珍しくもなんともないのに、思わずガラスに額を近づけてしまい、視線を離せなくなる。
 じいちゃんちに近づくと、父さんは車の速度を落とした。車は海を過ぎて住宅街を抜け、古い通りへ入った。祖父の自宅兼店舗は、駅へ続く通りの途中にある。
 店の前に車を止めると、潮の匂いが風に乗ってきた。坂を下ればすぐ海だ。子どもの頃、母さんに連れられてよく遊んでいた浜も、その先にある。
 店を閉めてから随分経つのでシャッターは半分ほど錆び、看板の「青井商店」の文字も日焼けして色が抜けている。
 父さんが鍵を取り出して、ゆっくりシャッターを持ち上げる。金属の擦れる音が、静かな通りに長く響く。中は暗くて外よりはひんやりしている。長く閉めていた店の、古い紙と木の匂いがした。
 じいちゃんが入院してから、父さんと俺で定期的に様子を見に来ている。掃除もしているから荒れてはいないが、人のいない家はどこか空っぽに見える。来るたび窓を開けて空気を入れ替えたり、掃除しているけど、誰もいない家の静けさだけはどうにもならない。
 布を被ったレジの横には貝殻やシーグラスの入った瓶があった。母さんが子供の頃、海で集めていたものらしい。沈黙の中に落ちた光の中で、シーグラスだけが水みたいに透けていた。
「お邪魔します……」
 店の奥の部屋で線香をつけ、仏壇の前で父さんと俺は手を合わせる。こわごわ入ってきた高瀬もそれに倣って、戸惑いながら手を合わせた。
「さて」
 煙がゆっくり上に上がり、父さんもゆっくり立ち上がる。
「美波の部屋、見てみようか」
 母さんの部屋は二階にある。軋む階段を上がってドアを開けると、物は少なく整頓されている。父さんは迷いがないし、高瀬は部屋の奥を見たままほとんど動かない。何かを探しているというより、見逃さないようにしているみたいだった。同じ場所に立っているのに、自分だけ遅れてこの部屋に入ってきたみたいで変な感じだ。
 部屋は学生の頃からほとんど変わっていないらしい。ただ、押し入れを開けた瞬間、埃がふわっと舞い上がった。
「うわ」
「美波がいなくなってからは、見てないからな」
 中には衣装ケースや段ボールがぎっしり詰まっている。
「CDとか、音楽関係のものは……確か、この辺りか……」
 押し入れの奥から取り出した箱は、軽いのにやけに扱いにくかった。中身の重さじゃなくて、そこに入っていた時間の方が重いように感じる。
 その下に、小さなノートが一冊挟まっているのに気づいた。開くと日付と金額だけが並んでいる。小遣帳みたいだった。
 本、CD、お菓子。ときどき、見覚えのない店の名前とファストフードの金額が混ざっている。誰と行ったのかは分からないのに、その日の空気だけが少し浮かぶ。
 父さんがもう一つ引き出そうとしたけど、今度の衣装ケースは思ったより重かったらしく、二人がかりで引っ張り出すことになった。蓋を開けると年代的に二、三十年前のCDが詰まっている。知らない歌手の名前ばかり。この中の全部を、母さんは手に取っていたのだろうか。
 この部屋は知っているはずなのに、思い出よりも先に知らない部分が目につく。母さんがここで過ごしていた時間だけがきれいに抜け落ちているみたいだった。
 ケースと中身が違うという場合もあるので、手分けして探していく。順番に確認しているはずなのに、一枚一枚に触れるたびに、手が止まってしまう。
「Pale Shore……」
 CDのタイトルを確認して、違えば次へ。俺たちはケースをひとつひとつ開けていった。けど「Pale Shore」というユニット名のものは出てこない。
「こっちも違うなぁ……」
 父さんが段ボールの封を切って中を覗き込み、一瞬手が止まった。そのまま何事もなかったように、無言で中の書類を取り出すと、一番上の封筒に目がいった。「株式会社トライトーンミュージック」と書かれたその文字だけが、今まで見たものと違って、やたらと目立つ。
 俺と高瀬も覗き込むが、CDらしきものは入っていない。代わりにくたびれたファイルと輪ゴムで束ねられた手紙が出てきて、父さんがざっと確認している。
「見ていいよ」
 父さんは短く言って、手紙とファイルを俺に渡してくれた。
 俺たちより先に見ていたはずなのに、何も説明しなかった。知っているのか知らないのか分からないまま、ただそこにあるものを一緒に見ているだけだった。
 中に入っていた紙はどれも整っていて、内容も難しいわけではないはずなのに一行ごとに引っかかる。読めているのに頭の中でなかなか噛み砕けない。
 高瀬と一緒にそれを見て、次に開いたファイルの一番最初のページは「所属契約に関するご確認」とあった。びっしりと印字された条文は読む気がせず、パラパラ飛ばすと紙をめくる音だけがやけに大きく聞こえて、それ以外の音が曖昧になる。
 最後のページには署名欄に、"青井 美波"と、少し傾いた字が書いてあった。母さんの字だった。保護者の同意としてじいちゃんの署名があって、判子も押されている。
「……あおい、みなみ」
 声に出すと、知らない人みたいだった。そこに書かれている名前は知っているはずなのに、紙の上にあるとまったく別の人みたいに見える。
 輪ゴムの束の方は年賀状がほとんどで、同級生からっぽいものばかりだ。ただ、一つだけ違って見えるハガキがあった。
岸 大輔(きし だいすけ)……?」
 端に書かれていた名前は、それ単体では特別なものには見えなかったけど、他と違う引っかかり方をする。意味があるから残っているのか、それとも残っているから意味があるのか、その判断がつかない。
「……これ、一緒にユニットやってた人……作曲の人だ」
 年賀状の端に、小さく手書きの言葉がある。
〈いつかまた、一緒に〉
〈体には気をつけて〉
 高瀬はハガキや手紙を覗き込む間、ほとんど瞬きをしていなかった。読み込んでいるというより、やっぱり、ひとつも見落とさないようにしているみたいだった。やり取りが続いていたらしいことしか俺には分からない。高瀬の方が分かっているのが不思議だなと思いつつ、俺は衣装ケースから小さな箱を取り出した。
「……これは何?」
「MDかぁ。懐かしいな」
 CDよりひと回り四角くて小さい。真ん中に丸い窓みたいなものがついていて、薄い円盤が見えた。でもどこにも開け口が見当たらない。
「違うと思うけど、一応持って行ってみようか」
「プレイヤーある?」
「さあ……あ、また懐かしいもの出てきた」
 覗き込むと、押し入れの奥から大学名の入った古い封筒やアルバムが出てきた。父さんは目を細めながら愛おしむようにふっと笑った。