セイレーンは朝を歌う

 蝉の声が窓から流れ込む午後、俺は気合いを入れて机の前に座った。
「……こんなに出てたっけ……」
 気合いはすぐに勢いをなくした。テンション低めに夏休みの宿題一覧をチェックしていると、机の上には課題が積み上がっている。
「……多くない?」
 問題集をめくりながら思わず愚痴が零れた。扇風機が首を振るたびプリントの端がそっとめくれている。教科書を開きシャーペンを手に取る。問題に視線を落とすと、文字を追うたび口が動いて、問題文をなぞっていた。
 途中で気づいて手の甲で口を覆った。けれど数秒後には、また静かに口が動いていた。自分でもそのことがおかしくて、笑ってしまう。
 夕食を食べてからもずっと宿題漬けでさすがに疲れた。確認の手が止まってついスマホを見ると、伊織から短いメッセージが届いていた。
〈終わった?〉
〈やっと半分超えたとこ〉
 そう送ると、すぐに既読がつく。どうやら向こうも似たような状況らしいと思った瞬間、スマホが震えた。
「もしもし」
『あのさ……ちょっと一緒に集中して片付けない?』
「賛成。分かんないとこ教え合えるし……」
『じゃあ今週だと……』
「凪ー! そろそろ風呂に入りなー!」
 調整をしようとした瞬間、父さんが下から呼んでいる。俺はマイクを塞いで「すぐ入るよ!」と返事を返した。そう返した声も、思ったよりよく通っている。
「ごめん。父さんが風呂入れって言ってるから切るね。詳細はまた後で」
『了解。じゃあまた後でね』
 お姉さんのことが終わってからも、俺はこんな風に伊織とやり取りをしていた。特別なことは何もない。ただ、宿題を片付けながら、日常に戻る練習をしているみたいだった。
 風呂の後、図書館やうち、色々案は出たものの、今回は岸さんの店にしようと決まった。
 改札の前で待っている伊織を見つける。目が合うと嬉しそうに笑った。最初に会った時は、あの笑顔にどう反応していいか分からなかった。今は、自然に隣へ歩いていける。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
 店に入ると、奥で誰かがゆっくりギターを弾いていた。会話の邪魔にならないくらいの音で、静かに店に溶けている。しかしテーブルに座って宿題を広げると、さっきまでの軽やかな気分が一気に消えていった。
「多……」
 電話時点よりは減ったものの、一気に気が滅入る。うんざりしながら問題集をめくっていると、伊織が隣で同じような顔をしている。
「君ら、本当に学生なんだねぇ」
「学生です」
「しょっちゅう来てるし、歌って人を起こしたりしてるから忘れてたよ」
「それ言わないでください」
 岸さんは笑いながら、ジュースとサンドイッチを置いた。
「ほら、糖分」
「ありがとうございます」
 奥のステージで弾いていたギターがふっと止まり、代わりに店の中にページをめくる乾いた音が広がる。
 そのタイミングで、岸さんがカウンターからひょっこり顔を出す。
「……凪くん、気晴らしに歌ってみない?」
「歌いません」
「残念」
 言うほど残念でもなさそうに、岸さんは肩をすくめた。
「じゃあ、宿題頑張ってね」
 岸さんがそう言ったあとは一瞬だけ静かになって、今度はコーヒーを淹れる音が、ゆっくり店に広がっていく。
 それを聞きながら、俺はまた問題集を開いた。


『やっと大物が終わったよ……!』
「俺も……お疲れ」
 作業通話中、伊織がノートを閉じた拍子に、シャーペンが机の上で転がった。
 合間合間にしていたものの、高校の宿題はそれなりに大変で、何回か一緒にヒィヒィ言いながら終わらせる羽目になっていた。
「お疲れ。俺もあとは小論文書いたら終わり」
『凪もお疲れ様。……しかし、声、落ち着いたね』
 俺はスマホを肩と耳で挟んだまま、机の上のプリントをまとめていた。
「そうかも……まだ慣れないけど」
『前の声も好きだったけど、今の声の方が凪っぽい』
「なにそれ」
『そういえば、凪はもう歌わないの?』
「伊織まで岸さんみたいなこと言うなよ……」
 最近岸さんの店に行くと、何気ない調子で「歌わない?」なんて言われる。
 あの人は伊織にも突然演奏を振るくらいだし、いつもあんな調子だ。特に深い意味はないと思う。でも、伊織に言われると、さすがに考えてしまう。
「……気が向いたら」
 曖昧にそう返すと、受話器の向こうで小さく息が弾む。微かな気配だけど、それだけで笑っているって分かる。でもからかう感じではなく、電話口なのに温かい。笑う気配なのに怖くはなかった。
『その声で、また歌ってよ』
 受話口の向こうで、伊織が優しく笑った。今度ははっきりと分かる。
「……」
『……凪? どうした』
「……そろそろ休みも終わるし、学校のこと、どうしようかなって……」
『無理して戻れとは言わないけどさ。凪って、自分のためだとあんまり頑張れないけど、自分のためより、人のためだと頑張れるタイプだよね』
「……そう、かも」
『だからさ、たとえばだけど』
 受話口の向こうで、伊織が息を整える音がした。
『まだ先の話だけどさ。もし凪が行くなら、どこかでまた一緒になれたらいいなって思った』
「気が早すぎるだろ」
『別に絶対じゃないよ。突拍子のないこと言ってる自覚はあるけど、ちょっと聞いて!』
 なぜかテンションの高い伊織はやけに食い下がってくる。
「じゃあ聞くけど」
『なんでもいいんだよ。何か目標や約束がひとつあるだけでも、気持ちが楽になるかもしれないし。駄目だったら駄目だったで、俺も一緒に考えるし』
 俺は返事をせず、机の端を指でなぞった。
 通話が切れたあとも、俺はしばらくスマホから目を離せなかった。画面が暗くなっても、しばらくそのまま見てしまう。
『前の声も好きだった』と伊織は言った。『でも今の方が、凪っぽい』とも言った。
「……俺っぽい、か」
 母の歌を歌ったのを境に、俺の声は完全に変わった。喉に手を当ててみると、震える位置が以前と変わった。同じ声には二度と戻らない。
 でも。
『その声で、また歌ってよ』
 喉に触れると、以前とは違うところで声が震えている。まだ慣れないし変な感じはする。でも、この変化は嫌じゃなかった。
 海で声を出してみたときも、こうして独り言を零したときも、電話で返事をしたときも、少しずつ同じ場所に戻ってきている気がした。俺は小さく声を出して、歌の続きを確かめるみたいに口ずさんだ。続きはまだ曖昧だけど、それでも前に進んでいる。
 窓の外の蝉の声は随分弱くなっていて、ころころりぃんりぃん、と鳴く虫が一足早く秋を呼んでいる。
 夏休み最終日、伊織から短いメッセージが届いていた。
〈明日、行く?〉
 机の端に置きっぱなしだったシーグラスを、指先で軽く弾く。淡い光が、わずかに揺れた。
〈行く〉
 送信ボタンを押すと、すぐに既読がついて、ゆるい犬みたいなキャラクターが親指を立てているスタンプが返ってきた。やる気のないそのイラストに、ふっと笑ってしまう。
 それだけで、明日のことを考えた時の重さが軽くなった。小さく声を出してみると、秋を呼ぶ虫の声の中へ、前より自然に混ざっていく。それでもちゃんと、自分の声として残っていた。