セイレーンは朝を歌う

「こっちは姉さんのスマホなんだけど」
 高瀬はそう言って、鞄から出したスマホでアプリを開いた。俺も使ってるやつなので、画面には見覚えがある。
 ――NO TITLE
 履歴に並んだ曲名の中に、見慣れない表示がある。タップすると白い文字に黒い背景、アーティスト名は空白、ジャケット画像もない。なのに再生された時間だけが残っている。
「これが……最後に聞いてた曲なんだ。でも、再生できない」
 高瀬が画面を指でなぞってタップすると、読み込みの円が少しだけ回り、止まる。そのまま何も起きなかったかのように元に戻った。
 断ってから俺がもう一度タップしてみても、結果は同じだった。
「……消えてる?」
「分からない。けど、検索しても、"曲が見つかりません"って出る」
 NO TITLE。再生時間は三分四十七秒。分かる情報は、それだけだった。
 高瀬が操作するのを見ていると、再生履歴が並んだ画面になった。
 NO TITLE
 NO TITLE
 NO TITLE
 最初は普通のプレイリストなのに、最後の方はNO TITLEばかりが続いている。
「……これ、どうやって出したんだろう」
「姉さんはランダムに流れてきたのにいいねを何回も押してたっぽい」
 高瀬はお姉さんのスマホのお気に入りリストを開く。すると一番上は、またNO TITLEだった。
「……リンク共有もできない。だからCDを探してるんだ」
 お姉さんが倒れてからの二ヶ月、ほとんどそれだけを調べていたのだという。高瀬はスマホを握り締めた。助かるかもしれないなら、信じたくなる気持ちは分かるのだが。
「凪」
「……父さん」
 どうしたものかと思っていると、頭上から聞き慣れた父の声が降ってきた。その声を聞いた瞬間、背中に入っていた力が一気に抜けた。さっきまで話の中に引きずられていたのに、声ひとつで、いつもの場所に戻ってこれた気がした。
「なんでこんな暑いところで喋ってるんだい。熱中症になるよ」
「中いっぱいだったんだよ」
「――は、はじめまして。高瀬伊織と言います。突然すみません」
 高瀬は急いで立ち上がり、父さんに向かって礼をした。
「父さん。高瀬くん、東京から来たんだって」
 俺は父さんに向き直り、さっき聞いた話をできるだけ簡単に説明した。
 高瀬のお姉さんが、二ヶ月前から眠ったまま目を覚まさないこと。
 そのときイヤホンで聞いていた曲が、タイトルも歌手名も表示されない「NO TITLE」だったこと。
 そして、姉の手帳に残されていた歌詞の断片から、昔「Pale Shore」というユニットのアルバムに入っていた曲に行き当たったらしいということ。
 そのアルバムは発売直前に回収され、今は音源もほとんど残っていないこと。
 それでも、都市伝説のような噂の中に「同じ歌をもう一度聞けば目を覚ます」という話があって、高瀬はそれを試すため、歌を探してここまで来たということ。
「その歌い手が、母さんかもしれないって」
「……なるほどね。話は分かった」
 父さんは俺の話に、腕を組んで静かに頷いていた。
「確かに美波は歌手だったと聞いている。でも残念ながら、うちには何もないよ」
 父さんの言い方は、穏やかなのに途中を省いているような響きがあって、それ以上続きを聞く余地がないまま話が閉じそうな雰囲気があった。
「……そうですか……」
 父さんが言い切ると同時に、高瀬の肩から力が抜けた。分かりやすく落ち込んだというより、それまで張り詰めていた何かが切れてしまったような、静かな崩れ方だった。
 ただ、高瀬には悪いけど、母さんが歌手だったことが本当だったということの方が俺は気になる。そんな大きなことを、どうして今まで一度も聞いていなかったんだろうと思った。
 知らなかったことそのものより、知らないままここまできていたことの方が、遅れて重くなる。
 父さんは当然のように知ってるのに、なんで俺は知らないの。
 そう言いたい気持ちを何とか一旦堪えていると、高瀬は俯いたまま手の中のスマホを握っていた。さっきまでの勢いが嘘みたいに消えている。
 このまま帰したら、振り出しに戻るというよりここで終わってしまう気がした。俺も母さんのことを知りたい。知るなら今しかないし、知らないままにしておくことの方が怖い。今ここで見送ったら、もう二度と母さんの過去に手を伸ばせないまま閉じてしまうのが嫌だった。
「……父さん」
「ん?」
「じいちゃんちの母さんの部屋、まだそのままだよね」
 ふと浮かんだのは、あの家の二階だった。長い間使われていなくて、そこだけ時間が止まっているみたいなあの家。
「そうだね」
「母さんのもの、何か残ってないかな」
 父さんは考えるようにして腕を組み直す。俺の言葉をゆっくり反芻しているみたいだった。
「……探す?」
 父さんはすぐに肯定しなかった。言葉自体は簡単なのに、一度飲み込んでから出したみたいに遅れていた。
「うん」
「……え?」
「……確かに、お義父さんのところにはあるかもしれない。お断りだけ入れて探してみようか」
 高瀬はすぐには動かなかった。言葉の意味がなかなか理解できず、届いた途端勢いよく立ち上がった。
「いいんですか……!?」
「凪も気になってるみたいだし」
「いや、だって。母さんのこと、そんな風に言われてるの嫌だろ……」
 母さんが怪談みたいに語られているという事実が、じわじわ腹の底に小さな怒りとして沈んでいく。知らなかった過去があることより、知らない誰かに母さんのことを好き勝手に面白がられていたことの方が嫌だった。
 俺の母さんは静かで、柔らかく笑う人だったのに。
 もし本当に歌っていたとしても、それはこんな風に怖がられたり面白がられたりして消費されるためじゃない。
「じゃあ早速行こうか。駐車場に車停めてあるから」
 父さんは俺のメッセージを見て、午後休を取って帰ってきてくれたらしい。図書館へも仕事場からそのまま車で来ていたので、みんなで車に乗り込み図書館を後にした。