実は母さんが歌手だったなんて話は真っ赤な嘘で、待ち伏せられて襲われたりしたらどうしよう。
――なんてビクビクしながら家を出たが、外がただ暑いだけで、何事もなく図書館に着く。
自動ドアをくぐると顔や首筋に冷気が触れた。外の熱を引き剥がすような冷たさに、思わず肩の力が抜ける。
ロビーを見渡すと学生が多い。夏休み初日だからか、勉強しに来たらしい高校生や大学生がちらほら座っている。制服も私服も入り混じっていて、ぱっと見では誰が誰だか分からない。
――高瀬。
顔と名前を思い出しながらそれらしい人影を探すと、案外すぐに見つかった。壁際のベンチに座っている、ひとりの男子。
座っているのに分かるくらい足が長いので、恐らく背が高い。制服も見慣れないデザインで、この辺の学校のものではないから多分あの子だ。ロビーを通り過ぎる人が一瞬だけ視線を向けていく。ああいう目立つ子の隣にいると、ついでにこっちまで見られそうで落ち着かない。話しかける前から、もう帰りたくなる。
改めて顔を見て理由が分かった。高瀬の顔はかなり整っている。涼しげな目元と、すっと通った鼻筋。短く整えられた髪も、適当にしているのに形がいい。制服のせいか姿勢のせいか、やけにきちんとした雰囲気もある。
そんな高瀬本人は視線を全く気にしておらず、スマートフォンを見ながら落ち着かない様子で、叩くように指を動かしていた。時々顔を上げて入口の方を見る。誰かを探しているというより、何かを確認していないと居ても立ってもいられない。そんな動きだった。
「……高瀬さん」
声を掛けると、高瀬は勢いよく顔を上げた。
「……!」
一瞬だけ、期待したような顔をし、それから戸惑ったように瞬きをして、すぐ立ち上がる。
「来てくださってありがとうございます……?」
「いえ……」
高瀬は俺を娘だと勘違いしていたせいか、かなり驚いている。すぐにいつもの居心地の悪さが戻ってきた。だからこの声は嫌なんだ。
「……男の人だったんですね。さっきは大変失礼しました」
「あ、いえ……無理もないと思うし……」
ただ、高瀬は驚きはしたものの、俺のことを変な目で見たりはしなかった。我ながらチョロいが、それだけで警戒は緩んでしまう。
「高瀬 伊織といいます。あの、これ……一応学生証とマイナンバーカード……」
わざわざここまで見せる必要なんてないのに。見せられたマイナンバーカードと学生証には、「高瀬 伊織」の文字と顔写真があり、目の前の男と一致する。ここまでして身元を示そうとする必死さの方に戸惑ってしまう。
しかしマイナンバーカードまで出してくるあたり、必死というか不器用というか。少なくとも、闇バイトとかそういう類の人間ではなさそう。
高校一年生で同い年。見覚えのない制服だと思ったら、俺でも名前を知ってる東京の進学校だ。東京からここまで来るって、都外のギリギリ通学圏内とはいえ時間もかかるはずなのに。警戒を解くのはまだ早いけど、話は聞いてもいいように思う。
「ここまでしなくていいって……サボり?」
「うち、夏休み早いんです。二学期制だから」
「……俺は篠原 凪。年も一緒だし、敬語もいいよ。中入ろうか」
「いや……」
そう言うと、高瀬は一瞬だけ考えるように黙り、困ったように眉を寄せる。
「……分かった」
言い直して、軽く頷く。さっきまでの固い敬語が消えただけなのに、雰囲気がほんのり柔らかくなった。
図書館の方に入ると、外やロビーの様子が嘘みたいに静かだった。紙の匂いと、冷房の冷たい空気が漂っている。
俺はあまり本を読まないけど、母さんは本が好きでよく図書館に通っていた。本を選ぶときの母さんは楽しそうで、迷う時間が長かった。そんな風に本を読んだり探したりする母さんの隣で勉強するのは、小さな頃の俺の日常のひとつだったし、母さんが入院していた頃は、おつかいで一番来た場所だ。
「とりあえず、空いてる席探そう」
図書館を指定したものの、夏休み初日だからか学生が多い。静かなのに賑やかな空気を感じながら、二人で座れる場所を探す。
勉強用スペースや新刊コーナーを回ってみたが、空いているように見えても席はどこも埋まっていた。椅子に鞄やノートが置かれていて、各々勝ち取った権利を主張している。もう一周しても変わらなかったので、結局外で話すことにした。幸い図書館の敷地内は緑が多く、木陰はたくさんある。
外に出た瞬間音が押し寄せ、夏の熱気がまとわりついてくる。日陰のベンチに並んで腰を下ろすと、雑多な音は蝉の声に塗り替えられ、近くの噴水の音だけが残った。木の枝の隙間から落ちる木漏れ日が、ゆらゆら揺れる水面のようにほんのり暑さを緩和してくれている。
話をしようと高瀬を見ると、木漏れ日の中の方が、なんとなく馴染んで落ち着いているように見えた。
しかし緩和はされていても、暑いもんは暑い。座ったばかりなのに、シャツの背中にはもう汗がにじんでいた。さっさと本題に入ろうと口を開いた。
「まず初めに。母さん――旧姓、青井美波は去年病気で亡くなってる」
「えっ……」
「大体さ、母さんが歌手で、呪いの歌ってどういうこと。なんでうちが分かったわけ」
「ええと……」
「変な方法取ってないだろうな」
「誓って犯罪はしてない」
どうだか、とは思ったが、そこに嘘はなさそうだった。そういう手段を使っているなら、母さんがもう亡くなっていることくらい事前に分かるだろう。高瀬の指が鞄を一定の間隔で小さく鳴らしている。焦っているのか、苛立っているのか、その両方かもしれない。
――なんてビクビクしながら家を出たが、外がただ暑いだけで、何事もなく図書館に着く。
自動ドアをくぐると顔や首筋に冷気が触れた。外の熱を引き剥がすような冷たさに、思わず肩の力が抜ける。
ロビーを見渡すと学生が多い。夏休み初日だからか、勉強しに来たらしい高校生や大学生がちらほら座っている。制服も私服も入り混じっていて、ぱっと見では誰が誰だか分からない。
――高瀬。
顔と名前を思い出しながらそれらしい人影を探すと、案外すぐに見つかった。壁際のベンチに座っている、ひとりの男子。
座っているのに分かるくらい足が長いので、恐らく背が高い。制服も見慣れないデザインで、この辺の学校のものではないから多分あの子だ。ロビーを通り過ぎる人が一瞬だけ視線を向けていく。ああいう目立つ子の隣にいると、ついでにこっちまで見られそうで落ち着かない。話しかける前から、もう帰りたくなる。
改めて顔を見て理由が分かった。高瀬の顔はかなり整っている。涼しげな目元と、すっと通った鼻筋。短く整えられた髪も、適当にしているのに形がいい。制服のせいか姿勢のせいか、やけにきちんとした雰囲気もある。
そんな高瀬本人は視線を全く気にしておらず、スマートフォンを見ながら落ち着かない様子で、叩くように指を動かしていた。時々顔を上げて入口の方を見る。誰かを探しているというより、何かを確認していないと居ても立ってもいられない。そんな動きだった。
「……高瀬さん」
声を掛けると、高瀬は勢いよく顔を上げた。
「……!」
一瞬だけ、期待したような顔をし、それから戸惑ったように瞬きをして、すぐ立ち上がる。
「来てくださってありがとうございます……?」
「いえ……」
高瀬は俺を娘だと勘違いしていたせいか、かなり驚いている。すぐにいつもの居心地の悪さが戻ってきた。だからこの声は嫌なんだ。
「……男の人だったんですね。さっきは大変失礼しました」
「あ、いえ……無理もないと思うし……」
ただ、高瀬は驚きはしたものの、俺のことを変な目で見たりはしなかった。我ながらチョロいが、それだけで警戒は緩んでしまう。
「高瀬 伊織といいます。あの、これ……一応学生証とマイナンバーカード……」
わざわざここまで見せる必要なんてないのに。見せられたマイナンバーカードと学生証には、「高瀬 伊織」の文字と顔写真があり、目の前の男と一致する。ここまでして身元を示そうとする必死さの方に戸惑ってしまう。
しかしマイナンバーカードまで出してくるあたり、必死というか不器用というか。少なくとも、闇バイトとかそういう類の人間ではなさそう。
高校一年生で同い年。見覚えのない制服だと思ったら、俺でも名前を知ってる東京の進学校だ。東京からここまで来るって、都外のギリギリ通学圏内とはいえ時間もかかるはずなのに。警戒を解くのはまだ早いけど、話は聞いてもいいように思う。
「ここまでしなくていいって……サボり?」
「うち、夏休み早いんです。二学期制だから」
「……俺は篠原 凪。年も一緒だし、敬語もいいよ。中入ろうか」
「いや……」
そう言うと、高瀬は一瞬だけ考えるように黙り、困ったように眉を寄せる。
「……分かった」
言い直して、軽く頷く。さっきまでの固い敬語が消えただけなのに、雰囲気がほんのり柔らかくなった。
図書館の方に入ると、外やロビーの様子が嘘みたいに静かだった。紙の匂いと、冷房の冷たい空気が漂っている。
俺はあまり本を読まないけど、母さんは本が好きでよく図書館に通っていた。本を選ぶときの母さんは楽しそうで、迷う時間が長かった。そんな風に本を読んだり探したりする母さんの隣で勉強するのは、小さな頃の俺の日常のひとつだったし、母さんが入院していた頃は、おつかいで一番来た場所だ。
「とりあえず、空いてる席探そう」
図書館を指定したものの、夏休み初日だからか学生が多い。静かなのに賑やかな空気を感じながら、二人で座れる場所を探す。
勉強用スペースや新刊コーナーを回ってみたが、空いているように見えても席はどこも埋まっていた。椅子に鞄やノートが置かれていて、各々勝ち取った権利を主張している。もう一周しても変わらなかったので、結局外で話すことにした。幸い図書館の敷地内は緑が多く、木陰はたくさんある。
外に出た瞬間音が押し寄せ、夏の熱気がまとわりついてくる。日陰のベンチに並んで腰を下ろすと、雑多な音は蝉の声に塗り替えられ、近くの噴水の音だけが残った。木の枝の隙間から落ちる木漏れ日が、ゆらゆら揺れる水面のようにほんのり暑さを緩和してくれている。
話をしようと高瀬を見ると、木漏れ日の中の方が、なんとなく馴染んで落ち着いているように見えた。
しかし緩和はされていても、暑いもんは暑い。座ったばかりなのに、シャツの背中にはもう汗がにじんでいた。さっさと本題に入ろうと口を開いた。
「まず初めに。母さん――旧姓、青井美波は去年病気で亡くなってる」
「えっ……」
「大体さ、母さんが歌手で、呪いの歌ってどういうこと。なんでうちが分かったわけ」
「ええと……」
「変な方法取ってないだろうな」
「誓って犯罪はしてない」
どうだか、とは思ったが、そこに嘘はなさそうだった。そういう手段を使っているなら、母さんがもう亡くなっていることくらい事前に分かるだろう。高瀬の指が鞄を一定の間隔で小さく鳴らしている。焦っているのか、苛立っているのか、その両方かもしれない。
