新学期の朝。
今日は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。窓を開けると外はまだ薄暗い。夜と朝の境目みたいな色をしているけど、匂いはもう朝だ。冴えた空気が喉の奥にすっと入って、触れたところがひんやりする。休み終わりの空気は、思ったよりも軽かった。
祖父の容体も落ち着いて、家に戻ってきた。伊織のお姉さんも自宅療養になって、ゆっくり日常へ戻り始めているらしい。母の歌の件も、岸さんたちが動いてくれた。完全に片づいたわけじゃない。それでも、少なくとも俺の中では、ひとつ区切りがついて、前とは違う場所に立っているのは分かった。
「……おはよう」
鏡の前で、試すみたいに声を出す。
声帯のあたりに指先を当てて、軽く息を通してみる。昨日と同じ、あるいは昨日よりも落ち着いた自分の声。高くはないし、裏返りもしない。なんだか可笑しな気分になる。
制服のシャツに久しぶりに袖を通すのも、思っていたよりもすんなりだった。机の上のマスクは手に取ってみたけど、元に戻した。窓辺の瓶の中でシーグラスが重なりあい、朝日を受けて優しく光っている。
「行くのかい?」
玄関で靴紐を結んでいると、後ろから父さんの声が聞こえた。
「うん」
返事も気負いなく、前より柔らかく落ち着いている。ドアを開けると陽射しが眩しくて、胸の奥がざわついた。
怖くないわけじゃない。でも。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
我ながらはっきりとした声が出た。父さんが一瞬だけ目を丸くして、それからなにも言わずに優しく微笑む。父さんの声を背中で聞きながら、俺も口元だけが少し緩んだ。
それに背中を押されるように、俺は鞄を持ち、家を出た。
外に出て駅までの道を歩いていると、やっぱり緊張はしているけど苦しくはなかった。
「いらっしゃいませー」
駅前のコンビニで、水を一本手に取ってみる。レジに出して、一拍だけ間を置いてから声を出した。
「……これ、お願いします」
声がわずかに遅れて自分の耳に届く。けれど店員は気にした様子もなく、淡々と会計を進めた。何も起きない。
店を出ると、外の空気は軽かった。通学路は変わらない。でも、息がしやすい。アスファルトの照り返しも、信号の音も、見慣れた家並みも変わらない。ただ、明るさが前とは違っていた。
それでも校門が見えた時は、笑い声が一瞬よぎって足が止まった。
その時、ポケットのスマホが震えた。画面を見れば、伊織からのメッセージだった。「おはよう」と「いってらっしゃい」のゆるい犬のスタンプに、力が抜ける。
〈おはよう。いってきます〉
返信してスマホをしまえば、よぎった笑い声はもうどこか遠くへ行っていた。門の前に立つ担任の先生に挨拶をすると、先生は驚いたあと、すぐに嬉しそうな顔で返してくれた。
〈ちゃんと登校できた〉
〈やったね!〉
即レスで返してきたくせに、スタンプとともに「学校でスマホ触っちゃだめ」なんて理不尽な返事が返ってきて思わず笑ってしまう。
とりあえず来るだけは来れた。次は教室だ。
校門を越えた時より、教室の前に立った今の方が、胸の奥がざわつく。でも、笑われるかもしれないと思うのに、前みたいに息は詰まらなかった。
でも、俺は一度、あの声で歌いきっている。ポケットの中のスマホの重さを、指先で一度だけ確かめる。
それだけで、呼吸が楽になった。
「……おはよう」
ドアに手をかける前に、小さく転がすように呟いてみると、声はまだ震えて揺れている。それでもこれは確かな俺の声だった。
深く息を吸って、教室の扉に手をかけた。
「おはよう」
今度ははっきりと言って、俺は教室の扉を開いた。いくつかの視線が振り返るけど、すぐに元に戻った。
何も起きないことが、ありがたかった。教室のざわめきが、そのまま現実に戻してくれる。肩に入っていた力がようやく抜け、自分の声が普通に、教室の空気に溶けていく。
それが嬉しかった。
一番後ろになっていた席に座って外を眺めると、窓の外は目に染みるほど爽やかに青い。
でも、声も歌も、もう前みたいには痛くなかった。
どこか遠くで、静かな潮の音がしていた。
今日は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。窓を開けると外はまだ薄暗い。夜と朝の境目みたいな色をしているけど、匂いはもう朝だ。冴えた空気が喉の奥にすっと入って、触れたところがひんやりする。休み終わりの空気は、思ったよりも軽かった。
祖父の容体も落ち着いて、家に戻ってきた。伊織のお姉さんも自宅療養になって、ゆっくり日常へ戻り始めているらしい。母の歌の件も、岸さんたちが動いてくれた。完全に片づいたわけじゃない。それでも、少なくとも俺の中では、ひとつ区切りがついて、前とは違う場所に立っているのは分かった。
「……おはよう」
鏡の前で、試すみたいに声を出す。
声帯のあたりに指先を当てて、軽く息を通してみる。昨日と同じ、あるいは昨日よりも落ち着いた自分の声。高くはないし、裏返りもしない。なんだか可笑しな気分になる。
制服のシャツに久しぶりに袖を通すのも、思っていたよりもすんなりだった。机の上のマスクは手に取ってみたけど、元に戻した。窓辺の瓶の中でシーグラスが重なりあい、朝日を受けて優しく光っている。
「行くのかい?」
玄関で靴紐を結んでいると、後ろから父さんの声が聞こえた。
「うん」
返事も気負いなく、前より柔らかく落ち着いている。ドアを開けると陽射しが眩しくて、胸の奥がざわついた。
怖くないわけじゃない。でも。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
我ながらはっきりとした声が出た。父さんが一瞬だけ目を丸くして、それからなにも言わずに優しく微笑む。父さんの声を背中で聞きながら、俺も口元だけが少し緩んだ。
それに背中を押されるように、俺は鞄を持ち、家を出た。
外に出て駅までの道を歩いていると、やっぱり緊張はしているけど苦しくはなかった。
「いらっしゃいませー」
駅前のコンビニで、水を一本手に取ってみる。レジに出して、一拍だけ間を置いてから声を出した。
「……これ、お願いします」
声がわずかに遅れて自分の耳に届く。けれど店員は気にした様子もなく、淡々と会計を進めた。何も起きない。
店を出ると、外の空気は軽かった。通学路は変わらない。でも、息がしやすい。アスファルトの照り返しも、信号の音も、見慣れた家並みも変わらない。ただ、明るさが前とは違っていた。
それでも校門が見えた時は、笑い声が一瞬よぎって足が止まった。
その時、ポケットのスマホが震えた。画面を見れば、伊織からのメッセージだった。「おはよう」と「いってらっしゃい」のゆるい犬のスタンプに、力が抜ける。
〈おはよう。いってきます〉
返信してスマホをしまえば、よぎった笑い声はもうどこか遠くへ行っていた。門の前に立つ担任の先生に挨拶をすると、先生は驚いたあと、すぐに嬉しそうな顔で返してくれた。
〈ちゃんと登校できた〉
〈やったね!〉
即レスで返してきたくせに、スタンプとともに「学校でスマホ触っちゃだめ」なんて理不尽な返事が返ってきて思わず笑ってしまう。
とりあえず来るだけは来れた。次は教室だ。
校門を越えた時より、教室の前に立った今の方が、胸の奥がざわつく。でも、笑われるかもしれないと思うのに、前みたいに息は詰まらなかった。
でも、俺は一度、あの声で歌いきっている。ポケットの中のスマホの重さを、指先で一度だけ確かめる。
それだけで、呼吸が楽になった。
「……おはよう」
ドアに手をかける前に、小さく転がすように呟いてみると、声はまだ震えて揺れている。それでもこれは確かな俺の声だった。
深く息を吸って、教室の扉に手をかけた。
「おはよう」
今度ははっきりと言って、俺は教室の扉を開いた。いくつかの視線が振り返るけど、すぐに元に戻った。
何も起きないことが、ありがたかった。教室のざわめきが、そのまま現実に戻してくれる。肩に入っていた力がようやく抜け、自分の声が普通に、教室の空気に溶けていく。
それが嬉しかった。
一番後ろになっていた席に座って外を眺めると、窓の外は目に染みるほど爽やかに青い。
でも、声も歌も、もう前みたいには痛くなかった。
どこか遠くで、静かな潮の音がしていた。
